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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


覆い隠す花片の


「何でもいいから止めて欲しいんです」
 青年は零に促されてソファに座ると声弱く語り始めた。
「毎日同じ夢を見ます。細部まで全く同じ夢です」
 その夢が原因か、青年は疲れた様子でしきりに目をこする。まともに眠れていないのだろう。目許に寝不足による窶れが見える。
「それはウチに持って来る依頼じゃないように思えるんだが」
 失礼だが精神科には、と問う草間の手には知恵の輪。輪を絡ませた二つが合わせる角度を何度も変えて、かちゃかちゃと小さな金属音を立てる。
「あれは、違います……あれは俺を恨んで俺の所に出るんだ……」
 青年は右手で瞳を覆った。何かを遮ろうとするかのように。
「夢を、止めて下さい……あの桜吹雪の、夢を」
 吐き出された苦渋に、草間は片眉を上げた。
 かちん、と草間の手許で知恵の輪が外れる。
「零、俺の手帳は何処にある?」
「こちらに。お兄さんが変な所に置くので捨てる所でした」
 にべもなく言い、零が黒い表紙の手帳を草間の手に落す。零の言葉に草間は僅かに苦い顔を向ける…が、すぐに青年に向き直る。
「出来るだけの事はしてみよう」
 言って草間は手帳を繰る。
「さて、どいつが向いてるかな」


 食器棚から幾枚もの皿が雪崩落ち、派手な音を立てるのと同時、その電話はかかって来た。
「ちょ、一寸待って!」
 相手に聞こえる筈が無いのは判っていても、つい声が出る……藤井百合枝は思わぬ事態に慌てていた。金曜日の夜、翌日は休日である為に少しばかり気分が浮かれていた。いつもなら出来あいのおかずで夕食を済ませる所をたまには軽く何か作るか、と(自分の料理の腕は棚に上げっ放しで)下ごしらえに入る前に本日の気分に合わせて以前友人から譲り受けた綺麗な皿を使おうと思いつき、食器棚の扉を開けた。目標の皿が見当たらずあちらを退けこちらを退けしていた所を、ひょんな事から手をひっかけて重ねてあった皿が崩れたのだ。
 反射神経の良い藤井は俊敏な身のこなしで人為災害の直撃を免れたものの、落ちた皿は見事に粉々だった。そして電話はこの惨状を引き起こした当人を責め立てるかのごとく呼び声を上げている。
「もう……台無しじゃない」
 目下に皿の残骸。響いてくる電話の呼び出し音―こんな時の電話の音と言うのは妙にけたたましく感じるものだ―を耳に藤井は嘆息した。先程までの上気分がすっかり下降の一途である。
先んじて電話に出るべきかと思うも無残な皿の破片を前に躊躇する。スリッパを履いている為、電話を取りに行くのに破片を踏んでも怪我をする事はないだろう。だが、この惨状を放って電話に出る気にはなれなかった。
 それに、片付けをした後に着信履歴を見れば相手は判る。掛け直せば済む事だ。
 ここまで考えるのにそれ程時間を要さなかったが、それでも10コール近くは待たせている。だが電話はまだ藤井を呼び続けていた。
 執拗い、と漏らしかけて、藤井は陶器の散らばりを睨み。だがすぐに顔を上げて踏み出した。スリッパの下でパキリ、と陶器が砕ける音がしたが構わずにキッチンを出る。スリッパを慌てて脱いで電話に駆け寄った。
コールは未だ止まない。
 藤井は受話器を手にした――幽かな予感があった。
『俺だ、草間だ――忙しかったか』
 ――当たり。
 藤井の口元が笑みを刻む。
「ちょうど夕飯の支度をしていた所だったから。でも、大丈夫よ。何かあったの?」
 何も無くてわざわざ電話をかけてくる相手ではない事を承知の上で問う。それは確認の意だ。
『桜吹雪を止めて欲しいそうだ』
 対して草間の答は抽象的だった。まさか言葉そのままの依頼ではあるまい。
「もう少し判り易く言って貰えない?」
 言葉遊びをしている暇は無いのよね、と笑みを含んで言えば電話の向こうでも笑う気配。
「夢の中の桜吹雪を止めてくれ、とさ」
「夢の、中の……」
 呟いて藤井はダイニングテーブルの上に開いてあった雑誌を見た。東京の桜の名所の特集が組まれたその頁には、満開に花を咲かせた桜の写真があった。


