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和製ウィンチェスター・後編
0 プロローグ
屋敷は、そこはかとなく闇の気配を持ちながら、それでも闇の中で一心に浮かび上がっていた。
曲がりくねった階段の段は一つ一つちぐはぐで。苦労して上って、行き着く先には何もなく、愛想の欠片もない壁が行く手をふさぐ。
古臭い床は中途で途切れて、注意深くないものを階下に飲み込む。
新たな場所への入り口と思われた襖の向こうは、まるで今しがたその先が隠されたかのように土壁が顔を出した。
奇妙な屋敷。まるでひねくれていて、ねじくれた姿をさらして、それでも闇に浮き上がっている。
屋敷は何かを欲しているようにも思えた。だが、かたくなに拒んでいるようでも。
屋敷がいつからあんぐりとその口を開いて、何を待っていたのかは誰も知るべくはない。
けれど屋敷は、きっとずっと以前からそこにあったのだ――――。
全ては、闇から、闇へ。
§
「呼び戻しが入った」
広いとも言えない午後の事務所の中で、珍しく草間武彦は一人きりだった。
妹の零も今はいない。なにやら、足りないものを買い足してくると出かけてそのままだ。
さて、したくもない書類の整理でもするか、と伸びをしたところに、その電話はかかってきた。
草間は向こうの相手が話すことにいちいち相槌らしき表情は見せるが、返事はたまにしかしない。それでも、相手とはコミュニケーションがとれているらしく、会話は問題なく続いていた。
「……そうだ。まぁ、そう珍しいことじゃないだろう。こっちから新しく一人二人応援を送るよ……ああ。あの道は確か入る時には四人でないとだめなんだったな? だが、人数が欠けていても戻ってはこれることは甚大たちで証明ずみだろう? ……大丈夫だ、そう心配しなさんな。きっとうまくいくさ」
気楽な口調で肩を竦める草間に、電話の向こうの相手が苦笑したような気配があった。
「とりあえず、そうだな。二人ほどそっちに送ろう。屋敷から離れれば連絡は取り合える、ということだろう? すぐに向かわせるから、到着する頃を見計らって迎えに出てやってくれ……今からだと夕方頃になるかもしれないな。……もっとも、四人でない場合に道が本当に消えるのかどうかが疑問だが」
まぁその辺は適当にやってくれ、と呟いて草間はふ、と笑う。
「ああ、引き続き、捜索してやってくれ……なんだ。やっぱり電波が悪いな、そこは。……おい? もしもし?」
突然乱れた向こう側に問いかけ、やがて草間は半眼で年代ものの黒電話の受話器を見つめた。
念のため、じーころと番号をまわしてみるが、受話器の向こうから聞こえるのは機械的なアナウンスのみだった。
どうやら、切れたのは向こうの場所か何かが原因らしい。
「屋敷の外でも電波が悪いのか……」
まぁいい、また電波がいい時があれば折り返しかけてくるだろう、と検討をつけ、草間は受話器を一度置く。
「さて、どうする?」
乱雑に書類やファイルが積み重なった机の隅に器用に身体をもたせかけながら呟き、手にあたったマルボロのボックスを取り上げた。
まだ真新しいそれは、すでに半分以上がなくなり、少々心元ない残量をさらしている。
もっと、大事にのまなけりゃあ……。
滅多に吸わないマルボロだけにそう思うものの、こればっかりはどうにもならないヘビースモーカーである。
一番安く、その実なかなか使い心地のよい百円ライターで火を灯した草間は、肺の隅々までマルボロを吸い込み、中空を見やる。
そして、誰のおかげでこのマルボロが吸えるのかを、少しだけ思い出した。
「…………ま、それだけでもないけどな」
自分で自分に言い訳のようなものをして、草間は先ほど置いた黒電話の受話器を取り上げ、ダイヤルをもう一度回し始めた。
「…………もしもし。ああ、俺だ。ちょっと、頼みたいことがあるんだ……」
1 概観
外に出ると、空は果てもない曇り空で、昼間だというのに清々しい、という天候では到底なかった。
けれども、外には風が吹いている。流れる空気の気配にほっと息をついて、みなもは曇天から目をはずし、自分が今さっき出てきたばかりの屋敷を見返した。
屋敷を取り囲む空気は、色で表現すれば間違いなく黒だ。古びた木造の屋敷の周りは、今にも崩れそうに積み重なった石垣の塀がぐるり、と取り囲み、その塀の上には天を向いて突き立った尖った鉄の棒が生えている。
……まるで、外から何か恐ろしいものでも来るみたい。
それは、外部の敵に対する強固な守りのようにも、屋敷という名の牢獄に閉じ込めた囚人たちを二度と外に出さないようにする為の牽制のようにも見えた。
――――檻。
さしずめ、その言葉がよく似合っていると思う。
何も考えずにそう思って、少し、ぞっとした。
甚大が書いた、という見取り図を広げて、みなもは足早に塀の内側に戻る。
塀の外側は、生憎木々や茂みに邪魔されて、人が通れるほどの幅はなかった。無理をすれば通れないこともないだろうが、少し先まで歩けば行き止まりになり、無駄に足や手を傷つけることが容易に見て取れる。
みなもは、屋敷の見取り図の塀の外側に”獣道”と書き込んで、バツ印を入れてから、改めて塀の内側を屋敷に沿って歩き出した。
湿ってぬちょぬちょとした腐葉土に足をとられそうになるのに気をつけながら、ふと気づいてケーナズに『いまから屋敷の周りを確認します』とだけ伝える。しばらくの間があって、『気をつけて』という柔らかな意識が返って来たことに幾ばくかの新鮮さを感じながら、はい、と返事を返して自分の思考へと立ち戻る。
――塀と屋敷の間も、そう広い空間ではなかった。恐らく、大人ならば二人は並べないだろう。一人でようやく進める程度のもので、下草は好き放題に伸びきっている。
ここ最近で誰かが草を踏み固めたような痕跡がないかどうかが気になって下を向きながら歩いていたが、生憎そんな跡はどこにもなかった。
(甚大さんの友達は、表側は歩かなかったのかな……)
けれど、先ほどシュラインが言っていた埃のこともある。
一応、書いておこう、と気づいたことを細かくメモしながら、みなもは足を進めていく。
ふと、上を見上げれば、屋敷の側面の土壁は黒かびに侵食されていた。
二階建てとも、平屋とも判別しがたい高さの棟がいくつか身を寄せ合うようにして一個の屋敷となっていた。庇の上にある大屋根の瓦の先には、鬼瓦であったのだろうものが半分身を崩して淀んだ空を眺めている。
幾つか窓と思われるものも見られたが、どれも雨戸がしっかりと締め切られているし、あの内側が普通の部屋だという保証はどこにもない。
ウィンチェスター館に酷似しているという屋敷。
ベースにした座敷に行き着くまではそう奇妙な造りも見かけなかったが、実のところ内部はどうなっているのだろう、と思うと早めに外の概観を調べてしまいたい気もする。
そんなことを考えながら、みなもはふと眉を顰めた。
わき道は、土と草の青臭さが混じったような匂いを漂わせている。だが、そこに……今ひとつ、巧妙に隠れこんだ匂いが、感じられた。
吸い込む空気全てには、驚くほどの水気が含まれている。
人魚の末の血筋を持つみなもにとって、水に関連するものはひどく心強くあるはずなのだが、今度ばかりは少し勝手が違った。
(…………この感じ。この、匂い)
ある意味むっとするほどに、空気中に混じった湿ったもの。微細に混じりこんだそれに気づいたのは、みなもだからこそだった。
「…………これ。血の匂いみたい」
知らず、声にして呟いて、みなもは自分の言葉にびくり、とした。
違う。でも、生臭い。複数のものが入り混じったような、そんな気分の悪くなる匂い。どうしてそんな匂いがするんだろう……?
そう思って曇天を見上げたら、はるか向こうの雲の隙間に素早く走る紫電が見えた。
遠く、地響きに似た音が聞こえる。……雨でも、くるんだろうか。
ほんの、今さっきまでそんな気配はまったくなかったのに。
もしかして、感覚が狂わされているのだろうか。
頭の中にそんな不安が紙魚(しみ)のように現れ、少しだけ、膨らんだ。それは、この得体の知れない場所と屋敷への不安と、それに影響されているかもしれない自分に対しての、不安であった。
鳥のような……鳴き声がする。
2 屋敷内探索
座敷を出てすぐに、思いついたことがあったシュラインはそのまま屋敷の奥ではなく、表に出た。
先に外を探索する、と行って出たみなもの姿はすでに見えない。
概観をぐるりと一周するということだったから、もうそちらに向かったのだろう。
そう思いながら、シュラインは屋敷を離れ、鬱蒼(うっそう)とした木々に囲まれた林道を中ほどまで進む。
そうして、腰につけていた調査用の携帯鞄の中から携帯電話を取り出し、電波の入りを確認した。
「よくは……ないわね」
お世辞にも電波がいいとは言えない。アンテナの横では、一本の棒が消えたり、ついたりを繰り返していた。
肩を竦めながら、それでもシュラインはボタンを操作して呼び出しなれた番号を表示し、通話ボタンを押す。
一度、二度。ほんの数回のコールで、いつもの声が電話口に出る。
「はい、草間興信所……なんだ、おまえか」
どこか眠そうなその声に苦笑して、シュラインはそうよ、と答えた。すると、草間は「ちょうどよかった」と呟いて「呼び戻しが入った」と言った。
「呼び戻し? 調査員の誰かを?」
草間は、そうだ、と答えて呼び戻しの理由と、その連絡を受けたという人物の名を告げた。次いで、新しくそちらに応援を送る、とも付け加える。その言葉に、シュラインは知らず眉を顰めた。
「……思ったより、ここはなんだかおかしな場所よ。もちろん迎えには出るけれど……大丈夫かしら」
心に湧き出た不安のようなものをつい口にすると、草間はいつもの調子で気楽な答えを返してきた。
武彦さんらしいわ、と苦笑しながらも、そんな彼の言葉に少しだけ勇気付けられる。
「二人ね……。じゃあ、こちらも二人で迎えにでるわ。……念のためよ。道は消えるかもしれないし、消えないかもしれないけど……。念を入れるのは悪いことじゃないでしょ? とにかく、捜査を続けるわ」
わかった、と答える草間の声がした。と、同時に声が一瞬で遠くなる。
「……武彦さん?」
乱れる通話に呼びかけるが、聞こえてきたのは、聞きがたい雑音に砕かれ、意味をなさない草間の声と、妙な電子音。やがて、通話の終わりを示すそっけない音が鳴った。
画面を見ると、アンテナの横に圏外、という小さな文字が表示されている。電波が途切れたのだ。
「…………この場所自体、電波が悪いのかしら」
小さく嘆息しながら、夕方前にはつくように人をよこす、と言っていたことを思い出した。
夕方……折を見て、また連絡しよう。
そう決めて、シュラインは屋敷へと今さっき来た道を戻る。
――空が、随分と淀み始めていた。
向こうの方には遠雷が見える。やがて屋敷が見えてくると、屋敷の表にはやはりみなもの姿は見えず、ひっそりと静まり返っていた。
広い屋敷だもの……一回りするのにも時間がかかるのね。
そう思ったものの、どことなく不安になる。屋敷の引き戸を引きあけ、板敷きに上がりながら、シュラインはケーナズにみなもの様子を尋ねた。
『…………大丈夫だ。先ほど屋敷の概観を回ると連絡が来た。意識も追っているが、異常はない』
『そう、ありがとう』
心に、というよりは頭の中に直接響く男の声に僅かな違和感を覚えながらも、シュラインは呼び戻しが入ったことと、その調査員にその旨を伝えて欲しい、ということ、そして新しい調査員が二人、夕刻にやってくることを伝えた。
しばらくの間があった後、ケーナズからすぐに伝えておこう、との応答が返る。
それに礼を返し、シュラインは甚大による手描きの見取り図を開いた。
玄関を上がったところから、板敷きの廊下は三叉路になっている。
まっすぐに進めば、先ほどの座敷へと続く。
呼び戻しの入った調査員の働きの部分を、現時点では自分がサポートしなければならない。
シュラインは少し考えた上で、左手の法則を実施しながらしらみつぶしに屋敷を歩くことにした。
見取り図に印を書き入れ、ケーナズに左側の棟を先に探索すると伝えてゆっくりと廊下を踏みしめる。
ぎいいぃ、と床が重く、呻き声をあげた。
(埃……)
自分の足元にある床は、先ほど確認した通りにまったく踏み荒らした後が見えなかった。数歩進んで後ろを振り返ってみると、そこには自分の分の足跡が頼りなさげに、うっすらと残っている。
(どういうこと? 残らないわけではないのなら……玄関の上がり口にさえ踏み荒らした痕跡がまったくなかったのは何故)
すでに太陽を失い、昼でも薄暗く、目が行き届かないながらもシュラインはまだ持参した明かりを使うつもりはなかった。
まったく視界が利かなくなる夜ならば、ライトは使わざるを得ない。けれど、まだ見える程度なら……。
明かりに依存する人の視界は、自分が思う以上に狭くなる。どこにどんな痕跡があるとも分らない。気になった箇所でだけ、明かりをつけて調べることにしよう……。
瞬時にそう判断して、シュラインは埃のことに思考を戻す。
不可解な現象につけて、なんとか仮説をたてようとした。
しかし、思考はなかなかまとまらず、自分自身で納得のいかない考えばかりが浮いては消える。
(……もしかして、この家)
訪れる者たちの不安や、淀んだ負の心、とでもいうものが具現化したり、ということはないのだろうか?
