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<東京怪談・PCゲームノベル>


春に散る色【palette】

【Japanese Macaque】

 昨晩から仕込みをしておいた多層鍋のガラス蓋を取り払うと、深い香りがキッチンに漂った。
 ウィン・ルクセンブルクは目を細める。
 
──成功。

 今日は、従弟の父方の親戚である少女が、ウィンの友人でもある結城・レイと出会った瞬間に意気投合して姉妹協定まで結んでしまった記念に料理教室を開く事になっている。先ずは蕎麦の湯で方を伝授する、という彼女達の料理教室の為に新居のキッチンを開放すると申し出たウィンは、自宅に人が集う事への楽しみも手伝って昨夜から出汁を手作りしていたのだ。フィアンセの渋谷・透が蕎麦を手打ちするというので、彼女の担当は出汁と、その他の材料や器の準備だ。
 出汁を漉してから再び加熱する間に食器を出して洗っていると、透が顔を見せた。
「あっ、良い匂い〜」
 ウィンは笑顔を返す。透はいつにも増して嬉しそうな表情で、「引っ越し以来だね〜」とウィンの手許を覗き込んでいた。
「透こそ、今日は男手が一人だけど大丈夫?」
「大丈夫だよ」
 と心強く請け合うのは良いが、満面の笑顔が無邪気にも「エヘヘ、オレってば男らしぃ〜、」と饒舌に自信の程を物語っている辺りが、透のキャラクターなのだ。
「何かね、カプチーノも朝から嬉しそうなんだよ。分かるんだよね〜、きっと、お客さんが会いに来てくれるって」
「それはそうよ、私だって楽しみなんだもの」
 道理で、春に先駆けて購入した新しい食器を丁寧に洗う合間に楽し気に笑顔が綻んでいた訳だ。
「あ、可愛いね、その器」
「有難う。私も気に入っているの☆」
 ──料理をする時って、それを盛る器を選ぶのも楽しいものでしょう? だから、先に色々と準備して選ぶ楽しみもあった方が良いじゃない? ──とウィンは透に同意を求めた。
「だよね〜、」

──尤も。

 もし、この家の住人がウィン独りなのであれば、友人の来訪をを待ちわびる感情は寂しさが占めているに違いなかった。
 こうして、今から既にパーティが始まったかのようにワクワクしていられるのはきっと、この青い瞳のフィアンセと、そしてもう一人──一匹の家族の存在があってこそだ。

【cappuccino】

「こんにちは〜☆」
「まあ、えみりちゃん、いらっしゃい!」
「いらっしゃァ〜い!」
 お料理教室当日。会場として自宅のキッチンを提供してくれるというウィン・ルクセンブルクの新居を小石川に訊ねたえみりを、ウィンを始め同居中の彼女のフィアンセの渋谷・透、……そしてふわふわしたコリーの子犬が満面の笑顔で歓待した。
「今日はお招き有難うございまーす! ……あ、渋谷さんもこんにちは〜、あっ、この子がカプチーノ!?
 いや〜ん、可愛い──!!」
「オレもカプチーノも待ってたんだよ〜、」
 抱いて良い!? とえみりは浮き浮きとウィンに訊ね、彼女が笑顔で「勿論」と頷くと、──その名前の通り、ミルクコーヒーのようなふわふわした色合いのコリー犬を抱き締めて頬擦りした。
「とっても人懐っこいでしょう? ……ふふ、えみりちゃんとはすっかりお友達のようね、」
 ウィンの言葉に応えるかのように、小さなコリー犬は高く嬉しそうな声を上げた。

──でも、口惜しい事に一番懐いているのはお兄様なのよね……。

 ──女の子だからかしら……?
 などと、つい最近飼い出したばかりの愛犬と、元気な少女の微笑ましい抱擁に目を細めていたウィンに、電話の着信音が聴こえた。
 すっかり仲良くなってしまったえみりとカプチーノを透の許へ残し、ぱたぱたとスリッパの音を響かせて応対に出る。──結城・レイの携帯だった。
「もしもし? レイ? ……そう、分かった? そう、良かったわ。……あ、あなたは自転車なのよね。ガレージに置いて貰えるかしら? ええ、入って貰って良いから。……そう、それでね、そうしたら一旦外には戻らないで、ガレージの中のドアを開けて。──……何でも、よ。それが近いから」
「?」
 受話器を置くと、透が「なァに〜?」と云う風ににこにことしたまま軽く首を傾いでウィンを見ていた。
「レイだわ。着いたんですって。ロードバイクはガレージに置いて貰うようにしたわ」
「レイお姉ちゃん!」
 えみりが、──ぱっ、と顔を輝かせてそれまでカプチーノを抱き締めて屈み込んでいた身体をぴょこり、と起こした。
「あたし、迎えに行きまーす!」
「あ、えみりちゃん、」
 歓び勇んで素早く玄関へ向かおうとしたえみりの背中にウィン声を投げた。
「そっちじゃ無いわ、こっちよ」
「……えっ!?」
 こっち、とウィンが示しているのは元居た小さな部屋──カプチーノの専用部屋らしい──の横の壁にあったドアだ。えみりが大きな瞳をぱちぱちと瞬いているのも無理は無い。えみりは、玄関までレイを迎えに行こうとしたのだ。それはウィンも分かってくれただろうが、そのドアの先の方向は、どう考えても玄関とは逆である。
「……」
 ──えーっ、……どうしよう……、とえみりが逡巡している間に、そのドアは向こう側から開いてしまった。入って来たのは、当然、レイである。
「……はァ!?」
 ──えぇぇええ!? 何で!? ドアの向こうがいきなり、これ!? おかしいじゃない、──……レイの、常人の半分しか様子の伺えない顔にさえ明らかにそう、疑問が書き連ねてあった。
「あ、レイお姉ちゃん!」
「……ああ、えみりちゃん……に、ウィンさん」
「いらっしゃい」
 何ら不思議は無さそうに笑顔を向けたウィンを見ては、レイも首を傾げつつ何もおかしい事は無かったのだと自ら云い聞かせざるを得なかったらしい。
「……変わった……玄関ね」
 軽く首を振りながら、足を踏み入れようとする。透が慌てて止めた。
「あっあっあっ、レイちゃん、靴靴!!」
「──ぅ、っと……、」
 片足を上げたまま、器用にバランスを取って静止したレイは駆け寄ったえみりに支えられながらどうにか、転倒の直前にロードバイクシューズを脱いで土足で上がり込むには至らなかった。
「あ、靴、預かるわ。玄関に置いておくわね」
「……」
 ──別なの、……玄関? ……。
「……、」
「面白い家〜☆」
 呆然と突っ立ったままのレイの側では、どうやらガレージとこのカプチーノ部屋が直通しているらしい事に気付いたえみりが両手をぱん、と合わせて歓声を上げていた。賺さず、えみりの顔を覗き込んで便乗するのが透だ。
「でしょ、でしょ、あのさァ、寝室からは直接フロに行けるんだよね〜、朝とか便利なんだー、」
「えーっ、」
 えみりの目はきらきらと好奇心に輝いた。……良いなあ、……探検してみたいけど、でもウィンさんと渋谷さんのお家なんだし、それは失礼だよね……。
「……、」
 ──と、そんな少女らしい好奇心を敏感に察知したらしい透がにっこり微笑んだ。
「……そうそう、オレお蕎麦打つからさー、じゃあその間ウィンちゃんに案内して貰いなよ。面白いよ〜、……ア、レイちゃんも一緒にさ」
「良いんですかぁ!?」
「勿論よ、……ふふ、ちょっとね。知人から紹介して貰ったのだけど、面白いでしょう。……えみりちゃんにはこっそり教えてあげるわね。……実はね、」
 こっそり、とウィンはえみりの耳許に口唇を寄せ、内緒話めいて言葉を継ぐ。……態と声を顰めているのは、どこか怪談や肝試しのケースにも似た、「本当は云ってはいけないのだけど……、」と云った微妙な好奇心を強調する為に。
「……この家、生きているのよ、本当に。日に選って間取りが変わったり……、」

