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緑の贈り物
ユリ、ガーベラ、カスミソウ、カラーに胡蝶蘭にカサブランカ、多種に渡るチューリップとバラ……色とりどりの花達がショーウィンドウで見事な競演を果たすフラワーショップ。
その奥では、この店の主であるエプロン姿の男が観葉植物の鉢植えを手に何事かを囁きかけていた。
ゆっくりと優しく時間を掛けて。
都会で暮らす大切な娘のために、彼はその両手で想いを注ぐ。
そして、緑の鉢植えは彼の『魔法』を確かにその身に宿す。
*
卒論に追われながらもついネットゲームに逃避して、結局何も進まないまま時間だけが過ぎていく。
祝日ということもあり、今日寝たのは明け方だった。
藤井葛は半分寝惚けながら、それでもいつものように台所に立って自分のために遅い昼食を作る。
一人暮らしを始めてから着実に料理の腕が上がっている彼女の手際は無駄がなかった。
野菜を刻み、肉をいため、ヤキソバは順調に出来上がっていく。
「………ん?」
そんな音に混じって、不意に、こつこつと扉を叩く微かな音を葛は拾う。
誰だろうか。
今日は誰とも(リアル世界では)約束をしていない。
思い当たる節がない。
そもそもセールスマンにしろ郵便局員にしろ、チャイムを鳴らすはずだ。
やはり空耳だろうか。
そんなことを思いながら、再び料理に集中しようとした葛の耳に、今度はもう少しはっきりと扉を叩く音が届く。
「誰だ?」
一端調理の手を止めて、葛は首を傾げつつも玄関に出向いた。
「はい?」
施錠をはずし、ゆっくりと扉を押し開く。
「こんにちは〜なの!持ち主さん!!」
「――――っ!!?」
突然飛びついてきたものに、葛は声にならない悲鳴を上げた。
一体自分の身に何が起きたのか判断できないまま、葛はそろりと視線を下へ向ける。
もふもふと可愛らしいクマのリュックを背負い、自分に抱きついたまま見上げてくるのは、さらさらの緑の髪と大きな銀の瞳を持つ小さな少年だった。
「…………あんた、一体……」
実に素朴な疑問を、やっとの思いで喉の奥から搾り出す。
「藤井蘭なの」
「フジイラン……?」
「うんとね、持ち主さんのパパさんがね、ここに行きなさいって言ったなの。だから頑張ってひとりで来たなの!」
「…………そうか……」
とりあえず父親だ。何はともあれ父親だ。これは確信。
そして、この少年に聞いても多分きっと絶対詳しい事情や前後関係など聞けない気がした。これも確信に近い。
混乱から脱した葛の思考は建設的な方向に動き出す。
「とりあえず上がんな」
「はいなの」
いつまでも玄関で抱き合っていても仕方がない。
蘭を招き入れると、そのまま即行電話機に向かった。
受話器を握り締め、滅多にかけることのない番号を押していく。
この時間なら間違いなく店にいるはずだ。
3回の発信音ですぐに目当ての相手が電話口に出る。
ビンゴ。
「もしもし?葛だけど。あのさ、家に子供が来たんだけど、これってどういう――――」
『おう、無事辿り着いたか。というわけでそいつと仲良くやってくれ』
「え!?ちょっと待って―――」
ガチャン。ツーツーツー。
葛の質問と制止の声を遮って、通話は一方的に断ち切られた。
後にはむなしい電子音が聞こえるばかり。
「……………」
「………………」
ふと視線を横にずらせば、いつの間にか隣に立っていた少年が、まるい大きな瞳で自分をじっと見上げている。
「あのね。よろしくなの、持ち主さん」
ぴょこんと頭を下げる。
そして再び縋るような期待するような仔犬のような目。
葛は深い深い溜息をついた。
「ん。よろしく、蘭。俺は藤井葛だ」
手を伸ばして、苦笑と共に頭の上にぽんっと軽く手を乗せる。
まあいいか。
こちらの話をあまり聞かない姉やゲームの相棒や父親に振り回される葛には、速やかに思考を切り替える技能がいつの間にか備わっていた。
「さてと、昼ごはんの続きでもするか。あんたはそっちでくつろいでなよ」
居間のクッションを指差して、それから自分は作りかけの昼食を完遂すべく台所へ向かう。
後はソースさえ絡めれば昼食の出来上がりなのだ。
「あ、あのね、持ち主さん」
