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アトラスの日に
■坂と梅■
ポク、ポク、ポクポクポク。
山岡風太の耳をくすぐる、懐かしい思い出を呼び起こすようなあの足音。
ゴム長靴は、小学校で卒業した。
ポクポクポクポク。
けれども、あの少女は、16歳だというのに、未だに履いているわけだ。
蔵木みさと。
いつでも、レインコートとゴム長靴で、真っ黒に武装しているようだ。
巨大アパートあやかし荘の近くには、長い坂がある。山岡風太の自宅は、その坂を横目に通り過ぎて、自転車で15分ほど行った先にあった。大学と自宅の間にあることになるが、もっと時間を短縮できる近道があるために、風太は用がない限りはその坂の近くを通らなかった。
しかし、それも過去の話になった。
最近はわざわざ、用もないのにその道を通る。あやかし荘に知人がいるわけでもないというのに。
風太の知人――友人は、この坂を時折下りてくる。いつも夜だ。その友人は蔵木みさとといった。彼女は、昼間に外出をしたためしがないのだ。少なくとも、風太は昼間に外を歩いている彼女を見たことがなかった。
ポク、ポク、ポクポクポク。
風太は坂が終わるところで自転車をとめ、耳をそばだてる。
或る音が聞こえてきたら、彼は思わず嬉しくなって微笑んだ。
10分待っても、或る音が聞こえてこなかったら、彼は「何やってんだろう、俺」と呟いて、ペダルに両足をかけるのだ。
ポクポクポク、ポクポク。
その、春が始まった頃の夜は、聞こえてきたのである。風太は嬉しくなって微笑んだ。
「あ、風太さん」
「やあ、今日の勉強、どうだった?」
「ばっちりです」
坂の上の小さな『学校』に、みさとは通っているらしい。こうして会えた夜には、きまって風太はそう尋ねた。それに対するみさとの返事はさまざまだった。それは、『学校』が楽しい証拠のようなものだろう。
「今日も、いつもの駅?」
「はい」
「送るよ――」
言ってから、あっ、と風太は軽く仰け反った。
きょとんとするみさとに、風太は明るく笑いながら尋ねた。
「そうだった、この間、いいところ見つけたんだ。これから、時間ある?」
「大丈夫です」
「なら、乗って」
「え?」
「2人乗りだよ」
颯爽と自転車にまたがる風太の後ろで、しばらくみさとはまごまごしていた。風太は誘ってから、失敗したとばかりに心中で舌打ちした。みさとは自転車に乗れないはずなのだ。この通りで幾度も交わした会話の中、いつか聞いたような気がする。忘れていた。
だが、みさとは2人乗りのやり方を、どこかで見て覚えたらしい。いかにも見様見真似といったたどたどしさで、風太の肩に黒手袋の手を置いて、後輪を留めるナットにゴム長靴の足を置いた。
「こう、ですか?」
「うん、そう。しっかり捕まってて」
「はい」
風太が足に力をこめると、後ろで「ひゃっ」とみさとの声が上がった。
しかし風太が「大丈夫?」と聞く前に、みさとはちいさく歓声を上げた。
「自転車――初めてです。うれしい」
風がみさとの黒いフードを引き剥がした。風太は肩に乗ったつめたい手がみさとのものだということを今更ながらに認識して、思わず知らず赤くなりながら、ペダルを漕ぎ始めた。みさとは軽かった。まるで、人間ではなく、ものを後ろに積んでいるような気がした。
それはあやかし荘の裏にぐるりとまわって、10分ばかり自転車を走らせたところにあった。いつも風太がみさとを送っていく駅は、少し遠い。風太の自宅は、もっと遠い。
それでも、
「――わあ」
みさとがまた、歓声を上げた。
「いい匂い――何ですか?」
「もう、見えるよ」
中途半端に欠けた月がぼんやりと照らし出すのは、梅の花。みさとは、猫のように夜目が利いた。ずっと、昼なお暗い森の中で、夜に目覚める生活を送っていたからだと、彼女は最近、少しだけ自分の生い立ちを風太に話していた。
視界に入った見事な梅の樹を見て、みさとが明るい声を上げる。
「ああ、梅だ」
「ライトアップされてる夜桜がいいかなって思ったけど――明るいのがだめなんだよね? 梅なら、香りを楽しめるからさ」
「――ありがとうございます」
自転車を降りて、梅を見上げながら、みさとは嬉しそうに礼を言った。