人の心に影響を受けて、開くはずの襖が開かなくなったり、壁に通り道ができたりする、としたら? ……そして、何らかのきっかけでそれがリセットされる――――。
「そんな家は、今まで見たことないわ」
あまりに当たり前のことを呟いて、シュラインは自分の呟きに苦笑する。
私らしくもない、混乱している。
客観的に見なければいけない。この家を。先入観を入れた色眼鏡で見ることは得策とは思えなかった。一度、二度と深呼吸を繰り返し、改めて自分が歩く廊下の先を見る。
廊下の先は、暗い洞穴のように黒く、闇がこごっていた。
左右は薄汚れた壁と、いくつかの障子、木の扉が見えた。注意深く足を進めながら、シュラインは壁を叩いては音を確かめ、空間がないかを確かめた。
一番手近な障子を開けると、そこはひどく狭い、二畳ほどの座敷があり、窓はない。中に入ってみた途端にこもったむっ、とする匂いが鼻をつき、思わず顔を背ける。
匂いが少しましになるのを待って狭い部屋を眺めるが、特に何もない。
(こんな狭い部屋を、何の為に……)
作ったのかしら、と考えてから、この家がそうした類の――常識が通じるものではない、ということに思い至って息をついた。
どことなく、思考がすぐに重苦しい方向に流れようとする。それを意識しながら、できるだけそうならないように心掛けようと思った。
そう思っていないと――――負ける。
誰に、何に負けるのかはわからないが、そう感じた。
玄関から向かって右にあった二畳の座敷を出て、今度は左にある木の扉を開く。が、そこには空間などなく、あったのはむき出しの土壁だった。
見取り図と照らし合わせながら、シュラインは扉を閉めて先に歩く。
足を進めるたびに軋む床が不快だった。
それでも、そんなことはどうしようもない。
さらに足を進めていく……。
『大丈夫かね?』
『――ええ。大丈夫よ……』
時折気遣わしげに入り込んでくるケーナズの声が、ひどくありがたい気がする。
『みなもくんが戻ってきた。彼女には屋敷の右半分に向かってくれるように伝えたよ』
『そう。ありがとう』
『それでは。気をつけて……』
気を、つけて。ええ。そうね……。
ケーナズの言葉に頷いて、シュラインは時刻を確認する。ようやく、二時が過ぎた頃だった。
夕刻――四時ごろには応援がつくだろう。それまでに、できるところまで見取り図を広げておかないと……。
甚大によって書かれた部分はちょうど、屋敷の玄関側から中央までのもの。しかも、随分気まぐれに部屋を歩き回ったのか、欠損している部分が所々に見られる。
使い慣れたペンを片手に、シュラインはある程度進むと、後ろを振り返って自分の足跡を確認する。地道に、少しずつ、屋敷を理解しようと試みた。
3 去り、来る
応援の調査員がやってきたのは、予告どおりに夕刻の、四時を過ぎた頃だった。
みなもとシュラインと共に一旦車道まで戻った呼び戻された調査員は、最後まで参加できなくて申し訳ない、という旨を伝えて、四人で乗ってきた車で帰っていった。
そして二人は、新たに駆けつけてくれた二人の調査員を迎える。
「――ようこそ。来てくれて、ありがたいわ。人手が欲しかったの」
少し疲れたように肩を竦めて苦笑したシュラインに、どことなく優しい目をした、黒髪の青年、西ノ浜名杖が笑った。頭には彼のトレードマークでもある、帽子をかぶっている。今日の帽子は黒で、ツバの小さなキャスケットタイプのものだった。
「こんにちは。――お久しぶりです、お二人とも。前の依頼以来ですね。お手伝いに来ました」
愛想よくそう挨拶する背後には、曇り空の下でも眩い金の髪と、碧眼を持った少年のような、美しい少女がいる。
「……蒼王翼です。草間氏に依頼を受けました。よろしくお願いします」
聞き心地の良い落ち着いたアルトの声で紡がれるが、どこか事務的に響くその声。
正に相対する空気を持つ二人に、シュラインとみなもは何度か瞬きをした。
「……あなたが運転するの?」
挨拶は終わった、とばかりに、車をわき道に移動させよう車の運転席のドアを開けた翼に、シュラインは尋ねる。それは、どう見ても少女の年齢が車の運転が可能な年に達していると思いがたかったからだった。
「ええ。ここまでも僕が運転してきました。……こう見えても、レーサーですので」
涼やかに微笑んでそう答えると、翼はシュラインたち三人に脇に避けてくれるように頼み、車をわき道へと乗り込ませた。
§
新しくやってきた二人とベースまで戻ってきた四人を見て、ケーナズは小さく頷いた。
手元には、変わらず行方不明者の写真がある。ずっと、精神を集中させていたらしく、額には軽く汗が浮いていた。
「……大丈夫?」
「……ああ、大丈夫。その二人が、新たに加わった二人だね」
そういって青の目を向けたケーナズに二人が会釈して、それぞれ名を名乗る。
「状況と先ほど決めた調査方針は話しておいたわ」
「そうか。ありがとう」
頷くケーナズに頷き返して、シュラインは先ほどからの探索できるだけ空白を埋めた見取り図を広げた。
「二人も、調べた追加部分を書き込んでおいてくれるかしら」
顔を向けてそういうと、奈杖は素直に頷いて自分の見取り図とシュラインと、みなもの物を見比べながら情報を追加していく。
翼はその傍らで見取り図を眺めてはいたが、何かを書き加える様子はなかった。
その作業を見守りながら、ふとみなもがケーナズに尋ねる。
「何か……わかりましたか」
その言葉に、新しい二人を眺めていたケーナズがみなもに向き直る。「ああ、そうだね……特に真新しいことはなにも」と答えながら、だが、と付け加える。
「……二人で道まで出迎えに出た時、道は消えたかね?」
どうしても気になるんだ。四、という数字がね。
そういって銀縁の眼鏡に無意識に触れたケーナズに続いて、「私も、それは気になるわ」とシュラインが賛同の声をあげる。
結局奈杖以外の全員が四人というキーワードに何かしらしこりのようなものを感じていることが判明した。
奈杖はかりかり、と頬をかきながら、そういえばそうですね、と呟く。
「じゃあ、少し整理してみましょうか――」
その言葉に全員が是と答え、シュラインが注意深く思い出しながら話し始める。
「私とみなもちゃんが道から抜けても、道は消えなかった――。振り返っても、道はあったわ。だけど、車から見えにくいといけないと思って、一度わき道から出たのよ。歩いて、ほんの僅かに道を離れたわ。――少し、眩暈のようなものを感じた。ね?」
「――はい」
確認するシュラインに、みなもが頷く。
「二人同時に?」
「……そうね。そうなるわ。そうして、まさか、と思って後ろを振り向いたわ。そうしたら――――道は綺麗になくなっていた。大きな木が道があったはずの場所をふさいで、あたりは茂みだらけだったわ。道があった痕跡なんて、一つもなくなっていたのよ……」
「お二人の車が見えて、二人が車から降りてきた時には……道はまたもとのようにそこにありました。でも、いつの間に戻ったのか、ちっともわからないんです。お二人も、私たちばかり見ていてわき道は見ていなかった、って」
困ったように眉を下げてみなもが説明すると、ケーナズは小さく声を上げて考え込んだ。
一瞬下りた沈黙を破って、翼が口を開く。
「四人、ね。館の主の拘りかな? ”四”の数理は、”死んで、蘇る”又は”生死”。ただの偶然にしてはできすぎだ」
「……主がいるとすればね」
翼の言葉を聞きながらぼそり、と呟いたのは、シュラインだった。
あるはずのない屋敷。調べた限り、自分たち以外の生きた気配の感じられぬ屋敷だ。
四という数字にこだわる主がいるとすれば、それは――――。
きっとそれは、考えたくもないものだろう。
「偶然でないのは確かだと思うわ。何か、意味があるはずよ。――この屋敷が日本家屋であることから考えて、私は日本での四という数字の意味を考えてみたんだけれど……。四は、昔からこの国では忌まわしい数字として扱われてきたというでしょう? ……四(し)という音と、死とが繋がるから。旅館やアパートとかでも、部屋番号からは四が抜かれていたりするわよね。でも、これについては今いち説が分かれるらしいの」
「と、いうと?」
ひどく興味をひかれた表情を浮かべながら、奈杖が尋ねる。
「少なくとも――古代日本では四という数字はし、とは読まれていなかったという学説を聞いたことがあるわ。よ、またはよん、と発音されていた、って。実際、研究されている上での奈良時代や飛鳥時代においてはそうした、四が不吉な数字だと示唆される文献や資料は見つかっていないらしいわ」
そうして一度話を切ったシュラインに続いて、ケーナズが、こんな研究があった、と静かに語った。
「東洋系の人間は、四のつく日に死亡率が上がるという研究がある。確か、四が死に音が通じるところから不吉な数字である、不吉な日であるとされ、その恐怖感から死亡率が上がるのだろうとされている。確か、米国西海岸在住の日系人・中国系人を対象に調査したらしいがね。いわゆる、恐怖が人を殺す恐怖で人が死ぬ、そういった現象だ。これを、コナン・ドイルのシャーロック・ホームズ作品名にちなんで”バスカビル家の犬”効果――――”Hound of the Baskervilles effect”と呼ぶらしい」
実際にどうであったかは知らないが、四という数字に対する東洋人の嫌悪感は相当なものだということだ、とケーナズは呟く。