最後の仕上げに取り掛かった葛の背後に、おずおずと蘭がクマを抱いたままやってくる。
軽く服の裾を引っ張って、上目遣いに葛を見る。
「あのね、お水もらってもいい?」
「ん?ああ、ちょっと待ってな。すぐ用意するから」
東京の水は蛇口から直接飲めるようなものではない。
葛は彼のために買い置きのミネラルウォーターのミニペットボトルを開けてやることにした。
キラキラと好奇心に満ちた瞳で珍しいものを見るようにじっと蓋が開くのを待っている蘭。
「ほら」
「うわ〜い!ありがとうなの」
満面の笑みでそれを受け取ると、彼は一気に飲み干してしまった。
「え、ちょっと」
「ごちそうさまでしたなの」
ぷはぁ……と満足げに息をつく蘭。
「すっごくすっごくおいしかったなの!」
「どうも」
ミネラルウォーター1本でここまで感激してもらうのも妙に照れる。
ついでにヤキソバも半分取り分けたが、蘭は不思議そうに皿に盛られたものを眺めて手を出そうとしない。
「どうした?食っていいよ?」
「………持ち主さん……」
「ん?」
「あのね?これ、はじめて見るの。これも初めてなの。どうすればいいなの?」
「……は?」
ヤキソバを前にして割り箸を1本ずつ握って首を傾げる顔は、どう見ても真剣に悩んでいるようだった。
からかわれているわけじゃないらしい。
「ええとさ、これはヤキソバっていうもので、こっちは片手に2本とも持ってこんなふうに」
「こんなふう?」
葛を真似て不器用だが一生懸命持ち替えてみるが、慣れない指は不自然でぎこちない。
端の持ち方も分からないこの少年は、他にも知っていて当然の日常的常識のほとんどを知らないことが判明する。
これでよくこの家まで辿り着けたと思う。
「なあに?」
きょとんとした顔で蘭が葛を見上げる。
結局うまく箸を使えなかった彼は、現在フォークで辛うじてヤキソバを口に運んでいた。
「ん?いや、こんなに色んな事知らなくてよくここまで来れたなっていう不思議に対する知的好奇心が発動したんだけど」
「あ!それなら植物さんが教えてくれたなの」
「え?」
「持ち主さんのパパさんから地図もらってね、持ち主さんのお家までクマさんとがんばったなの。持ち主さんのお家の周りに植物があったからね、だから大丈夫だったの。さみしくなかったなの」
実に子供らしく、回答は詳細の一切を省いたまま自己完結してしまう。
「………植物……?大丈夫……?」
何がどう大丈夫なのかさっぱり分からない。
この質問は少々難易度が高かったようだ。
そこで次に素朴な疑問をもうひとつ投げかけてみる。
「じゃあさ、あのクマのリュックには何が入ってるわけ?」
せめてそこにこの少年と父親の思惑をはかる手掛かりがあるのではないか。
そんな期待をかすかに抱いてみる葛。
「ふに?ん〜とね」
蘭は腰掛けているビーズクッションの横に置かれたクマを引き寄せると、背中のチャックを開き、手を突っ込んでごそごそ掻きまわす。
そして何かを掴んでその動きをぴたりと止めると、
「じゃ〜んなの!」
「え?」
笑顔で取り出されたものは、園芸店に陳列されているような植物活性剤4本入りパックだった。
何故そんなものが。
せめて父親あたりからの手紙とか、そうでなくてもせいぜいおやつとか日用品とかサイフとか、そういったごくごく普通のものしか想定していなかった葛は再び言葉を失った。
「面白いもん入れてるんだ」
「パパさんが持たせてくれたなの!」
「そうか……」
葛はヤキソバを見つめながらひっそりと溜息をついた。
答えを得るどころか、どんどん疑問に疑問が重なって、彼に関する謎は深まっていくばかりだった。
夕方を過ぎたあたりから、ぽつぽつと窓を叩く雨音が聞こえ始める。
様々な疑問をとりあえず放置した状態で、
「蘭、俺はそろそろ夕食の買出し行くけど」
冷蔵庫の中を確認し、振り向けば、くまのリュックを抱きしめて大きなビーズクッションにうずくまりとろけるように頬を摺り寄せている姿が目に入る。
「……ふに………」
幸せそうにうとうとしている蘭の姿に、思わず表情が緩む。
彼はすっかりビーズクッションの、綿とは違う不思議な感触がお気に召したらしい。
