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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


懐かしき色彩

 耳を澄ませれば聞こえてくる。蹄の音、森を抜ける風の音。
 そして――誰かを呼ぶ自分の声。大切な誰かの名を呼ぶ。遠い遠い過去より耳に届く声は、切なくて胸が痛んだ。
 心の叫び。失いたくない誰か……。
 決して形となって現われることのない幻想。

「う…さ、寒い……」
 浅い夢から目を覚ました。気がつくとそこはいつもの美術室。雛色のカーテンは夕暮れ色に染まっていた。テレピンとカンバスに塗り付けた絵の具の乾きかけの匂い。部員が使用している画材が、人数が少ない割りに所狭しと置かれている。
 木製のイス。どうやら背に寄りかかって眠ってしまっていたらしい。思わず身震いをして、手にしたままだった絵筆を置いた。
「また、あの夢……僕は誰の名前を呼んでいるんだろう」
 しばしボンヤリと霧のかかった夢を思い出す。声だけが聞こえる。目覚めた後、胸に残るのは無常感と狂おしいほどの痛み。こんな夢を時折見るようになったのはいつの頃からだろうか。
 思考に埋没していると、帰宅を促すチャイムが鳴り響いた。
「しまった! もう、こんな時間か……また、母さんが心配するぞ」
 慌てて身支度を整える。鞄にスケッチブックを突っ込んで、絵の具だらけのエプロンを外す。イスの背に引っ掛け、テレピンの壷に蓋をした。友人に頼まれていた膠を鍋から下ろし、サイドテーブルの方へと向かう。置いておいた色鉛筆の缶を手にしようとして、手が止まった。
「いつ……いつになったら、話せるようになるんだ……」
 視線の先には大切に大切に描き続けている肖像画。自分で描いている絵姿だというのに、目を奪われ動くことが出来なくなる。柔らかな光に包まれた女性の顔。青みがかった黒髪と穏やかな中に凛とした炎が燃えている碧の瞳。優しい笑顔が僕を振り返ることなく、どこか遠くを見据えている。
 ――そうか、あの時からだ。
    切なく胸に痛む声を聞くようになったのは。
 カンバスの中の女性を思う。そう、彼女に初めて出会った時から、あの夢を見るようになったのだ。
 僕は急いでいたことを忘れ、古い記憶の色彩に身を沈めた。

                        +

 絵を本格的に描き始めたのは中学の頃。幼少から絵を描くのは好きだったが、入学と同時に入った美術部でその面白さに魅了されてしまったのだった。まだ水彩しか描けなかった。けれど、展覧会に出す機会に恵まれ、ありがたくも良い評価を受けることも増えていた。
 それは中学2年の初夏のこと。

「R人! もう帰るのか?」
「やだな、西影先生。知ってるくせに」
「ははは、そうだったな。お前は本当に風景画が好きだからなぁ。人物は描かんのか、良い勉強になるぞ」
 先生の大きな手が僕の肩を叩く。
「僕は興味ないです」
「そうか? 好きな女の子とか、結構みんなこっそり描いてるけどな」
「ええっ! 僕にはいませんよ。今、女の子に興味なんてないですし」
 先生が苦笑するを確認して僕は美術室を出た。
 人物を描いてみたいとは思わなかった。風景画に夢中だったからだ。自然の風景を目に焼き付け、僕なりに解釈しながら描く。それは写実的であり幻想の世界。写真では表すことのできない自分だけの色彩世界。学校帰りにいつも題材になる風景を探して歩いていた。
 蒸し暑かった陽射しもかげり、涼しい風が頬を撫ぜる。春から夏にかけての季節が好きだ。色は鮮明に目に飛び込んでくるし、眩しいほどの光が僕に描けと声をかけるから。
 足取りも軽く、愛用のスケッチブックを手に気に入った風景を探していた。
「おっ、ここはまだ来たことないな」
 河川敷に面した公園。緑の葉が生い茂り、ところどころに木製のベンチが設置してある。土手へと上がる階段には白い手すり。誰が植えたのか、コウゾリナの群生。黄色い帯のように雛菊に似た小さな花が土手を飾っていた。
「へぇ……いい感じだ。ここら辺でスケッチしてみるか」
 両手でカンバスを切る。階段と緑のポプラ。それにベンチ。すべてを入れようと後方へと足を下げると、足が木に当ってしまった。ベストの構図にするにはツツジの茂みに入らねばならないようだ。
「仕方ない」
 僕は辺りを見渡し、人の気配がないのを確かめてツツジを乗り越えた。ちょうど良いところに石があった。座り込んで鉛筆を走らせる。時間も流れる汗も忘れて没頭する。
 描き込む指。顔を上げた。
「――あれは…? 誰だ」
 目に飛び込んできたのはひとりの女の子。あどけなさの残る白い頬。それに反するように凛と伸びた背筋。青いワンピースの胸にはタロットカードらしきものが入っている。持ち歩いている人物なんて初めて見た。茂みの中に座り込んでいる僕に気づかないのか、ごく間近で何かを見つめている。
「何を見ているんだ?」
 彼女の視線を追う。その先には何もなかった。ただ、風に揺れる草があるだけ。
 ――もっと遠くを見つめているんだ。
 呟きを飲み込む。なぜだろう。気づかれてはいけない気がした。いや、気づかれたくなかったんだ。ずっと見つめていたい――そんな感覚に捕らわれる。自然に指は紙上に彼女の輪郭を結んでいた。
 長い睫毛。その奥にある湖を思わせる深い碧の瞳が強く心を掴む。風になびく黒髪が頬に掛かる度に、彼女の白く細い指がすくっていく。僕は無心に描き続けた。
 ふいに彼女が振り向いた。
 ――き、気づかれた?
「柑奈! もう待ってたのよ」
「……ごめん。あんまり空が綺麗だったから」
 僕は知っている。彼女が空など見ていなかったことを。どうして、隠すんだろう……。
 気になった。
「行こう!」
 友人に誘われるままに、彼女の背中は遠ざかって行った。僕に残されたのは輪郭だけを写したスケッチだけ。
 それでも――。

                              +

 現在、僕は高校生になった。目の前にあるのは、大切に描き続けている女性の絵。
「柑奈…さん……」
 名を呼ぶだけでも胸を締め付けられる。
 あの一瞬だけ出会った人が忘れられない。3年という時間が経過してもなお、脳細胞に残り続ける姿。それは薄れるどころか、日を追うごとに鮮明になり僕に絵筆を握らせるのだ。
 声を掛けていれば良かった。今では後悔している。けれど、柑奈さんを包む穏やかで優しい空気、光輝く彼女自身に魅了されて動くことが出来なかったのも事実。名しか知らない。どこ誰なのかも。友人と待ち合わせていたということは、近くに住んでいるのかもしれないと、度々そこを訪れたが出遭うことはなかった。

 だから、僕は描き続ける。
 絵筆を持ち続けることで、また彼女に逢えるのではないかと思うから。
 どこか、願いにも似た想いを抱きながら。

 目を閉じると蹄の音。森を抜ける風の音。
 そして、遠く遠く誰かの名を呼ぶ己の声。
 いつか、いつか。
 必ず――と。


□END□

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 素敵な物語を綴る幸せvv ライターの杜野天音です。
 R人くんの心に刻まれるひとりの女性。時間の経過など、誰かを想う気持ちには何の効力もない。忘却すべき過去かもしれない。けれど、確実に現代へとつながっていく輪廻。
 R人くんと柑奈さんが出会う一瞬を楽しみにしています(*^-^*)
 今回は本当にありがとうございました!