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<東京怪談ノベル(シングル)>


『アネモネに光を』
 駅舎を見通すことのできるビルの壁際。花壇を囲む煉瓦の上に腰を下ろして皆木晃は幼馴染の訪れを待っていた。しかし待ち合わせの時刻を過ぎても幼馴染が現れる気配はない。
 ただ目の前を止まることなく流れ去る時間の中で多くの人々が蠢いているだけだ。
 ビルに囲まれた駅舎の前の広場を無数の人々が行き交っている。誰も晃に目にとめようとはしない。ただひたすら何かに追われるように前へ前へと足を運ぶだけだ。時折その人の波間を縫うように滑らかに過去や人ならざる者、死者の影がよぎる。広場にある総ての物体から立ち上る煙のような過去の記憶が揺らめき、人ならざる者や死者が幻のような不鮮明な輪郭で晃の目に映る。それらは時にひどく美しいものであったり、目を背けたくなるほど醜いものであったりする。周囲に無関心なまま足を動かすだけの人々を眺めながら、晃はそれに気付く人は誰もいないと思う。
 他人に見えないものが見えるということに気付いたのがいつだったかはわからない。けれどそうした能力がいつしか自分を総てから隔てていってしまったことだけはわかる。そして見たくはないものを見てしまう度に思う。
 気付かなければそこに無いことと同じだと。
 そして同時に、だとしたら果たして自分は確かにここに居るのだろうかと思ってしまう。
 目の前を行き交う人々は互いに無関心で、同様に晃を目にとめる人もいない。
 もしかするとここに居る自分は、他人にとって自分だけが見ているものと同じなのではないだろうか。過去から立ち上る記憶や実体を持たない者のように曖昧で、自分だけがただそれに気付かないだけなのではないか。今ここで声をあげても誰の耳にも届かないのではないだろうかと思ってしまう。
 不安は緩やかに待ち人のために開かれた空白を埋め、内側からだんだんと晃を蝕む。
 独りで待つ。
 その空白の時間が不安というそれだけに向かって収束していく恐怖。目蓋を閉じても見える。網膜に焼きついた映像が鮮明に脳裏のスクリーンに映し出されて目を背けることを許さない。時折救いを求めるように向けられる死者の視線。視覚で感じる過去にとどまったまま動くことのできない記憶の淋しさ。それらを感じる度にどうすることもできない自分の無力さに居た堪れなくなる。決してそれらが自分に救いを求めているわけではないと思っても、見てしまった刹那にそれらは刻印されたかのように鮮明な記憶として晃の中に残る。
 それらから逃れるように空を仰ぐと、視界を埋めた青空の隅にビルの屋上から落ちてくる半透明な影が映った。落下速度が生む風をはらんで制服がはためく。黒髪の少女。次いで自殺だと思った。重力に従って降下する肉体。しかし落下したことに気付く人はいない。
 当然のことだ。
 彼女は過去に囚われたまま自殺を繰り返しているにすぎない。堪らず目を逸らすとそこにはビルの狭間で数人の少年たちに暴行される老人の姿があった。許しを請う老いた手。それを無視する暴力に満ちた若い手足。咄嗟に立ち上がりかけてやめる。ぼんやりとした輪郭は明らかに現在ではないことを晃に教える。老人の身形からホームレスらしいことがわかった。少年たちは晃と同年代くらい。何が楽しい?問いかけそうになって目を逸らす。
 俯いて、泣き出しそうな自分を自覚しながら思う。
 ―――誰も僕のことなんて見てやしない。
 自殺した少女が今も自殺をし続けていることに誰も気付かないように、暴行される老人に救いの手が差し伸べられないように、今ここで人を待つだけの自分に気付いている人間など独りもいない。たとえ今ここで殺されても、一瞬の出来事として忘れ去られることになるだろう。