 藤井は土曜日の午後、依頼人である小原幸喜のアパートに向った。築何年を経ているのか、そろそろ傾いても不思議はなさそうな程に古びたアパートの一階、階段の手前には「小暮荘」とあり、草間から受け取った依頼人の情報と照らし合わせて間違いの無い事を確かめる。
「ここ、ね」
 このアパートの2階、6号室が小原の部屋だ。
 素早く2階に上がり、古い作りのブザーを押した。一度押して暫く待つが返答は無い。暫く待って再び押す。やはり返事は無い。同じ様に三度鳴らしてみるが、中からの応答は無かった。
「留守かしら。困ったわね」
 本人が居なければ藤井の目的は果たせない。出直すか、と踵を返しかけた所で扉が開いた。
 中から顔を覗かせたのは、二十代位の男だった。血の気の薄そうな顔を捻って言う。
「どちら?」
「草間興信所の者で、藤井百合枝と申します。ご依頼頂いた件で調査の為に伺いました。小原幸喜さんですよね?」
「ああ、はいそうです」
 小原は胡乱げに細めていた目を見開いた。開いた扉にもたせかけるようにしていた身を、正して藤井をまっすぐに見る。
「突然申し訳ありません。午前中、予め頂いておりました連絡先にお電話を差し上げたのですが……」
 事前に草間から預かった小原の連絡先に来訪の許可を得るべく連絡を入れたものの、留守番電話になってしまい本人は出なかった。ゆえに失礼を承知で直接訪れる事にした藤井である。
「あ、それは申し訳無い……最近夜はあんまり寝てないもんで、つい寝入ってしまってたようです」
 その言葉を証明するように、小原の髪は寝癖の乱れを見せている。
「いえ、こちらこそお休みの所をお邪魔してしまって」
「俺が依頼したんですから、気にしないで下さい。むしろ早い対応で嬉しいですよ。……いいかげん疲れてしまって」
 早く終わらせたいんですよと言い、小原は藤井を室内に招いた。
「女性を通すのに汚くて済みません」
 言われて、藤井は通された部屋を見回すが思ったより小綺麗だった。部屋の隅に雑誌が積み上がっていたり、ラックに入りきれていないCDが重ねてあったりはするが、気になる程ではない。
 パソコンデスクや、それに並ぶ机の上の整頓具合を見る限りでは、どちらかと言えば綺麗好きの部類に入るのでは、と藤井は進められた座布団に腰を下ろしつつ思った。
 藤井が座して待っていると、小原はカップを二つ持って現れた。
「目覚ましに一寸飲みたくて……インスタントですけど、いかがですか」
 入れたてのコーヒーの香りが藤井の鼻をくすぐる。
「有難う……頂きます」
 素直に受けとって、熱いコーヒーで喉を湿してから藤井は同じ様にコーヒーを手にした小原を見た。
 これと言って不審な様子は無い。疲れている様は顕著だが、普通の青年だ。藤井は小原がカップを置いて一息ついた所で話を切り出した。
「早速ですが、質問をさせて頂いてもいいでしょうか」
「ああ、はい。」
 声を掛けられて、小原は姿勢を正した。玄関でもそうだったな、と藤井は笑みを浮かべる。青年のこう言った態度には好感が持てた。
「桜吹雪の夢を……見始められたのは何時ですか? それからどんな夢なのかをもう少し詳しく窺いたいのですけど」
