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絵画に塗り込められた闇
0.オープニング
「油絵の呪い?」
依頼人を前に、草間・武彦(くさま・たけひこ)はウンザリしたように溜息をついた。
「そうとしか思えないんです……ここ数ヶ月の間に、原因不明の失踪事件が立て続けに起こっているのはご存知でしょう?」
草間の向かいのソファに腰を下ろした若い娘が、出されたインスタント珈琲のカップに視線を落としたままで言葉を紡ぐ。
「あぁ、そんな事もあったな……」
事務所の机で居眠りしていた所を叩き起こされ、いまいちスッキリしない頭でそれらしい記憶を掘り起こそうとする草間。
確か、絵画コレクターが連続して行方不明になったという話を誰かに聞かされた気がする。一家揃って姿を消したケースもあれば、本人だけが失踪したケースもあり、警察では何らかの事件に巻き込まれた可能性も視野に入れての捜査を行っているとか――あれは、誰に聞いた話だったろう。それとも、何処かの喫茶店で読んだ新聞の記事であったか――
「祖父が……居なくなったんです」
取りとめも無くそんな事を考えていた草間を、娘の声が現実に引き戻す。
「祖母を失くしてからずっと一人暮らしで……昔から絵を集めるのを趣味にしてたんです。それがある日、面白い絵を手に入れたから見に来いと電話を寄こして……」
娘が見せられたそれは、キャンバスを赤黒く塗りつぶしてあるだけの物であったという。祖父の話によれば、その絵はさる高名な画家の最後の作品で、しかも未完成であるらしく、キャンバスの隅には僅かに白い部分が残りサインすら入ってはいなかった。
「その絵を、祖父は行方不明になった絵画コレクターの親族から譲り受けたと言っていました。それから半月後……満月の夜の電話を最後に、祖父は消えてしまったんです。それで……ちょっと気になる事があって」
最後の会話となったその電話で、祖父は『あの絵が恐ろしい』と語ったのだという。常にない祖父の様子が気になり、翌朝になって祖父の住む家を訪れた彼女は、誰かが争ったように物が散乱した部屋で、再び件の絵を見たのだが――
「塗り残してあった空白の部分が、ほんの少し小さくなっていたような気がするんです。もしかしたら気のせいかも知れないんですけど……」
そう言って、娘は現金の入った封筒と小さな鍵、2つに折りたたまれたメモ用紙をテーブルに置いた。
「祖父の家の鍵です。何もかも、そのままにしてあります……祖父に何が起こったのか、どうか調べてください」
お願いしますと頭を下げる娘を前に、草間は再び溜息をつく。
――次の満月は、もう数日後に迫っていた。
1.草間興信所にて
「呪いと言うより、亡くなった画家の執念でしょうね。そうまでして完成させたい絵なんでしょうけど……迷惑ですね」
「まったくだ。芸術家とかいう連中の頭の中身は、俺には理解できんよ」
事務所を訪れた綾和泉・汐耶(あやいずみ・せきや)を前に、事情の説明を終えた草間が肩をすくめる。
「なんか数年前に読んだ漫画に似たような話があったかも……?」
バイトを探しに来ていて、偶然その話を耳にした海原・みなも (うなばら・みなも)が、二人の前に珈琲を満たしたカップを置きながら口を挟む。
「漫画?」
訝し気な視線を向けてきた草間に、記憶を辿りながら内容を話すみなも。
「お父さんが持ってたんだけど、なんかお姉様向きな話が多かったんですよね。確か、画家が永遠に生きる為に、自分の血肉を絵の具と共に画に塗っていき、最後は頭と利き腕のみ弟子に任せて描かせたけど、絵の具が足りず白い部分が残って、それを埋める為に画から腕が出てきて、持ち主を塗りこんでいく……そんな話だったと思うんですけど」
「いかにも漫画だな。頭と利き腕だけになって、普通の人間が生きていられる訳も無い」
短くなった煙草の火を灰皿の縁でもみ消し、珈琲カップに手を伸ばす草間。
「ですよね。でも、状況があまりにも似ていると思いませんか? 私、なんだか気になって……」
山盛りになった灰皿を新しい物と交換しながら、みなもは「先入観に偏るのは危険ですど」と言葉を続ける。
「どのみち、その画家の弟子だった人物には話を聞いておくべきでしょうね。アトリエのほうにまだ居るのかしら」
草間から受け取ったメモの紙片に目を通しつつ、汐耶が現実的な事を口にする。
