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クリムゾン・キングの塔 【6】にんげん仕掛けのこころ
■序■
ぼぉぉぉぉおおおおおおおぉぉう!
ぼぉぉぉぉおおおおおおおぉぉう!
霧笛、或いは汽笛に似た咆哮が世界を駆け巡る。
すべての人間たちが空を仰ぎ、耳を澄ませた。そして、その音を聞いた瞬間に、抑え切れないほどの怒りを感じて、咆哮に合わせて咆哮するのだ。
東京から生まれた咆哮が、たちまち世界を埋め尽くす。怒れる獣たちが目覚め、眠りについていた世界を叩き起こしては、恐るべき諍いを生んだ。
「僕らを背負っていくんだよ。不機嫌な僕らを。ああ、せっかく、眠らせていたのに」
『塔』の成長を止めるために、天使たちは眠りについていたのだ。天使たちが目を閉じれば、『塔』は人間の負のこころを吸収せずにすむ。
<深紅の王>と2004年の人間たちの接触が終わったとき、天使たちが東京や人間たちをどうするつもりだったのかは定かではないが、きっと悪いようにはしなかった。静かに夢のように消えていたのかもしれない。
叩き起こされた悪意が、親と伴侶を失った悲しみと、親と伴侶を捨てた後悔(及び清々しさと達成感)によって一歩を踏み出す。
「言っただろう、僕らはきみたちで、僕は墓碑銘だ。混乱こそをきみたちに与え、きみたちの墓に刻まれた銘となる」
「さあ、きみたちは、どう刻んでほしいのかな?」
ぼぉぉぉぉおおおおおおおぉぉう!
東京がはじめに消え失せようとしている。
塵にもならずに、こころによって滅ぼされるのだ。きっと残るのは墓石もない墓と、にんげんたちがまだいなかった頃の大地なのだろう。
■玉座と玉座と玉座と玉座■
しかし、<深紅の王>とは結局のところ、どこに座していたというのだろうか。
玉座は<アーカイブ>の向こう側にあったが、ブリキのドラゴンの体内にあるわけでもなく、『塔』の頂上にあったかどうかさえも定かではない。
曖昧な玉座についていたのも、4人だった。4人が揃って同じ玉座についていたわけではない。ひとつの玉座にひとりずつ、全身に血を浴びて深紅に染まりながら、腰を下ろしていたのだった。
服は血で濡れ、驚くほどに重くなっている。
シュライン・エマと光月羽澄のふたりは、その重みに打ちひしがれながら、よろりよろりと玉座を下りた。床に座り込むふたりは、見覚えのある靴を見て、顔を上げる――深紅に染まったバーテンダーが、うっすらと笑いながら立っていた。九尾桐伯は、血の重みを苦にもせずに玉座を下りていたのである。
「志賀さん……は……」
「迷っているようですね。けれど、私たちはこの道を選んだわけですから――ここを、出ましょうか。外は大変なことになっていますよ」
「外?」
桐伯は頷いた。
王としての力は、まだ3人に僅かばかりのこっているいるようで――シュラインと羽澄は、揃って同じ夢のようなものを見た。望むことで、<アーカイブ>を通しての現在を見ることが出来たのだ。
ブリキのドラゴンが、灰色に凍りついた東京の街にたたずんでいる。
■ドラゴンの角■
ずしん、とドラゴンが一歩を踏み出す。
凍りついていたビルディングがいくつもいくつも倒壊し、銀の粉となってさらさらと舞い散った。
不意に響き渡った鈴の音に、ドラゴンが足を止める。ブリキのドラゴンはオウムのように首を傾げて、足元に赤い視線を落とした。
赤い小さな影が、凍りついた十字路の中央にぽつんと立ち尽くし、ドラゴンを見上げている。十字路を行き交おうとしていた車たちは、運転手ごとブリキと化したまま。十字路の中央に立ち尽くす九耀魅咲を轢き潰すことはない。