「けれど――――それと、この屋敷への道が四人でないと通じないことがどう関係するんですか?」
首を傾げて不思議そうに尋ねた奈杖に苦笑しながら、ケーナズは「さて」と呟く。
「それが分れば苦労はしないが……まずは消去法で行こうじゃないか。……そう、この屋敷を覆う意識のようなもののことだ」
そう言うと、ケーナズは先ほどから手元に置いてあった行方不明者の写真をつい、と皆の前に差し出した。
「シュライン嬢。約束どおり――今現在私が確かだと判断したことについて話そう。いいかね。この屋敷には、何か得体の知れない存在の影が見える」
銀縁の眼鏡を手で上げながら、彼はきっぱりと言い切った。その言葉に、一人壁に身をもたせかけていた翼がぴくり、と反応する。
「そして、今私が考えたいのはその影のことだ。逆説で考えよう。その影が四という数字に何を見出しているのか、現在では私たちには知る術がない。だが、こだわっていることは確かだ。そうだろう? だとすれば、ここに一つの仮定が成り立つ」
そこまで言うと、「あ」という声が数人から同時に上がった。
「…………この屋敷を覆う影は、何かしら東洋の影響を受けた存在なのではないか、ってことなんですね」
「ご名答。その通りだ」
納得の色を込めて正解を言い当てたみなもに、ケーナズが鷹揚に頷く。
「……なるほど。四という数字にこだわりを持つ一番有名な人種は東洋人だという学説がある。この屋敷の何かが四とおいう数字に何かを見出している以上、そういった仮説も考えられる……」
自分の頭の中で物事を整理しているような調子で奈杖が呟くと、「縁起かつぎ、っていうやつね。この場合はその縁起の悪いものをわざわざ選んでいるわけだけど」とシュラインが付け加えた。
唯一翼は沈黙を守っていたが、その表情はひどく興味深げで、ある種の考えを頭の中でめぐらせているようだった。
自分たち以外の、何らかの存在。その意識。敵意を持っている確率が高い輩……。
「四人家族だった、ということはないんでしょうか……?」
また沈黙を割いて、みなもが少し自信なさげに声を上げる。皆に注目されて少し気が引けた顔をしながらも、続ける。
「その、存在が人だったとしたら、ですよ。四人でないと見えない道は、この屋敷の家族が四人だったから、とか。そして、行方不明者の噂がないことからして、異能者や特異点、人外がいる場合に限定されている……四人組だ、というだけなら結構いるんじゃないか、って思うんで」
それこそまったくの仮説で、確証も根拠もないんですけど、と呟くみなもの顔は、自分で言った言葉をもう一度頭で考え直しているような表情だ。
「甚大君たちが何かのきっかけを作った、という考え方もあるわ。……でも、これも仮定ね」
「なるほど。人である可能性は高いかもしれない……だが、この屋敷は元々存在するはずのない屋敷なのだろう?」
果たして家族というものが存在したのだろうか、という疑問を覚えたケーナズの言葉を受けて、シュラインが頭を振って、「完全にそうと決まったわけではないわ」と呟く。
「時間が十分にとれなかったから、調べられたのは本当にここしばらくの間のこの土地の所有者だけなのよ。過去、もしかしたらこういう屋敷があったのかもしれないし、そこには家族が住んでいたかもしれない。過去の姿を、映し出しているのかも」
迷いを含んだ声は、ひどく心もとない調子だ。
座敷の中に沈黙が降りる。
誰もが、言葉を出しあぐねている様子だった。
――推測は、ある程度の事実に基づいていようとも推測でしかない。重ねたところで、事実は今の状態では理解しがたいことに違いはないわけだ。それを分っていながら、それでも、少しでも糸口を見つけたい。そんな思いがありありと見えた。
「……だめですねぇ。すごい、仮説ばっかりで。……だけど、色々と考えてたら、何か、こう……その。屋敷が、何かの為に人を招いているのかな、って少し、思って。理由はわからないけど、そう考えたら、家族でも住んでいて、その一人がいなくなったのかな、だから、もう一人を欲しがっているのかも、とか色々思っちゃって」
ああ、でもこんなこと考えてても仕方ないんですけど、と自分でも混乱してきたような様子で呟いたみなもに、……でも、と答えるものがいる。
皆が一斉にそちら向く中、一人翼だけがどこか深い色の瞳で持って、その場を観察するようなスタンスを守っている。
――――応えたのは、奈杖だった。
「仕方ない、ってこともないんじゃ、ないかな。なんだか今、すごく的を射たことを言ったような気がしますけど」
そう言って、奈杖はにっこりと笑う。
「どういうこと?」
「この屋敷が何かの為に人を招いている――――ってこと。何となくですけど、それって間違ってはない気がするんですよね。僕、本当に感覚で、ですけど、この屋敷に入った時に、すごくそんな感じがしたんです。何か、呼ばれるているような。探索に来たんだから、入らないといけないのは当たり前なんだけど、そうじゃなくて、入らないといけない、誰か、僕を呼んでるんじゃないか……そんな気がしたんです」
素直な感性で思ったままを口にした奈杖に、ケーナズがふと目を上げる。
その目は僅かに細められ、やがて、なるほど、と呟いた。
「キミは……そうか。探知の能力があるのだね」
「はぁ……あんまり意識はしてないですけど」
小さく笑う奈杖に頷いて、ケーナズはここに入った時、実は私も少しおかしな物を垣間見た、と呟いた。
それは、彼が先(せん)の時にシュラインに尋ねられ、あえて口にしなかった一つでもあった。
「屋敷に足を踏みいれた途端……黒い風のようなものが、私たちの傍らを行き過ぎるのが見えた。風は、屋敷の壁から這い出て、私たちの脇を通り、また屋敷の奥へ消えたように、見えた。そうして、私も屋敷に呼ばれているような……もしかしたら、屋敷が意識を持っているのだろうか、と。そんな気味の悪い感覚に陥った」
注意深いケーナズの言葉に、ごくり、と誰かが喉を鳴らした。
ケーナズは落ち着いた声で続ける。
「……シュライン嬢。埃は、どうなっていたかね」
「あ。ええ……」
知らず、息を呑んでいたシュラインは、問われて慌てて手帳を開く。
「埃の後は……やはり私たちがつけたものしか見つからなかったわ。そして、私たちが踏み荒らした形跡は消えていない……」
「……どうしてなんだろう」
心底不思議そうに呟いた奈杖に、みなもも困ったように首を傾げる。
「時の流れでも違うというのか……? いや、しかし……」
数瞬迷い、ケーナズは面々に屋敷の中に何か、時を示すものがないかを確かめてもらえないだろうか、と頼んだ。
カレンダーや、書物、なんでもいい。時を予測できるものが、何かあれば……。
この屋敷が何の為にあるのかが、理解できるかもしれない。
過去に人が住み、暮らしていた残滓だというなら、そういったものがあってもおかしくない。まったくなかったとすれば、それは……また別の存在だということなのかもしれない。
「……引き続き、探索しよう。それぞれが向かいたい場所、おかしいと思った場所を私に伝えてくれ。私も続けて捜査を進める……」
皆を総括してそう言ったケーナズに、それぞれが頷いて、見取り図を眺めながら対策を立てる。
そんな中、一人だけ輪からはずれるようにしてそれを見守っていた翼に気づき、奈杖は声をかけた。
「蒼王さんは、どうするんですか?」
「…………僕は、僕で調べてみる。少し、確かめたいことがあるから」
大丈夫、きちんとケーナズさんには言って行くよ、と微笑んだ彼女に、少し不思議そうな様子は見せたものの、奈杖は頷いて自分の方針に思考を戻す。
それを確認して、翼は浮かべていた微笑をす、と消した。
(この屋敷が内包するものは……僕が狩るべきものに似ているようで、どこか……)
そうして、自らの思考に入り込んでいった。その瞳は、どこか現実とは違う、彼女だけの空間を見つめているようだった。
4 黒い影
人の去った座敷で、ケーナズは目を閉じていた。
今は、他に誰もいない。四つの気配はそれぞれに散らばって、屋敷に深くもぐりこんでいる。
―――― 一つだけ、なにやら気になる動きをする気配があったのだが、それに関してはあえて干渉しないことにした。新しい調査員――蒼王翼。
表向きはにこやかで愛想は良かったが、身体のオーラとでもいおうか、そういうものが人間とは随分異なったものだった。
そして、先ほどからの、何か別のことを考えているような態度。直感ではあったが、彼女は恐らくこの屋敷に自分たちの持つ目的以外のことを持ってきたのではないか、と思われた。
それゆえに、気配は追うものの、彼女に対しては積極的に呼びかけはしない。
それが、一番いい形だろうから。
そう考えて、自分と同じ金の髪と蒼の瞳を持った少女のことを頭から追い出し、ケーナズは屋敷の存在について思いを馳せる。
(…………あの、黒い風)
屋敷に足を踏み入れた途端に感じた、あの、黒い風。
皆には簡単に説明しただけだったが、感じたことは、実はそれだけではなかった。
――――あの時。
屋敷の古びた板敷きを自らの重みで軋ませた瞬間。
ざっ……と音をたてて自分の周りの景色が一変した。
過去の景色を拾ってしまったのだ、とすぐに気づいた。
初めて見る部屋の中。今よりも……もっと暗い部屋の中。これは、この屋敷のどこかなのか……?
