|
子供たちは幻想の森に遊ぶ
本には世界と時間と知識、そしてありとあらゆる想いが沈黙と共に閉じ込められ封じ込められている。
いつか誰かが手を伸ばし、自分達の中に眠るものを呼び覚ましてくれるその瞬間まで、じっとそこで待っている。
そして子供はいつもたやすくその世界の扉を開く。
*
新書と古書の店が隣接して立ち並ぶ本屋街をひとつひとつ巡りながら、綾和泉汐耶は非常に有意義な休日を過ごしていた。
「おや、汐耶ちゃん。いらっしゃい。いい本入ってるよ」
「あら?汐耶さん、今日の探し物はなんですか?」
「いらっしゃい。丁度あんたに見てもらいたいもんがあったんだよ」
そんなふうに気軽に声を掛けてくれる顔馴染みの店主たちに笑顔で応えながら、汐耶は休日を楽しんでいた。
自分が勤める図書館にはない類の資料や話題の新刊を手に取り、眺める。
天井に届く本棚の間を、背表紙を確かめながら進む。
探していた絶版本を偶然店の片隅で見つける。
こんな時間が心地よかった。
本屋街を歩き回り、丁度5階建ての大型書店の前を通りがかった時、汐耶はそこで見知った顔を見つけた。
ショーウィンドウに張り付いて、何かを夢中になって見上げている緑の髪の少年。
背中には茶色いクマのリュック。
「あら?あの子、もしかして……」
何を見ているのかと後ろからそっと視線を辿れば、そこには絵本のポスターが張ってあった。
深く優しく包み込む昼と夜の顔をもつ森の絵。
重なり合う木々とその隙間から覗く湖、空には月と太陽がひとつずつ。
天使のような白い影が、ふわりと小さく緑の中で躍る。
キラキラと夢見るようにポスターを見つめ、空想の世界に引き込まれて遊ぶ藤井蘭の姿に幼い頃の自分が重なる。
ふとした懐かしさが胸をよぎる。
「蘭くん、こんにちは」
いまだ自分に気付かない彼を微笑ましく思いながら、汐耶は覗き込むようにして声をかける。
「あ!こんにちはなの!」
こちらの声でようやく気付いた蘭が慌てて頭を下げる。
「珍しいわね。今日はひとり?」
「うんとね、持ち主さんはお出かけで、僕はお散歩して、3時半になったらここで待ち合わせなの〜」
クマの中から取り出して見せてくれたのは、羊皮紙のような質感の紙に書かれた簡単な地図と銀色の懐中時計だった。
パカリと彼が開いてくれた懐中時計は、いま午後2時45分を示している。地図はどうやらここからあまり遠くないアンティークショップを指していた。
「そっか」
なんだか地図とアイテムを手に小さな冒険をしているみたいだ。
「まだもう少し時間があるみたいだけど、良かったら私とデートする?」
「ふに?」
「せっかくだから、ここに入ってみないかってお誘い」
クマの中へアイテムをしまっていた手を止めて不思議そうに自分を見上げる少年に、優しく笑って本屋を指差した。
「わ〜い!はいるなの〜ありがとうなの!」
「じゃあ、行きましょうか」
バンザイ状態で笑顔を弾けさせる蘭の背を軽く押して促すと、汐耶は大きな書店の扉を押した。
本の中には様々な世界が眠っている。
一冊一冊に息衝く物語。
やわらかな照明の下、広いフロア全体を埋め尽くす本棚の群れ。
「スゴイなの!いっぱいなの!」
圧倒的な光景に、蘭はしきりに声を上げてはキョロキョロと辺りを見回している。
「そんなに感動してもらえるとデートに誘った甲斐があるわ」
可愛らしい姿につい笑みがこぼれてしまう。
他の客達の視線も、どこか優しげだ。
「本屋さん、初めて?」
児童書のコーナーに向かいながら、やや遅れがちに後をついて歩く蘭へ声を掛けてみる。
「ん〜と……こんなにおっきい本屋さんは初めてなの!すごいの!」
「なら、迷子にならないように気をつけないといけないわね」
「はいなの……あ!」
何かを発見したのか、てててっとクマを背中で揺らしながら蘭が汐耶を追い越していく。
「あら」
彼が向かった児童書や絵本のコーナーは、文庫本や新刊の棚よりもずっと子供達に優しく興味深いディスプレイになっている。