「荒ぶる心境はわからぬでもない。我もまた、人間たちを見てきた。お主らが手を貸してきたことが因果か知らぬが、人間たちは何も変わらぬ。……変わっておらぬ。変わらぬままに成長してきた。その挙句に、この様だ。因果応報、自業自得と云うもの――悪意も憎悪も、いずれは情とおなじ、我が身に返るものだと言うに、それに気づこうともしておらぬ。嘲笑いこそすれ、我がその尻拭いをする必要があるか?」
「されど、我は――
見るのが好きだ。
急くな、墓碑銘。
まだ刻はある」
ドラゴン自身が凍りついたかのように、巨大なブリキの足は歩みを止めて、あぎとから漏れる唸り声が弱まる。目は、赤い神を見つめたままだ。
「チャーンス!」
ドラゴンの足元でそんな声が上がった。
静止したドラゴンに駆け寄っていくのは、相変わらずの黒スーツに見を包む藍原和馬。と、その彼の後ろを、中学生にも小学生にも見える少年にも少女にも見える人影が駆けていった。
「待って! おっさん、ちょっと待って!」
「おっさんだと!」
ブリキを削りながら和馬は急停止し、おそろしい形相で振り向いた。和馬を大胆にもおっさん呼ばわりしたのは、石神月弥だ。そう言えば、『塔』絡みの事件でよく会っている――と、和馬は少しばかり機嫌を直した。
「おっさんって呼ぶくらいなら名前で呼べ。許可する」
「わかったよ、おっさん。……ドラゴンに何する気?」
ちっともわかっていないらしい月弥に、ぴくりと片眉を上げつつも、和馬は動かないドラゴンを見上げた。
「悪いようにはしねエよ。ただ、声が聞こえやすそうなところまで登って、中のやつと話をするだけだ」
「登るんだね」
「おうともよ」
「俺も登りたいんだ。連れてって」
「あ?」
月弥が伸ばした手を、和馬は思わず握ってしまった。
蒼い光が四散し、月弥の姿がかき消える――和馬はその右手に、ブルームーンストーンがあしらわれたピンブローチを手にしていた。
「……おぶっていくはめになるかと思ったぜ」
にやりと笑みを浮かべて、和馬はスーツの襟に古いブローチを留めた。
しっかり、落とさないように。
■陛下、ご決断を■
志賀哲生という名だった王が、いまは玉座についている。3人の王が去ったことは、知っていた。王も所詮は人間なのだ。人間の未来を、過去を、現在を知ることは、王の権利である。
――俺は、スペードのキングだな。
哲生は血のために朦朧とした意識の中で考えた。ダイヤとハートとクラブはもういない。哲生は自ら、スペードを選んだのだ。剣のかたちをした死を。
――こ、こんなところに……縛りつけられてたまるか。俺の趣味はそんなんじゃないんだ。
身体にまとわりついた血は、固まり始めている。指を動かすと、ぱりぱりとしたかゆみが生まれた。このまま血が完全に固まってしまえば、きっと動けなくなってしまうのではないか。
哲生が玉座についてから<アーカイブ>より引き出している記録と記憶は、血や膿や死臭にまみれたものばかりであった。
――それでも、この記録を、ずっと見続けていられるなら……。
それどころか、自分で操作することも出来るのだ。愛や微笑みのない未来へ向かって、人間たちを成長させることも出来るはずだ。人間は王を捨てたが、哲生は玉座に座したままであるから。
哲生さん……そのままで、いいの?
ふと視界に広がったのは、忘れもしないあの顔だった。
白い……死体の女。
そこに座っていたら、きっと殺されるのよ。
あなたが殺した王と、あなたは何も変わらないんだもの。
殺されたあたしと、あなたは何も変わらないのよ。
視界一杯に広がったのは、真鍮の翼の羽根を振りかざす、ヤクザじみた男であり――
志賀哲生という、しがない探偵だった。
アーッ!!
ワーッ!!