どす黒い空気が、そこら一帯を取り囲んでいた。そして、むせ返るような、何かの匂い。
血のようでもある。腐りかけた匂いにも似ている。だが、それよりも何よりも、吐き気を催すほどの、これは…………妙な生臭さと、何かの芳香が混ぜ合わさったような、強烈な匂いだった。
一瞬ぐらり、と揺らぎそうになる頭を持ち直し、見ると、そんな中に、顔の見えない青年がぽつんと立っている。顔だけが真っ黒だ。何故?
現実から一瞬の内に自分を呼び込んだチャンネルにできるだけ深く意識を合わせ、ケーナズは目を眇(すが)める。
あの青年が、いなくなった青年なのか?
甚大がシュラインに語っていた当日の服装と、その男の服装は一致しているように思えた。これで、顔さえ確認できれば。
少しでも状況を把握しようと目を凝らすが、過去の視界はぴしりぴしりと呻きさえ上げて、今にも壊れそうな風体を見せていた。
その危うさを知ったケーナズは、先を見る為にできるだけ干渉する力をおさえようと試みる。そうしながら、今、目の前で再現されるものをすべて正確に記憶しようと努めた。
部屋の中央に立った青年の向こうの暗がりに、黒々とした階段のようなものが見える。青年はその階段を見つめているようだった。
ノイズを含んだ、見がたい映像。
その映像の中で――――音がする。
ずずぅ。はぁ…………ずる、ずるずる……。
かたん。ことことことこと……ずり、ずりずり。
はぁ、はぁ……びちゃ。
ずず…………
まるで何かを引きずっているような……足音のような。濡れた、音。
そこに、荒く、気分の悪くなるような息遣いと、湿った音が時折混じる。
青年にもそれが聞こえているのか、立っていた彼は動揺も露(あらわ)に叫んで、足をついた。
――――ヤメテクレヨ! モウ、ヤメテクレヨゥ!
――――ナンダコレ。ナンナンダヨ、コレハ!
乱れた思考。だんだんと強くなり始める恐怖の思念に、ケーナズは次第にチャンネルが混線しだすのを感じる。
どこから何が近づいているのかが把握できない。
(よせ……。落ち着いてくれ……)
そいつは、そんな状態でどうにかできる奴じゃない。
思っても無駄なことを考えて、眉間を押さえる。ふと、銀の眼鏡の縁が指にあたった。
――――力……。
それは、彼の力の象徴。触れた途端に、無意識の内に押さえ込んでいる力が噴出する。
……匂いが、さらにきつくなった。こちらを向いた青年の顔が、どこからか聞こえるざりざりという音と共に露になる。
恐怖に歪んだその顔は、確かに彼だった。
瞬時に視界は狭まり、繋がっていたラインは細くなる。
淀んだ空気と、強烈な匂いの中を走る風が感じられた。
(もう、少し――――!)
そう願う思いもむなしく、景色は乱れる。まるで海の様に波打って、青年の恐怖に歪んだ顔も、暗がりを抱えた部屋も、すべてが乱れて、交じり合って。
頭の中といわず、耳といわず、激しい絶叫が響いた。たまらず、ケーナズは強引にラインを断ち切った……。
それが、屋敷を訪れたあの時に見えたすべて。皆にそのことを伝えなかったのは、その風の実態がはっきりとしないことと、そして……。
(うかつに口にしてはいけないような気がしたから……)
この屋敷は、よくある幽霊屋敷のようなものとは様相が明らかに違う。
通常、霊魂など、何らかの存在が住み着いているという屋敷に人が複数で押しかけた場合、何も起こらないことが多いものだ。それは、見慣れない侵入者に霊が萎縮するからだという。
だが、この屋敷にそうした気配は見えない。萎縮どころか……むしろ、望んでいたような。人のを呼んでいたのでは、と思われる気配を、自分と、もう一人奈杖が感じ取った。
この屋敷は人を欲している。……或いは、屋敷に住み着くものが。
そしてそれは、東洋の影響……縁起に関した何かにこだわっている。みなもが言った通り、それは人である可能性が高い。……いや、人の残骸、と言った方がいいか。
あの黒い風は、どう見ても人としての動きではなかったのだから。
『ケーナズさん!』
その時、息をついたケーナズに不意に元気な声が呼びかけてきた。奈杖だ。
目指す場所に行きつけるコンパスいらずの能力を持った彼は、一番上か、下を重点的に調べたい、といった。まずは壁を伝って屋根に上る、などといっていたから、その通りならば現在は屋根の上にいるはずだろうが……。
「どうした」
一人きりの部屋で目を閉じたまま、ケーナズは答える。
『あ、すごい、本当に通じるんですね〜』
こんな状況下だというのにのほほんとした声で返してくる彼に少し苦笑しながらも、ケーナズは「何かあったんじゃないのかね」と促す。
『そうそう、そうなんですよ。僕、さっき言ったとおりに屋根の上に上ったんですけど』
「…………本当に上ったのか」
『え?』
「いや、なんでもない。それで?」
『はい。僕、屋根の上で自分たちが来た方向、つまり、道のあった方向と、この屋敷の玄関がある方向、そして、屋敷がどう建てられているかを見てみたんですよ』
「…………? ああ」
『ちょっと、考え付いたことがあって。そしたらね、どんぴしゃ! ……ほら、さっき、この屋敷の意識だか、住んでる意識だかは縁起かつぎの逆をしてるんじゃないか、って話をしたじゃないですか。それで、日本の縁起について考えてみたんですよ。家の縁起で思いつくのっていったら、やっぱり方向でしょう? 鬼門とか、裏鬼門ってやつ。あれって北東が鬼門で、南西が裏鬼門なんですよね。鬼が北東からやってきて、南西に抜ける。この屋敷、正にそうなんですよ』
「…………!」
『僕たちが入ってきた方向が北東。玄関もそれに順じ、屋敷は南西へと細長く建てまわされている。この造りだと、屋敷に来るものは好もうが、好むまいが、災いを背負ってこの家に来ていることになる……。普通ならありえないです。でも、よくないって言われているものをわざと使っているのは共通してる、ってことですよね?』
「……確かに。その通りだ。だが、そうだとしたら……」
強烈に嫌な予感を覚えて、ケーナズは声を詰まらせる。その意識が伝わったのか、奈杖も新たな発見に高揚させていた意識を落ちつかせた。
――――この屋敷は、自ら望んで陰気を呼び込んでいるということなのか……?
そして、人を欲している。それは、一体何の為にだ。
あまりに嫌な展開にラインを繋げていることも忘れて、思考の迷路に入り込みかけたケーナズをさえぎるように、奈杖の声が響く。
『……とにかく、そういうことですので〜。何か意味があるかなぁ、と思って。それじゃあ、僕はこれから下に向かいますから』
「あ、ああ。……下に?」
『ええ。埃が踏み荒らされてなかった、ってことは、なんとなく地下があるような気がしませんか? もしかしたらどこかの隙間からすとーんって落ちたりとかしたのかもしれないし……楽観的ですけど』
少し苦笑した気配があって、『とにかく、また何か分ったら伝えますから』という意識が伝わってきたので、ケーナズは「わかった、気をつけてくれ」と返した。沈黙がおりる。
自ら、陰気を呼び込んでいる屋敷で、人が行方不明になっている。
それでは、訪れた途端にちらついた黒い影は……。
「犠牲の羊(スケープゴート)を狩る、狩人(ハンティングデス)とでも言うべきものか……」
関連しているのはこの日の国に根深くついた慣習のようだが、言ってしまえば迷信とでもいうもの。実際に人がいなくなっていなければ何の意味も持たない他愛ないこと。
――――だが、実際に行方不明になるものがでている。ケーナズは事態を重く見て、今は屋敷の西側を探索しているはずのシュラインに連絡を取った。
『どうしたの?』
どことなく先ほどまでの落ち着いた様子とは違う気配を気取ったのか、尋ねてくるシュラインに、いや、と呟き、「草間氏に連絡をとってくれ。この屋敷――――もしくは、この土地の所有者を遡って調べて欲しいと」と手早く頼みたいことを伝えた。
『いいけど……ケーナズさん――――』
「キミに全てを話す。……いや、キミだけではなく、皆に話そう。もう数分で陽が落ちる。屋敷が闇に包まれたら、戻ってきてくれ。できる限りの情報を得た状態でなければ危険だ」
彼女がパニックを起こさないように、努めて冷静にそう指示する。同じことを、すぐさま皆にも伝えるつもりだった。
シュラインはしばし困惑したような意識を伝えてきたものの、そこは彼女だった。さっと気持ちを切り替え、『わかったわ。もう一度草間に連絡をとります。その後、そちらに戻るから』と応えてきた。それに「頼む」と返事を返して目を開いた、その視界の端に白く、この屋敷には不似合いな豪奢な服に身を包んだ少女の姿が映った。だが、すぐにすっと消える。
(…………蒼王……翼?)
声には出さず、唇だけ名前を呼んでケーナズは目を細めた。
…………彼女も、黒の気配を纏っているように、私には見える。この屋敷とは別の、闇の気配を。
だが、悪意は見られない。ただ……目的が違っているのだろう。
「こうてこずるのはどれほどぶりだ?」
今度は口にだして皮肉に笑って、彼はなすべき事を済ませることにした。
指の先におかれたままの写真の、青年の顔の部分がどす黒く変色してきていることに気づいたのは、その後のことだった。
§
「……蒼王、さん?」
壁に身を預け、意識を闇に向けていた翼は、遠慮がちに呼びかけられる声に驚くことなく、蒼の双眸を開いた。
「……ああ。キミは確か……」
「海原みなもです。どうかしたんですか?」
不思議そうにそう尋ねてくるみなもに軽く首を振り、「いいや、何も――どうして?」と逆に聞き返す。
「いえ、何か……考え事をされてるようだったので。ケーナズさんから連絡は聞きました?」
「うん、聞いたよ。この辺の探索が終わったら、僕も戻るつもりだ。……キミはこれから?」
視線を座敷のある方向に伸びる廊下に向け、翼は艶然と微笑む。
同性ではあるものの、どこか中性的な外見や仕草を持つ彼女の笑顔に目を細めながら、みなもはそうですね、と呟いた。
二人が立つ場所は廊下の途中でありながら、川の中州のように少し開けた場所になっており、そこからは四方向に黒ずんだ廊下が闇を背負って伸びている。靴を履いているのに、足の裏が妙に冷たくなってきている気がした。足の芯からどんどんしびれるほどの冷たさが伝わってきて、湿気を含んでいる。――――雨に降られる中を歩けば、ちょうどこのようになるだろう。
だけど、ここは屋敷の中なのに。
冷たく足に張り付いてくる靴底が不快で、みなもは知らず眉を顰めた。
あれほどにいとおしい水の存在が、なぜこれほどまでにうとましいのだろう。屋敷の概観で考えたことをもう一度考えながら、みなもは翼に軽く会釈する。
「それじゃあ……あたしは先に戻っておきますね」
そうして彼女の横をすり抜けて、みなもは四つの廊下のうちの一つに消えていった。
その後を見送りながら翼は引き上げていた口元を綺麗に戻す。
彼女が来る前のように手近な壁にもたれ、辺りを見回す。
(海原、みなも。……彼女も、純粋な人間ではないようだが……)
だが、今は協力体制にある身だ。さして問題はないだろう。自分を見る目に少しだけ不思議そうな色が混じっていた気もするが、異能を持ったものならば少なからず翼の真の姿にも気づくだろう。
そう。AMARAと呼ばれる闇の狩人としての存在に。
ある意味、ケーナズが考えていたことはしっかりと的を得ていた。
今回翼が単身この屋敷探索に訪れた目的は、行方不明者の探索というよりは屋敷の建設目的だった。少なくとも、この屋敷に来るまでは。
(……生き物?)