 草間から聞いた所によれば、小原が興信所に現れてこの話をした時の態度は憔悴を絵に描いたような状態であったらしい。それを思うと内容を詳しく聞き出すのに気が引けなくもないが、依頼人の希望を叶えるには必要な事であり、曖昧にしておくことは出来なかった。
「……夢を見始めたのは桜の花がまだ蕾だったくらいです」
 小原は手許に視線を落して呟くように話しはじめる。
「内容は……とにかく桜吹雪が舞っていて……」
 そこで、小原は黙り込む。視線が揺れた。当て所なく彷徨って、壁を見る。
 藤井はその視線を追って、壁に瞳を向けた。そこには写真があったのか四角く跡が残っていた。大きさから察するに、それは写真であったろうか。長い間貼ってあった為に、その部分だけ壁より綺麗なのだろう。
 気付けば小原の視線は睨むような強さに変わっていた。
「……小原さん?」
「あ、ああ。済みません……桜吹雪と、女性が一人出て来ます」
「お知り合いの方ですか?」
「……はい。知り合い……でした」
 過去形であるその言葉に、藤井は質問を重ねようとした唇を閉じた。これ以上踏み込んでいいものか、迷ったのだ。
「あ、気を遣わせてしまったかな……済みません。正直まだ心の整理が出来てないもんで」
 青年の表情は苦笑に歪んだ。藤井はそれに黙して首を振る。
「聞いて面白いもんでもないでしょうが、情報として必要かも知れないですね……その女性とは付き合っていました。別れたんですが……その後亡くなったんです」
「不躾ですが……死因は?」
「病気だと聞いています。別れてから一度も会わなかったんで詳しい事は知りません」
 藤井は大分冷めたコーヒーの残りを飲んで、暫し口を閉ざす。小原も同じようにコーヒーを飲んでいる。互いに、話を進めるのを躊躇うかのように。
 先に会話を再開したのは藤井だった。
「最初にご依頼を頂いた際のお話で、誰かが怨んでいる、と言ったような事を言われたのを覚えてますか?」
「……覚えてます」
「何故そう思われたんですか?」
 小原は手にしたコーヒーカップをいくらか乱暴に置いた。
「……俺があいつをふったんです。あいつが何も言ってくれないから、何を聞いても答えないから……俺の事なんて必要じゃないんだろうって、叩き付けて……別れたんです。その後すぐにあいつは死にました。あいつは病気を隠していたんだ。もうすぐ死ぬと判ってたから俺に言わなかった……それなのに、俺は気付いてやれなくて。酷い別れ方をした。だから」
 最後は独り言のように、籠った声だった。
「恨んでいたろうと……思うんです」
 そう締めて、小原は項垂れた。
「小原さん」
「……」
 藤井の呼ばいに顔を上げた小原の顔は、酷く疲れていた。ここへきて藤井は青年を疲れさせているものが、夢だけでは無い事を知る。青年は未だ死を間際にした女性を突き放した事を後悔し、自らを責め苛んでいる。繰り返す夢が、それを助長しているのだろう。
「よろしければ今夜一晩泊めて頂けませんか……本当にその女性が貴方を恨んで出て来られるのか判るかも知れません」
 藤井の静かな声に、青年は頭を下げた。