「その辺の事はまだ何も調べていないんだ。……とにかく、仕事は仕事だからな。悪いが引き受けてくれないか? 俺はこの後、別な依頼人に会う予定があるんでね」
空になった煙草の箱を握りつぶし、草間は「あと何人か連絡を取ってみるか……」と一人ごちながら、最後の煙草に火をつけた。
2.事前調査
「えっと、その絵を描いた人の名前ってなんて言いましたっけ」
インターネットで情報を入手すべくパソコンの電源を入れ、みなもが草間のほうへと振り向く。
「あぁ……えぇと」
「……海部・智成(かいべ・ともなり)」
事務所机の上に積み上げられた紙の束に紛れてしまった依頼人のメモを探し、周囲に書類を散らかしている草間に代わり、セレスティ・カーニンガム(せれすてぃ・かーにんがむ)がソファから答えた。
「海部智成……主に静物画を描いていた画家ですよ。日本ではあまり知られていませんが、海外ではそれなりの評判を得ていたようです。ヨーロッパにおいて、芸術家はオリジナリティをこそ重要視され、要求される……この人は、そう言った意味でも珍しい日本人だといえるでしょう」
日本人は猿マネがうまいと言われる事がよくある。芸術に限って言えば、その根底には日本の『芸』に対する価値観が関わっているのだろう。例えば『何代目○○』という襲名の仕方があるが、これは明らかに『芸』の踏襲であり、個人としてのオリジナリティとは程遠い。
美と伝統を継承する事自体が悪いと言う訳ではない。受け継がれた芸術は洗練の度合いを増してそれに触れる者を魅了するし、そうやって受け継がれたものの中にこそ悠久の美を見出す者も確かに存在する。
だが、それは日本という小さな島国独自の考え方であると言っても良い。とある外国人の画商は『絵を買うことは、作家のオリジナリティを買うことだ』と言い切る。すなわち、彼等は芸術とはオリジナリティそのものであるという考え方をするのだ。
世界的に通用する日本人画家がなかなか登場しないのは、この辺の感覚や価値観の違いを因とするものなのかも知れない。
「セレスティさん、詳しいんですね」
「いえ、草間さんの話に出てきた名前に聞き覚えがありまして。私の所に出入りしていた美術商がそんな話をしていたのを思い出したんです。もっとも、それ以上の事は知りませんが」
感心したように自分を見つめる少女に、セレスティが淡い笑みを浮かべてみせる。
存在自体が繊細な美術品であるかのような彼に笑顔を向けられ、みなもは頬が熱くなるのを感じた。朱に染まった頬を隠す為にパソコンへと向き直る。妹から時折彼の話を聞いてはいたのだが――
流れる視界の端を、未だメモを探している草間の姿がかすめた。その慌てぶりは少女の笑みを誘い、彼女の緊張を幾分か和らげる効果があったようだ。
「海…部……智成……と」
白く長い指が、軽やかにキーボードの上で踊る。ヒットした情報の中から美術関係のものだけを検索し、順に目を通していく。
「ざっと目を通しただけだけど……彼のプロフィールを掲載してるサイトがいくつかありました。でも、経歴なんかには特に不審な点はなさそうですね。亡くなったのは約一年前。死因は自殺……理由はどこにも載ってないです。紹介されている絵は花や子供の玩具を題材にした物がほとんどで、肖像画は一枚もないみたい」
キーボードから手を離して椅子の背もたれに寄りかかったみなもが、お手上げだというように溜息をつく。
「ネット上には、その最後の作品についての情報は無さそう……やっぱり、未完成品だからなんでしょうか」
「そうですか。せめて作品の描かれた時期とテーマだけでも判ればと思ったんですが……やはりお弟子さんに直接お話を伺ったほうが良さそうですね。私はこれからアトリエの方に向かいますが、宜しければ一緒に如何ですか?」
「いいんですか? それじゃお言葉に甘えて……」
パソコンの電源を落とし、出かける支度を始めたみなもの姿を、目ではなく気配で追いながら、セレスティは杖を手にゆっくりと立ち上がった。
画家自身の過去になんら不審な点がないのであれば、彼に近しい人間についても調査する必要があるかも知れない――そんな事を考えながら。
3.アトリエ前
郊外に建てられた小さな家。
依頼人のメモの住所を書き写した汐耶は、彼女の職場でもある都立図書館に立ち寄って地図のコピーを手に入れた後、海部がアトリエ兼住まいとして使用していた建物の前までやって来ていた。
