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<東京怪談ノベル(シングル)>


心の隙間、お埋めします



 その男が、年不相応の屈託のない笑みを浮かべながら手のひらを開いた時、私は一時期とても熱中して読んでいた漫画のワンシーンを思い出していた。
 ――心の隙間、お埋めします。
 そんなキャッチフレーズを名刺に刻んだ、不吉な笑い方をする男が出てくる漫画だ。
 ――お客様に喜んで頂けたら、それが何よりの報酬です。
 だがしかし、現実の世界には、漫画のような「オチ」はない。
 どんな幸運を手に入れようと、不幸に苛まれようと、生きている限り物語は続く。
 突如現れる「オチ」が、幸運や不運を遮ることはないのだ。
 目の前で私を見つめて微笑んでいる青年は、あの黒いスーツを着た登場人物には似ても似つかない清々しい容姿を持っていた。
「あなたがこのインタリオでお金持ちになれたら、私にマンションでも買ってください」
 ぬけぬけと、そんな要求までしてくる。
「病は気から、なんてことわざを聞いたことがあるでしょう。このインタリオはあなたの『気』の流れをうまいことコントロールしてくれるんです。幸運のお護り…といった所でしょうかね」
 インタリオ、なんて言葉を私は今までにきいたことがない。
 が、男の手のひらに載せられているのは、何やらとても古めかしく鈍い光沢を放つ洋風のアクセサリーのようだった。
 女性だか男性だかよくわからない、人の横顔が彫り込んである。
「ここで会ったのも、何かのご縁ですよ。私はこれを、あなたに持っていていただきたい――あなたは実力と才能のある方だ。でも、チャンスに恵まれない……そうですね?」
 私は、彼の視線から目を背け、グラスの中に薄く残っていたウイスキーをくっと呑みほした。彼の言葉を、私は否定することができない。
「はは、大丈夫ですよ。疑っているんでしょう、これは…現実です」
 ドキリとした。
「あなたの人生を操作する存在は誰もいないし、このインタリオがあなた自身を操ったりすることもありません。だって、ここは――現実の世界ですから」
 私の鼓動が速くなる。
 彼は私の、どこまでを見抜いて笑っているのだろう?
「肌身離さず、ただ持っていてください。…ああ、それと」
 私がいつまでたっても手を伸ばしかえさないでいると、彼はそれをコトリとテーブルの上に置いた。シャツの胸ポケットにだってするりと入ってしまう程度の大きさのものだ。
 ――私はそのとき、既にそのインタリオを持ち歩くつもりになっていたのかもしれなかった。
「…あなたにとって、一番大切なものは何なのか。それだけは、見失わないでくださいね」
 男は自分の口唇に、内緒話でもするようにひたりとひとさし指を当てて告げた。そんなこ洒落た仕草が、妙に私の居心地を悪くさせるのだ。
「ヒトに取って、『成功している』という状態は生きるためのものさしです。いかに生きてきたか、いかに『守ってきた』か。『成功している』という状態そのものが、到達地点だとは思わないでくださいね? 『成功している』という状態は、飽くまでものさしであり、手段です」
 男の口調は、いつしか噛み含めるような、ゆったりとしたものになっていた。
 私はゴクリとツバを呑む。
「なんて…少し喋りすぎましたか」
 既に男の言葉は、私の耳に届いてはいなかった。

 無理をしてローンで購入した我が家の二階の窓を見上げると、息子の部屋の電気がまだついていた。
 一家の大黒柱が酒を飲んで帰宅して何が悪い――そんな気持ちが、息子の部屋の青いカーテンを見上げ、そして玄関の明かりまでが灯されているのを見ると途端に萎縮する。
 無論、妻も私の帰宅を待ち、台所で雑誌を捲っているのだった。
「お帰りなさい、お腹はすいていない?」
 そう云いながら彼女は起ち上がり、息子の分と、私の分の二つの夜食をこしらえ始める。穏やかな薄茶のナイトガウンを羽織っている。夏のボーナスが出た時、彼女が唯一私に強請った細やかな高級品だった。
「ありがとう、少し食べてから寝ることにしようか」
 いそいそと味噌汁を温め始める、妻の首筋は若い。決して、高校生の息子がいる年齢のうなじには見えない。
「父さん、帰ってたんだ。おかえりなさい」
 台所の扉が開いて、息子が顔を覗かせた。同僚の愚痴やテレビで耳にするような今どきの若者ではなく、健康的で、穏やかに白い歯で笑う男だ。妻から夜食のトレイを受け取って、部屋へ引き返していく。私の前には、妻が漬けたキュウリのぬか漬けとアジの開き、それに缶ビールとグラスが置かれた。
 美しく若々しい、無欲な妻一人。
 大学受験を控える、健康的な息子一人。
 これ以上の幸せの何を望むことがあるだろうか。私は自戒する。
 だが、これだけの幸せを得ているからこそ、私は妻と息子のためにも、『成功』を手にしなくてはならない――そうも、思う。
「明日は、いつもより一時間ほど早く起こしてくれないか。早朝会議で、大切な決議があるんだ」
 私の向かいの椅子に腰を下ろした妻が優しく頷く。
 シャツの胸ポケットには、あの男から受け取ったインタリオが入っている。



