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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


STRAY CAT

 捨てられた猫でも、もう少しましな目をしているもんさね。

 あの時あの女(ひと)は、確かにそう言った。
 でも俺はその時、『捨てられた猫』ってのがどんな目をしてるかって事さえ、まったく知らなかったんだ。


 直線距離にしておよそ数千キロ。陸地と陸地の間を隔てるものは、その程度の広さの海しか無い筈なのに、辿り着くまでに何故にこんなにも長い時間が掛かるのだろう、と
黒鳳は歯軋りをした。
 実際には、船は予定どおりの運航で大した遅れもなく海を進んでいたのだが、気の焦りと怯えが、黒鳳から時間の感覚をすっかり奪っていたのだ。光も音も存在しない空間ででも、正しく時を計る事ができるよう、訓練を受けた筈なのに、だ。それ以外でもありとあらゆる技法と手段と能力を身につけた黒鳳だったが、幾ら予想外の突発的な出来事とは言え、己れがこれ程までに打たれ弱かったとは思いもよらなかった。その事実も、今だからそう思い起せるだけであって、この当時はそんな事にまで気が回る余裕は全く無かったのだが。
 鼠がはい回る船底の倉庫は、当然空調設備などある訳がなく、黒鳳は寒さに身体を出来る限り小さく縮こめて体温の放出を防いでいた。もう何日も何も口に入れていない。飢えも渇きも極限に近付いていたが、黒鳳は、このまま飢餓や寒さで死ぬ事よりも、己を追って来ているだろう、元・仲間の方が恐ろしかったのである。

 仲間なんてこんなもんか、と黒鳳は口のなかで呟く。尤も、寒さでさっきから葉がカチカチ鳴っているから、呟いた声も白い吐息に紛れて、まともな音にはならなかった。 
 たった一度の失敗のツケがこれか。追い、手を下す側だった俺が、今は惨めにも追われる立場。今まで容易く、そして何の感慨もなく人の命を奪ってきた黒鳳だったが、この段にきて己の命がこんなにも惜しいとは、と笑い出したくもなる。だが、恐ろしいのは死ではなく、仲間達からの『報復』だ。それが何を意味するのか、何を為される事なのかは、これまで実際に手を下してきた黒鳳だから良く分かる。今まで、相手の目を抉ろうが手足をもぎ取ろうが、相手が泣き叫ぼうが許しを請おうが容赦した事などただの一度もない。今は、その必死な形相の相手の顔が、己のものと擦り代わって見える。すると、途端に身体が寒さの所為でなくガタガタと震え始めるのを感じて、黒鳳は生まれて初めて、自分が恐怖に打ち震えている事を知ったのだった。
 だが、震えているだけでは何も始まらない。始まらないどころか、すぐに追い付かれて一巻の終わりだ。だから、恐くてもこの足で立って歩いていかなければ。そう思う程度には、黒鳳の気概はまだ死んではいなかった。


 「ん…?」
 微かな声を洩らして勾音が空を仰いだ。何故だか知らないが今、空気の流れが変わった気がしたのだ。その行方を探して、勾音の目がすっと細くなる。
 ここは寂れた埠頭の端、使われているのかいないのか、判断に困るような壊れ掛けの倉庫の一つである。勾音は取引の立ち合いと言う事で珍しくその姿を外気に晒したのだが、そのお陰で暇潰しの種を見付けたようである。
 どうかしたのか、と付き従っていた男が勾音の方を見る。その頃には勾音は、その変化の発端を突き止めていたので、片手で男の行動を制し、綺麗に彩った口元で笑った。 「静かにおし。消えちまうだろ。何か知らないが、面白そうな匂いがするんだよ」
 くくくっと勾音が喉で笑う。男をその場に残し、自分一人で薄暗い曲がり角へと無防備に入っていった。
 「…おや。これはこれは」
 そこで勾音が見たのは一人の女だ。それが有りったけの財産なのか、何枚もの服を重ねて着込んでいるが、それらに統一性はない。手当たり次第、と言う表現がまさにしっくり擦る風体だった。そのうえ、そのどれもが薄汚れて千切れ掛けている。女の肩には赤い糸が筋となって絡まっており、着ているボロ布の切れ端かと思いきや、それは女の赤く長い髪。自分を覗き込んでいる勾音の視線に気付き、女は―――黒鳳は咄嗟に身構えた。
 「およし。今のおまえじゃ私には到底適わないよ。それぐらいの事が見抜けない程の間抜けには見えないが、どうだい?」
 黒鳳は、己の目の前で腕を組んで立ちはだかる女の姿を見上げる。力でも技でも負ける気はしないのに、何故かこの女からは極めて危険な何かが伝わってくる。それは、今だに抜けない黒鳳の暗殺者としての本能だったのかもしれない。いずれにせよ、勾音の言うとおり、今の自分は飢えと寒さに苛まれ、戦闘の出来るような身体ではない。それに第一、この女自身には危険な香りがするが、殺意などはさっぱり感じられない。何も敢えて、今ここで危険を冒して戦う必要などないように思えた。
 勾音は暫らく黒鳳をじっと見下ろしていたが、やがて口端を持ち上げて笑う。くるりと背を向け、肩越しに振り返って黒鳳を呼んだ。
 「おまえ、そんな可愛らしいナリしてこんな所で野住まいとは、何か訳ありだね?…おいで、そんな所でいつまでも蹲ってちゃ、折角の器量良しが台無しだよ?」
 そう言うと、あとは振り向きもせず、勾音は歩き出す。黒鳳が自分の後を付いてくる事は、疑ってもいない様子だった。そんな度量に惹かれた訳でもないが、何か抗いがたいものを感じた黒鳳は立ち上がり、勾音の後に付いて歩き出すのであった。