「……ここね」
メモの写しと表札を見比べる。前庭に植えられている伸び放題の植木のお陰で、玄関先の様子はここからは見えない。
汐耶が事前に調べた所によると、海部の弟子は斉藤(さいとう)といい、住み込みという形で海部と生活を共にしていたらしい。だとすれば、生前の海部の人柄や亡くなった時の状況を尋ねるのにこれ以上の人物は居ないだろう。
そう思い、早速取材と言う名目で連絡を取ろうとしたのだが――
名前とアトリエの住所から調べ上げた海部の電話番号は既に解約されており、予め会う約束を取り付ける事が出来なかったのだ。
仕方無くこうして直接訪ねて来た訳なのだが、敷地内に足を踏み入れようとした汐耶は、銀縁眼鏡の奥で僅かに眉をひそめた。
目の前の建物は無人になって久しいのではないだろうか。こうして間近に見ても、何の気配も感じない。
留守だからという訳ではない。仮に住人が数日間家を空けていたとしても、その建物の周囲には独特の『気配』や『匂い』というものが感覚として残っているものだ。しかし、今彼女が目にしている小さな家にはそれらが微塵も感じられない。まるで随分前から無人のまま放置されていたかのように。
「どういう事かしら……」
汐耶は訝りながらも敷地内に足を踏み入れた。玄関先まで敷き詰められている玉砂利が、靴の下で小さな音を立てる。
玄関先には枯葉が溜まり、周囲の庭木にも手入れがされている様子はない。砂だらけの軒下。並べられている枯れた植木鉢。その向こう側で、ふと彼女の目をひいた赤い色彩。
(……子供の自転車……?)
「あの……草間興信所の方ですか?」
そちらに足を踏み出しかけた時、玉砂利を踏む音と共に若い男の声がした。
「えぇ……そうですけど」
足音は二人分。声の主を探して移動した彼女の視界に、先程の声の主であろう若い男と、スーツ姿の壮年の男が映る。
「先程、探偵の草間さんと言う人から連絡があって……僕が斉藤です」
二十代前半であろうと思われるその男は、海部の弟子の苗字を名乗り、深々と頭を下げた。
「……綾和泉です」
軽い会釈を返す汐耶の口元を、微かな笑みが飾った。何だかんだと言いながらも、草間が根回しをしてくれたらしい。
「このアトリエは、今は不動産屋が管理してるんです。鍵を持ってきて貰いましたから、中をご覧になりたいんでしたらどうぞ。他の人達も何人かこっちに向かってるって、電話で言ってましたから……多分そろそろ到着するでしょうし」
隣に控えていたスーツ姿の男が汐耶に目礼し、ポケットから出した鍵を手に玄関へと向かう。不動産屋に道をあけた汐耶の耳に、遠くから車が接近してくる音が微かに届いていた。
4.赤黒い闇
「ふぅん。これが有名な画家さんの絵? ただべったりと赤黒いだけなのに、どうして皆こんなの欲しがるのかな」
壁に掛けられた額縁をしげしげと眺め、七伏・つかさ(ななふせ・つかさ)が遠慮のない事を口にした。もっとも、部屋の中には彼女と夏比古・雪之丞(なつひこ・ゆきのじょう)の二人しか居ない。とりあえず、何を言っても文句を言われる事だけは無さそうであった。
「さぁな。だが、有名な画家の最後の作品ともなれば、それだけで欲しがる奴も居るだろう……作品の中身がどんな物であってもな」
突き放したような物言いをする雪之丞は、どうやら目の前の絵画に美術的価値を見出せなかったようだ。だが無理もない。おそらく40号程度だと思われるキャンバスの殆どを占めているのは平坦に塗られた赤黒い色彩だけであったし、右下のほうに残された空白の部分には、下塗りすらされていないようであった。
「……血だな。どうやらそれだけと言う訳でも無さそうだが」
雪之丞の動物的嗅覚は、目の前の絵が放つ微かに鉄臭い血の匂いを感じ取っていた。
「そうだね。表面が微妙にざらついてるし、砂か何か……細かい物を一緒に塗りこめたって感じかも」
絵の表面を指先で撫でながら、つかさが言う。もし持ち主がその場に居合わせたなら、即座につまみ出されそうな行動だ。だが、雪之丞はそれを咎めようとしなかった。つかさがクマさんリュックから取り出した、小さなナイフに気を取られていたからだ。
「何をするつもりだ?」
「え? うん……ちょっと表面を削ってみようかなと思って。この下に何が描いてあるのか気になるし。何か事件の手掛かりが見つかったらラッキーでしょ?」