「だめだ! だめだ、そんなのはごめんだ! 俺は、死ぬまで生きてやる! 殺されるのも、殺すのももう終わりだ! みんな、もっとまともに死んでみせろってんだ! 俺は、退屈でいるべきだろ! ――出来ないなら、俺が生かしてやる!」
「これで、全員ね」
玉座から転がり落ちた哲生に向かって、血みどろの羽澄が呟いた。
■破壊と破壊■
玉座の正面にある扉は、破壊されている。いま床の上に転がっている<鬼鮫>が打ち破ってからのままだ。何かが壊れたらすぐに元に戻るはずの『塔』は、すでになくなってしまっている。この玉座の間が、どこにもない場所である証拠だ。
その入口に向かって歩き出した桐伯を、シュラインが呼びとめた。
「まって。やらなくちゃならないことがあるわ」
「行かなくてはならないところに行く前に?」
「ええ。でも、あくまで私がやらなくちゃいけないことだって思ってるだけだから……気乗りしないなら、先に帰ってもいいけど」
先に。
その台詞で、桐伯は急ぐのをやめた。シュラインは間違いなく帰るつもりでいるのだ。
「この玉座を――ここを、壊すのよ。出来るかしら……」
羽澄はシュラインと桐伯のやり取りを、朦朧とした意識の中で聞いていた。
時を経るごとに、ずしん、ずしんと身体とこころが重くなっていくのを感じる。
『つらいのかい?』
ずしん。
『後悔しているのかい?』
ずしん。
『かなしいのかい?』
ずしん。
『これで、おわかれなんだね』
ずしん。
未だに立ち上がれない羽澄の後ろで、玉座が倒された。
――どうして、かなしいの? どうして、後悔しているの? どうして、こんなにつらいの……。もう、おわかれなのね。
王との決別は、彼女自身が選んだ道だった。だがそれで本当によいのかと、<アーカイブ>が尋ねたのだろう。4人の王を仮に定めることで、そのこころのうちを確認した。
『ファイルを削除しますか?』『はい』『本当に削除しますか?』
『はい』
そしていま、王たちは王の座を下りた。
『塔』や<アーカイブ>の外に、帰るべき処を見出したから。進むべき道を見つけたからだ。
――けれど、どうして……。
――でも、私は……。
好きな人間に好きだと言っていない。自分以上に苦しんでいる人間が近くにいる。
――責任を取れというのなら、取るわ。別れを選んだ傷を背負って、自分の足で生きていく。それでいいでしょう? 誰が文句を言えるというの?
――親の干渉があっては、いつまでも子供は大人になれないのですよ。親は子供を大人にする義務がある。永い干渉は、その義務を放棄しているようなもの。
――人間が滅びちまったら、一体どうなる? この世から死体が消えるのさ。俺が心から愛してるものが。子供の恋愛にまで手を出すかよ。そういう親は、嫌われるぜ。
玉座の間に満ちていた血が、ざあっと引いた。
砂浜に設置したカメラが捉えた干潮の様子を、早送りしたときの虚像。
真鍮のようなブリキのような、ともかく合金でつくられた床が現れた。シュラインと桐伯、哲生が引き倒した玉座は、見る見るうちに腐食し、醜く崩れ、塵になった。4人の人間の息吹に吹き飛ばされ、跡形もなく消え去った。
ずずずぶぶぶぶぶずぶぶぶぶず――
4人の鋭敏な感覚が、音と臭いを捉える。
それは、金属が腐食し、崩れ去るときの断末魔。
「お約束だな。ここは崩れるぞ」
「長居は無用ですね」
「あ――」
「立てるか?」
哲生は床にくず折れたままの羽澄の肩に手をまわし、立ち上がった。
羽澄は、銀の髪と白い肌を取り戻していた。床一面に広がった血が引くと同時に、4人を濡らしていた血もまた消え失せていたのだ。
「……ありがとう」
「いつかデートしてくれれば、それでいいさ。礼なんて」
「……いつか?」
「ああ。死んでから、とかな」
羽澄は、憮然とした表情になった。
だが、歌い終わったあとのような脱力感がひどく、哲生の力がなければ、彼女は歩くことさえ出来ない状態だった。
「シュラインさん!」
「先に行って!」
促す桐伯に言い放ち、シュラインは悲鳴をあげる玉座の間に残った。
手には、哲生が<深紅の王>を殺めるために使った真鍮天使の翼。
「貴方を、永遠に、愛しているわ」
Crimson King
- 2004
シュラインの手から、翼の欠片が落ちた。
彼女が墓碑銘を刻みつけたその床に、大きな亀裂が走った。
■世界の崩壊■
すべてが凍りついていくのです、ブリキいろのものへと。
ブリキのドラゴンが機嫌をわるくしてしまったから。
<深紅の王>は入れ替わり、未だにその意思は見えません。
けれど、『唄』で心地良い眠りについていたのに、夢の途中で叩き起こされてしまった人間たちのこころは、ひどくご機嫌ななめ。