「え────っ!?」
「ハァ!?」

 ──姉妹? 仲の宜しい事に、えみりとレイの声は同時に上がった。

【buckwheat】

「うわー、美味しそう!」
 ウィン達との探検を終えてキッチンに戻って来たえみりは歓声を上げた。
 透の前にした本格的な台の上には、香ばしいような香りさえ感じる、打ち立ての手打ち蕎麦の束。「でしょ」とにっこり微笑んだ透は、それを慣れた手付きで手にした専用の包丁で麺状に切っている所だった。
「透のお蕎麦は本当に美味しいのよ。……そう、ここへ引っ越した時にも、引っ越し蕎麦は透の手打ちだったの」
 ウィンも笑顔で大きく頷いた。フィアンセにまでそうやって手放しで賞賛されれば、明るい透は「エヘヘ、」と照れ笑いを浮かべて手を後頭部に、特徴的な生まれ付きの茶色い、ニホンザル色の短髪をくしゃくしゃにしている。
「あー、ほんと。美味しそう」
 両手を何気無くえみりの肩に置いて後ろから顔を覗かせたレイもそう云って、「あんたやるじゃない、吃驚しちゃった」などと透を揶揄かっている。然し、彼女には透を揶揄かう暇は無い。
「これじゃあ、頑張って茹でる作業も頑張らなくっちゃ! ……レイお姉ちゃん、ね!」
「……、」
 えみりは満面の笑顔で、レイを見上げた。──途端、彼女の顔は引き攣った笑みを口唇に張り付けたままで硬直する。
 そもそも、今日の料理教室の課題が蕎麦の湯で方、という事には理由がある。
 レイは今まで、苦手に託つけて料理などまともにやった事が無かったらしい。既に見兼ねた知り合いが料理教室を随分と厳しく施してくれたそうだが、そこでは「卒業試験」が昨年度の年越し蕎麦だった。年末から演技でも無い失態をやらかした事が一応女としての自覚もあるらしいレイには大変なトラウマとなったようで、「お姉ちゃん」思いにもえみりは俄然張り切って「今年の大晦日に向けて、先ずはお蕎麦を美味しく茹でられるように!」と、ついでにトラウマも克服させようと提案し、本日の運びとなった。
「ああ……、……うん……、……出来るだけ……頑張るわ」
「よ──し☆ 早速、スタート!!」
 えみりは元気良く片手を振り上げ、号令を掛けた。

【zero】

「──ただいま。……レイ、帰ってるか」
 父親の声に、レイは慌ててキッチンを兼ねたダイニングから顔を出した。
「あ、お帰りなさ──い、今日、早かったのね」
「ああ」
 昨年末の騒動から、東京コンセルヴァトワールとの関係を絶ち、同時にそれまで教職に就いていたパリのコンセルヴァトワールをも正式に辞職した忍は4月から、母校の音楽大学に助教授として務める事になったらしい。未だ今は3月だが、各方面への挨拶回りや様々な打ち合わせ、会議等、多忙な時期らしかった。ここ暫くの間は帰宅も遅かった。が、今は未だ夕方の7時より前、──未だ空も明るい事からも春の季節が伺えた。
「夜、食べて来た?」
「未だだ。レイは? 未だなら何か取ろうか」
 当初はぎこちなかった父の、娘への思い遣りも最近は大分自然になって来た。
「私はもう食べて来ちゃったんだけど。あのね、今日、ウィンさんの所で渋谷く──あ、ウィンさんのフィアンセね。彼の手打ち蕎麦食べて来たの。お土産に貰ったんだけど、作ってあげる!」
「……レイが?」
 父は苦笑いを浮かべた。──元日早々、娘がぐずぐずと泣きながら帰宅したから何事かと問えば「──さんの所で作った年越し蕎麦が闇鍋みたいになっちゃった、私なんか矢っ張りお嫁に行けないわ」と嘆いていたのを思い出して……。
「だぁいじょうぶ、今日は可愛い妹分が開いてくれた料理教室だったのよ。今回は合格! 美味しかったんだから、期待しててよ」