「持ち主の許可も得ずに削るというのは感心できんな」
「あぁ、それなら心配ないよ」
割って入った第三者の声に、二人が部屋の入り口を見やる。そこには開いたドアに手をついて寄りかかる、金髪の青年――ティエン・レインハート(てぃえん・れいんはーと)の姿があった。
「草間さんから依頼を受けた人達だよね? 俺はティエン、今回一緒に動く事になるみたいだし、まぁ宜しく」
軽い口調で自己紹介などしつつ歩み寄るティエンに、二人がそれぞれの口調で名乗った後。
「で、心配ないというのはどういう意味だ?」
問うたのは雪之丞。つかさは手にしたナイフを弄びながら、彼等の様子を眺めている。
「ここに来る前に依頼人に会ってきたんだ。それで手掛かりが得られるなら、絵や家の中の多少の破損には目をつぶってくれるってさ」
キャンバスの空白部分に顔を近づけたティエンは、雪之丞の方を振り向こうともしない。それがマイペースな性格故の行動なのか、同性に対する感心が薄い為なのかは判然としないが。
塗り残しの空白の部分が少なくなったと言う事は、この絵画に何かがされたのではないかとの彼の予想に反し、その部分に後から色を追加したような形跡はなかった。塗られている赤黒い色彩は均一だし、仮に同じ色で空白の部分を埋めたのだとしたら、新たに塗られた部分との境目がはっきりしている筈なのだが。
不自然なまでに均一に塗られた色彩。キャンバスから漂う微かな血臭。絵を手に入れた後、満月の夜に姿を消す絵画コレクター達。
もし空白の部分が小さくなっていると言う依頼人の話が事実であるなら――
「……何をどう考えても、この絵画しか犯人はいないと思うんだけどね」
「やはり、失踪した人間の魂……あるいは本人がキャンバスに取り込まれていると考えるのが一番妥当だろうな」
立ち上がって振り向いたティエンが肩を竦め、雪之丞がそれに同意する。つかさやティエンが手を触れ、あるいは表面の血を削っても、額の中の絵は沈黙を守ったまま何ら変化を起こさない。つかさがナイフの背で削り落とした表面部分には、微かに何かをデッサンした形跡があったが、キャンバスの布地そのものにも血液が染み込んでしまっていた為、何が描いてあるのかを確認するまでには至らなかった。
「もうちょっと何か判ると思ったんだけど……つまんないの」
口を尖らせて不平を漏らすつかさの頭を軽く撫で、ティエンは改めて室内を見回す。
「どうやら満月にならないと正体を現さないみたいだね。さて、アトリエの方はどうなってるかな……」
5.画家の肖像
「海部さんという方は、何故自殺されたんですか?」
汐耶と合流したみなもは、先に立ってアトリエを案内する青年にそう尋ねた。ネットでの検索以外に、件の絵を扱った画商にも電話で問い合わせてはみたのだが、そのあたりの事については何ら情報を得らぬままここまでやって来てしまった。しかし、彼の弟子であったと言うこの青年ならば何か知っているのではないか。みなもはそう考えたのである。
彼等が何故アトリエを訪れ、海部についての調査を行う事になったのか。それについては既に汐耶が事情を説明していた。不動産屋の男には調査が済むまで外で待つように頼んである。今建物の中に居るのは、彼女とみなも、セレスティ、そして斉藤という青年だけだ。
「彼が最後に描いていたという絵は、何をテーマに描かれた物だったのでしょう。完成していない作品がコレクターの手に渡ったいきさつなども聞かせて頂きたいのですが」
みなもの隣に立つセレスティも同じように尋ねる。いくら高名な画家の作品であったとしても、未完成の絵が売買されるというのは稀だ。
「あの絵の題名は『最愛の娘』……先生が描いた、最初で最後の肖像画なんです」
青年は、ぽつぽつと言葉を紡いでいく。
海部という画家には8歳の娘がいた。彼の妻は五年前に他界。それ以降、海部は弟子である斉藤を下宿させ、娘と三人での生活を営むようになった。
海部は幼い娘を可愛がり、母親の居ない寂しさを感じることが無いようにと、常に気を配っていた。娘の方も父親によく懐き、斉藤の目から見ても、これほど仲睦まじい親子は他にないであろうと思われた。
件の絵を描くきっかけとなったのは誕生日であった。九回目の誕生日を三週間後に控えたある日、娘はプレゼントに自分の絵を描いて欲しいと父親に頼んだのだ。
当日に間に合うか判らないからと海部は渋るが、結局は娘の願いを聞き入れてデッサンを始める。