機嫌が悪い人間は、愛し、哀しみ、微笑む前に、後悔するほどなにかを壊してしまうのです。
墓碑銘、とブリキのドラゴンは名乗ります。
人間たちの墓そのものへと変貌を遂げようというのです。
<深紅の王>という伴侶/両親を捨てた人間たちへの報復なのか、ただ単に機嫌を悪くしただけなのか、ああ、混乱こそが人間たちの墓碑銘となりましょう。
■癇の虫には■
藍原和馬と石神月弥が、いま世界で何が起きているかなど知る由もない。
理由もない苛立ちに、人間たちがそこかしこで刃を振りかざしていることを、どうして知ることが出来ようか。
ドラゴンの足元で立ち尽くす魅咲の瞳が、ぎらりと赤い光を放った。
『鎮まれ!』
神の一喝が、人間たちの魂を貫いた。
同時に、魅咲は深い溜息をつく。骨が折れる仕事だ。人間たちが間もなく、自ら歩み始めようとしているというのに、その幕開けが争いというのは不憫なものだと――ミサキガミは情けをかけたのだった。
「いまは急げ。息が続かぬぞ、桐伯」
しかし、ぼやく魅咲の息は、まったく乱れていないのだ。
「ぐ、ぐぬぅぅう! どオりゃあ!」
気合をひとつ、和馬は空気も薄くなり始めるほどの高みに登りつめ、ブリキドラゴンの頭の角に手をかけた。今や口で息をする彼は、牙を隠そうとも思わなかった。
「着いたぞ! 征服だ! クリアだ! 俺はレベルが上がった!」
ドラゴンの耳元で大声を上げるも、ドラゴンはぴくりとも動かない。和馬のスーツの襟に留められていた、ブルームーンストーンのブローチが光を帯びる。
唐突に現れた石神月弥は、はっしとドラゴンの鼻面にしがみついた。
「月が近いよ……きっと、大丈夫だ……」
「どうすんだ?!」
「『塔』には、こころなんかなかった。でも、エピタフは自分がこころだって言ってたじゃないか。『塔』はうつわだったんだ。今は、触ることも感じることも出来なくたって、うつわの中は一杯のはずだよ。一杯にならないように大きくなってたんだ。違うかな」
「俺に聞くなよ、そんなことわかるか。俺は人外認定食らったんだ」
「俺もさ。でも、人間は好きだろ」
「……」
「好きだから、長い間生きようとしてるんだろ」
「何でお前、それが――」
「何となくわかっただけだよ。――なあ、だったら、助けよう」
「その気がなきゃここまで登ってねエわ!」
『人間が好きなんだね』
聞こえたような気がしたその声に、思わず和馬は角から手を放しかけた。
『僕らを、愛してくれるのかい』
「おうともよ、愛してる」
「俺は、裏切らないよ」
『僕らをぐっすり眠らせてくれるかい? 僕らを見守っていてくれる? 僕らの手を引いてくれる? 僕らを叱ってくれるかな?』
「――望むのならば、ただ、歩み、眠り、愛するがよい。我らはそれを、そっくりお主らに返してくれよう」
『僕らは歩いていけるだろうか?』
ああ、きっと。
ああ、もちろん。
ああ、すこしだけ不安だけれど。
ドラゴンが不意に動いた。その首を天に向け、大きくあぎとを開いたのだ。
音ではない咆哮が、天に放たれた。
「和馬! なんか唄って!」
必死にドラゴンの鼻面にしがみつく月弥が、悲鳴じみた声を上げた。
「なんだ、いきなりなに言い出すんだバカ!」
同じく、必死になってドラゴンの角にしがみついている和馬が、悲鳴のようなものを上げた。
「泣いてるんだ! 寂しがって泣いてるんだよ!」
「今度はなんで泣き出してんだ?!」
「わかんないよ、たぶん――中で、皆が何か決めたんだ! 寂しくなるようなこと!」
「だからってなんで唄だ!」
「街は唄で眠っちゃったろ! 唄が好きなんだ、人間って!」
「急にそんなこと言われたって思い浮かぶのァ『魔王』だ、バカヤロウ!」
ちりん、ちりん……。
おどま盆ぎり 盆ぎり
盆から先ゃ おらんど
盆が早よ来りゃ 早よもどる
おどまかんじん かんじん
あん人達ゃ よか衆
よかしゃよか帯 よか着物
花はなんの花
つんつん椿
水は天から もらい水
ちりん……。
――この唄、子守りがヤダっていう内容の唄なのに。
月弥は口を尖らせたが、すぐに微笑んだ。
「ありがと、魅咲」
しがみつくその手に、別の力をこめる。
すべてのこころを鎮めるのは、さすがに無理だ。けれども、子守唄を聴く気になっているこころを選べば――
風が吹いて、真昼の月が現れた。和馬の目の前で、月弥が蒼白い焔のような光に包まれた。和馬は月弥を見つめながら、ぼんやりと口を開く。
「おうい、見えるか――天使様が、鼻面にくっついてンぞ」
がきん、ばきん、
ぷしゅう、
ずごんずごんずごん、
かんかんかんかんかん、
がたん、ばきん、
がこォん!!