 ──お湯はたっぷり、確りと沸騰させてから。茹で過ぎないように、タイマーに頼らず目で見て、実際に一本鍋から引き揚げてみて蕎麦の硬さを確認するのがポイント。
 可愛い妹分が、この時ばかりは師匠になって一つ一つ横に付いて教えてくれたポイントを思い返して確認しながら、レイは新しい緑のエプロンのリボンを後ろ手に結ぶ。

『あ、ダメダメ、お蕎麦が底に溜まっちゃってる。貼り付いちゃうよ、お箸で混ぜて、早くぅ! ……そそ、さっ、てね! 硬さ、どう? ──オッケー、じゃ、手早くざるに移して……ちゃちゃっ、て切って』

「……出来るじゃん、私……」
 ──まあ、教える人が良かったかな。
 何と云うか、世の中には生まれ付き上手過ぎた為に、逆にゼロの初心者へどう教えて良いか分からない人間も居る。
「姉同士って、……矢っ張りどっか気が合うのかなぁ……」

「……どう?」
「うん、美味かった。蕎麦もそうだが、レイがここまで料理が出来るようになるとは思わなかったな。君の妹分にも、ルクセンブルク女史とそのフィアンセにもよろしく伝えておいてくれ」
「はぁーい。……あ、それとコンサートの準備、どう?」
「大丈夫だよ、心配するな」
 ──ウィンのホテルでのミニコンサートの柿落とし。リクエストはベートーヴェンの三大ソナタだ。「月光」、「悲愴」、「熱情」……。
「元々、直ぐにでも引けるパパのレパートリーだもんねー、」
「──うん、だが今回はちょっと弾き方を変えてみようかと思う。楽譜を変えたんだ。中々、新しい考えに気付くよ。それを出来る限り消化してみようと思うんだ」
「……へぇー、……、」
 ──あ。
 レイはそこで、はた、と顔を上げて両手を胸の前で合わせた。
「そうそう、それと、あと二曲譜読み、今から頼めない?」
「構わないが」
「『クロイツェル』と、『スプリング』」
 クロイツェル、スプリング、──レイは同じベートーヴェンに拠る、ヴァイオリンソナタのタイトルを挙げた。ああ、と納得したように父が頷く。
「春のコンサートには良い曲だな。……で、ヴァイオリンは? 上塚君か?」
「んーとね、ちょっとした知り合いが弾いてくれるかも知れないの。そんなに有名じゃないけど、プロよ。それに凄く良いヴァイオリンなの。多分、技術は浩ちゃんよりも上。それに浩ちゃんは呼んだらいつでも来るじゃない。前からパパに紹介したかったんだー、……折角だし。駄目だったら浩ちゃんに頼むけど。──あのね、ウィンさんには内緒にして置きたいんだけど。当日のサプライズで」
「良いだろう」
「やった」

【purple haze】

 コーヒーショップのオープンテラスに、レイはたまたまCDショップで出会った顔見知りの青年と向かい合っていた。4人掛けのテーブルで、空いた席の一つには何か大層な黒いスクエア型のケースが立て掛けてある。一見、猟銃が何かが入っているのでは無いかと仰天するが、中身は楽器だ。
 レイの向かいで副流煙を嫌う彼女に睨まれつつ、堪えた風も無く「は──……、」と疲れたように煙草の煙を吐き出している青年、一見、クラシックなんぞというお上品な物に興味を示しそうにないがこれで、一応は私立音楽大学までを卒業したヴァイオリン奏者なのである。──上塚・浩司。
「……浩ちゃんもそうだけど、何で楽器やってる人間って煙草吸う人が多いのかしら」
「あ、俺はヴァイオリンの横で吸ったりはしないよ。磔也じゃ無いんだし」
「あれは、ただのバカ」
 ……。
「結局、やるの?」
 アイスカフェモカを啜ったレイは半信半疑さを声に滲ませて訊ねた。
「うん、ブラームスが良いって云ってたから、1番か3番かと思ってる。雨の歌が好きらしいけど、でもなあ、ああ激しい奴だから、3番が無難かと思うんだけど。それはそれで俺が死ぬかなつー感じ」
「信じられない」
 レイは天を仰いだ。──春の空は、良く晴れ渡っている。陽光が眩しい。
「浩ちゃん、良くヴァイオリンソナタをやるのに磔也のピアノなんかと組む気になれるわね」
「あ、でも俺さ、音程とか譜読みが甘いじゃん。磔也はその辺凄ェ煩いから、それはそれで良い勉強になるかな、って感じ」
「だからって、何もソナタで組まなくても」
「……て云うか、アイツのピアノじゃ小品とか協奏曲の伴奏、無理だよ。主張が強過ぎてソナタくらいじゃないと手に剰る」
「ああ……、……パパも同じような事、云ってたかなあ」
 ねえ、ベートーヴェンはやらないの? とレイは気分と話題を切り替えた。
「ベートーヴェン嫌いだろ、あいつ」
「あれはただの反抗期。磔也じゃなくて、浩ちゃんが」
「無理」
「何でー?」
 弾いて欲しかったのにー、パパのピアノとソナタ演って欲しい、とレイは身を乗り出す。それを避けてやや上体を反らせていた浩司は、「無理無理」と手をぱたぱたと振った。
「いや、聴くのは好きだけど。弾くとすれば俺ベートーヴェンは音大んときに思いっ切り滑った記憶しか無いから。ロマン派と違って入り込めないだろ。2年の時の課題が4大協奏曲から第3楽章一曲で、ベーコンにして単位落とし掛かった、……ほら、あれ、誤摩化し利かないから。ぱっと見、簡単だと思ったんだよなー、あれならチャイコにしときゃ良かった。……で、3年の時はオケの曲がダダダダーンだった訳。ファースト。死んだ。あれなら全部音名書き込んででもヴィオラにしときゃ良かった。もー俺ベートーヴェンは苦手意識しか持てねェわ。多分克服出来んのなんか何十年か先っぽい」
「スプリングでも、駄目?」
「あーいう曲の方が本当は難しいんだぜ、きれいな音を出すって、速いパッセージでがちゃがちゃ動くのの何十倍も難しいんだよ。俺なんかスプリング、最初の2小節で止まるわ」
「……駄目ヴァイオリニスト」
「煩せ」
 じゃあ駄目かあ、とレイは頬杖を付いた。
「何が?」
「んー、パパがね、知り合いのホテルのミニコンサートでベートーヴェン弾くの。三大ソナタだけどね。で、春だから、スプリングなんか一緒に出来れば良いなあと思って」
「結城さんなんか幾らでも凄いヴァイオリニスト知ってるだろ?」
「あんまりプロだと面白くないのよ。若手を支援するのが目的で設立された企業の文化活動の一貫なんだから。若手で、だけど将来的には可能性のあるセミプロ位が丁度」
「じゃあ駄目じゃん俺」
「期待してないわ。……あーあ、香坂さん、どこ行っちゃたんだろ」
 ふ──……、と散々な言葉に態と紫煙を吐き出してから、浩司は不意に真顔に戻った。
「香坂?」
「あ、知らないかなあ。香坂・蓮ってヴァイオリニスト。何かねー、前に一度連絡先聞いてたんだけど、最近連絡付かないのよ」
「……ん?」
 ──聞いた事あるぞ、と浩司はこめかみを押さえて俯き、記憶を辿る体勢に入った。