翼には、ケーナズが見たという黒い影も、呼ばれるような感覚も感じることはできなかった。ただ、屋敷が脈打っている、と思った。無機物ではない、有機物と同様に。
ウィンチェスター館に酷似した館ならば、当然そこにはサラ夫人のような、何らかの理由に迫られて不可思議な建物を建設した人物がいるはずだ、と検討をつけていた。だが、屋敷に入ったとたんにその考えは思考の迷路に迷い込む。
道は、四人でなければ開かれない。けれども、これも考えていた説とは少々異なるようだった。意味があるということだけは、確かなのだけども。
何より、この屋敷に充満する闇の気配が、翼が狩るべき存在であるようで、どこか違う。そして、風も。
生きている風ならば、容易に支配し、その意志を尋ねられるものを。
この屋敷の一体に入り込んだ時から、風は濁り、淀みきって骸に等しい姿を晒すのみ。
感じられるのはただの残骸でありながらも濃厚な闇の気配だった。
(この調子では、行方不明者とやらはどうなっていることやら……)
行方不明者が心配でないわけではない。ただ、翼は人ではなく、闇に属するものであり、それを狩るもの。感情は抑えねばならない。成すべき事は、とても単純なことなのだから。
闇の気配が翼の領分のものならば、滅ぼす。異なるのならば、自分はこの目でその闇の行方を見据えるのみだろう。
――――そろそろ、行かなければ。
四叉路の端に立って、翼は一つ小さく息をつくと先にみなもが消えた通路をたどり出した。
5 日の暮れに、水辺にでれば
「きっと、この屋敷のどこかに水に関連した場所があると思うんです」
二度目の探索から戻ってきたみなもは、開口一番にそう言った。隣には、途中の廊下で一緒になったらしいシュラインがいて、彼女もみなもの言葉に同意する。
そこに、奈杖と翼が微妙な距離を保って帰ってきた。
「ただいまです。僕たちで全員ですね」
座敷の中をざっと見まわして、奈杖がにこやかに確認する。それに「ああ」とケーナズが応えて、手元に置いていた写真を皆に向けて差し出した。
その写真の有様に、一同が一瞬息を呑む。
「…………こんなことって」
眉を顰めて思わず漏らしたのは、みなもだった。その声に混じって、喉を鳴らす音や深い吐息が吐き出される。
甚大の友人の写真は、顔の部分からどす黒く変色して、夜色に塗りつぶされていた。
「先ほど目を開けて写真を見た時にはこうなっていた。彼の身が、危ういのかもしれない」
それでなくても、彼がいなくなってから一週間以上が過ぎている、と首を振ったケーナズに、シュラインが苦い声を上げる。
「悠長なことをしている場合じゃなさそうね。ケーナズさん、さっき言っていたことを、話してくれるかしら」
「――――ああ」
請われ、ケーナズは話した。
ぼんやりとした輪郭でしかなかった黒い影の存在が、全員の中で少しずつ形をつくっていく。
これが、<恐怖>だと思った。
続いて奈杖が屋根の上から確かめたことを報告する。これにも、やはり重い反応が返って来た。
しばらくそうした、何ともいえない停滞した空気が流れる。
それを切り裂いたのは幾分頭の中を整理したと見えるシュラインだった。
「……そう。でも、大分分ってきたと思うわ」
うつむいてそれぞれ考えをまとめていた面々が顔を上げる。その一人一人を見ながら、シュラインは最後に視線を座敷のささくれ立った畳の上に止めて、「ねぇ、少し座りましょう」と幾分か和らいだ声で促した。
それなりに探索で歩き回ったり、神経を限界まで張り詰めさせた状態が続いていた調査員たちはそれぞれ否も応もなく畳の上に腰を下ろす。汚れることなど、今更何の問題でもなかった。
「とりあえず、ケーナズさん。調べてきたわ、時を表す……カレンダーや書物、だったわね。でも残念ながらそういったものはこの屋敷にはどこにもなかったの。見つけていない部屋がないとは言えないから、調べたところ、としか言えないけどね。……その代わり、妙なものを見つけたのよ。さっきみなもちゃんにも話したんだけど。ね?」
振られて、みなもは何度か目を瞬かせながらも、はい、そうなんです、と答えた。
「それを聞いて私、自分の感覚を信じることにしたんです」
「説明してくれ」
みなもが頷いた。
「屋敷の外を、初めに探索した時のことです。塀の内側を歩いている時に、ひどい匂いがしました。錆びくさいような、腐ったような……一番強かったのは、生臭さ。でも、色々とごちゃごちゃに混ざり合った匂いだと思いました。そうしてその匂いがしはじめた辺り……とても、水の気配が強かったんです。純粋な水じゃないですけど、水に違いはありません」
水の気配であたしが間違うわけがありません、とみなもは言った。けれどもその時、妙に心細くなって……勘違いだといけないから、もう一度きちんと調べてからみんなに言うつもりだったんです、と。
「この屋敷は、いたるところで水の気配がします。もちろん、建てられた家には水の気配があって当然なんですけど、この家は尋常じゃない。この屋敷は陰気を溜めている、ってさっき言ってましたけど、少なからずそのことと水が関係していると思います」
自分の中できっちりと考えをまとめたのだろう。説明する言葉は簡潔で明瞭だ。
次に話し出したのはシュラインだった。
「私が見つけたものがまた、それを裏付けている気がするの。あ、草間には連絡をとっておいたわ。できる限り早く調べるそうよ――――。えっと、それで。とりあえずこれを見て」
言うと、彼女は自分の手帳のあるページを手早く開き、指し示す。
そこには、意味を成すような成さない様な、数行の文章が連なっていた。
【日の暮れに 水辺に出れば あの千鳥鳴く千鳥鳴く
鳴け鳴け千鳥 声比べしようや 声比べしようや】
「……これは」
困惑した声をあげた奈杖に、「その下も見て」、とシュラインが促す。
ニ行ほどをあけた下にも、同じような文章が並んでいる。
【夜更けて 風吹き見れば あの千鳥飛ぶ千鳥飛ぶ
飛べ飛べ千鳥 翔け比べしようや 翔け比べしようや】
「まるで、歌のようだね」
ケーナズはまず率直な意見を述べる。そして、視線でこの文字の羅列の説明を求めた。
「歌……そうね。これは屋敷の襖に書かれていたわ。対になった襖で、右側には水辺に飛ぶ鳥が、左側には風にのって飛ぶ鳥が」
意味があるかどうかわからないけれど、妙に気になったので書きとめて置いたのよ、と言うシュライン。ついでみなもが呟く。
「この歌……。私、何か意味があると思うんです」
「……あー。それでどこかに水場があるんじゃないか、て言ったんですね」
納得、という風に奈杖が頷く。
「だったら、やっぱり下じゃないでしょうか。どこかに地下への入り口があったりとかして」
「見つかりましたか?」
「いや、まだそれらしいものは……」
首を傾げたみなもに、奈杖はふるふると首を振る。
「水辺はこの屋敷のどこかに水に関わる場所があるとして……風は? それに千鳥は何を表しているんだろう」
半ば独白のつもりで言った言葉を、それまで黙り込んでいた翼がつぐ。
「風は……死んでいる。少なくともこの屋敷に僕が来た時には、生きた風の気配はまったく感じられなかった。無論、今もです」
「……そういえば、風は吹いてないですねぇ」
翼が言った表の意味だけを捉えてそう相槌を打った奈杖がケーナズを見やる。
「夜更けて……風吹き見れば。……ああ、じゃあこれから吹くってことなんじゃ?」
そうして思いつくままにほがらかな声で言い放った言葉に、皆がはっとして奈杖を見た。
「……え」
人差し指をたてたままの姿で急に注目され、奈杖は固まる。
シュラインが茫然としたように呟く。
「その、通りかもしれない。この歌は、やっぱりこの屋敷で起こることを示しているんだわ」
「え、あの」
結構適当に言っただけで、ともごもごする奈杖にみなもも首を振る。
「日が暮れて 水辺に出れば……水辺とは、恐らくこの屋敷のことです。日が暮れるにつれて、水の気配がひどく強くなってきてます。千鳥が鳴くというのがなんのことかわからないんですが……でも、前半部分が現実的な屋敷の有様について歌ったものだとすれば、きっとこれから風が吹くんですよ」
十三という歳に似合わぬ思考力で、みなもは断じる。ケーナズが険しい顔でそれに続いた。
「鳥が鳴く……。日が暮れて鳥が鳴くということは、昔からこの日本では良いこととされていない、と聞いたことがある。夜なく鳥、夜飛ぶ鳥は、大抵不吉なものを連れてくるんだ。鳴けば、死を連れてくる地獄鳥という鳥もいる……つまり、不吉と恐怖の象徴だ」
「じゃあ、この歌は……」
「甚大の友人が姿を消したのも日が落ちてからだろう。千鳥は、恐らくこの屋敷の凶事を示唆している」
我々は今、随分危ない場所にいる、ということになる。
「この屋敷をどうこうすることは、この際一切考えない方がいいだろう。今日の内に。……まだ、夜が更けない内に、行方不明になった彼を探し出すんだ。この屋敷は長居してはいけない」
その言葉に皆が頷く。ただ一人、翼だけは色の見えない表情で、黙ってそれを聞いている。
「この屋敷への影響を考えてのことだったが……持てる力は使うべきだ。……私も行動に加わろう
。そして、これをはずそうと思う」
ケーナズが銀の、小ぶりの眼鏡に手を添えると、それを奈杖がとめた。