『帆を張れ! 出航だ! 野郎どもォ、ちゃんと地べたにキスしたか?』
ドラゴンの背を突き破り、真鍮の翼が現れた。
オブジェのような、混沌としていながら秩序と約束をもったかたちの翼だ。幾何学的で、幻想的でもある。
真鍮のドラゴンは咆哮した。
それは、あくびであったらしいのだ。
■忘れられていた狂気と、そのうつわと、肉■
ドラゴンが、崩れ落ちた。
現れたばかりの真鍮の翼は、ねじが外れ、ボルトが外れ、東京の街の中に落ちていく。腕が外れて落ちていく。関節を留めていたナットがゆるみ、ドラゴンの巨体は斜めに傾いだ。
それから、軋み、歪みながら、ドラゴンは東京の街にどうと崩れ落ちたのである。衝撃で、街は震えた。真鍮やブリキと化していた窓ガラスや古い建物が、地震に遭ったときの被害をみせた。
衝撃を受けたのは東京だけではなかった。人類が興した街、国、遺跡のすべてが打ち震え、堪えられなかったものが崩れていく。
それは、ドラゴンを作り出してしまった人類が背負うべき罰なのだった。
力尽きたように眠りについたドラゴンは、つめたい無表情だったが、穏やかな寝顔をしているように見えた。真昼の月と太陽が、空を照らし出す。
怒れるこころが眠りについていく。
咆哮が、はるか彼方へと消えていく。
世界が、わけもない寂しさと安堵に満ちていく。こころを満たすのは、子守唄と別れのことば。
東京が、目を覚ます。
しかし、失われたものはもう戻らない。ドラゴンが吹き飛ばした戦車、踏み潰した車、倒壊したビル、墜落したヘリは、次第に無惨な姿を取り戻す。
苛立ちに支配された人間が犯した罪も、消えることはなかった。殺されたものは死んだまま、壊されたものはばらばらになったまま。ひとは、後悔しながら生きていく。
「けれども、滅ぼそうとまでは考えなかった……それは、救いです。あの蒸留所は、無事でしょうかねえ――」
桐伯が、鈴の音に目を細めながら呟いた。
シュラインは、空の青さに涙を流してしまった。
羽澄は、自分の手を見て涙を流してしまった。
3人の頭上を、忙しなく自衛隊のヘリが行き交う――
そして哲生が抱えているのは、血みどろの肉塊ともいえる<鬼鮫>だった。死んでいるか生きているかは問題ではなかった。哲生は羽澄を出口まで導いたあとに引き返し、崩壊する玉座の間から、<鬼鮫>を運び出したのである。相変わらずの死の匂いに、哲生は胸を高鳴らせ、いやいや自分にはそういう趣味はないんだと自分に言い聞かせていた。自分にはもっと他の特殊な趣味があって――
だが、こうしている自分は、王であったときよりもずっと自分らしい。こうでなければならない。志賀哲生というものは――
「……だ」
「ん? ……旦那、生きてたか……?」
そんな身体で生きてるなんて、化物だな。囁いた<鬼鮫>にそう言おうとした哲生の脇腹を、激痛が襲った。
「旦……!!」
「前歯だ! プラナリアの前歯だあッ! アーッ! 熱く飛べ!!」
ぐあッと顔を上げる<鬼鮫>と、倒れる哲生。
哲生の脇腹には、真鍮の骨が刺さっていた。<鬼鮫>が、自身の胸から抜き取った肋骨だった。
がきん、ばきん、ずごォん!