 男からインタリオを受け取ってから三ヶ月。
 気が付けば私は、どういう訳か会社の専務にまでなっていた。
 親族企業であるために保身的だった私の努める社内の人事としては異例のことだ。
 そのきっかけは、些細なものだった。
 早朝会議の遅刻すれすれに乗った通勤電車の車内で、痴漢を捕まえた。
 その痴漢が、入社以来ずっと私のライバルだった同僚だったのだ。
「なあ、俺とお前の仲じゃないか――見逃せよ…な、な!?」
 社内では威風堂々とした切れ者の四十代が、外で見ればただのしょぼくれたサラリーマンに見えた。
 私は無言のまま、彼を車掌に預け会社に向った。
 会議で新しく決定するはずの役職で、彼と競っていたことを私は知っていたからだった。
 そこで私は、課長から部長へと昇進が決まり、次の月には役員のスキャンダルで開いた大穴にそのまま収まってしまった。
 常に、その足を踏みだすか踏みださないか――そんなふうな決断を強いられた。
 マイナスを補うために、自らの身を粉にするか。
 そのマイナスを足がかりに、自分はプラスの階段を一段でも高く昇りつめるか。
 あの日から私は、迷うことなく後者を選ぶようになっていた。
 チャンスとは、こんなふうにして転がっている。
 そう実感しながら。
「俺、受験に成功して、父さんみたいな企業戦士になりたいよ」
 そんな息子の言葉に、ちくりと心を刺されながらも、私はまんざらでもない気持ちにさせられていた。
「たまにはうちでゆっくりとお夕食を取って下さいね――働き過ぎは、身体に毒ですよ」
 夜な夜な同僚や上司と飲み歩き、前よりもいっそう帰宅時間が遅れるようになった私に妻がやんわりとそんなことを云う。
 申し訳なさも感じたが、その頃には疎ましさの方が勝っていたように感じる。
 おそらくは、彼女も気付き始めていたのだろう。
 私は、外に四人の女を養うようになっていたのだ。

 仕事を終え、銀座に酒を飲みに行ったあと、会社のある青山にタクシーで引き返す。
 青山には、私が課長時代から密かに通っていたバーのママが住んでいた。
 そこでしばらく彼女との逢瀬を楽しんでから、赤坂に寄る。
 それが六本木のこともあったし、目黒のこともある。
 皆、情が深く、楚々とした女たちだった。
 青山からは、自分のエリーゼを運転して彼女たちのマンションに向う。
 この年になって、自分がずっと憧れていた車のハンドルを握ることができるようになるとは、思ってもみなかった。
「これも、この…インタリオ、とか云うののおかげなのか?」
 いささか自嘲気味に、そんなことを呟いてみたりもする。
 ここまでの成功を、私は自分の実力であると確信している。
 あの日、満員電車に乗って、痴漢を捕まえたのも自分の機転だ。
 役員のスキャンダルを偶然耳にして、それを専務に進言したのも私の力だし、女たちを自分のものにしたのも、云うなれば私自身の実力と魅力というものであると思う。
 インタリオをいまだに胸ポケットにしのばせているのは、身についてしまった癖、なのである。
 あの男は、たまに酒を飲みにいくと顔を合わせることがある。
 自分の足取りを追われているようで気味が悪かった。
 今に話しかけてきて、マンションを買えだとか云ってくるのだろうか。
「……」
 不愉快だ。
 これは私の人生であり、実力であり、機転である。
 どこの誰かも判らない男が私に押し付けたペンダントか何かで左右されたものでは、決してないのだ。
 そんなことを思いながら、少し乱暴にハンドルを切った時、
 ――左の後輪で、何か重たいものを轢いた感触がシートに伝わった。
「……………」
 深夜の、飲屋街である。
 既に閉店した店ばかりの界隈には、人一人歩いてはいない。
 …はずだった。
 私はおそるおそる車から下り、助手席の方へと回っていく。
 果たしてそこにあったのは、車体とタイヤの隙間からはみ出た真っ黒な髪の毛、であった。
「………ッひィ…!」
 アルコールのせいで、ブレーキを踏み込むタイミングがずれたらしい。
 車とタイヤの間に深く挟み込まれたのは、紛れもなくヒトの身体だった。
 本来、おさまるべき容量を持たないタイヤの裏に、それほど長くない湿った髪が絡みついている。
 車体の裏で、がたがたと痙攣する膝が当たる音がする。
 まだ、生きている。
 真っ赤に濡れた指先がアスファルトを掻いている。
「……ま…待てよ…おい…」
 自分の声が掠れて、泣きそうな声音になっているのを聞く。
 男なのか女なのか、見分けがつかなかった。