【black + white】

「お早うございます」
「今日は、我侭を聞いて下さってどうも有難う。本当に感謝していますわ、それに、楽しみ」
「こちらこそ」
 忍は独り、タクシーで姿を見せた。挨拶を交わしながらウィンは、その側にひらひらと纏わりつく彼の長女の姿が無い事を訝った。
「レイは?」
 てっきり一緒に来ると思ったのに、とウィンは首を傾いだ。──さあ、と応えた忍は冷淡というよりは寧ろ、……何というか、態とらしい。
「本番には来ると云ってましたが」
「……そう、ですか……?」
「準備でもあるんでしょう……」
「──何の?」
「……、」
 そこで忍は黙り込んだ。──都合が悪くなると口を噤んでしまうのは、だとすれば「遺伝」か……。
「……ピアノ、どうぞ自由に触って慣れて下さいな」
「お言葉に甘えて」

 ──あら、とウィンは彼の出した楽譜が未だ新しい物である事に気付いて首を傾いだ。
「……、」
 彼女の視線と疑問に、忍は直ぐに気付いたらしい。──ピアニストである義母から、また声楽家である叔母から、こんな話を聞いた事がある。

──優れた音楽家というものは、「自分が居る空間」の中で起こっている事、同じ空気を共有している人間が、共演者が、聴衆が考えている事を全て把握しているものなの。

 それが、「音楽を聴く」という事なの、……と。
 
 ふと、そんな事を思い出した。
 ──もう少し、そこから踏み込んで音楽家としてだけでは無く、父親としての思考にまで踏み込めて居れば良かったのに、と思った。
「最近、買ったものですよ。学生の頃に一度見た版なんだが、生憎それはどこへか失ってしまったので」
「……あら、……リスト、」
 編集者として名前が掲げられているのは、──フランツ・リスト。自身が優れたピアニストであるロマン派の大作曲家だ。
「『リストの注釈に寄る完全なる最初のベートーヴェン、ソナタ全集』という奴です。大抵、原典で読んでいたので興味は無かったんですがね」
 ……そんな物があったのか、という驚きと共にウィンの脳裏に閃いた事がある。──偶然か、否……、……。
 リスト……、……あの子の好きな作曲家では無いかしら。
 ──そんなウィンの疑問に気付いたからか否かは図りかねるが、忍は──ふっ、──と思い出したように微笑した。
「本当はあの子に見せてやりたかったんです。いや、あの子はあれで凝り性だから目を通した事はあると思いますよ。然しそれでもベートーヴェンだけは弾きたがらない。……同じピアノ弾きとしては惜しいです。何かの課題曲でも無ければ強制する必要は無いが、下手な反抗から本当に素晴らしい音楽の姿に気付かないなんて。大体、その責任が私にある事は分かっていますから、それを挽回したいと企んでみましたが。……駄目ですね」
「……でも、焦る事は無いのでは無いかしら? 何しろ、未だ高校生だわ。……義母に聞いた事があるんです、大抵、若い内はロマン派の技巧的な大曲に憧れるものだって。そうして年齢と経験を重ねて行って、大人になってから古典の素晴らしさに気付くって」
「確かにね、」
 忍の軽い笑いは、明るく、妙にからっとしたものだった。──普段から温厚な人間だが、そうして笑った所は矢張りどこかあの姉弟に似ていると思う。
「あれは未だ子供だ。無理も無いかも知れない。……その所為だと思えれば、気も楽なんですがね」
 どうも駄目だ、これが生徒ならば気長に「待つ」事も出来るのに、……身内だとどこかがむしゃらになってしまうらしい。──そうした彼の本音を聞き、父親としての不器用な自覚と思い遣りに触れられた事はウィンとして大きな喜びだった。
 ウィンは冗談めかして苦笑しながら、今はその楽譜を自分が演奏する為に眺めている忍を見遣った。
「それで、結局使い道が無くなったので自分で使ってしまおうという事?」
 彼は軽く肩を竦めて応えた。
「どうせならね」
「でも、結構大変なのでは? だって、今まで弾いて来た解釈とは全く違うでしょう?」
 純粋な興味から出たウィンの疑問へ答えた忍は、流石に経験の長いプロの演奏家の顔をしていた。
「『変わらない為には、積極的に変化を受け入れる事が大切』だなんて云った人間が居ます。……大体、同感ですね。延々と現在のスタイルにこだわっていたのではただ衰えるだけですよ」
 ──それと、……やや極まり悪そうに眉を顰めて笑いながら、忍は付け加えた。
「今、リストに興味があるんですよ。……あの子が、何を考えているのか探ってみたくてね」
「……、」
 軽く腕を組んで笑ったウィンの口許には、笑みが浮かんだと同時に「あーあ、」……といった溜息が漏れた。
 