「待ってください。僕、探すのって得意なんです。僕に、任せてもらえませんか? ……それしかできないし」
こんな時でも、柔らかい笑顔で奈杖は微笑んだ。
「ケーナズさんは他の事で力を使ってもらわないといけないかもしれないから、温存しておいてくださいよ」
その笑顔に何故か押されて、ケーナズは「しかし」と呟く。
「さっきまで僕、甚大さんの友達探さなきゃー、と思って歩いていたんですけど、それだと珍しく行き着かなかったんです。でも、さっきからみんなが言ってること聞いてて、ちょっと思ったんですよ。つまり、水のある場所を探せばいいんじゃないか、って。何となく、いまなら行ける気がするんです」
そう言うと、彼は頭にかぶった帽子を少し浮かして器用に手をいれ、飴玉を取り出した。
呆気にとられているケーナズの手にそれを落とす。
「危ないのは、確かだと思います。でも、気を張り過ぎたら足元をすくわれるかも。急ぐけど、切り札は最後までとっておきましょう」
そうしてその飴を差し出したその手が少し震えていた。恐ろしくないはずもない。けれども、奈杖は彼なりに自分の役割をわかっているのだろう。
そんなところまで気を使わせてしまってすまない、と思いながらも、ケーナズは苦笑した。
「――――そうだね。キミに、任せよう。これが終わったら、是非皆に――甚大も含めて、デパ地下で美味しいケーキをご馳走するよ」
そうして飴玉を口に入れる。甘ったるいが、緊張が解け、冷静さを取り戻してくれる味だった。
「楽しみにしてるわ」
「あたしもです。いっぱい食べますね」
肩を竦めて笑ったシュラインの表情も、少しだけ和らいでいる。みなもにも、ここに来てから曇りがちだったいつもの明るさが一時的にだが戻ったように思えた。
――――空気が変わった。今をおいて、行く時はない。
そう考え、ケーナズは翼に視線を移した。
「キミは…………どうするかね」
翼はその問いかけに含まれた色々な意味を感じ取って目をまっすぐに向ける。
「…………僕は。ここで」
あなた方と、闇の行く末を、見届けます――――。
「一人で残るのは危険じゃないかしら」
心配げに言ったシュラインに首をふり、翼は僕は平気です、と答える。
「退路を確保するものも必要ですよ。この座敷が無事ならば、出口はすぐそこだ。ここは、僕が守っておきます。だから、どうぞ行ってきて下さい」
僕のことなど、気にせずに。
そんな彼女にさらに何か言葉を重ねようとしたシュラインを止めて、ケーナズが「わかった、そうしてもらおう」と頷く。
「……ケーナズさん?」
「いいんだ。それよりも早く行かないと」
そう呟き、す、と立ち上がる。そのまま座敷を出て行く彼の後姿を見ながら困惑したシュラインに、「あたしたちも行きましょう」とみなもが声をかけた。まだ少し心配そうにしながらもその声に従うシュラインの肩越しに翼を見て、一度だけ会釈する。
――――頑張ってください。あたしたちも、やり遂げますから。
違う目的を持っていても、犠牲者を出したくない心は同じだと、そう思うから。
シュラインとみなもが座敷の外に出ると、最後には奈杖が翼と向かい合った。
「じゃあ、蒼王さん、僕も行ってきます。気をつけてくださいね」
それとこれ、飴玉。蒼王さんにもあげますよ、とのほほんと笑って投げてきた飴を受け取りながら、翼は初めて嘘ではない、苦笑のようなものを浮かべる。
「キミは、なんだか不思議な人だね。その帽子の中は四次元かい?」
「あは。そうかも? ここって色々でてくるんですよー」
その言葉に軽くおどけて、奈杖は踵を返した。
本当に気をつけて。
それだけ言い残して座敷を去っていった。
誰一人いなくなった座敷の中。翼はその中央に立って、自ら望んで取り残されたその身を見やる。
もらった飴の包み紙は赤だった。――――変わった青年だ、ともう一度笑う。
この屋敷は、そこはかとなく闇に近く、闇をその身に溜めて闇に、なろうとした。
屋敷のそこかしこに成された呪いの後。自分が知るものではなく、この日本で古来から培われてきた呪術的な意味を持つ屋敷の残骸。
そう。翼には分っていた。何よりも闇に近い存在であるから。たとえ、この身が狩る闇でなくともその哀れなまでの欲望がよく見えた。
「……見届けよう、僕が。ただの人が闇になれるのか、なれたのか。今一度」
しんと静まり返った座敷に翼のアルトが響いて、散らばる。冷えた空気がおぼろげに震えたような気がした。
6 夜更けて 風吹き見れば
屋敷を満たした空気はさらに冷えて、屋敷内部は白く、細かい霧で満たされていた。みなもでなくとも、水の気配が強まっていることが分る。
風は、まだ吹かない。黒く、こごった影はまだ見えない。それだけに、屋敷のどこかで風鳴りに似た音が響くだけで一行はぎくり、とした気分を味わう。
すでに、数刻が経っていた。
屋敷の中は歩きやすい、とは言いがたい。ぽっかりと穴をあけていたり、突然一段だけの段差があったりとする廊下。電気もない中、ただの小さな懐中電灯の光のみで見取り図を確認しながら歩いても、同じような造りに見える襖の向こうは行き止まりであったり、個室であったりとして、正解の道を見つけづらい。
それでも先頭を歩く奈杖は、特に舌打ちをするでもなく、苛立つでもなく、一定の歩調で自分の感覚どおりに先に進んでいた。
旅を生業に、というだけあって、足は確かだ。歩きづらい道も、それほど苦にはならない。けれどもどうにもこの水気だけには、探索の気持ちをそがれる思いがした。
ここまでの湿気を含む空気があるなんて。
服も、靴も。身体さえも。その全てが水気を含んで、ひどく重たいような気がする。汗をかいたあとに似ているだろうか。体力が、奪われていく。
湿った軋みを上げる廊下が不快だ。どうしてそんなに濡れているんだ。――――屋敷の中なのに。
初めはそれぞれに言葉を交し合っていた一行も、もう黙りこくって随分たつ。かといって、新しい話題を提供する気にもなれない。
暢気に語っている場合でもないし……ああ、だけど。苦手な空気だなぁ。
とりとめもない思考をまとめることもせずに、ふと、奈杖は立ち止まった。背中に、誰かが小さく声をあげてぶつかる。みなもだ。
「ど、どうしたんですか」
背中に鼻をぶつけたらしく、こもった声をだすみなもに、「あああ、ごめんなさい」と謝りながら、奈杖は自分の左側――――目を留めた窓に近づいた。
木の枠に囲われた、曇り硝子のはまった窓。確か、この向こうって。
そう思って見取り図を見直すと、この向こうは部屋になっていた。窓も、雨戸もあるのに、向こうにあるのは畳部屋……。
「ここ、入ります」
誰の了承を取るでもなく、そう宣言して、奈杖は立て付けの悪いらしい窓を開ける。奈杖はそうがっしりとした体格ではなく、男としては小柄な方なのでここからでも入れるだろう。
むしろ、入れないのは……。
「ケーナズさ……」
入りながらケーナズさんは、と呟こうとすると、何故か自分が入ろうとしている部屋の中央あたりから「なにかね」と声が聞こえる。奈杖は驚いて窓から落ちそうになりながら奇妙な格好で畳に下りた。
「あ……瞬間移動……」
涼しい顔で笑っているケーナズに、ふえええ、と声を上げている間に皆が部屋に入り込んだ。
「この部屋…………」
部屋は、二つの部屋が行き来できるようになった造りで、襖で仕切られていた。この襖には特に何も書かれておらず、どこかの渓谷が水墨で描かれているのだろうことが見て取れるが、薄汚れている上にこうも暗くてはそれもよくわからない。
奈杖は黙ったままその襖をあけて、隣の部屋に足を踏み入れた。正面に、黒い階段。その先に、進むべき部屋はない。天井に続いている。
「あの、階段って」
さっきケーナズさんが言っていた階段とは違いますか、と奈杖が聞く。
問われ、ケーナズは暗闇の中、目を凝らした。――――似ている。
横から見ると、箪笥のようになった階段。否、恐らく箪笥としても使うのだろう。江戸時代から明治時代初期にかけて姿を見せだした階段箪笥と呼ばれるものに良く似ている。……動かせないようだが。
あの時見た光景にあった階段に違いなかった。
「それだと思う」
そう答えると、頷いて奈杖が無造作に近づいていく。皆はそれをその場で立ったまま見守った。
階段を上ろうとすると、一、二段ですぐに頭がつかえてしまう。階段の段の高さはばらばらだ。だが、奈杖は階段の上で一度、二度と足踏みを繰り返した。白い埃が闇に紛れて舞い上がり、水を含んで畳に落ちていく。
「奈杖くん……?」
何をしているのか、と尋ねるシュラインの声には軽く笑い、奈杖はそのまま階段を下りた。すぐに横に移動して、今度は階段の側面をこんこん、と叩く。
そしておもむろに皆を振り返ると、「この奥です」と言った。
「…………この奥、って」
「進む方向。こっち」
指差すのは、階段箪笥の向こう。
「道、ないじゃない」
「あります。絶対こっちですから」
あっさりと言い切る奈杖に、ケーナズは確認した。
「シュライン嬢。この場合、器物の破損は草間興信所に迷惑がかかるだろうか」
言われ、シュラインは言葉の意味を理解した上で数瞬考える。
「……緊急処置、かしら」
草間がいればすさまじい勢いで突っ込みそうなことを認め、シュラインは後ろの座敷に下がった。奈杖も下がる。ケーナズが逆に一歩進み、片手を上げる。