食後もクマと一緒にそこから動かず、旅の疲れが出たのかほとんどずっとこんな状態でなかば眠っている。
雨はいよいよ本格的に降り出したようだ。
「ん?」
一瞬、窓の外が閃いた。
数秒の間を置いて、轟音が窓を振るわせた。
「うわっ…」
「ひゃ――――っ!!」
がたんっびくんっガチャン―――
雷が落ちると同時に何かをひっくり返した音が背後で響く。
「え?蘭?どうし……!?」
振り返ったそこに、出会ったばかりの幼い少年の姿はなかった。
「蘭?どうした?たんなる雷だって……蘭?」
きょろきょろと辺りを見回し、テーブルの下や隣の寝室、台所の隅までざっと巡ってみても彼はいない。
けして広くはない2DKの部屋の中から完全に彼の姿が消えてしまったのだ。
「……蘭?どこいった?」
豪雨の中、まさか外に飛び出したんだろうか。
そんなことまで考えて、ふと、この部屋にないはずのものが目に止まる。
小さな冷蔵庫と壁の僅かな隙間に何故かオリヅルランの鉢植えが隠れていた。
目の錯覚でなければ、それは怯えたようにフルフルと葉を揺らしているのだ。
「………もしかして、蘭、なのか?」
そろそろとこれ以上驚かさないように近付き、そっとしゃがみ込むと手を伸ばし、葉に触れる。
「……ふぇえ……持ち主さぁん……っ」
いきなり少年に戻った蘭は、半泣きで葛の胸に飛び込んだ。
「あれはたんなる雷だから……っていうかさ………」
宥めるように背中をぽんぽんと叩きながら考える。
この目まぐるしい展開は一体なんなんだ。
今度こそ絶対に父親を問いたださねばならないと固く誓う葛は、いまだ鳴り止まない雷鳴に怯える蘭を抱き上げると、再び受話器を取った。
時間を確認し、今度は実家の番号を短縮で呼び出して通話を押す。
今度は5回の発信音で父親が出た。
「葛。で、蘭が植物に戻ったんだけど一体なに?父さん、何したわけ?しっかり事情を説―――」
『オリヅルランの蘭だ。可愛いヤツだろ?というわけで仲良くやってくれ。真夏以外はよく陽に当ててやるんだぞ?水のやりすぎには注意が必要だ。寒さには強いから安心しろ。ちなみに白い花がキレイだ。花屋の娘なんだからしっかり頑張れ?じゃっ』
ガチャン。ツーツーツー。
相変わらず一切の質問に答えないまま、一方的に通話は打ち切られてしまった。
聞きたかったのは父親が何をやらかしたかで、間違ってもオリヅルランの育て方ではない。
「くっ、もっかいだ」
今度こそくじけないと決めた葛は再度リダイヤルを押して接触を試みる。
だが、2回目以降の電話は爽やかに無視されてしまう。
何度かけ直しても、向こうは聞こえないふりを決め込んだらしく、まったく応答がない。
「………うぅ……」
思わず喉の奥で唸る葛。
どうやら完全に負けを認めて現状を受け入れるしかないようだ。
「持ち主さん……?」
蘭がまたあの大きな瞳で腕の中から自分を見上げている。
「持ち主さん、あのね?」
「……ん?」
「パパさんが僕にチカラをくれたの。悪いヤツから葛を守ってくれって。だからね、僕は持ち主さんを守るなの!」
しがみ付いたまま、蘭は眩しい笑顔を弾けさせる。
落雷の音で元の姿に戻ってしまうようなオリヅルランの化身が自分のボディガード。
これまで重ねられてきた謎が、全てとまではいかないまでもようやく解けた。
ヤキソバも箸もフォークも知らず、植物に教えてもらってここまで来て、そしてリュックの中には植物活性剤。
「……そっか、蘭が俺を守ってくれるんだ?」
蘭につられるように、葛もまた笑顔になる。
ここにいるのは、心配性で子離れできてなくて娘のことになると時々思いがけないことを実行する父親の『愛情のカタチ』なのかもしれない。
それに、実はほんの少しだけ、葛は弟か妹が欲しかったのだ。
「……ま、改めてこれからよろしく、蘭」
「はいなの!」
いつの間にか雨はやみ、窓からは優しい月明かりが差し込んでくる。
こうして、1人と1鉢の少々風変わりな二人暮しが始まった。
卒論に追われ、ネットゲームに逃避する葛の平坦な日常が、オリズルランの少年によって少しずつそのカタチを変えていく――――
END
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