──……ちゃんと、父親してるじゃない。

 良かった。先程脳裏を過った事は、杞憂だったらしい。

「それで、14番、8番、23番でしたか、リクエストが」
「そう、「月光」、……「悲愴」、「熱情」……三大ソナタ! ……素人らしい選曲でしょうか、……でも、私、大好きなんです」
 如何にも、「それしか知りません」的なリクエストだっただろうか、と俄に気恥ずかしくなってドキドキしながらウィンは手を胸の前で組んだ。──そう、それでも大好きなの、……大切な想い出の曲、愛すべき音楽……。
「そんな事は無い。有名であるからには、矢張りそれに見合った質の高さが伴っているんですよ。私も特に好きで学生の頃は毎日のように弾いていましたね。……ああ、月光の3楽章はレイが好きでね、子供の頃から『アレ、アレ』と良くせがまれた。今でも『アレ』、と云うと月光の3だ」
「そうだったのですか。……レイ、本当に忍さんの事が大好きね、」
 心から微笑ましくなって、ウィンは目を細めて忍を眺めた。
 ピアノの前に座らずには居られない人。──そうだ、本来、ピアニストとはそうあるべきなのだ。音楽に対してあまりに純粋過ぎるから、時に方向性を見失ってしまいもする。
 何でも、利用しようとする人間はいるのだ。……それを擁護するのが、パトロンの役割、……。

──……私は、『EOLH』で居たい。

 同時に、ピアニストを前にしながらふと気を抜いた瞬間には、胸がちく、と痛む。
 ピアノを何よりも愛した人がいた。──ウィンは、彼の黒鍵と白鍵の世界に割り込む事が出来なかった、……。
 今の彼女には透が居る。だから、それはどこか甘酸っぱさを供なった淡い想い出のようなものだ。

──……ピアニストって、本当、困ったちゃんばかり……。

「──、」
「……はい!?」
 思わず、考え事に気を取られて何かを訊ねたらしい忍の言葉を聞き漏らしたウィンは慌てて語尾を跳ね上げた。
「何か弾いて構いませんか? ……ゲネプロ代わりに」
「あ、ええ、勿論」
 是非お願いしたいです、とウィンは再び笑顔を取り繕った。
「本当は私、忍さんのソナタを独り占めにして聴きたかった位なんです! でも、それでは勿体無いし、何よりレイが許してくれないですもの。でも、リハーサル位なら構わないわね」
 軽く礼を述べて、忍は「何にしようか」と云う風に暫し無言で譜面を繰っていた。不意にその手が止まると、彼はくるりと振り返ってウィンの心臓を今度こそ本当に口から飛び出させかけた。
「『悲愴』でも……、」
「……、」
 ──ぎくり、とウィンは思わず頬に朱が差した事を自分でも悟った。
「……え、……あの……、何故『悲愴』を? いえ、態々3曲の中から」
「貴女は『悲愴』が一番好きなんじゃ無いかと思ってね、……そうしたら確かめてみたくなったんですよ、失礼」
 良い歳をして何という悪戯っぽさだ。……全く……。

──……もう……、そんな思い付きでドキドキさせないで欲しいわ……。

 照れと気恥ずかしさを誤摩化す為に、ウィンは殊更クールな調子で逆に質問を返した。
「……何故、そうお思いになったの?」
「『月光』、『悲愴』、『熱情』と云った時、『悲愴』の前後にだけ微妙な間があった」
「……、」

