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<東京怪談ノベル(シングル)>


幻紫痛

 もう痛みなど無い筈なのに、もう痛みなど感じない筈なのに、もう痛むものなど無い筈なのに。


 会社の昼休みは、働いている時間よりも随分早く経つように感じられてならない。
「だろ?俺も若い頃は全然ばりばりだったんだってば」
 くつくつと笑いながら、昼休みを楽しむサラリーマンたちが会社の一室に集っていた。手には缶コーヒー、机の上には煎餅やクッキー、そして灰皿。
「若い頃って、まだ若いじゃん?」
 そんな輪の中の一人、相澤・蓮(あいざわ れん)はそう言って苦笑した。笑うと茶色の髪が揺れる。
「だからさ、相澤。学生の頃だって」
「ああ、なるほど」
 同僚に言われ、蓮はぽんと手を打った。
「俺、学生の頃バスケ部だったからよ。モテモテだぜ?モテモテ!」
「なーにがモテモテだよ。俺だって、テニス部でー」
「モテモテ?」
「いや、そうでもない……」
 同僚の話に、皆が笑う。
「相澤は何の部だったんだ?もてただろう?」
 半分からかうかのように、同僚が蓮の肩をぽんと叩く。
(学生の、時)
 蓮は昔をそっと思い起こす。学生の頃、今ではない昔の事。
「ええと……ほら、俺モテモテはありえないんだってば」
「何でだよ?」
「俺、男子校だったし」
(そう、確かに俺は男子校だった。男だらけで)
「へぇ、意外だな!」
「そうそう。相澤だったら絶対に共学だと思ったんだけどさ」
「残念だよねぇ。俺も今思うとすっごい残念だし」
 くつくつと蓮は笑った。
「でさ、俺は水泳部だったわけよ」
 蓮はさらに付け加える。少しずつ少しずつ、記憶の糸を辿るかのように。
「なるほど。相澤にもそんな時代があったんだなー」
 同僚が笑い、同じように蓮も笑った。だが、蓮の顔は優れない。
(……霧、だ)
 もやもやとかかっている、霧のようだった。
(どうして)
 確かに、学生時代を生きてきた筈なのに、蓮にはそれがはるか昔の出来事のように思えて無からなかった。
(つい、この間のことのはずだろ?)
 蓮は思い出そうと、少しずつ必死になり始めた。同僚達は相変わらず昔の話を続けていた。学生の時は不思議な校則があっただとか、クラスに一人は変な奴がいたとか、弁当時間にこっそりと色んなものを持って来ていたとか。色々な出来事を学生時代に体験している同僚達の話を、蓮は複雑な気持ちで聞いていた。
 靄のかかったような記憶は、同僚達の学生時代の話に対して違和感しかもたらさなかった。他の同僚達は「そうそう」とか「だよな」とかいう同意が、返答のどこかしらに含んでいた。同意しないにしても「俺の所は」と違った一面を見せる時が、必ずあったのだ。
 だが、それが蓮には全くといっていい程無かった。
(同意も出来ないし、反対の事も出ない)
 蓮の背中を、冷たい汗がつう、と流れた。身に覚えの無い記憶だけが流れて行く。自分が男子校で、水泳部にいた事は確かなのに、それに実感というものがついて回らないのだ。ただ漠然と、そういった事実があるだけで。
(俺は、どういう学生生活を送っていたんだ?)
 蓮は口元だけで小さく笑った。学生生活、という言葉自体に変な違和感があったのだ。
(学生生活?何、それ)
 蓮は笑みを携えたまま、固まる。
(学生時代に送った生活の事。そういうのは、馬鹿でも分かるんだって。だから、そういうんじゃなくて)
 上手く言葉にできぬ、もどかしさ。
(例えばさ、こいつらみたいに思うわけよ。あの頃はこうだったなーってさ)
 思い出というものは、実際に自分が体験したものだ。だからこそ、実感というものが必ずついて回るのだ。だが、蓮にはそれが無い。
(それすらないってどういう事?俺だって、学生生活を送った筈だろ?)
 固まってしまった体で、何とか手だけは動かして手を組んだ。丁度皮肉めいた口元を隠すかのように。
(だって、変じゃん?俺だけ無いなんて……俺だけ自分のものじゃないみたいなんてさ)
 蓮は少しずつ焦り始め、必死で昔を思い出そうとする。談笑する同僚達の言葉すら、頭に入ってこないほど。
(なんだよ、こんなおぼろげな訳無いし……遠い昔のことでもないんだし)