やがて、それは起こった。
小学校から下校途中の娘が交通事故で死亡したのである。
加害者はそのまま逃走。現場が人通りの少ない場所であった為、その場で救急車を呼んでいれば助かったであろう娘の命は、多量の出血と共に失われた。後日逮捕された加害者は当時泥酔しており、飲酒運転の発覚を恐れての逃亡であった。
悲嘆に暮れた海部は、葬儀の翌日に手首を切って自殺。斉藤が発見した時、彼は血で染まった絵筆を握り締め、傍らには娘の遺骨を収めていたはずの骨壷が、空っぽの状態で転がっており。
そして――アトリエには血染めのキャンバスだけが残された。
「……そうだったの」
軒下に立てかけられていた小さな赤い自転車を思い出し、汐耶が小さく頷く。
かつてアトリエとして使用されていた部屋は、床に薄く埃が積もっているだけでイーゼルすら無くなっていた。もっとも、それはアトリエに限った事ではなかったが。
海部の死後、親戚の手から不動産屋に渡ったこの家は、駐車場を作る為に間もなく取り壊されるのだという。
「先生が亡くなった後、私もすぐに実家の方に戻る事になりまして。家の中の家具や調度品などの処分は、不動産屋さんが親戚の方から一任されたそうです。多分、絵もその時に……」
「ふむ……ならば不動産屋から手配された処分業者の方が、海部氏の絵と言う事で何処かの画商に売り込んだのかもしれませんね」
コツリ、と小さく杖の音を立て、セレスティが呟いた。処分を任せられた業者からリサイクル業者へと家具類が流通するのはままある事だ。恐らくは絵もそれと同じように画商の手に渡り、コレクター達の間へと流通していったのだろう。
「確かに、可能性として十分に考えられるわね。……他に、絵について何か気付いた事は?」
セレスティに同意した汐耶が青年に問うたが、彼は首を横に振り、それ以上のことは何も知らないと答え、最後にこう付け加えた。
「もし本当に先生の怨念や妄執があの絵に憑りついているのなら……解放してあげて下さい。先生はお嬢さん想いのとても優しい方でした。僕には先生が安らかに眠れるように祈る事しか出来ない……せめてあなた方の手で、先生をお嬢さんの元へ行かせてあげて下さい」
玄関先で深々と頭を下げる青年に礼を言い、三人はアトリエを後にする。入手できる情報は全て手に入れた。後は二日後に迫った満月を待つだけだ。
6.満月の夜
開け放たれたサッシから差し込む月の光が、室内の夜を四角に切り取っている。フローリングに降り積もった青白い光は、カーテンを揺らす風と共に細やかな欠片となって舞い上がり、室内に佇む六つの人影を浮き上がらせていた。
彼等の周囲には何も無い。これあるを想定し、室内からは応接セット、サイドボード、部屋の隅に飾られていた観葉植物に至るまでがティエンと雪之丞の手によって運び出されている。家具の無い室内では、六人という人数も然程手狭には感じられなかった。
室内に照明すら灯さぬまま、六対の青い瞳はこの部屋に唯一残された物――壁に掛けられた一枚の絵に向けられていた。つかさによって削り落とされた中央部分の色が微妙に薄く、右下に空白の部分がある事を除けば、それは額縁に入れられた黒い板のようにしか見えない。
「そろそろ真夜中ですね。いつ動きがあってもおかしくないと思いますよ」
月明かりを腕時計に受けて時刻を時刻を確認し、セレスティが皆に告げる。日付が変わるまで、あと二分。
何かがおかしい、銀縁の伊達眼鏡を外した汐耶は、わずかに眉をひそめていた。
(失踪した方々は、恐らくは絵に塗りこめられた筈。『封印』されたと解釈できるのに……『封印』自体を感じられないなんて)
何かを見落としているのだろうか。胸の内にかすかな苛立ちを感じつつも、今はただ『絵』が『動く』のを待つしかない。
みなもは用意してきたペットボトルの蓋を開け、その瞬間に備えていた。中には霊水が詰められている。
「行方不明の人って、何人だっけ」
「さぁ? 確か七人だって草間さんは言ってたと思うけど」
「ふぅん、七人か……」
ティエンと短い会話を交わし、つかさは(ボクの影と同じ数だね)と自分の足元を見やった。サッシの傍に立つ彼女の影は、ほぼ真上から差し込んでくる月光によってフローリングにくっきりと輪郭を刻んでいる。
そして。
隣の部屋の古い掛け時計が十二時の刻を告げた瞬間、『それ』は動いた。
じゅびゅっ!