「すごいなの〜うわ〜うわ〜〜」
ポスターに魅入られていた少年は、今度はここの虜となったらしい。
子供の手が届きやすいようにと低く設定された棚には鮮やかな本たちがまるで絵画のように並べられ、店員の手作りと思われる可愛らしいポップがそこかしこで誘っている。
もちろん、手に取って中身を読むのも自由だ。
「あれもおもしろそうなの!これも!………うわぁ…………」
好奇心の赴くままに手を伸ばし、しばし浸ってはまた別の世界を求めて手を伸ばす。
そして、子供のために置かれた小さな椅子のひとつに腰掛けて、一気にその世界へ入り込んでしまう。
多分、もう彼の耳は外の音を認識していない。
子供の心は移ろいやすい。
だが、その一瞬の集中力と空想力は大人の想像をはるかに超える。
「気に入ってもらえたみたいね」
くすりと笑って、呟く汐耶。
やはり、彼に昔の自分が重なる。
汐耶はとにかく本が好きだった。
図書館で一日を過ごすことなど珍しくなかった。
妖精や魔法使い、王子様やお姫様の出てくるお伽噺から始まって、現代ミステリにノンフィクション小説、エッセイ集、実用書、専門書と、あの頃から読むジャンルは多岐に渡っていた。
学校で習ったことのない漢字や難しい言葉は、一生懸命辞書で調べた。それでも分からない時は家族に聞いてみたりもした。
先程の蘭のように、本屋が張り出す新刊のポスターに目を奪われることも良くあった。
自分ではまだ本を買うことが出来なくて、でも、どうしてもその世界に触れてみたくて。
4つ年上の兄が手を引いてくれたことも覚えている。
代わりに欲しかった本を買ってくれた。
気付くと本への愛情と愛着は修繕技能を修得するまでになり、原書を読むためにあらゆる言語を習得し、今では禁書の管理まで行う図書館司書だ。
自分の能力に気付いたのはいつごろだっただろうか。
「さてと、あの本はどこかしら?」
想い出から顔を上げ、汐耶はぐるりと周囲に視線を巡らせる。
170センチを越える長身のために、棚の上を越えて向こう側まで見渡せてしまう。
話題の本ならば当然目を引く置き方をされているはずだった。
「ん、発見」
本屋に通い、図書館に勤める汐耶の予想は当たる。
探し物は棚ひとつ向こうの壁側にしっかりと掲げられていた。
そこへ向かう前にもう一度、蘭の様子を見るため振り返ると、彼は先程とは別の絵本を手にして座ったままじっと動かない。
表情は真剣そのものだ。
元気に飛び回っているイメージの強い緑の友人は今、まるで別人の顔をしている。
物語に入り込むことで自分ではない自分になれる。
多分、本にはそういう魔力も隠されているはずだ。
彼のせっかくの時間を邪魔することを躊躇い、汐耶は声をかけるのはやめて目当ての本棚へ静かに移動する。
平日ということもあってか子供たちの姿はほとんどなく、大人である自分が彼らの閲覧の邪魔をする心配はなかった。
「みつけた」
昼と夜を同時に抱いたあたたかな森。
蘭の目を釘付けにしていた幻想的な絵本の表紙に自分もまた惹きつけられ、手に取るとそのままぱらぱらとページをめくってみる。
「…………」
1ページに文章はほんの数行だけだ。
だが、一面を埋める幻想の森は言葉以上のもの、言葉にならないものを自分に与えてくれる。
汐耶は、手にしたその絵本をそっとレジへ持っていく。
「プレゼント用でお願いします」
あの緑の少年はこの世界に何を見るだろう。
どんな想いを抱くだろう。
どんなふうに遊ぶだろう。
そして、彼とこの絵本について語り合えたり出来るだろうか。
そんなことを考えると不思議と楽しくなってきて、口元が自然とほころんでいく。
「お待たせしました。有難うございます」
店員に笑顔で手渡されたものを同じく笑顔で受け取ると、汐耶は蘭の元へと戻った。
彼は丁度読み終えたのか本を手に立ち上がったところだった。
「蘭くん。どう?おもしろい?」
「あ。えーとえーと、はいなの!すっごくおもしろいなのぉ!本のお姉さんのおかげなの!!」
「っと」