 焦りは、徐々に形になって現れてきた。だんだん、頭痛がして来たのだ。最初は小さくじくじくと、そしてどくどくと。痛みが激しさを増す。
(何だよ……邪魔されてるみたいじゃんか!)
 蓮はかかっている靄を振り払うかのように頭を振り、それから立ち上がった。頭がずきずきと痛む。
「あ?どうしたんだ、相澤」
「ちょい、便所」
 声をかけた同僚に答え、蓮は早足でトイレに駆け込んだ。ばしゃばしゃと顔を洗い、ハンカチでふき取る。だが、冷たい水でさえ頭痛は取り除けなかった。蓮は大きく溜息をついた。
「なんだってんだ、全く……」
 鏡を見つめ、蓮は再び溜息をついた。
「昔の事を思い出そうとするといつもこうなるんだよな……」
 ずきずきと痛む、頭。
「この会社にくる前の一年間だって……真っ白だし」
 一年間の空白が、蓮にはある。全く思い出す事の出来ない、まっさらな一年。
「一体、どうなんてんだよ……俺の頭の中は!」
 ガン、と壁を叩きつける。じんじんと拳が痛みを訴えてくる。そう、このような痛みは確かに存在しているというのに、昔の記憶が存在していないかのようなのだ。
 蓮は鏡を見つめる。茶色の髪に、青みがかった銀色の目。いつもの蓮に相違ないのに、どこかで違和感を覚えてしまう。
「おい、相澤?」
 トイレのドアがノックされる。先ほど一緒に話していた同僚の一人だ。
「大丈夫か?何だか、具合悪そうだったけど……」
 蓮の答えを聞かず、同僚はドアを開けた。男同士なんだから、大丈夫だと踏んでの事だろう。
「ああ、大丈夫……」
 漸く蓮は入ってきた同僚に答える。そうして目を同僚に向けた瞬間、同僚の動きはぴたりと止まってしまった。
「お前……お前、その目……!」
「目?」
 蓮は不思議そうに首をかしげ、鏡を見る。だが、そこに写っているのはいつもの自分に相違ない。茶色の髪に、青みがかった銀色の目。
「お前……ひぃ!」
 同僚は一歩、後ろに下がった。
 蓮は知らない。蓮の目が、悲しみのせいで紫に変化しているという事を。何も知らない蓮は、恐怖を覚えている同僚に近付こうとする。が、それに到達する前に同僚の体はその場に崩れてしまった。
「お、おい!」
 蓮は慌てて同僚を抱き起こす。それと同時に、蓮の目の色も元に戻ったようだった。だが、同僚は失神したまま、動こうともしない。蓮は暫く考え、とりあえず同僚を背負った。トイレで失神したままにさせておく事は出来ないからだ。
「どうにか、頭痛も治まったみたいだし」
 蓮はそう呟き、よいしょ、と呟いて同僚を背負ったまま立ち上がった。そうして、何とか苦労しながら談笑している皆の元に戻った。
「どうしたんだ?……何、寝ちゃったのか?」
「さあ……何かいきなり倒れてさ」
 代わる代わる同僚が、失神した同僚を覗き込んだ。
「やっぱ、救急車とか呼んだほうがいいのかな?」
 一人がそう、呟いた瞬間だった。失神した同僚が「ううん」とうめきながら起き上がったのだ。
「お、おい。大丈夫か?」
 蓮が不安そうに尋ねると、同僚は「え?」と不思議そうに首を傾げた。
「お前、倒れたんだぜ?トイレで」
「え、そうなのか?」
「覚えていないのか?」
 蓮の問いに、同僚は頷いた。
「何も?」
「何も」
 こっくりと頷く同僚に、蓮はじっと同僚を見つめた。確かに、蓮の目がどうとか言っていた筈なのに、それを覚えていないというのだ。
「本当に、覚えていないのか?全然?これっぽっちも?」
「なんだよ、相澤。お前が何かしたのかよ?」
 苦笑しながら同僚が言った。蓮は「いや」と小さく呟き、苦笑した。
(確かに、こいつは怯えていたんだ)
 トイレで蓮を見て、一歩下がった同僚。
(俺を見て、怯えたんだ……)
 恐怖のあまり、失神するほど。それなのに、何もその時の事を覚えていないという。
「俺は……何者なんだ?」
 小さく蓮は呟いた。誰にも聞こえる事の無いほど、小さな声でそっと。勿論答えるものは無く、また問い直すものも無い。答えは愚か、ヒントすらない。
(俺は、一体……)
 蓮は小さく溜息をつき、頭を小さく振りかぶった。頭の中を覆う霧は、未だに晴れる事は無さそうだった。


 無い筈の痛みが、胸を刺す。それは暗にあると言っているようで、また再び痛み出すのを止める事すら叶わぬのだ。

<痛みは奥底で蠢き続け・了>