 私はひとまずエリーゼの運転席に乗り込み、そろそろと車をバックさせる。
 ばきばきと骨の砕ける振動が、シートの真下で聞こえた。
 それでもブレーキは踏まない。慎重にアクセルを踏み込んで、巻き込んだ死体を車体の真下へとタイヤから外すことに成功した。
 伸び切ったゴムのようにぐったりと動かない死体を引きずり出して、エリーゼのトランクに載せる。
 地面にへばりついた薄桃色の肉は、まだ温かかった。髪の毛と共に付着したそれは、死体に叩きつけるように放り投げた。
「どうして……どうしてここに来て……」
 私は夜の街をできるかぎりのスピードで走り抜けながら、何かの呪詛のようにぶつぶつと呟いていた。
 ハンドルを握る指先が、得体のしれない脂でぬめる。
 仕事の成功、私生活の充足。
 それらが全て崩壊していく音を聞いていた。
「……早く…早く、捨てちまわないと……」
 それだけを思っていた。
 虫の息だったヒトを、もう一度轢き直して私は殺した。
 そして車を走らせ、誰も寄りつかないような山の奥に捨ててしまおうと思った。
 誰も寄りつかない場所で、誰も知らないような場所。
 その望みは、半ば叶ったとも云える。
 今でも私は、その死体――息子の死体を、山のどの辺りで遺棄したのか思い出せずにいるのだから。



 そして今、何もかもを失った私は、あの日ウイスキーを煽ったショットバーにいる。
 私が山奥に捨てた遺体が、何を隠そうたった一人の自分の息子であることに気付くのに、さほどの時間はかからなかった。
 いつも訪れる時間になっても私が現れないことを不審に思った赤坂の女が、私の携帯電話を鳴らした。妻に隠して契約した方の電話だ。
 その日に限って自宅に置いていってしまった電話は深夜に鳴り響き、妻が出た。
 妻は妻で、私の帰りを待っていた。
 私の務める会社が突然の不渡りを起し、緊急会議があるから今すぐ出社してほしいと伝えたと云う。私が同僚や上司とともに飲み歩いていると考えていた妻は狼狽えた。
 朝方、ようやく自宅に帰った後で、私はそれらの不手際や失態、辻褄合わせを全力でこなした。
 そのさらに後で漸く、息子の不在に気がついた。
 捜索願を出そうと妻は云う。
 もう少し待とうと妻を宥め、私は家を出てきたのだった。

「どうでした、あのインタリオ? なかなかびっくりな力を秘めていたでしょう」
 人を食うそんな言葉のあとで、小さく男は――神山隼人はブラッディマリー、と告げた。バーテンが頷いて、奥の冷蔵庫に消えていく。
 待ちあわせをしたわけではない。
 ここに男がやってくると、知っていたわけではない。
 ただ、私は確信していた。
「ふざけるな。あんたが寄越した奇妙なアクセサリーのせいで、私の人生は…めちゃくちゃだ」
 力のない抗議だ。
 今さらこの男を詰ったところで、何が変わるわけでもないのだから。
「きちんと云ったじゃないですか。成功は、ものさしであり、手段です…とね。成功が最終目標ではいけません。大切なものをねあなたは見失った。その報いですよ」
 そんな私の思惑を汲み取ったのだろう、男は小さく笑って返す。
「マンションの代わり、ですかね…ごちそうさま」
 傾けたグラスの中身をくい、と飲み干して、神山がテーブルを立った。
 興醒めだなあ。
 そんな言葉を背中に聞いたが。
 既に私は脱力しきってしまい、ぐうの音も出せないままでいたのだった。
 
(了)