なんのてらいもなくぎゅっと抱きついてきて、彼は満面の笑みで汐耶を見上げた。
「ありがとうなの!」
「……ええと…どういたしまして」
普段は何事にも動じない冷静沈着な汐耶の反応が不意打ちの抱きつき攻撃で一瞬遅れる。
その後にはくすくすと、たまらず笑みが口からこぼれる。
「そうだ。蘭くんに渡したいものがあるんだけど」
まだ軽く笑い続けながら、軽く肩を叩いて一度自分から蘭を離すと、汐耶は右手に持っていたラッピング済みの本を彼の前に差し出した。
「これ、受け取ってもらえるかしら?」
「ふに?なあに?何でくれるの?」
手渡されたものと汐耶の顔を交互に見ながら、蘭は不思議そうに首を傾げた。
この少年の表情は本当にくるくると良く変わる。
「これはね、蘭くんが私のデートに付き合ってくれたお礼」
そして、懐かしい時間を思い出させてくれたお礼でもある。
微笑んで答える汐耶の言葉に納得した表情でじっと本だけを見つめ、
「あのね、開けてもいい?」
屈んで目線を合わせる汐耶の青い瞳を蘭の銀の瞳がまっすぐ捕らえる。
「じゃあ、外に出てからにしましょうか?」
「うんなの!」
嬉しそうに元気よく頷いて、汐耶の後を、今度はどこにも気を取られずについて歩く。
ちらりと確認した腕時計は、そろそろ彼に待ち合わせ時間が迫っていることを告げている。
2人並んで店を出た途端、待ちきれなかったのか蘭はドアから一歩踏み出してすぐに、あまり器用とはいえない手つきでラッピングを開いていった。
そして包んでいた髪の中から表紙が顔を覗かせた瞬間、
「うわぁあ」
今までで一番輝いた表情がそこに浮かぶ。
「これ!これ、いいの?もらっていいなの?僕に?」
両手で絵本を掲げながら、蘭は汐耶に何度も問いかける。
「これは蘭くんに。でも、たまには私にも貸してちょうだいね?2人でこの絵本のお話も出来たら嬉しいかな?どう?」
「うんなの!もちろんなの!わかったなの〜!」
「じゃあ約束ね?」
「約束なの!本のお姉さんと約束〜」
背中のクマと一緒に汐耶の周りを飛び跳ねながら、蘭は何度も何度も頷いた。
やわらかそうな緑の髪がぐるぐると踊っている。
そんな彼の感情表現がたまらなく可愛らしくて、贈った自分までほんわり温かい気持ちになれる。
優しい森が繋ぐ2人の時間。
そして、
「そろそろ待ち合わせ場所に行く時間じゃない、蘭くん?」
「あ!」
ぴたりと足を止め、代わりにクマの中をごそごそ掻き回す。
「いけなの!急がなくちゃなの!」
引っ張り出した時計で時間を確認した蘭は、慌てて目的地までの地図を握り締め、絵本を抱きしめて走り出した。
「またね、蘭くん」
「またなの〜ばいばいなの〜!ありがとうなの〜!」
危うげに振り返って汐耶に大きく手を振ると、彼はまた駅を目指してスピードを上げる。
クマを背負った緑の少年がどんどん小さく人ごみに紛れていくのを見送って、汐耶もまた別の目指すべき場所へ足を向ける。
今日はあと数件、回っておきたい書店があるのだ。
「さてと。本探しに戻りましょうか」
蘭が自分にくれたのは、物語の世界に全身で触れられる純粋な子供の感覚だ。
懐かしさと優しさと温かさが溢れてくるのが分かる。
休日のたびに通うこの街で、稀少本を手に入れた時と同じくらいかそれ以上に有意義で心地よい時間を手にすることが出来た。
「……ああ、あの子にお土産もいいかもしれない」
これはいいアイデアだとちょっとだけ自画自賛してみる。
そうして、マンションで待つ新しい家族のために、汐耶は、あの少女の感性ならどんなふうにその世界を受け止め読み解くのかぜひとも聞いてみたいと思えるような……そんな本を探す旅に出る。
子供たちはいつも物語の住人たちと会話する。
そこにはあっという間に知識と命と冒険の数々を秘めた幻想の森が広がっていて、そこに棲む者たちが魅力的な声と仕草で誘いかけてくれる。
異世界へと続く本という名の扉は、いつでも誰かが開いてくれる時を待っている。
END
|
|
|