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Piano bar
「うわぁ」
待ち合わせのホテルに一歩足を踏み入れた時、彼女は思わず呟いた。
その声に驚いたように付近の客達が、こちらを振り返る。
「……!」
チェリーナ・ライスフェルドは、頬を思わず赤く染め、ホテルの玄関から急いでロビーを隅々まで眺めた。
17歳の活発そうなショートヘアの金髪碧眼の少女である。スポーツで鍛えたしなやかな筋肉のついた長い手足は、その年代の少女特有の美しさをかもし出している。
美少女というよりはハンサムガールといった方が近いかもしれない。
彼女に注目が集まったのは、彼女の素直なこのホテルに対する驚きの声だけではなく、まるで一羽の美しい野生の生き物が、都会の町から迷い出たのを見つけたような新鮮な感激を回りの方が受けたのかもしれなかった。
けれど、こんな一流ホテルなど足を踏み入れるのも初めてな彼女には、その広いロビーに置かれた椅子やテーブル、壁掛けの絵画、さらにはじゅうたんの柔らかさまで含めて、その豪華さに圧倒されていた。
「ほんとにここでよかったんだよねぇ……」
すごいとこ知ってるな、彼女。などと心の中で呟きながら、チェリーナはようやくロビーの隅にある小さな喫茶店『Piano var』を発見して、大きく息を吸い込んだ。
「あそこね……」
本当にあった。
このホテルで間違いでなかった。
それだけでもかなりほっとしてしまう。
カラン、カラン。
銅で出来た鐘の、独特の音を響かせて開く、樫の木の扉。
珈琲豆の上品な香りがすぐに鼻をくすぐった。
そして店内にはとても静かな曲が流れている。けれど、有線とはどこか違う響きに彼女の視線は自然とそちらの方に流れていった。
(あ、ピアノ……?)
喫茶店の中央に一台の大きなグランドピアノが置いてあり、一人の青年がそこで生演奏を披露しているのがみえた。
(すごい……。生演奏つきの喫茶店なんて!)
客たちは誰もピアノの方向を向いていない。
けれど楽しげにそれぞれのテーブルの談話を楽しみながら、自然とピアノの演奏にも聞き入っているのがわかる。
曲の盛り上がる部分では自然に話が止まってしまう。リズミカルな部分だと、無意識に指がテーブルの上でテンポを刻む。
(素敵〜)
チェリーナは感激してしまった。
それにこの音色。なんて素敵なんだろう。
聞いたことのない曲だけど、心を誘う魅力をもっている。繊細で美しい音の流れ。
クラシックの知識はないけれど、この人はきっと上手い人なんだ! チェリーナは確信した。
「お客さん、おひとりかい?」
喫茶店のマスターが、店に入るなり硬直している彼女に笑って声をかけた。
「あ、あとで、もう一人来ますっ!」
チェリーナはまたもや頬を染めて、ピアノのよく見える席を選んで腰かけた。
ピアノの奏者は、とても綺麗な顔をした黒髪の青年だった。
肌の色が透けるように白く、ナイーブそうに見える。
熱心にピアノに集中している姿がより一層、彼を魅力的にさせていた。
「……あっ」
ふと、音が途切れる。
聞き入っていたチェリーナの瞳がぱちりと開いた。
喫茶店の客達がパラパラと拍手を鳴らしている。どうやら曲が終わったところらしかった。
「……」
ピアノの上においてあいたハンカチで頬を撫で、小さく微笑む青年。
チェリーナはまるで引き寄せられるように立ち上がっていた。
「あの……」
ピアノに近づき、チェリーナは彼に声をかけてみることにした。
「なんでしょう?」
近づくと、目鼻立ちの整ったハンサムで、落ち着きのある雰囲気を持つ青年であることがわかった。
「あの……なんていうか、私、音楽の用語とかよくわからないのですけど……、今の演奏……本当によかったです!」
「それはありがとう」
青年は目を細め、チェリーナを見つめた。
けれど、その表情が一瞬「ん?」と固まる。
「君とどこかであった気がしますね」
「私とですか?」
「ええ……そうだ」
彼は瞳を一瞬子供みたいに瞳を輝かせて、チェリーナに笑いかけた。
「こないだ……従姉妹の学校に行った時に、アーチェリーをしてませんでしたか?」
桜の花びらに吹かれながらその奥で、熱心に練習をしていた少女。
彼には何故か忘れられない美しい光景のひとつとなっていた。
「えっ」
いわれたチェリーナの方はびっくりだ。
確かにこないだ洋弓部の手伝いはさせてもらっていた。
人数が少ないから、助太刀お願い!と言われて、断りきれなくて参加した春休みの部活の練習。
楽しくてあっというまに熱中してしまったのだけど。
「お会いできるとは思っていませんでした。素敵な感想ありがとう」
青年が微笑む。
今演奏したこの曲は、君のその姿を見て作り上げたものなんだ、とはやはり少し言いづらい。
小さく見えないような苦笑を浮かべた彼に、今度は意外なチェリーナの声が降って来た。
「私も……あの……」
「?」
「あなたに逢ったことがある気がします……」
「えっ?」
それは草間興信所の側を歩いているときだった。
木の枝の上から降りれなくなっていた子猫を彼は一生懸命助けていたのだった。
なんて優しい人なんだろう。
その時はそう思った。
「……う。見られていたのですね」
その話をすると青年はちょっと頬を染めた。
「でも素敵な人だなって思いました……」
「それはうれしいけど……」
しばしの間が開く。
見詰め合ったままのふたりは、なんとなくお互い頬を染めて、視線をそらしあった。
カラン、カラン……。
新たな客が喫茶店を訪れたようだ。
チェリーナが振り返ると、「遅れてごめんー」と、彼女の待っていた友人が手を合わせて玄関で謝っている。
「もうっ」
チェリーナは小さく微笑んで、ピアノの青年に一礼するとそこを出てゆこうとした。
刹那。少し惜しくなって、もう一度戻ってくる。
「あの……もしよかったらお名前聞いてもいいですか?」
「……葛城 樹(かつらぎ・しげる)と申します。あなたは?」
「チェリーナ・ライスフィルドです」
素直に言葉が飛び出す。それが自分でもうれしかった。
「葛城 樹さんかぁ……」
帰り道、彼女は今日で4回目くらいにその名前を口にした。
忘れないようにしようっと。
あの喫茶店に行けばまた逢えるだろうか。何故か胸の中が少しどきどきするのは気のせいだろうか。
「素敵な人だったなぁ……」
チェリーナはそう呟いて、夕暮れの空を見上げるのだった。
■ライターより
大変遅くなり申し訳ありませんっ。
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