キャンバスの表面に波紋のようなさざ波が浮かび上がったかと思うと、不意に黒い槍状のものが伸び、待ち受ける人影のひとつを貫こうとしたのだ。
「セレスティさん、危ない!」
とっさに身動きの取れないセレスティの前に、みなもが飛び込んだ。
次の瞬間、黒い槍が彼女の体に到達し、水が蒸発するかのような音を立てて先端部分が消失する。
「みなもさんっ!?」
衝撃を相殺しきれずに僅かに足元をふらつかせたみなもは、驚きの声をあげるセレスティに大丈夫だというように手を振って見せる。
彼女が手にしていたペットボトルの霊水は、半分ほどに減っていた。隠し能力である『水の羽衣』――水を超極薄高密度で体に纏うことにより防御力をあげるそれが発動したのだ。
「……出てきたよっ!」
つかさの声が全員に注意を促す。
『それ』は初め、キャンバス上にタールで描かれた巨大な顔のようにも見えた。やがて『それ』は急激に質量を増し、ずるり、と床にわだかまる。
「……これは……」
冷静さを常とする汐耶が、そう呟いたきり絶句した。キャンバスから抜け出た『それ』は、部屋の三分の一を占めるほどの大きさを成し、表面には幾つもの人間の顔を浮かび上がらせていた。
顔の数は七つ。眠ってでもいるかのように、皆一様に瞼を閉じている。巨大な肉塊の中央には、剥き出しの巨大な眼球がひとつ。
ぎょろり、と室内を見渡した眼球が大きく震えた。次の瞬間、顔のひとつが口を開き、雪之状に襲い掛かる。
雪之丞は野生の動物を髣髴とさせるような身のこなしでそれを回避した。獲物を捕らえ損ねた顔が更に彼を追う。
銀髪の青年が相手を引き付けている隙に、仲間達は中庭へと出た。相手があの大きさでは、室内に留まればすぐに追い詰められてしまう。
回避しつつ、指のリングを二本抜き取り、瞬時に弓と矢を形成した雪之丞は、中庭に飛び退りながら初めて攻撃に転じた。
至近距離から放たれた銀の矢は、彼を捉え損ねた顔を見事に床に縫いつけた。のたうつそれを見やり、ティエンが叫ぶ。
「天空より来たれ、神翼よ!!」
頭上に、白く眩しい光が生まれた。純白の輝きは、そのまま6枚の翼を持つ鳥の姿になる。ティエンの手には、いつの間にか細身の剣が握られていた。月光を集めて作り上げたが如き、透き通った刀身を持つ剣が。
光剣を手に、神翼を従えたティエンが駆け、仲間達の視界に白い光が一閃した。本体から切断された顔が初めて目を見開き、苦悶の絶叫を上げる。
「本体から『分離』されて、『封印』に変化した?」
汐耶が無意識に呟いた言葉に反応したのは、以前からの知り合いでもあり、彼女に最も近い位置に立っていたセレスティであった。
「どういう事です?」
答える前に、縫い付けられた首に向かって手をかざす。次の瞬間、ザァッと音さえ立てて首が崩れ落ち、中から一人の人間が姿を現す。
「やっぱり、そうなのね……『あれ』は、絵の表面に張り付いていた海部の妄執なのよ。そして、彼は絵を完成させる為に自分を手に入れたコレクターを『同化』させた……多分、本体に張り付いている顔のひとつひとつが、失踪した人達の今の姿なんだわ」
体の一部を切り裂かれてなお、部屋の奥で蠢く肉塊を見据えながら、汐耶が説明を続ける。
相手の意識を奪った肉塊は、相手を融合する事で自分を成長させていた。それが引き剥がされ、分断された事により、融合された者に己が身を束縛する者に対する無意識の抵抗が生まれ、『同化』を『封印』に変質させたのだ。
「つまり、気持ち悪いあの塊から、失踪した人を助ける手段が見つかったって事?」
気を失っている人物を、影を総動員して庭の端まで引きずってきたつかさが聞いた。
「えぇ。あの表面に張り付いている顔を本体から切り離す事が出来れば、私が『封印』を解放できる」
残る問題は、此方を警戒したのか肉塊が顔を伸ばして攻撃してこない事だけだ。