 夜になって青年は、藤井の指示のままに布団に横になった。夜は眠れないと言っていたが、調査をする人間が傍に在る為に安心したか、それとも疲れが限界に達していたのか程なく眠りに入った。
 藤井は小原に緊張を強いぬよう、襖一枚を隔てた場所で様子を窺っていた。何かがあれば襖に隔てられたとて、すぐに判る。それは藤井が視ようとしているものが物理的なものではないからだ。
 人の心……そしてそれが象造る炎。夢が何によって齎されるのか、それを知るには心を覗くのが一番早い。外的要因があるにしても、青年自身の心に拠るものでも。
 藤井の視線の先には小さな時計が時を刻む音を立てている。静まり返った部屋では小さな機械の音でもはっきりと耳に届いていた。規則正しいその音を聞いていると、眠りに誘われそうになる。
 慌てて藤井は自分の頬を軽く叩いた。
「一緒になって寝てどうするのよ」
 己を叱咤し、気合いを入れる為に拳を強く握った…所に音を立てるもの。
「携帯電話……?」
 パソコンデスクの上に置かれた携帯電話が着信を知らせる。マナーモードになっているのか、着信音は鳴らないが、しきりに身を震わせて、鈍い音を立てている。
 藤井は立ち上がって、パソコンデスクに歩み寄る。机上の携帯電話を見下ろす。一瞬躊躇ってから、電話を手にした。
「……あ」
 手にした携帯電話をよく見れば、うっすらと炎がまとわりついているのが判った。弱く、消え入りそうな炎は、青年のものではないようだ。気配が違う。
「小原さん、ごめん」
 小原の眠る部屋に向けて詫びて、藤井は通話釦を押した。携帯電話を耳に充てる。
 最初は何も聞こえなかった。切れているかと思わせる程に、何も。それでも辛抱強く待ってみる。すると幽かに何かが聞こえた。電話を更に強く耳に押し当てる。音が僅かに大きくなった気がした。
全ての神経を集中させて、音を聞き取る。やがて、音がはっきりと浮かび上がって来る。
ざざ、と言う音は、ともすればノイズのようだ。だが違うと判った。それは風の音だった。風だ、と思った刹那、藤井の視界が闇に覆われた。だが藤井は動かずに、ただ待つ。
 闇の中に降り落ちるものが見えた。雪にも似て、軽やかに宙に身を躍らせるそれは。
「桜」
 藤井の声に呼応するかのように、次の瞬間桜の花びらが一斉に舞った。風が一層強くなり、花びらを吹雪へと変えた。墨に塗りつぶされたかのような闇に、極薄い紅が音も無く舞う。それはただ美しく。藤井は目的を忘れそうな程に、桜舞う光景に目を奪われる。
 これが小原の見る夢だろうか。
 邪気は感じられない、恨む念など欠片も。小原が何故、これを怨みと思うのかが不思議だった。静穏に満ちた、美しい映像は清浄ですらあった。
 そして、それは現れた。
 吹雪の中に、白くぼんやりと。最初は炎のように揺らめいて、瞬きをする間に人の形を成した。更に目を凝らせば、それは白いワンピースの女性だと言う事が判った。
 女性は藤井を見た……様に藤井には思えた。声を掛けようと思い、どう呼び掛けようかと迷っていると、女性が一歩藤井に近付いた。一歩、一歩ゆっくりと歩を進め藤井に近寄って来る。吹雪の中から次第に姿をはっきりとさせて来る女性の顔は、悲しみをたたえて居た。
『……さん、ごめんなさい……』
 小さな声が藤井に届く。弱々しい声は、必死に耳を傾けなければ風の音に掻き消される。
『ごめんなさい……』
 謝罪を続け乍ら歩む女性の前に、吹雪が立ち塞がった。女性の周りを囲むように風と花びらが周囲を巡る。まるでそれは女性を閉じ込めるかのように。
 風の音が激しさを増す。女性は依然声を上げているようだったが、風の音がそれを藤井に聞かせなかった。
 更に風声が増す。視界も、耳奥も全てが風と花びらとに支配された。そのあまりの激しさに藤井は腕で顔を庇った。
「あの……藤井、さん?」
「はいっ?!」
 突然の呼び声に、藤井は勢いよく振り返った。
「あ、ごめん……大丈夫かな、と思って」
 目の前に立っていたのは小原だった。起き抜けなのだろう、表情が幾らかぼんやりとしている。
「あ……ああ、平気。何でもないわ」
 手を振って無事を伝えようとし、藤井は携帯電話を持ったままである事に気付く。
「着信があったみたいなんだけれど」
 平静を装って、小原に差し出した。
「あ、バイブにしてあったんだ……驚かせたかな」
「一寸、だけ」
 小原は藤井から携帯を受け取って画面を見た。藤井は横からそれを遠慮がちに覗き込んだ。