──流石マスター、……音には敏感ね……。

 ウィンは肩を竦めながら軽く両手を天へ向けた。
「降参ですわ」
「当ったらしい」

【midnight-blue】

 長い春の陽も落ち、空が青く闇に染まり始めた。
 コンサート開始まで半時間を切った頃、レイがホテルのエントランスのガラス越しに素姿を見せた。ウィンは手を振るつもりで振り返り、……そこで……。
「……まあ!」
 彼女の瞳が驚きに見開かれ、口唇には再会を喜ぶ笑みが浮かんだ。
「香坂さん! ……お久し振りね、もしかして、ミニコンサートの事を知って聴きに来て下さったの?」
「彼が弾くのよ」
 聴きに来た、──と云うよりも……、そうやって2人を引っ張って来たレイが先回りしてニヤ、と微笑んだ。そうして、蓮と愁、2人の背中を軽く叩いてウィンの前に押し出す。
「前からお願いしてたの。父のピアノを伴奏に、クロイツェルとスプリングを弾いて欲しいって。……ふふふー、内緒にしててごめんね、ウィンさん。驚かせたかったのよ」
「吃驚よ、……でも、嬉しいわ。クロイツェルに、スプリング! ……素敵、本当に素敵よ」
 そこで蓮に向き直り、「よろしくお願いします」と改めて述べようとしたウィンは頭をぺこり、と下げた後で愁に気付いた。
「あら、こちらは……」
「……兄なんだ」
 軽い会釈を返した蓮が、眉を顰める──と見えて、口唇の端に苦笑を浮かべて告げる。
「兄さん、……ウィン・ルクセンブルク嬢。以前に何度かお世話になった。ここのホテルのオーナーなんだ」
 兄、と云われれば納得した、──やや蓮よりも背が高くて確りとした風に見える他、顔立ちや肌の色、日本人離れした青い瞳までがそっくり似通った青年は気さくな様子で屈託の無い笑顔をウィンに向けた。
「向坂・愁です、初めましてー。弟がお世話になりまして」
「いいえ、こちらこそ。愁さんと仰るのね。私、演奏はしないけれど音楽が本当に大好きだから。香坂さんのヴァイオリンは初めてお聴きした時から買っていたのよ。今日も彼にヴァイオリンを弾いて貰えるなんて、本当に嬉しいわ! ……あら、……って」
 そこでウィンは、愁もまた蓮と同じようにヴァイオリンケースをストラップで肩に掛けている事に気付いた。
「……もしかして、あなたもヴァイオリニスト?」
「はい、一応……まあ、あの子に日々特訓されてるような腕前なんですけど」
「もしかして、今日はあなたも弾いて下さるのかしら?」
「ん」
 愁はにっこりと──困ったような、照れ臭いような──明るい笑みを、子供のような表情で浮かべた。
「僕はクロイツェルは弾けないんですけど、スプリングは一応得意なんで。飛び入りだし、未だ未熟な腕前で恐縮ですけど弾かせて貰えれば、精一杯頑張りますよ」
 ぺこり、と頭を下げた愁の傍らで、蓮までがまるで保護者宜しく頭を下げてしまっている。
「拙い兄だが、……どうぞ宜しく頼む」
 ──あらあら、どっちがお兄さんかしら、と自らの双児の兄と比べてウィンは苦笑した。勿論、その苦笑いは直ぐに心からの歓迎の笑顔に変わる。
「勿論歓迎よ! ヴァイオリニストの飛び入りだなんて素敵なハプニングなら。……あ、でも、忍さん……」
 主催者は良くとも、伴奏者が……。
 いくらベートーヴェンが専門分野というピアニストでも、ピアノソナタを奏するのと同様の心構えを要求されるヴァイオリンソナタの伴奏は可能だろうか?
 然し、ウィンが不安気に振り返った忍は平然としていた。
「パパ、香坂さん」
 レイが次いで蓮と愁の注意をピアノの前の男性へ喚起し、自分は素早く彼の側へ立って腕を引いた。
「父の結城・忍」
 父、という単語に誇らし気がニュアンスを滲ませて笑ったレイを、愁は少し羨ましい気分で眺めながら会釈した。
 彼女は音楽はお好きなようだがピアニストでは無い。──ああして、高名な演奏家の父を無条件に誇れる子供は何て良いものだろうと、ふと思った。──それは、愁の傍らで挨拶を交わしている彼の弟にも幾らかは同じ事なのだろう。
「香坂君? 娘からお話は伺っていました。とても良いヴァイオリンを弾かれるのだと」
「恐縮です。大学であなたの古典に関する論文を読んだ事があります。──俺も兄も、あなたにソナタの伴奏をお願いするなど恐縮ですが」
「娘は、プロに対してはシビアでね。批評に関しては信頼しているんです。何も心配していませんよ、どうぞ恐縮為さらず、ピアノを圧倒するくらいの勢いで弾いて下さい」
「とんでもない」
 蓮は肩を竦めた。ちらり、と愁を横目に見ていたのは、どこか──相手が相手だけに自分は勿論、技術面で未だ不安の残る拙い兄までがここで大きく出るなど出来る筈が無い、とでも云いたそうだ。
 愁は無言のまま苦笑いを浮かべて「酷いよ……」と目で訴えてみる。蓮が賺さず視線を反らせたので、その口許から忍び笑いが洩れた。
「いえ。……私も若手から刺激を受けるのは楽しみなんですよ」
「そう云って頂ければ、気が楽です」
 温厚な笑みを見せた忍に、蓮もやや首を傾いで微笑を返した。
 ──尤も、弾き出せば遠慮する必要が生じないだろう事は、自分でも、──それに愁の事にしても良く分かっていた。
 何しろ、愁は血を分けた双児の兄であると同時に彼の一番弟子なのだ。

「大変。レイ、とても嬉しいサプライズを持ち込んでくれたじゃない」
 ウィンが、高い笑い声を上げて悪戯っぽく──未だ父親にべったりとくっついているレイを突いた。
「……春じゃない、」
「らしい選曲を、どうも有難う。……さてと、忙しいわ。それらしい演出をしなきゃ」
 そう云って踵を返したウィンは一見悲鳴を上げているようで、その実笑顔は絶えず生き生きとしていた。
「──スポットライト、変わらないかしら」
 ……? 

【rose】

「本日はおめでとうございます」
 現れた来客が、丁寧にそう述べてウィンに差出したのは両手に溢れそうな薄紅色の薔薇の花束だった。
「──あら、」
 その来客は、ウィン自身はあまり言葉を交わすきっかけが無いものの、既に良く見知った青年である。端正だが、生真面目過ぎる性質が外見にまでそのまま現れた某財閥の秘書だ。──然し、今日ばかりはどこか仕事を離れた、穏やかで楽し気な表情が見える。
「陵さん」
「お招き頂きまして光栄です、──残念ながら総帥は外せない状態で、私が代理で伺いました。こちらは、総帥よりお祝いです」
「有難うございます!」
 ウィンは溢れるような薔薇の甘い香に、満面の笑顔を綻ばせながら花束を受け取った。
「……日本では、コンサートなどの祝いに花環を贈りますよね。然し、ここのホテルへあの朱書きの祝いは似合わないだろうと総帥のお考えで。その代わり、最上級の美しい、一杯の薔薇でお祝するようにと」
 今日は僕が代理で鑑賞させて頂きます、──と云った修一が素早く、鋭い視線を横合いに投げた事に気付いてウィンはその先を追った。
「……あ、失礼」
 ──そこに在った人物の姿で、ウィンは修一の鋭い視線の意味合いを悟った。デジタルビデオカメラを片手の映像作家、柾・晴冶が既にホールとステージの側を行ったり来たりとしながらそこへ待機していたのだ。
「……、」
 ──一応、晴冶君の監視は引き受けますので……、諦めたような、ある意味達観したような表情で修一が付け加えた低い一言に、ウィンは朗らかな笑い声を上げた。
「歓迎ですわ、コンサートの映像としての記録は貴重な資料だもの」