「今度、夜のお花見でもしようよ。ここでさ。レイさんとか――陸號さんとか――『学校の先生』を呼んで」
「いいですね!」
風太の予想以上にはしゃいだ声で、みさとは応えた。振り向いた顔には、フードがなかった。自転車に乗って、風に剥ぎ取られたままだったのだ。風太はみさとの頭を初めて見た気がした。そして、別人を見ているようだとも思ったし、改めてみさとに惹かれている自分を知った。みさとの漆黒の髪には、滑らかなウェーブがかかっている。
癖毛だったんだ、
風太はわずかに口を開いて、頬を染めた。
「レイさ――先生は、日本の文化に触れられるって、きっと喜びます。陸號さんも色々覚えられるし、あたしも……お花見なんて、やったことないから」
みさとは5分咲きの梅に目を戻す。
「――きっと、楽しいです」
ざあっ、と風が吹いた。
風に手折られた梅の花がいくつか、夜空に舞った。芳しい春の香りを振り撒きながら。
散る花びらを見送りながら、風太はつっかえつつ尋ねてみたのだ。
「ねえ、蔵木さん。俺のこと、いつの間にか名前で呼んでくれてるね――。……俺も、みさとちゃんって、呼んでもいいかな?」
初めて名前を呼んでくれたのは、いつだっただろう。
ああ、あの夜だ、転んだ夜だ。そらを見上げた次の瞬間には、どういうわけか倒れていたのだ。
その夜から、みさとは風太を風太と呼ぶ。
「……何だか、恥ずかしいな。でも、かまわないです。あたし、風太さんをいつの間に、風太さんって呼んでたんだろ?」
とてもとても、その白い顔を直視することが出来なかった。どんな表情で、みさとは快諾してくれたのだろうか。
風太は慌てて自転車にまたがった。
「……遅くなっちゃったね。レイさん、心配してるかな?」
「大丈夫だと思いますよ。昨日から、先生、ホテルに缶詰なんです。何だか逆に、いちゃ悪いみたいで」
「へえ、締切近いんだ……レイさんって、仕事遅い方だっけ?」
「早めに済ませる方ですよ。でも最近は、陸號さんのことで色々忙しいみたい」
「陸號さん、アトラスには慣れた?」
「みたいです。あ、今日、笑ってくれたんですよ」
「笑ったの?!」
「はい。……頼んでみたら、ふつうに、ニコッて」
「ニヤッ、じゃなくて?」
「先生みたいに、しずかな感じでしたよ。風太さんみたいな明るい感じじゃなかったけど、陸號さんらしかったな」
「へえ、今度、俺も頼もう」
知らず、他愛もない話が弾んでいて、自転車が先に進んでいた。
ポク、ポク、ポクポクポク。
山岡風太の耳をくすぐる、あの黒いゴム長靴の音。
ポク、ポク、ポク――
いつもの駅に送り届けて、挨拶をして、別れて――音が小さくなって消えていき、ついには聞こえなくなってしまうと、風太はきまって溜息をついた。
(約束ですよ。ぜったいお花見しましょうね、風太さん)
その夜は、風太のバッグの上に、梅の花びらがのっていた。
すぐに乾いた風が吹いて、それを吹き飛ばしてしまったけれど。
<了>
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登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
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【2147/山岡・風太/男/21/私立第三須賀杜爾区大学の3回生】
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ライター通信
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モロクっちです。いつも有り難うございます! 最近、このシリーズを書くのが楽しみになってきましたよー。恋愛ものなのでどこかたどたどしいですが……(笑)。
先日上げた陸號依頼の後ということにさせていただきました。次回はお花見、なのでしょうか……。
そしてどんなにほのぼのとしていても、廃れた風を忘れることは出来ないのでした。
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