「着信……? 無いみたいだけど」
「え?」
 藤井は思わず身を乗り出した。確かに着信情報に先程の時刻は無かった。最後の着信には名が無い……登録されていない藤井の番号だからだ。
 藤井が小原に電話を入れたのが午前11時。これが最後の着信だった。
「でも確かに……」
 寝ぼけていたのか、と片隅に思い、違う、と即座に否定した。意識ははっきりしていた。寝ぼけている状態と、そうでない状態を間違える程藤井は迂闊ではない。
「確かにかかって来てたのよ」
「……うーん、記録、ないけど……あ」
 何に気付いたのか、小原は途端に顔を青冷めさせた。
「どうかした?」
 藤井は小原の表情を見てから、画面を見た。そこにある名は「白石恵美」。着信ではなく、発信履歴だった。ちょうど藤井が電話に気付いた時間。
「こっちからかけた……? そんな」
「藤井さん、この電話弄りました?」
 小原の声は幽かに震えている。藤井は首を振った。
「触ったけれど、それは呼び出しがあったから手に取ったの。こちらから勝手にかけたりしないわ……その方が誰かも知らないし」
 小原は携帯電話を握り込んだ。軋む音が聞こえるのではと藤井に思わせる程。
「……そう、ですよね」
 握り込んだ手が、声と動揺に小刻みに震えた。
「小原さん」
「白石恵美は……さっき言った、別れた女性です」
「え」
「恋人だった……女性です」
 小原は携帯電話をパソコンデスクに叩き付ける。派手な音を立てて、デスクが揺れた。
「やっぱり、恨んでいるんだ……毎晩現れて俺を責めているのか。だったらもっとはっきりと憎いとでも言えばいいのに。詰ればいいだろう……恵美」
 叩き付けた電話を掴み締めて、小原の肩が震える。
「恨んでなどいないわ」
 藤井の声に小原は顔を上げた。
「何故そんな事が判るんです」
「私も見たから。桜吹雪と彼女を。白石さんと言うのね? 彼女は白い服を着ているでしょう? 小柄で髪の長さは私より少し短いくらい……華奢で可愛い人ね?」
 吹雪に取り囲まれて消えた女性を思い出し乍ら、藤井は続ける。
「もう一度言うわ。彼女は貴方を恨んでいない。ただ、謝っていただけ」
「謝って……」
「何度も謝っていたわ。怨みの感情なんて微塵も無かった……彼女は捕われているだけ」
「捕われてって……何に?」
 呆然と問う小原の肩に藤井は手を置いた。覗き込んだ瞳には疲れとそして。
「恨んでいるのは貴方の方。病気について何も告げなかった彼女を、自分を置いて行った彼女を……恨んだんじゃない?」
「……それは」
「本当に別れたくて、別れを切り出したんじゃないわね? 非常手段に出る事で、彼女が隠している事を暴きたかった。別れると言えば、教えてくれると思ったんでしょう?」
「……」
 藤井が手を置いた肩が震えている。小原は唇を噛み締めていた。
「でも彼女は何も言わず、結局別れてしまった。別れるつもりはなかったけれど、そうするしかなかったのね」
「……そうだ。あんたの言う通りだよ」
 小原は顔を上げた。自嘲の笑みが張り付いていた。小原は藤井を見ず、昼間見ていた写真の跡を見る。
 写真の跡に、恋人の面影を見ているのか。
「気の弱いあいつは、別れるって言えば全部話すと思ってた。なのに、あいつは何にも言わずに……黙って俺が言う事を聞いて……それで黙って死んだ。なんでだよ? 迷惑だとでも思ったのかよ? 残された命が少なかったなら、最後迄一緒に居たかった。傍に居てやりたかったよ……何で……っ」
 口許に笑みを残したまま、小原の瞳から涙がこぼれ落ちた。後から後からこぼれ落ちる涙が、携帯を握ったままの手に落ちる。
「白石さんが、何を思っていたのかは判らないけれど、でも……もう充分、苦しんだと思うわ。だから解放してあげて」
 藤井は、涙に濡れた手を掴んで、小原の手の中の携帯電話を、彼に向けた。
「赦してあげて」
「……」
 小原は藤井の緑の瞳を見つめ返し……携帯電話を見た。
 無言で携帯内の電話帳を開く。白石恵美の名を選択した。そこにあるのは既にこの世にはない女性の、携帯電話やメールアドレス。彼女が残した情報と言う名の痕跡。
「……別れるなんて、言わなきゃ良かったんだよな。ごめん……」
 小原の瞳から雫がまた一滴落ちた。携帯電話の画面に当たって、散る。
「ごめんな、恵美」
 親指が登録削除を選択する。小さな電子音と共に、白石恵美の情報は消えた。


