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其花、散ることなき
はらはらと降り、降り、降り続ける花弁は、果てに地に到るもまだ遊び足りぬとみえて、風にくるくると復た戯れている。ほんの数日前に枝に見えた蕾は瞬く間に開き、咲いたかと思えばもう散り始めて、この通りの桜吹雪である。
蒼穹も心做しか薄紅を注したよう、春めいた、などと感じさせる暇なく、季候は既に春のそれ。
訪れは取り取りの花に、優しき風にと、知らせを受けたが、併しただ麗らかなると喜ぶには余りにも、纏う衣の黒色が明らか過ぎた。
桜並木のこの道、左手の板塀内側が、行き先――開け放たれたままの大きな門を潜れば、こぢんまりとした寺であった。
塀の向こうから舞い込んだ花びらが、境内の黒土の上に点々と白い。寺の脇に植わった白木蓮の白さには到底及ばぬものの、不思議やけに存在が強くと思うのは、花霞の所為であろうか。
丘星斗子は寺の裏に見える墓標の群れを認めて眼を伏せたが、ふとその前を花びらが横切ったのに、僅かに頭を上げ直した。
咲いた傍から次々と散ってゆく桜は、その潔い散り様こそが美しいと云う。
誇る為だけに養分を吸い、枝を伸ばし蕾を付けて、漸く開き――散りゆく、もの。
其処に理由は無いと知りつつも草木に思いを馳せてしまうのは、花の魔性の故か、人間の弱さ故か。
(今は、後者かしら)
常の気丈さは微か鳴りを潜めて、春風の温度さえ、冷えたように斗子を包む。
斗子は緩く頭を振り、さくさくと柔らかな地面を踏み締めて歩き出した。と、本堂に住職の姿を見掛けたが、如何やら誰かと話の最中の様、ふと眼が合うたので立ち止まり一礼すると、相手も和かに肯きを返して寺の裏手を示す。もう一度辞儀して促されるまま墓地へ向かった。
本日は、両親の命日である。
敷地をも不揃いな墓石並ぶ中、表情浮かべず黙々と丘星の名の刻まれた墓の前まで些かの早足で進む。未だ降り止まぬ一片が斗子を追ってその肩に静かに乗るも、黒髪にさっと払われて、ひらひら忙しく逃げていった。
水桶を足下に置き、そっと墓石を眺める。
毎年同じ日に訪れるこの場所の変わりのなきこと。併し何処か違うとぼんやり思って――ああ、と僅かに眉を寄せた。
視線の、高さ。
初めて此処に立った時は自分より確かに高く在った石を、何時の間にかこうして見下ろすようになっている。“此方”の背はぐんと伸び、けれど“彼方”は唯、其処に在るだけの石のひとつに過ぎず。
そうして、過ぎ去った年月の長さを改めて知る。
変わらぬ“彼方”、変わってゆく“此方”。それは拒むこと能わず、逃れること敵わぬとは勿論のこと承知の上だが、漠とした寂寥の念が足許にずっと絡んでいるようで、前に進む度ずしりと足取りを重いものとして存在を知らせる。強い力ではなく、痛みも無い。振り解くことは容易いと知っているのに、解けば如何なるのかと不安で、それで今に至っても喪の黒色に染まったままで、やはり今日も此処に立つ。
昔のように、何故、と責める相手の居ない虚空へ哭することはなくなった。
悲しみが薄れた、静まったと云うことではなく、引きもせず消えもせず変わらず胸に有る其に、慣らされてしまったようにも、思える。
「……父さん」
ふと、斗子は呟いた。
次いで「母さん」、とも。
視界は確かに黒御影の石を捉えているし、手首の数珠の紫房がそよそよと手の甲を擽る感覚も有る。併し零した声は確かに発せられた音であるのに、唇から離れた途端に吸い込まれたように消え失せた、気がした。
何れ返ることなき呼び掛けではあるが。
(そう、二度とかえらない声。……かえらないひと)
知っている。わかっている。
「ねえ、父さん、母さん?」
それでも口を衝いて出る言葉は、止まらなかった。
「なぜ私は、ここにいるのかしら? なぜ私は、ここに立っているのかしら?」
この声が、この問いが、この声を、この問いを、
「なぜ私は、今も生きているのかしら?」
ひとりで。
「……ねえ?」
口に出し、空気に触れさせて、大気に響きて、更に広がり、何処か、何処かで、貴方たちの許へと届くのではないかと――縋るような祈りさえ、空しく風が攫ってゆく。
残るのは、ひとり、それのみである。
いっそ己すら風に融けてしまえば良いとも思うのに、運ぶのは花弁だけ、優し過ぎる風であった。
暫く惚けたように佇んでいたが、詮なき、と、諦めて供華し、柄杓で静々と水を掛ける。墓を立ち去る際、俯き気味の視線を上げれば、はたと痛みが走った。髪が、首に掛けていたネックレスに絡んだよう。首許から外して、鎖に巻き込まれた髪の一筋を解く。
―― 、 。
ふと、声、が。
斗子は目を瞠り、思わず手の中の白金を強く握り締める。
(『声』? そんな、こと)
ある訳が無い。
今まで斗子に常に添うてきたものなのだ。もしこのネックレスに残留思念が宿っていたのなら、疾うに聞こえていた筈である。
それに。
(これは、母の……)
遺品、形見だ。
そして先程の声は確かに、切に懐かしき。聞き間違うなど有り得ぬ声音。
―― 。
「……お母さん…っ」
強く。
壊れてしまうのではないかと云うような強さで、斗子は母の形見を握り、そっと頬に寄せた。あたたかい。そう感じるのは、自らの伝播した温度に因るのだが、構わず、指先で鎖のひとつひとつ、中央に配された小粒のダイヤとを、なぞった。
父が、母に贈った品だと、聞いていた。尤も、そのことを知ったのは二人が亡くなってからではあるが、生前母がこのネックレスを大切に扱っていた姿だけは、斗子も記憶していた。故に、遺品の中で、これだけは常に傍に置いていたのだ。
繊細に繋がれた鎖の具合を確かめて、首に掛け直す。離れていた時は僅かの間であったが、ひんやりと、白金は熱を求めて再び肌の上を滑る。
改めて水桶を持つと、斗子は墓に向かって初めて――微笑んだ。
ひとひら。
復た運ばれてきた桜の花弁が、墓の前に綺麗に舞い降りた。
潔い散り様こそが美しいと。
否。
散り様も、美しいのだ。
斗子はネックレスに触れ、塀の上から覗く満開の木々を見遣った。
(……咲いてからは、あとは自分次第、ね)
咲かせる為に、花はすべてを懸ける。その先はそれぞれに。選択を為すのは自身の心持ち、ひとつ。
――どうか、しあわせに。
――ともに。
(遺された思いの向けられた相手は、私ではないけれど)
その言葉と、狙い澄ましたように斗子に声を聞かせた時期、其処に何らかの意味を、存在を、信じても、構わないだろうか。
淡く桜色に染まる、春のこの日。
其花は未だ蕾のまま。
漸く今、開き初む。
<了>
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