 その証拠が目の前の現実だ。淡々とした時間の流れに押し流されるように人々は総てに無関心。何があるともわからないというのに、先へと進まなければならないというそれだけの理由で前へと進む。誰もが皆、示し合わせたように急ぎ足。目蓋を閉じると靴音だけが総ての音を凌駕して早いリズムで鼓膜を震わせる。
 それだけがリアル。
 夥しい規則的な靴音が晃から自分という輪郭を奪っていく。
 不安だけが総てになる。
 肉体という器から溢れ出すように、自分がここに居るということがわからなくなる。
 腿の上で握り締めた手の感触さえも不確かだ。
 閉じた目蓋の裏側で過去たちが云う。
 気付かれなければ無いものと同じだと。
 まるでそれが真実だと決定付けるように哀しげに微笑む。
 受け入れたら許されるだろうか。ここに無いということを受け入れたら楽になれるのだろうか。自殺を続ける少女に問いたい。楽になれたかと。暴行された老人に訊ねたい。楽になれるかと。助けさえも与えられずにネグレクトという形で陵辱された自己を許容すれば楽になれるだろうかと、総てに訊ねてみたかった。
 自分さえもわからなくなる不安から逃れることができるなら、そんなことは容易いと思う。目の前を過ぎていく人々。それは一様に顔がない。皆が白い仮面をつけたかのように無表情で、没個性的だ。視線の先に何があるのかもわからない。内側に向けられた視線。それに触れるためにはどうすればいいのだろうか。人目を惹く容貌だという自覚はある。それ故に容貌に向けられる好奇を含んだ視線を雑踏の中で感じることは常だ。
 けれどそれは決して自分を見ているわけではないと晃は思う。彼らが見ているものは自分ではない。心惹くフォルムを形成している殻なのだ。その中に何があるのかを見ようとはしていない。彼らは美しい人形を愛でるような目でしか自分を見てくれない。それ以上のことを望むのは我儘だろうか。そんなものはいらないと一蹴することは罪なのだろうか。
 いつか通りかかった花屋の店先で何気なく聞いた言葉を思い出す。
 ―――知ってる?アネモネの花言葉って「見棄てられた人」っていうのよ。
 まるで自分のことを云われたような気がした。
 見る価値もないと棄てられた人。
 それは自分だと思った。
 不安ばかりが降り積もる。
 待ち人は来ない。
 空白を埋める不安は水底の汚泥のように沈殿する。
 俯いたまま目蓋を押し開くと、汚いアスファルトの上にぼんやりとしたヴィジョンが浮かんだ。
 不意に視界に飛び込んできたそれは都会のアスファルトには似つかわしくない蝉の死骸。
 呆気なく靴底に踏み潰される。
 無音。
 きっと自分もそんなものだ。
 思ったのが合図だとでもいうように晃が立ち上がろうとした刹那、聞き慣れた涼やかな声が雑音の闇を溶かすように耳に届いた。
「ごめん、電車が遅れて。待ったでしょ。……晃?」
 目の前で立ち止まった少女は申し訳なさそうにしながらも微笑んで真っ直ぐに晃を見ていた。額に滲む汗が空から降り注ぐ陽射しに煌く。長い睫毛に縁取られた大きな瞳。
 そこには確かに晃の姿が映っていた。
 見棄てられたわけではないと思った。
 すると自然に想いが言葉になって溢れた。
「ありがとう」
 晃の言葉に小首を傾げる幼馴染の少女を愛おしいと思う。
 彼女だけはいつも自分を見ていてくれると理由もなく確信する。
 幼馴染。
 今はそれだけで十分だ。
 彼女だけはいつまでも自分を見棄てずにいてくれるだろう。いつかの花屋の店先でアネモネの花言葉を告げた誰かがそれをきちんと目にしていたように、彼女だけはいつでも自分が望む姿を見ていてくれる。
 今目の前にある二つの瞳に在る自分の姿に、晃は今まで自分が感じていた不安が消え去っていることを知った。