【moonlight→pathetique→appassionata】

 ホールの照明が完全に落とされたと同時に、ピアノソナタ「月光」の何かを憧憬するような旋律が響き出した。窓の外の、未だ青さを含んだ春の夜空にそっと姿を見せた月灯りを象徴するように。
 ──本当に、始まってしまったわ、……ウィンはピアノの音色が喚起する郷愁と、未だどこか現実感を持てずにいた彼女の会社、『EOLH』の活動が本格的に始まった事を覚った。

──……良く耳を傾けて、……今日、今から始まる音楽を私は決して忘れないわ。

 手探りからのスタートを切ったばかりの事業は、今後全てが平坦で順調という訳には行かないだろう。その時には、青い瞳の優しいパートナーを始め、家族、友人、多くの人間が自分を支えてくれるだろう事は分かっていた。それでも、ウィン自身が強い意思を持ち続けて乗り越えて行かなくては。──その全ての原動力となっているのが、音楽への彼女の愛情なのだ。
 俄に気分が引き締って来た。──そう、一個の会社を背負っているのだと自覚すると背筋が伸びる気がして、先程は忍にしてやられた「悲愴」ソナタさえも良い意味での緊張感を持って鑑賞する事が出来た。
 もう少しリラックスしましょう、ウィンは微笑みを浮かべ、「熱情」を待った。
 堅苦しいのは詰らないわ、……ライヴ演奏で何より大切なのは、そうして音楽の世界を目の前の奏者と情熱を持って共有出来る他には無い時間だもの。

【neutral colors】

 3曲のピアノソナタが終わり、2人のヴァイオリニストがスタンバイを終えるまで短い休憩時間を挟んだ。

「──そこで聴いていてくれ。他の誰でもない、アンタの……貴方のために、弾くから」

「あら?」
 ウィンは、最後にスプリングを弾く筈の愁がするりと人混みを掻き分けてステージの前の席へ身軽に腰を掛けたのに気付いて瞬きした。
「向坂さん、」
 とんとん、と背後から軽く肩を叩く。振り返った愁は携帯電話を片手に、苦笑していた。
「大丈夫? 準備は?」
「自分の準備よりも重大な責任を任されちゃって、あの子に」
 携帯電話は、話すでも無いのに通話中を示すランプが点滅していた。
「すみません、コンサート中に。でも許して貰えたら助かるんですけど」
 こっそりと愁は通話口を塞ぎ、ウィンに囁いた。
「あの子の大事な人に、中継なんです」
「まあ」
 美しいドイツ人令嬢の口許に、笑みが綻んだ。
「構わないわよ、勿論」

【bluish and transparent】

 蓮のヴァイオリンは過去に2回、聴いた事があった。上野でのイザイ、巣鴨では即興で変奏したレクイエムを。
 その時はどちらも無伴奏で、今日は伴奏があるから、……などという所為では無いだろう、蓮のヴァイオリンは、非常に伸びやかな明るさを持ってウィンの心を捉えた。
 元々、技巧には優れた奏者であるのは2度聴けば良く分かっていたが、どこか情感に欠けていて、それをやや本人が気に掛けている事も。
 然し、今日の蓮の演奏は先ず、右手の動きからして伸びやかだった。……弦楽器で、情感を伝えるのは右手、という話を従弟から聞いた事もある。
 楽器も少し代わったようだ。……レイが「G・A・ロッカよ」と信じられないように首を振りながら耳打ちした情報が本当なのかも知れないが、然し、楽器が少し名高いモダンヴァイオリンに変わった、というだけでは音色はともかく、音楽性がここまで変わりはしないだろう。

──大切な人……。

 その存在があるからかしら? とウィンは、切ない程に何かを渇望するような、情熱的な演奏を耳に彼女自身の恋人の存在を同じ空間の中に感じながら微笑した。
 本当に、音楽家の演奏は何が切っ掛けで変化するか分からない。その変化をその時毎に楽しむのも、また長い目でその変化を見守って行くのも聴衆の楽しみの一つだ。
 彼女はそこへ、彼等のような若手が困難に打ち砕かれてしまわないよう、陰ながらの少しの手助けをする役目をも引き受けよう。

【pastel pink of "Spring"】

 蓮がクロイツェルを弾き終わると、それまでウィンの前で真剣に携帯電話のマイクで音楽を拾っていた愁がそそくさと立ち上がった。ステージの裾で、彼が携帯電話を蓮に受け渡し、彼がそこへ何事かを低声で囁いているのがちらりと見えた。

 クロイツェルは、全曲を通して冒頭の和音に象徴される、悲痛なまでの郷愁を持った情熱を表現しているのに対してスプリングは、ただ春の──厳しい冬の寒さに抑圧されて来た時間からの解放──歓喜を歌う。
 拙い、と蓮は云うが、歌心は充分だ。いつの間にか通話を終えたか、ウィンの傍らで不安そうに「弟子」の演奏を見守っていた蓮にウィンは「最高のスプリングよ」と耳打ちした。
 然し流石、ヴァイオリンの批評に掛けては容赦が無い。眉を顰めた蓮が憮然と呟いた。
「……またインテンポを見失った。……全く、あれ程日に一度は必ずメトロノームで確認しろと云っているのに、ピアニストが巨匠で無ければ完全に音楽が止まっていた所だ、……ああ、また肱が下がっている、……」
「良いじゃない」
 ウィンは微笑みで彼の小言を遮った。
「その辺りは今後のレッスンで厳しーく叩き込んで行けば(実際に叩き込んでいる、とはウィンには知る由も無い……)。香坂先生? だってほら、こんなにも春、……あなたも楽しんで聴かなきゃ、勿体無いわよ」
 ──そうだな、と応えた蓮の声は未だ憮然としていたが、彼の表情には笑みが浮かんでいた。