その手に瞬時、まばゆい光が灯ったかと思うと、凄まじい音をたてて黒い階段が飛び散った。
ばらばらと砕けた破片が畳に落ち、白い煙を放つ。だが、火の気配はない。
「…………どうやるの、こういうのって」
目の前で信じられないものを目にしながらも意外と受け入れている自分に驚きながらも、シュラインが尋ねると、ケーナズはこともなげに答えた。
「イメージ、かな。私の力は意識と直結している。今は、あの階段の内部で爆発をイメージした。密閉空間では蒸気が滞留していることと燃焼で生じる熱の逃げ場がないことにより、伝達が早くなりよりすさまじい爆破が起きる。そういったイメージだ」
ご心配なく、必要がなければこんな派手な力は使わない、と答えたケーナズにシュラインは「安心したわ」とだけ答えた。
そんなことは気にも留めずに、奈杖が嬉しそうに言う。
「ほら、見てください。ありましたよ、入り口が」
言われ、目を向ければ白く、煙の残る哀れな階段の残骸の向こうに、小さな扉が見える。
「…………大したものだ」
「いや、ケーナズさんも」
小さく笑った男に、青年は朗らかに返した。
舞った埃や、散らばった破片を避けながら、扉の前に進んだ。
「封がされてますね」
――――取っ手はない。
幾重(いくえ)にも貼られた札。その一枚一枚に呪いが書き付けられ、小さな扉を埋め尽くしてこびりついている。
「どうやって開けるんでしょう」
取っ手がないし、と呟いた奈杖に、みなもが「じゃあ、あたしが」と答えて前に出る。
扉を軽く押した――――ように見えた。
ばき。
「あ」
はずれた、とみなもが呟いた時には、もう扉は力なく向こう側に倒れていた。大して力を込めた様子もなかったのに。
皆の沈黙の中、みなもは少しバツが悪そうに呟く。
「……あたし、力は強いもので」
人魚の末ゆえ、能力として怪力をもってしまっているみなもは、悪くもないのに少し顔を赤らめた。
§
扉があった向こう側は、細長い通路のような空間になり、だんだんと下に下っていた。
屋敷の廊下よりも闇は濃厚で、ねっとりとそこに横たわっている。
奥の方では風が吹いているのだろう。
ひゅうううー、という高音とともに、むっとする――――あの匂いが鼻をついた。
色々なものがごちゃ混ぜになったような匂い。血のようで、腐っているもののようで…………生臭い。
時折、ぴちゃん、という水の雫が落ちる音に似た音が、通路の向こうで反響しては途絶えた。
「…………どうやら、ここで間違いないようですね」
通路の奥を少しでものぞき見ようとしながら、みなもが呟く。
「僕が、先に」
先ほど通りに奈杖がそう言い、その場の全員が了承した。奈杖が、先に立つ。
そうして狭い通路を一列で、下り始めた。
通路はゆるやかな段々になってはいるが、人工のものである、という風体でもない。左右の壁も、ほんの少し下っていけばむき出しの岩肌に姿を変えた。
「ここって、天然の洞窟なんでしょうか」
奈杖の後ろでみなもが聞くと、一瞬間があってそのまた後ろのシュラインから「そうかもね」と同意の声があがる。声があちこちに反響して、何人もが答えたように聞こえた。
だんだんと道を下っていくにつれて、冷気がひどくなっていく。
鼻をつく匂いはもう、何がなんだか分らない状態だった。自分が何を嗅いでいるのか。何の匂いがどのようだったか。今分るのは、この通路を取り囲むこの匂いが不快なものであるということだけ。それでも、人は慣れるのだ。
初めは胃の内容物を撒き散らしてしまいそうになったこの匂いの中を、概ね普通に歩いている。
人は、強いものだ。時に儚くとも。強く、そして狂気を持てば、恐ろしい存在に姿を変える……。
――――何よりも。
「風が……強くなってきました」
足元には、水が。
耳にも、どこからか水音が聞こえてくる。この向こうからだろう。終着点は近づきつつあるようだった。
もう、風が吹く時刻なのだろうか。時計は持っていたが、時刻を確かめる気にはなれなかった。もし、夜をひどく過ぎていたら? 自分たちは、間に合っているのか、いないのか。
いらない思考がもぐりこむから。時計は全てが終わってから見よう。誰もがそう決めていた。
――――――息が詰まる。
やがて、奈杖の足が平らな地面を踏んだ、気がした。
よく見えもしない道をなんとか淡い懐中電灯の光で照らして、下を見れば思ったとおりに、平らなむき出しの岩肌に細かい砂利がつもり、柔らかそうな緑色の苔が繁殖している。足を下ろせば、じゅくじゅくと吸い込んだ水を吐き出して。すでに水のしみこんだ奈杖の靴をさらに濡らした。
水が、水面に落ちる音がする。ここからちょうど通路は少し広まって、開けていた。
細い通路から抜け出したみなもが闇の奥を見つめて「水……」と呟く。
黙ったまま、奈杖がまた進んだ。歩くたびに踏みしめる苔が柔らかく、奇妙な感触を足の裏に伝えてくる。また、匂いが一段とひどい。やはり、ここが問題なのか。
今更ながらにそう思って、進んで。差し出した足が、不意に柔らかい感触を突き抜けて、バランスを崩す。「う――」
叫ぶ暇もなく、そのまま前のめりに転びかけて、背後から力強い腕が奈杖を引き戻した。ケーナズだ。
ずぶぬれになった左足が、藻のようなものを絡めながら引き抜かれる。
「びっ…………くりしたぁ」
少々間抜けな声をあげながらも懐中電灯で照らした、その先こそが、水辺だった。
ほの明るい橙(だいだい)の光で照らされた水面は緑色に濁り、その表面に地上ではなかなか見ないほどに立派に成長した葉を浮かべている。生臭い匂いは、この貯め池からだった。
底の見えない水がたたえられた窪地。水の向こう側には、何か得体の知れないものが潜んでいるような、そんな気がしてならない。
水をいとおしむみなもでさえも、そう感じた。この水は、普通の水ではない。
先ほどの奈杖のようにはまり込みはしないように気をつけながらも、水際にしゃがみこみ、そっと手で水に触れる。意識を伝えた。――――動かない。
触れれば、意のままに動くはずの水が、ちらとも動かなかった。何故。
先ほど蒼王翼が言った、”風が死んでいる”という言葉が理解できるような気がした。
こんな水は知らない。こんな水は……。
そうして、無意識に水面に浸した手をかき回す。緑色に濁った水の表面に波紋が生まれ、それは弧を描いて池の中央へまでのびていった。
刹那。
びくり、とみなもの身体が目に見えて震える。一瞬、何に震えたのかが自分でも分らなかった。しかし、すぐにその理由が知れる。
水面に、影が映っていた。
それは、覗き込むみなもの影でもなく、そのほかの誰かのものでもなく。
水の向こう側からこちらを覗いている影だと、分った時、みなもは動けなくなった。水に浸した手を抜かなくては、と頭では考えるが、身体には伝わらない。
声さえも出ずに、ただ硬直した。
背後で、皆が話している声がする。なのに、身体が動かない。ゆっくりと、水面の下からその影が浮かび上がり、二つの淀んだ光が見えた。
赤黒い光。二つ並んだそれは、水の下でぎょろり、とみなもを見据える。そして、それに震えたみなもに気づいた奈杖が彼女に声をかけようとした瞬間。
みなもは、強い力で濁った水の底に引き込まれていた。
「! みなもちゃん!?」
耳元で、激しく水に叩きつけられる音が、遠くではシュラインが悲鳴に似た声を上げるのが聞こえた。凄まじい速さで水の中に引き込まれながら、大丈夫、あたしは水の中でも息ができます、と、言っても仕方のないことを考えた。
――――だが、息苦しい。
水に引き込まれたことにより、人魚の姿になった自分に気づきながら、みなもはのどをかきむしる。
苦しい、苦しい。ひどい、匂いがする。
濁りきった水の中で、身を動かすこともできずに、みなもは、血が凍りそうな声を聞いた。
――――――ぬしも 禍木(かぼく)の新しい贄になっておくれかい
しわがれた声のように思えた。色を失った声。常軌を逸した、狂気に笑む声……。
さきほど水の底から自分を見上げた赤い瞳が目の前に迫る。自分にのびる、節くれだった手。まるで蜘蛛のよう。けれど、人間の手だった。きっと、かつては。
ああ……やっぱり、あなたは人なんですか。人、だったんですか。
なのに、どうしてそんな姿に――――。
苦しい息の中で、みなもは必死で問いかける。
人だったものは痩せこけた薄い唇を限界まで引き上げて、変色した歯を晒して岸とは反対側を指差す。
―――――すべては、あの禍木を育てる為の贄に この木を育めば
歌うように、それは言った。狂い鳴け、千鳥。血を吐いて、さけべ、そして翔けよ。それが、事の成就を知らせよう。
手が、みなもの首を捉える。向こう側に引っ張られる。身体は、動かない。
何故。この水は、この水は、一体……?
少しも自分の意のままに動かない水。むしろ、みなもの身体に絡みつき、渦巻き、動きを妨げる。
どこに、連れて行こうとしてるの……。
鈍ってきた思考でみなもがそう考えた。意識を、完全に手放しかけた。その時に、一筋の細い光が水面から、水底までを貫いた、ように思えた。
自分の首に食い込んでいた指の一つ一つが、鋭い悲鳴と共に剥がれ落ちる。身体の周りに張り付いていた束縛がゆるんだ気がした。
――――今しかない!
