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<東京怪談ノベル(シングル)>


Early day

 暗き闇は明るくなる事を拒む。深き闇は浅くなる事を拒む。赤き闇は白くなる事を拒む。
 そうして暗き深き赤き闇は、全身を駆け巡り、全身を満たそうとする。いつまで経っても満たされぬ事は、在り得ないと言うのにも関わらず。


 鴻月・朱華(こうづき しゅか)は、黒髪を振り乱し、黒の目を爛々と光らせて目の前の存在と対峙していた。
「……くそっ」
 小さく呟き、ぺっと血反吐を吐いた。目の前の存在がくつくつと笑う。
「どうした?小僧」
「小僧、とは甘く見られたものだな」
「甘く?」
 くつくつと、笑う。目の前にいるのは、悪霊だ。既に善の心など無くしてしまっている、絶対的な悪。
「甘く見られても仕方なかろう?たかだか17しか生きておらぬ小僧が」
 朱華はキッと睨みつける。ここは人通りの少ない通りだ。周りの目を気にしなくて良い分、何かあった時に助けをすぐに呼ぶ事は困難である。それなのに、朱華の全身には傷があった。幸いにしてかすり傷ばかりだが、逆に言うと朱華の『瞬歩』を以ってしてもかすり傷を負わせられてしまう、という事なのだ。
(悔しいが……力だけはあるようだ)
 朱華は悪霊を睨み、奥歯をギリ、と噛み締める。
(生意気な)
「おや、悔しそうだな。小僧」
「……黙れ」
 朱華は唸るように言い、地を蹴った。『瞬歩』を発動させ、悪霊の背後を取る。が、悪霊はそれを見抜いたようにさっと位置をずらし、朱華の懐に入り込む。
「甘いな、小僧」
 悪霊は馬鹿にするような含み笑いをし、それから朱華の鳩尾を力いっぱい殴りつけた。遠慮も配慮も何も無い、純粋な力を叩きつけられ、朱華の体は宙を舞い、壁に打ち付けられてしまった。がは、と胃から酸っぱいものが上がってきて、思わず朱華は吐き出してしまう。良く見ると、血も混じっているようだ。
(口の中が染みる……)
 口の中の嫌な味に、ぺっと吐き出しながら朱華はゆっくりと立ち上がる。
(切ってしまったか)
「弱い……弱いな、小僧!」
 悪霊はそう言い、がははは、と笑った。
「本当に、弱い……!それとも、儂が強すぎるだけかね?」
「……クソが」
 朱華は小さく呟くが、猛っている悪霊には聞こえなかったようだ。
「どうだね、小僧!儂が強すぎるんじゃないかね?」
「そんな事はない」
「ほほう?」
 きっぱりと言い放つ朱華の言葉を聞き、悪霊はゆっくりと朱華に近付いていく。にやり、と含んだ笑みをしながら。
「ならば、お前が弱いということになる。ほほう、お前は弱いんだな?」
「何……?」
「そうかそうか、お前が弱いということか!これは失敬!」
「……貴様……!」
 悲鳴をあげる体に叱咤し、朱華はゆっくりと立ち上がる。悪霊はその様子を実に楽しそうに見て笑う。
「お前が強いとでも?どうだ、本当にお前が強いとでも言いたいのかね?そのような様で、まだお前は自分が強いというのかね?」
 くつくつと笑う悪霊に、朱華の目が一層鋭く光る。だが、そのような事には構わず、悪霊は言葉を続ける。
「だってそうじゃないのかね?お前は儂を弱いという。ならば、その弱い儂にしてやられているお前は、さらに弱いんじゃないのかね?」
「何を……」
「矛盾ではないかね?どうだ、お前も思っているのであろう?お前が抱いている矛盾に」
 悪霊の言葉に、朱華はぐっと言葉に詰まる。確かに、悪霊の言う通りなのだ。朱華が先ほどから言っている言葉は、どうにも矛盾が生じてしまっている。
(『瞬歩』を用いても、尚もこちらに反撃を返してくる)
 朱華は悪霊の隙を見つけようと、じっと様子を窺う。だが、悪霊はそれには気付かず、朱華が反論出来ない事のみに笑う。
「矛盾を孕み、お前自身戸惑っているのであろう?」
(何か、あるはずだ)
「俺が強いのか、お前が弱いのか。お前は決めかねているのだろう?」
(必ず、隙が)
「反論できぬのが何よりの証拠!」
 全く口を開かない朱華に、悪霊は気付く。そしてにやりと笑い、蔑みの目を向けた。
「お前……何も守れぬな」
 ぽつりと漏らした一言だった。悪霊にとっては、ただただ朱華の気を乱してやろうとしていただけの、一言。だが、それは確実に朱華の全身を駆け抜けていった。まるで電撃のように。
「お前は、弱い。何も守れぬほど、弱い」
(……やめろ)
「何を守れる?何を守る?」
(やめてくれ)
「何も守れぬ、何も守ることは出来ぬのだよ……!」
(黙れ……!)
 高笑いする悪霊に、朱華はゆっくりと立ち上がった。目に先ほどまでの鋭さは無く、ただただ無表情に光っているだけだ。ゆらりと立ち上がったその様子に、全身が痛んでいた事すら嘘であったかのようにも感じられた。それほど自然に立ち上がったのだ。