 麗らかに晴れた日曜の朝。
 藤井は一本の桜の樹の下に居た。
 爽やかな風は穏やかに、藤井の黒髪を揺らして行く。
 これから藤井は依頼の報告の為に草間興信所に向かう予定だ。
「この桜だったのね」
 呟いて藤井は桜の幹に手を置いて瞳を閉じた。樹から感じるものは静かな呼吸。
 つい先程、藤井の元に一本の電話が入った。小原からだった。

『桜吹雪の夢を見ました。彼女の声が聞こえました。貴方の言う通り謝っていました。ずっと彼女が何を言っているのか聞こえなかったけれど、やっと、聞こえました。……多分もう見ないと思います』

 小原の声が藤井の耳に蘇る。

『彼女は桜吹雪に見送られて、行ってしまったから』

 藤井が見た闇の吹雪の中でなく、今在るような晴れた空の元、去って行ったと小原は語った。
 その小原に、藤井は最後の質問をした。夢に現れて居た桜に覚えはないかと。そして小原が言ったのがこの桜だった。
 二人が出会った場所であり、別れた場所が、この桜の下だったのだ。
 藤井は閉じていた瞳を開く。桜の幹の周りをゆっくりと歩き……ある場所で足を止めた。根元に見えたのだ…炎が。
 それは今にも消えそうな弱々しい……だが柔らかな色をしている。ちょうど辺りに降り落ちる桜の花びらの色のような。
 藤井はしゃがみこんで、近くにあった平べったい石を拾い、炎の見える場所を掘った。
 それほど掘らぬ内に、菓子の缶が出て来た。開けてみれば中にあったのは。
「携帯電話……?」
 フリップを開いて着信履歴を見た。最後の着信は「小原幸喜」。
 藤井は天を仰ぐ。
 満開の花々が光に透けて、白く輝いていた。
「桜はもう、貴方を閉じ込めたりしない……どうか安らかに」
 藤井はフリップを閉じた。

―終

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【1873 / 藤井百合枝(フジイ・ユリエ) / 女 / 25 / 派遣社員】

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■         ライター通信          ■
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お待たせ致しました。本当にお待たせしまして……。
言い訳は見苦しいと判っておりますが、これだけ。
今回、殆ど書き終えていたデータが全部消えてしまい、途方にくれました。
一度書いたものを再度書く事の難しさから、最初に考えた話を脳内で破棄し、考え直しました。
……だからと言って、遅れて良い理由にはなりませんが。

再びの邂逅を素直に喜ぶ事の出来ない事態を引き起こした我が身の腑甲斐無さに情けなく、またもやお待たせした事へどうお詫びしてよいのか悩みつつ。

せめて、この話が、藤井さんにとって、少しでも心に残るものであればと願いを込めて、失礼させて頂きます。
申し訳ございませんでした。