その隙をついて、みなもは意識を総動員して水面を目指す。棒のような腕が引きずっていこうとした方向とは逆へ。
水面に行き着くまでの時間が、まるで永遠のような気がした。ひれが、力強く水を掻く。数瞬の後、みなもはばしゃり、と水面に跳ね上がる。
「みなもちゃん!」
それと共に、幾本もの腕が、手が自分を引き上げてくれた。先ほど掴まれた手とは違う。暖かい、温度をもった腕。
咳き込みながら人型に戻り、みなもは口の中に入り込んだ水をびしゃり、と吐き出した。口の中があの腐臭とでもいう匂いでいっぱいで、ひどく気分が悪い。それでも、毅然と顔をあげてみなもは言う。
「この水の向こうです! この向こうに、木が……。この水が、吹く風が、あの木を育ててるんです! あれが、あの木に、飲み込まれて……」
水の下で見たもの、流れ込んできた意識を、みなもは懸命に伝えた。きっと、行方不明になった甚大の友人はあの木に取り込まれている。あの木が、すべての根源なのだ、と。
それを聞いたケーナズは無言でみなもの傍らから立ち上がる。眼鏡を、はずした。
「みなもくんを連れて、外へ向かいなさい。すぐにだ」
「ケーナズさん!?」
「私は大丈夫だ。すぐに彼を連れて追いつく」
「だけど」
なおも言い募ろうとしたシュラインを厳しい目で見つめ「だけどなどと言っている場合かね」と叱咤した。
「帰らねばならないだろう! キミだってそうなはずだ。待つものがいないのかね? いるんだろう」
凛としたケーナズの声が場を震わせ、水面が波立つ。
噴出す力が、目に見えて強まっているのが分った。それに反発したのか、緑色の水の中からずるりと節くれだった手が伸びる。――――先ほど、みなもを引き込んだ手。
思わず「ひっ」と息を呑むみなもを腕に抱えて、シュラインはそれでも迷う仕草を見せた。だが、すぐさま目に強い光を宿して奈杖を呼ぶ。
「はい!」
「背負ってあげて。――先に行きましょう」
「分りました!」
そうして自分も手伝ってみなもを立たせ、ケーナズを振り返る。
「……たくさん頼むわよ。ケーキ」
振り返った顔は、少しだけ泣きそうなように見えた。不安だった。それでも、すべきことを誤ったら皆助からないかもしれない。
小さく笑って、「覚えておこう」と呟いたその姿が掻き消える。三人は地上を目指して、注意深く、しかしできるだけ急いで狭い通路を上り始めた。
向こう側の岸にケーナズが降り立つと、そこにはみなもが言った通りに、木が洞窟を貫いていた。
下りてきた中でこの木が奉られたこの場所が一番開けていて、上はひどく広い空洞になっていたが、木はそれよりもさらに伸びているようだった。
――――大の大人が手を大の字に回しても抱ききれない幹。その幹に、太く編みこまれた注連縄が回されている。
巨大なそれは、ざわざわと不気味に枝を震わせ、どこか脈動しているようにも見えた。
――――狂い鳴け、千鳥 叫び、翔けよ わたしは……地獄の釜の蓋をあけたい
どす黒い思念だ。風は気を流すのではなく、この木に吹き込み、陰を貯める。そして、この水も恐らくは同じ役割を果たすのだろう。
鬼を呼び込み、陰の気を呼び込み。一体、何を望むのか。
その思考に気分が悪くなって、ケーナズは両手を見えない天に掲げる。その手に、赤々とした炎が灯った。――――パイロキネシス。それは、感情の発露と共に発動する。
「――――燃え尽きるがいい。最下の穴倉が見たくば、自分だけ堕ちればよいものを」
吐き捨てた言葉に、笑いを含んだ声が返って来る。
――――彼の者も燃すのかや
びちゃり。
耳障りな音をたてて、岸に異形が姿を現す。
「――――失せろ」
姿を晒した矮小なそれに、ケーナズは厳しい口調で言い放った。
かつては人だった姿。しわを刻んだ腕。節くれた手。落ち窪んだ眼窩に嵌(はま)る目玉はなく、そこはすでに空洞だった。空洞の向こうに赤い輝きがある。――狂気の色。すでに、人間ではない。
恐らく、この者がすべての根源であったのだろう。陰を貯める木が生えたのが先か、この男が狂気に取り付かれたのが先か。それは、わからないが。
男はケーナズの言葉が聞こえないかのように呟いた。
――――ぬしは 人を探してきたのだろう その者も燃すのかや ぬしが殺したことになろうに
ほうれ、とくぐもった声が笑って、黒ずんだ男の手が木の幹を指差した。
木の表面が不気味に鳴動し、蠢いて、そこには一人の青年が張りつけられた格好で現れる。ぐったりとしたその姿は、すでに死んでいるようにも見えた。
だが、男が続ける。
――――この者は溶けるのが遅い……
――――七日七晩もあればとうに腐れてこの禍木の餌になっておろうものを
――――遅い 遅い おかげで禍木が育たぬわ
「彼は、私が連れて帰る。この木の餌になど、なりはしない」
男の虚ろな光が、ケーナズを見やる。口元は引きあがっている。笑み。ひどく虚ろなそれ。見ているだけで気分が悪くなる。嫌悪を感じ、怒りにかられるのに――――哀れな。
何が、彼をああしたのか。生れ落ちたその時から、すでにそうした生まれだったのか。
あれほどまでに闇に近くなり、忌まわしくもみすぼらしい姿で、まだ生きている。守るべき命が、あんな形で生かされている。
――――見たくもなかった。
それで、ケーナズは腕にまとう炎を放った。まずは、上の枝ぶりに。続けて、その禍々しい幹に。
次いでジャケットの裏から護身用に常備しているサバイバルナイフを素早く取り出し、少年が捉えられている幹の間に切りつける。
何故か、硬い感触はなく、ナイフはぞぶり、と木にもぐりこんだ。血のようなどす黒いものが幹から吹き出し、垂れ流れる。
「―――――くっ」
顔に飛んだ液体を拭いもせずに、そのままナイフで拘束する枝を切り払い、黒い液体にまみれたその身体を無理矢理に引き剥がした。服はぼろぼろで、背の皮が爛れている。もうしばらく放っておけば、危なかった――。
そうしてケーナズが青年を木から引き剥がしている間、矮小なる男は動きもしなかった。
その行動を妨げようとも、口汚くののしろうとも。
何も、せず。ただ、にやにやと乾いた笑いを口元に浮かべて、落ち窪んだ眼窩の向こうの赤い光で、二人の様と、燃え広がっていく炎の紅い舌を見やって立ち尽くしていた。
その様を見ていたくなくて、ケーナズは少年を背負ったまま、さらに火を放つ。何度も、何度も。
両手から生まれたての軻遇(かぐ)を放ち、燃え広がり、落ちてくる火の子を見やって。
やがて、笑う男に背を向けた。
男の哄笑が炎に揺らいで、響き渡っていた。
――――禍木は燃えぬ けして けしてなぁ
燃え堕ちるその木の傍らで、いつまでもひび割れた男の声が立ち上っていた。
その光景を最後に、ケーナズはこの世で見た忌まわしい地獄から抜け出した……。
§
闇を、望んだ男がいた。
男は人に生まれながら、闇に憧れ、地獄とこの世をつなげようと考えていた。
――――すでに、どこかが狂っていたのやもしれない。
男はあらゆる手段を持って、忌まわしい事柄を集めだした。
陰気の溜まる水場を持つ洞窟を探し当て、そこに一つの木を植えた。何かの書物にそうした方法が記されていたのだと言う。
洞窟には陰気を持つ風を通し、木は、忌まわしい水を吸って育った。
屋敷には病がはやり、夜な夜な奇妙な鳥のような鳴き声が響き。家人は耐え切れず、何度も男を思いとどまらせようとした。この屋敷を捨てて、他に家を持とう、とも言った。
だが、男は聞き入れず、ただ笑うのみ。狂ったように笑っていた。
精神の医師にかけるべきでは、と相談していた家族も、やがて贄に使われた。
その身体のすべては地下の池に沈められ、狂った男の夢となって、無念とともに陰気を吐き出した。男は、やはり笑っていた。そうして、男は人でなくなり、人間としての存在をなくした。
新聞には、ほんの小さな記事で失踪した家族と、打ち捨てれた家の行く末について報じられた。
死体は見つからない。家はいつの間にか朽ち果てた。
年月を重ね、土地の所有者は移り変わっていった。
何故、今更あの屋敷が人を欲したのか。ねじくれた姿となって、姿を現したのか。
――――いいや、屋敷は以前と変わらずそこにあったのだ。ただ、見えなくなっていただけで、ずっと、そこに。
燃え尽きても、朽ち果てても、屋敷の存在は消えず、いつか、また人を呼ぶであろう。
男が意味を見出した忌まわしい何かに触れるたび。
――――人でなくなった時にも笑っていた男が望んでいたのは、そうした真の地獄であったから。
7 それぞれに、空を見て
不可思議な屋敷から戻って、数日がたった。
外出から帰ってきたシュライン・エマを見て、相変わらず眠そうな顔をした草間が「ああ、おかえり」と声を上げる。
が、欠伸と一緒になっていたのでいまいち何といったのか不明だった。
そんな言葉の解読にも慣れているシュラインは、普通に「ただいま」と告げる。
「どうだったんだ、その後は」
数日前の案件。奇妙な屋敷で行方不明になっていた少年は無事に見つけ出されたが、背中におびただしい火傷を負っていた。その為、精密検査の都合もあって都内の病院に入院していたのだ。シュラインは、その少年のその後の回復を確認する為に、見舞いがてら病院に足を運んできたところだった。
「概ね、元気ね。火傷の跡は少し残るでしょうけど、問題ない程度には治ると主治医の先生は言っていたそうよ。精神的なショックも今は和らいでいて……もう少ししたら退院できるんじゃないかしら」
本人はそろそろ退屈そうだったわ、と笑うシュラインに、そうか、そりゃ何よりだったな、と草間も微笑んだ。
「それにしても甚大のやつ……いつもいつも、ろくでもないことに巻き込まれるもんだな……」
そう言って肩を竦める草間は、よほど大事に吸っているのか、まだあのマルボロを吸っていた。零に聞いたところによると、何でも日に本数を決めて吸っているらしい。
そんなことをしないでも、煙草くらい好きに吸えば、と言ってやりたいが、この事務所の家計簿事情を知っているシュラインにそんなことが言えるわけもなかった。
だから、せめて、彼が好む豆から引いた珈琲を入れる。そうすれば、彼はきっとそう多くの人には見せないはにかんだような笑みで「ありがとう」と言ってくれるだろうから。
窓の外には、透けるように青い空が広がっている。
こうして、この空の下で、この人のところに戻ってこれて本当に良かった。
極上の笑みを浮かべて、そう思い、シュラインは珈琲を入れる為に給湯室に足を向ける。
草間がその笑みに驚き、見惚れてぽろり、と口に加えた煙草を取り落としたことには、気がつかないままに。
END
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
【1481/ケーナズ・ルクセンブルク/25/製薬会社研究員(諜報員) 】
【2284/西ノ浜・奈杖 /18/高校生・旅人 】
【1252/海原・みなも /13/中学生 】
【0086/シュライン・エマ /26/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【2863/蒼王・翼 /16/F1レーサー兼闇の狩人 】
(受注順)
NPC
【猫倉・甚大/19/古本屋店主見習い】
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■ ライター通信 ■
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毎度お世話になっております方。ならびに初めてお世話になりました方。
おばんです。ねこあです。この度は「和製ウィンチェスター後編」を発注いただきまして、真にありがとうございました。
前回に続いて納品シメキリ直前という納品。
平に。平に……(汗) 本当に長い間お待たせしてしまいまして申し訳ありません。しかもこんちくしょうな枚数でしてまたもや申し訳ありません。
前回の反省を活かして皆様一人一人に活躍していただき、それぞれの役割を担っていただこう、と頭を悩ませた結果こういった枚数と話に。
概ね初めにたてていたプロット通りですが、紆余曲折したを経た部分もありつつ。
こうして、皆様にお届けできたことにほっといたしました。(して当然ですが;)
皆様にご満足いただける形になっているかどうかは私には分らないところですが(前・後編合わせて長すぎるし)とてもいい経験になったことは確かであります。
これを糧に、また新しい話を書いていきたいと思っております。
今はただ、皆様に少しでも楽しんでいただければこれ以上ありがたいこともないかと^^;
書かせていただき、また、参加してくださり、真にありがとうございました!
それではまた、どこかで会えることを願いまして。
*シュライン・エマさま*
引き続きご発注ありがとうございます〜。
今回はこのような感じで終結いたしました。
シュラインさまにはいつも仕切っていただいてばかりで……^^;
話が進む、進む……。終わりは、やっぱり草間さんの隣だろう、ってことでこうした形に。
今回のメンバーではお姉さんのような役割として書かせていただきました。御気にさわらないといいのですが。
ゲームノベルの方も、まったりとプロットをたてております。今しばらくお時間をいただきますが、お待ちくださいませv
それでは、ありがとうございました。
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