「おっけー。なら、ボクに任せてよ」
にっと笑って見せたつかさは、そのまま自分の影達に命じた。
「蘭はさっきのオジサンの見張り。残りの皆は、気持ち悪いアレから顔を引き剥がしてきて!」
少女の足元から狼の姿を模した影達が湧き出し、命を果すべく動きだす。青白い光に満たされた中庭を音もなく駆ける狼達は、一体を除いて室内に飛び込んでいく。
室内にわだかまる肉塊が大きく震えた。六対の狼達がその影と同化し、肉塊の動きを封じたのである。
そしてさしたる間も置かず、肉塊の外見が変容を始める。己の意思によらず、その体を影に操られた肉塊が、中庭へと顔に当たる部分を伸ばし始めたのだ。
「みなもさん、ペットボトルに残っている水を貸していただけませんか」
差し出された霊水を受け取ったセレスティが、それを宙に撒く。月光を反射して広がった霊水は、そのまま鋭利な刃と化して空を裂き、顔を肉塊の根元付近から切り離す。
「もういいよ。戻っておいで!」
つかさの声に反応した狼が影から離れ、汐耶が解放されてのた打ち回る首を『封印』から解放する。
「……これで終わりだ。あるべき姿に還るがいい」
冷徹に呟いた雪之丞の放つ銀の矢が、逸れる事無く巨大な眼球を貫いた。次の瞬間、肉塊は動きを止めて硬直し、砂のように崩れ去る。
静寂を取り戻した中庭には、気を失ったまま地に伏した七つの人影と無言のまま肉塊の最期を見届けた六人の姿だけがあった。
パチパチと音を立てて爆ぜる炎の中に、一枚のキャンバスが投げ込まれる。
画家の妄執から解放された白いキャンバスには、一人の少女のデッサンが描かれていた。あどけない笑みを浮かべている少女の姿は、彼女を描こうとした一人の画家の父親としての愛情を容易に想像させるものであった。
「海部さんは……せめて絵の中だけででも、娘さんと一緒に居たかったのかもしれませんね。自分の血と娘さんの遺骨とを絵に塗りこめる事で、その願いを叶えようとしたのかも……」
焼け崩れていくキャンバスを見つめながら、みなもがそう言葉を紡ぐ。中庭に踊る火影を見つめる仲間達は、何も応えなかった。だが、それは恐らく、誰もが等しく感じた事に違いない。みなもはそう思った。
一組の親子を弔うかのように、炎はキャンバスを焼き尽くしていく。
遠くから、つかさが呼んだ救急車のサイレンの音が近づいてきていた。
・Fin・
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【1252/海原・みなも/13歳/中学生】
【1449/綾和泉・汐耶/女/23歳/都立図書館司書】
【1883/セレスティ・カーニンガム/725歳/財閥総帥・占い師・水霊使い】
【2398/ティエン・レイハート/18歳/ソードマスター】
【2678/七伏・つかさ/27歳/交渉人】
【1686/夏比古・雪之丞/627歳/白狐asアクセサリデザイナー】
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■ ライター通信 ■
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左京です。少々長くなってしまいましたが、私自身、とても楽しく書かせて頂きました。
『1』の部分は、何人か重複している方もいらっしゃいますが、個別に物語への導入を書かせて頂きました。汐耶さんの持つ『色』を、少しでも引き出す事が出来ましたでしょうか?
今回は依頼にご参加いただき、誠にありがとうございました。またいつかお目に留まりました際には宜しくお願いいたします。
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