 黒鳳が連れていかれたのは、怪しげな雰囲気を漂わせる裏道にある一軒のバーだった。温かい飲み物と消化のいい食物を貰い、何日かぶりに布団で眠った。本来なら、見ず知らずの他人から寝床を提供される事も、ましてや食事を提供される事など、あってはならない事だ。だがそれを許してしまったのは、黒鳳の衰弱が極まっていたからではなく、相手が勾音だったからだろう。それでも黒鳳は、風呂に入る事だけは断固として拒否をした。今更何をと勾音には笑われたが、例え何の鎧にもならないボロ布とは言え、己の身体を守るものが、己のエリア外で失ってしまう事にはさすがに耐えられなかったのだ。
 数日、昏々と眠り続けた後、目覚めた黒鳳の体調その他は、すっかり元通りに回復していた。さすが、今まで鍛え抜いた肉体の賜と言ったところか。だが、一度閉ざしてしまった扉を自ら開く事は容易ではないか、黒鳳は与えられた部屋から一歩も出ず、誰とも口を聞かない。そんな状態が数週間に及んだ頃、さすがに痺れを切らした勾音に引き摺り出され、黒鳳はバーのカウンターで身を硬くしていた。
 「何をそんなに緊張してんだい。ここには、私の許可なく、おまえを獲って食うような行儀の悪い奴らはいないよ」
 そう言って笑う勾音だが、そう言われたからと言って、ハイソウデスカと緊張の糸が緩む訳が無い。そのうえ、黒鳳がさっきから尖った殺気をありありと滲み出している
その訳とは、店の中で蠢く人影の多さ、そして、その中に混ざっている、己と同じ大陸の人間の匂いの所為である。この中に、元・仲間が混ざっているとは思えない、だが、ちょっと裏の道を歩んだ事のある大陸人ならば、黒鳳が所属していた組織の名を知らぬ者はいない。自分がここで息を潜めている事を密告されない保証はどこにもない。そんな黒鳳の内心に気付いたか、勾音は目を細めて口元で微笑む。
 「彼らなら大丈夫だよ」
 「……え?」
 「例え一時でも、私の懐に居る者を黙って売るようなせこい奴はいないさ。安心おし。…さ、そろそろいいんじゃないかい?おまえの腹も満たされただろうし、今度は私の好奇心を満たしておくれ」
 「………」
 黒鳳は、最初に出会った時にも感じた、何故か彼女には逆らえない空気に促され、これまでの経緯を話し始めた。