「……そうっとしておいてくれないの……? 静かに、お別れを言いたかった……」
真っ赤に泣き濡れた目で、のろのろと羽澄は振り返る。
「……愚かな、なんと……不毛な道だ」
ぽつりと呟いた紅の神は、消えている。
月弥と和馬は、知らぬうちに地上で、ドラゴンの傍らで倒れ伏していた。耳障りな叫び声に呼び起こされ、和馬が目を開ける。
「おい……おい、つっきー、起きろ」
「疲れたよ、もう眠いよ」
「貧しい絵描きの卵みたいなこと言うな。見ろよ。天使サマだ……」
「え……?」
和馬は、呆然と見つめている。
そして月弥もまた、驚愕に目を見開いた。
■21世紀の精神爆破魔■
いつの間にか、なくなっていたことに気がついた。
狂える真鍮天使の残骸が、たしか、玉座の間から消え失せていた。
王が決断を下そうとしている間に、彼が全部たべてしまったからなのだ。<鬼鮫>の中に組み込まれた貪欲な鬼の因子が、彼に異常なほどの食欲を与え、憎悪がその欲望を助長されたに違いない。彼は、人間たちから化物と呼ばれ、拒まれた。
彼が、最も憎む『化物』――彼自身が、『化物』だった。
「うううううう、菜の花が、激辛だ! おおおおおお、時計が、ガラナだ!」
<鬼鮫>の背を突き破って現れたのは、真鍮の翼だ。彼がよろめくようにして一歩踏み出すと、踏んだアスファルトがびしりと真鍮化した。
「アーッ! ワーッ! 南無三だアアアーッ!!」
「彼は始まりでしたね。彼が何もしなければ、我々は鍵を持てず、まだ『塔』は成長し続けていたかもしれないのですから」
「今は、終わりね」
シュラインは涙を拭き、真鍮天使を睨みつける。
「止めなくちゃ……唄って、あげなくちゃ」
ふらり、と羽澄が立ち上がる。
「エピタフは、きっとこう言うわ」
『かれをとめておくれ。かれは、狂気そのものだ。僕らが、恐ろしいものや嫌なことから逃げるために蓄えてある、狂気なんだよ』
「アーッ! ガーッ! 星を、浮かべろーッ!!」
目覚め始めた人間たちの前に、その声と歩みが立ちはだかる。
人間たちは、自分たちで進んでいかなくてはならないのに。
かれをとどめておいた真鍮の器は、人間たちが燃えないゴミに出してしまった――
親と伴侶が、そっと両手で自身の目を覆っている。
天使たちが、立ち尽くしている。
<了>
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登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
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【0332/九尾・桐伯/男/27/バーテンダー】
【0086/シュライン・エマ/女/26/翻訳家&幽霊作家+時々草間興信所でバイト】
【1282/光月・羽澄/女/18/高校生・歌手・調達屋胡弓堂バイト店員】
【1533/藍原・和馬/男/920/フリーター(何でも屋)】
【2269/石神・月弥/男?/100/付喪神】
【1943/九耀・魅咲/女/999/小学生(ミサキ神?)】
【2151/志賀・哲生/男/30/私立探偵(元・刑事)】
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ライター通信
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アーッ! ワーッ! ガーッ!
……モロクっちです、お待たせしました。『クリムゾン・キングの塔【6】』をお届けします。長くなりましたが、あえて今回は一本にしてみました。
この異界の世界は深刻な被害を被ることになりましたが、それはそれ、人間たちが自分で選んだ道ですので、お気になさらず(……)。人類の文明は滅亡したわけではありませんし、またこれから先滅ぶも発展するも人間の意思次第です。
さて、ラスボスは<鬼鮫>になってしまいました(笑)。本当なら玉座の間でお別れのはずだったのですが、助けるという方がいらっしゃったので……(笑)。
志賀哲生様は今回負傷しましたが、命に別状はありません。
次回は、永いお別れになります。
よろしければ、このお別れにも立ち会っていただけると幸いです。
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