【red and white】

「今日は本当に有難う。とても良かったわ。私自身、とても感動しちゃった」
 終演後、ウィンはレイが構い切りの忍は一旦そっとして置く事にして、蓮と愁を呼び止めた。
「こちらこそ、柿落としの大事なステージで弾かせて貰った事を感謝する」
 既にヴァイオリンを仕舞い、身支度を終えていた蓮は少し首を傾ぐように振り返って、そう、微笑った。

──……あら、

 矢張り、何かあったみたい。音がとても柔らかくなったとは思ったけれど、それにしても、前はこんなに自然に笑う人では無かったわ、──ウィンは微笑み返しながら、2人に「こんな所でごめんなさいね」とこっそり、本日のギャランティを入れた封筒を差出した。
「……あ、いや……、」
「いえ、正当な手当てだもの。継続的な物だから破格では無いしささやかだけれど、受け取って貰わなければ困るわ、主催者として」
「……有難う」
 愁に封筒を渡した時に、ウィンはウィンクを投げて付け加えた。
「私の春は、あなたのスプリングで明けたわね」
「未熟ですけど、そう云って貰えれば嬉しいです」
 愁は素直に礼を述べた。
「ねえ」
 ウィンは、既に引き上げようとしている2人をそう云って引き止めた。
「良かったら食事とワインでも、如何? この後、簡単に打ち上げにホテルの料理をお出ししたいのだけど。勿論、お金は取らないわよ、賄いだから」
 遠慮されないように、と冗談めかして見たが、──それで無くとも2人はどこか急いでいるような様子を見せて辞退した。
「いや……、有り難いんだが」
「……あ、ごめんなさい、未だ予定があったのかしら」
「そうでも無いんだが、……飲めないし、俺もこの人も」
 この人、と云われた愁も苦笑しながら「どうも酔うと始末に負えないみたいでねー、」と肩を竦めているが、そわそわしているのは、パーティよりは帰りを待つ恋人の許へ急ぎたい2人は同じようだ。ウィンの知る所では無いにせよ。
「そう、では残念ね。……あ、ちょっと待って頂戴」
 直ぐだからね、と念を押し、ウィンはやや小走りに厨房の方へ駆けて行く。彼女の背中を見送ってから、蓮と愁は顔を見合わせて苦笑を交わした。
「何をそんなに急いでるんだろうと思っただろうね」
「ああ……、……まあな」
 本当に、程無く戻ったウィンは胸に、赤と白それぞれのワインのボトルを抱えていた。
「じゃあ、これはその代わりのお土産にね。実家で製造しているハウスワインなの」
「……、」
 困惑する蓮と愁に、それぞれ赤、白の透き通った葡萄酒の揺れる音が爆ぜるドイツワインのボトルが差出された。
「……然し……、」
 蓮はしきりと辞退しようとしていたが、白ワインのボトルを感心しながら眺めていた愁はある事に気付いた。──それぞれ種類は違うが、製造年が二つとも、2人の誕生年と同じなのだ。双児の彼等と、同じワイナリーで作られた赤と白の対照的なワインを重ね合わせた遊び心か。
「飲めないのよね、ええ、でも、別にワインは寝かせて置いても良いものだから」
「有難うございます」
「?」
 お前も飲めない癖に、イタリアでは一度、バールを一件潰し掛かったそうじゃないか、と呆れる蓮の視線を横目に愁が先に、にっこりと笑って頭を下げた。
「……、」
 冷たい視線を自らへ投げ続ける弟へ、とんとん、とラベルの製造年を指先で示して愁は笑う。
「いずれ、何か乾杯するような機会でもあれば出して来て頂ければ嬉しいわ。それまではお邪魔かも知れないけれど冷蔵庫に入れておけば充分よ、封を切っていなければ。……今日は、私にとってとても大切な日だったの。だから、そこへヴァイオリンの素敵な贈り物をしてくれたあなた達にも、何か記念になるようなものを持って帰って欲しくて」
「……そういう事なら、」
 ──栓を抜く機会は無いかも知れない、が気持ちは有り難く受け取る、と蓮も笑みを浮かべた。
「取急ぎだったけれど、セレクトは今日のそれぞれの演奏のイメージなの」
 奥深さを内包した赤と、花のような薫りの白を。

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【1532 / 香坂・蓮 / 男 / 24 / ヴァイオリニスト】
【1588 / ウィン・ルクセンブルク / 女 / 25 / 万年大学生】
【2193 / 向坂・愁 / 男 / 24 / ヴァイオリニスト】
【2496 / 片平・えみり / 女 / 13 / 中学生】

【NPC / 結城・レイ / 女 / 21 / 自称メッセンジャー】
【NPC / 結城・忍 / 男 / 42 / ピアニスト】
【NPC / 上塚・浩司 / 男 / 24 / ヴァイオリン奏者・講師】
【NPC / 陵・修一 / 男 / 28 / 財閥秘書】
【NPC / 柾・晴冶 / 男 / 27 / 映像作家】

【NPC / 渋谷・透 / 男 / 22 / 勤労学生(卒業間近)】

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■         ライター通信          ■
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いつも(NPC包みで)お世話になっております。
『EOLH』のスタート、ホテルのミニコンサートの柿落としに忍のピアノを起用して頂くお話が実現したんて、光栄の至りです。
彼も最近、相変わらず不器用ながら父親、やっているのです。ルクセンブルク女史の影響で。
未だ未だ子供への接し方が下手ですが、また困っていた時には色々とアドバイスしてやって下さい。
因みに面白い御新居ですね(……)。
今後、また間取りが大幅に変更されるようなイベントがある事を期待しています。
有難うございました。

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