 計画は完璧だった。下準備にも手を抜いていない。人任せにせず、全て己の手で事を進めるのが黒鳳の主義だ。完璧を目指す故なのであるが、仲間を信用していないとも言える。だが、今までそれで欠陥が見つかったり詰めが甘かった事などただの一度も無い。だから、今回も全てが巧くいくのだと、黒鳳は信じて疑わなかったのだ。
 依頼されたのは、とある要人の暗殺。あらゆる場合を想定して計画を練り、一見、実行には関係ないと思えるような事まで綿密に調べ上げた。が、黒鳳の任務は失敗したのだ。黒鳳が身を潜めてその瞬間を待つ、その背後に、いつの間にか忍び寄っていたのは一匹の猫。その猫の瞳が赤く光って、その場に猫がいる事を要人のSSに知らせた。SSが猫を追い払おうとそちらに近付くその行動を、猫の存在に気付かなかった黒鳳は、己の存在がばれたのだと勘違いしたのだ。焦った黒鳳は、その場から飛び出す。一か八かの賭けは失敗し、熟練のその腕はSSの数人を殺すのみに終わり、肝心のターゲットの命を消す事は出来なかった。
 「…それで俺は、仲間からの報復を恐れて…日本へと逃げてきた。我が組織では、ただの一度たりとも失敗は許されない。失敗はイコール裏切りになる。裏切り者は、速攻で消される。駒は多いからそれでもやっていけるし、だからこその成功率の高さでもある」
 「…ふぅん。そう」
 そんな勾音の、気のないような返事に、黒鳳は顔を上げて彼女の方を見た。カウンターの内側で長煙草を吸い、勾音が白い煙をゆっくりと吐き出す。
 「ま、たった一回って言うけれど、裏切りに一回も二回も無いさね。一度失った信用を一から再び築き上げるのは容易じゃないからね。ましてや私は、一度でも裏切った相手を容赦した覚えなぞ無いよ」
 きっぱりと言い切る勾音の強い瞳の光に、黒鳳は口の中でああ、と呟く。この女(ひと)は、意図的ではないにしろ、裏切りを犯したような者は信用ならないのだ。それが自分に向けられた裏切りでなくても、そんな者を手元に置く気などないのだろう。
 …なんだ、俺は、このままここに居られるとでも思っていたとでも言うのか。こんな、昨日今日出会ったような人間に、この身を預ける気でいたのか。一宿一飯の恩、そんなものを、俺が感じた訳でもあるまいに…。そう思ってぼんやりと黒鳳が勾音の顔を見上げていると、その思いを知ってか知らずか、勾音がにやりと笑う。
 「まぁ、私もそう人の事をとやかく言える程、ゴリッパなもんでもないけどね。でも、裏稼業をしてるからって、裏切りや抜け駆けが当たり前だと思って貰っちゃ困るね。寧ろ、こう言う商売をしてる奴らの方が、よっぽど義理堅いもんだったりするのさ。その辺は、人でも人外でも一緒さね」
 勾音の言いたい事が今ひとつ掴み切れず、黒鳳は困惑して瞳を揺らす。それでも、肯定的には捉えられない事は確かで、黒鳳は、くっと下唇を噛んだ。あの時から不安と恐怖ばかりで身も心も凍って縮こまったままの自分、何を今更外に出ていく事を怖れているのだろう。第一、組織に居た時から、一時でも気の休まった瞬間があっただろうか。いつ何時、出し抜かれてその地位を失うか分からなかった。周りに居たのは全てライバル、と言えば聞こえはいいが、実際は、己の為なら仲間の命を奪う事さえ厭わない、冷酷非道な駒の集まりだったのだ。
 微かな音を立てて、黒鳳がスツールから立ち上がる。それに合わせたように、黒鳳の前に、濃い琥珀色の液体が入ったカットグラスを置かれた。
 「………」
 「紹興酒なんか、今はどんな田舎に行ったってあるさ。そうだろう?大陸の人間もそうでない人間も同じさ。おまえがどこに行こうがどこに身を隠そうが、無駄ってもんさね」
 だから、と勾音は付け足す。唇の端が持ち上がり、三日月のような笑みを作った。
 「おまえ、居たきゃ此処においで。安全は保障するよ。なに、ここに居る者に手ぇ出してくるような愚か者は、この周囲にはいやしないよ。万が一居たとしても、それは私が責任を持って排除しよう。だからおまえは、私に正直でありさえすれば良い。おまえの言葉が真実でなかったら、その時は私が自らその首を掻っ切るだけさ。わざわざ、おまえんとこの大将に知らせるまでもなく無様な姿を晒してもらうよ」
 どうだい?と勾音が片目を瞑って笑う。ぐっと黒鳳が更にきつく下唇を噛み締めた。
 ほんの数週間前に出会ったばかりの己に、このひとは信頼を置いてくれた。それは、組織の黒鳳だからではなく、多分、黒鳳が黒鳳であるが故に。そして、その時ようやく黒鳳は分かったのだ。何故に自分が、仲間からの報復をあんなにまで恐れ戦いていたか。それは、己に加えられるだろう苦痛への恐怖ではなく、何度となく目にしてきた、いっぱしの構成員だった者が恥も外聞も無く泣き喚いて命乞いをする、あんなみっともなく無様な姿を晒すかもしれない事への怖れだったのだと。

 俯くカウンターの上に、ぱたぱたと透明な液体が滴る。それが己が流した涙だと黒鳳が気付くまでには、暫しの猶予が必要だった。
 勾音は何も言わず、黒鳳がそれに気付くまでただ黙って煙草の煙を立ち昇らせていた。

暫く後、勾音が煙草の穂先で黒鳳を指す。

 「さ、そうと決まればとっとと風呂に入っておいで。そんな、役に立たない鎧はさっさと捨てて来な」