「……立つ、か」
 にやり、と悪霊は笑った。だが、朱華は何も答えなかった。否、答える必要など何処にも無かったのだ。ただまっすぐに、悪霊を見ているだけだ。
「何か、癇に障ったかね?」
「……消えろ」
 悪霊の言葉に、朱華はただ一言だけ発した。それを皮切りに、朱華の周りに炎がゆらりゆらりと取り囲むように生じていく。まるで朱華の意志に呼応するかのように。
「炎、か?馬鹿め。何を出してきても儂に叶う筈が無いだろうに」
 悪霊はそう言ってくつくつと笑ったが、朱華の表情は少しも変わらなかった。ただまっすぐに悪霊を見つめ、全身に炎を纏う。ただ、それだけだ。
「さっさとこっちに来ればいい、小僧……!」
「消えろ……!」
 朱華はそう叫び、大きく体を振りかざして舞を踊るかのように軽やかに悪霊の体に炎を打ち込んでいった。優雅で、そして残酷な舞。悪霊の体は一瞬にして炎に包まれる。巫炎を纏いし、拳舞である『神楽舞』である。
「ば、馬鹿な……!儂は強い、儂は強いのだ!」
 炎の中で、悪霊は叫ぶ。朱華はそれを蔑みながら見つめ、ぽつりと呟く。
「ただ、弱かっただけだろう?」
「うおおおお!」
 消えていく中、悪霊は叫びだけを残して消えていった。そうして訪れる、静寂の闇。
「……守りたかった」
 ぼたり、と腕から血が流れた。先ほどの戦いで、いつの間にか付けられていた傷である。朱華は壁にもたれかかり、それからずるずると崩れていった。ざり、という地面を擦る音が人気の無い路地に響く。
(俺は、何故ここにいる?)
 改めて沸く、疑問だった。全身に傷を負い、それでも生きている自分。痛みや苦しみを訴える体を抱え、それでも生きている。
(何も、欲しくなんて無いのに)
 やりたい事も、欲しいものも、何も無い。こうしてここに存在している事すら、望んでいないのに。
(何も近付かないでくれ……俺に、何も)
 近付けば、傷つけるだけだった。それが分かっているから、あえて孤独を選んだ。否、選ばざるを得なかった。孤独は酷く寂しくさせたが、その分傷つける事が無いから楽だった。
(どうして、俺はここにいるんだろう)
 執着するものすらないのに、この世界に留まっている必要は何処にあるのだろうか?
(俺は、俺は……)
『お前は、何も、守れない』
 先ほど消滅させた筈の悪霊の言葉が、頭に響いた。朱華の目が大きく見開かれる。
(そうだ……俺は何も守れない……何も守ることが出来ない)
 ぎゅっと地面の土を握り締める。爪の間に土が入り込んだが、そんな事は動でもいいことだった。痛みすら、違和感すらなかった。何も、感じないのだ。
(キミを……俺は、キミを守れなくて)
 思い浮かぶのは、今は無き女性の顔。大事だったのに、大切だったのに、何故だか上手く思い出す事が出来ない。
(キミはよく笑っていたのに……よく、笑っていたのに)
 失ってしまったものは、もう取り返せない。大事だったのに、大切だったのに、もう二度とこの手にする事は許されぬのだ。
(ああ、どうして)
 失ってしまったあの瞬間から、朱華は喪失感に襲われた。自らの存在ですら、執着しなくなった。突如全てを失ったとしても、突如全てが消え失せてしまっても、恐らく何も動じないだろう。全てを捨てる覚悟が、整ってしまったのだから。
(どうして、キミは)
 朱華は薄れていこうとする意識の中で、必死に彼女の顔を思い出そうとしていた。よく笑っていたという思いはあるのに、どうしてだか上手く思い出せない。ゆっくりとおぼろげに輪郭だけが浮かんでいく。ゆるやかに、少しずつ。
 だが、何故だか思い出していく彼女の顔は無表情だ。
 あんなにも、大事だったのに。
 あんなにも、大切にしていたのに。
 思い出す事すら、叶わないなんて……!
「俺は、全てを失っても良いんだ……」
 朱華はそう呟き、そっと目を閉じた。全身が悲鳴をあげていた。今は、休養を取る事だけを優先させねばならぬ。
(キミは、どうして)
 薄れゆく意識の中で、朱華は漸く彼女の顔をはっきりと思い出した。
 闇の中に浮かんだ彼女の顔は、全く笑ってなどいなかった。


 闇は恐ろしく暗く、深く、赤い。何処までも落ちていってしまうのではと、不安に駆られるほど。
(暗い)
 いつまでも続く光の無い道。
(深い)
 何処までも落ちていく底の無い穴。
(赤い)
 消え失せる事の無いその鮮やか過ぎる色彩。
 闇の中では全てが無であり、全てが愚かしい。暗く、深く、赤い。そんな闇の中で何を思おう、何を得よう、何を求めよう。
 答えは……否!
 それは現在へと続く道であり、それは現在へと落ちていく穴であり、それは現在にまで残される色彩であろうとも。
 そうして、少しずつ、だが確実に現在へと繋がっていくのであった。

<在りし日の闇を自らが内に秘めつつ・了>