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<東京怪談ノベル(シングル)>


メクルメクセカイ(碧)



 しばらくの間、二人崩れ落ちたままだった部屋の一角には、鋭く白い朝陽が差し込むようになっていた。
 ようやく落ち着いた腕の中の女は、先ほどまで自分が寝かせられていたベッドへと運ぶ。
 湿っぽく汗ばんでいた薄い胸は、規則正しい呼気に僅かに上下していた。
 この分なら、あと少しの間はおとなしくしているだろう。
 少し考えたあとでタオルを抜き取り、代わりにそっと毛布を身体にかけてやった。
 そこまでした後で、彼は――ゼゼ・イヴレインは、ようやく張りつめていた息をふ、と吐きだす。
「――んだかな…」
 息だけで呟いた独り言は、部屋を温めている暖房の小さな震動音に掻き消されてしまう。
 女の寝顔を見つめているのも不自然に思ったので、ゼゼは静かに部屋を出た。

 すがすがしい朝陽の許で改めて見回す女の部屋はひどく殺風景で、おおよそ年頃の女の部屋とは思えなかった。
 彼とて、実際に女という生き物の部屋をしげしげと観察したことなどはない。
 が、たとえば、若い女が好むような雑誌は――表紙が妙にきらきらとしていて、人気のある女優や俳優がにっこり笑って表紙を飾っているようなもの――どこを見回しても発見できなかったし、ぬいぐるみやら可愛らしいクッションやらの類いがちらばっているわけでもない。
 強いて云うならば、歩み寄ったソファの上に畳んで置いてある衣服の山くらいだったろうか(女がそれを自分に着せるために用意しておいたものであろうなどとは、彼は露ほどにも悟ってはいない)。
 それだけが、寝室でぐっすりと眠っている女が『女』であることを物語っていた。
「………。」
 ソファにも、ゼゼの居場所はないものと見える。
 下着の山から目を逸らすと、彼は明るい光が差し込む大きなガラス窓へと歩み寄っていった。
 ベランダは室内以上に殺風景で、パイプの付け根の千切れた掃除機が打ち捨てられているのみである。
 粗大ごみに出すことすら億劫に思った彼女が、そこに放置したままなのだろう。
 カラカラと乾いた音を立てさせながら引き戸を引くと、朝の清冽な風が室内にすうっと入り込んでくるのを頬に感じた。
 決して不潔というわけではないが、一人暮らしの住居はえてして空気の入れ替えが不十分になりがちである。
 ゼゼは朝の新しい空気を部屋の隅々にまで送り込み、ベランダへと足を踏みだす。
 サンダルや靴の類いはない。
 仕方なしに、破れたパイプの上に不安定に乗っかった。
 そして一人、ベランダの枠に両ひじを載せ、頬杖を突きながら空を見上げた。



 ――青だ。
 ぼんやりと空を見上げていると、自然と口唇がぽかりと開いてしまう。
 ましてや、今まではよほどのことがなければ見上げることなどしなかった、空、だ。
 自分がだらしなく口を開いてしまっていることに、ゼゼは気付いてすらいない。
「……青、だよなあ……」
 長い間ずっと、心の奥底に封じ込めてきた――青の記憶を司る蔦の一端。
 孤児院での日々を意識の表層に押し上げてしまったことで、彼の中に眠っていた記憶たちはずるずるとその姿を現してしまった。
 殺人犯と罵られ、失意の果てにこの世を去った母。
 病の床に臥しながらも、彼女はゼゼの手を強く握っては自分の無実を訴え続けていた。
 他の誰に、何を罵られても構わない。
 自分は無実で、どんな罪も重ねてはいないのだから、誰にどんなことを云われても我慢できよう。
 だが、自分の息子にだけは、自分の無実を信じて欲しい。
 母は涙ながらにゼゼを見上げ、何度もそう繰り返して死んでいった。
 青、だった。
 零す涙すら、瞳の色を映したような深い青に見えるほどに、母の瞳は深い青を湛えていたのだ。
 他の誰もが否定するたった一つの真実を、自分だけに伝えようとする母の真摯さが恐ろしかった。
 自分が母の言葉に一度でも首を縦に振ってしまえば、自分もまた母と同じく罵られるのだろうと思った。
 だから、母の言葉に、心を動かしてはいけないのだと、子供心に思っていた。
 もう顔も上手に思い出せない母親の、深い瞳だけが記憶にせり上がってくる。
 母を殺した世間を憎んだ。
 母を罵り、涙を零させた世間を。
 だが、自分は、母の無実を信じてなどいなかったのだった。
 だからこそ、あの青い瞳を、青い涙を自分は恐れた。
 そして。
「あなたの方法は、間違ってる。あなたの方法では、あなたが怖がっている何かを、消し去ることはできない」
 あの日自分の手を握った女の――非道く逞しく、そして柔らかかった女の手の感触を、ゼゼは思い出す。
 孤児院が壊滅し、身寄りのない自分がたらいまわしにされていた頃のことだ。
 その女はゼゼの小さな手を握り、柔らかそうなピンク色の口唇でにっこりと笑った。
 あの頃すでに、自分の母親と同じくらいの年齢を思わせる容姿であったように思う。
 三十の少し手前と云ったところだったろうか。
「おいで。あなたは、自分の方法を見つけないといけない。大切なものには、水をやりなさい。いらないものは、枯らしてしまいなさい。あなたは見つけるべきよ、あなたのやり方で、あなたの住むセカイを」
 めくるめく、あなただけのセカイを。
 奔放で野性的で、それでも果てしなく『女』を匂わせていた女。
 彼女がゼゼを伴ったのは、今まで彼が想像したこともなかったセカイ、だった。
 暗殺組織。
 人目を憚り、自分の爪を研ぎ、金と筋のために人の命を奪う者がくみする場所。
 各の理由はやはりさまざまだった。平素のヒトには在らざる不思議な能力を持つが故に、本来の居場所を追われた者。自分の能力を持て余し、逃げるように組織へと身を寄せた者。
 そこでは誰もが一人で、それぞれの深い問題を抱えていたが、誰もがゼゼを仲間として受け入れた。
 自分はその場所で初めて、自分だけの居場所を与えられ、自分の存在理由を与えられた。能力の制御の仕方を学び、開放の仕方を学び、人を憎むことを学び、そして愛することを学んだ。
 めくるめく、セカイ。
 そこに自分を伴ったのは、――青い瞳の、奔放な女。
「………」
 そうだ。
 青、だったのだ。
 ゼゼを苦しめ、記憶を歪めてしまうほどに圧迫した悪夢も。
 彼に新しい居場所を与え、彼そのものの意義を見いださせ、生きるためのひと足を踏みださせたのも。
 全て、青にリンクしていたのだ。
 母の瞳が、女の瞳が脳裏で滲み合う。
 二人の瞳の色が混じりあい、ふと気付くとそれは、
 ――ベッドで小さな寝息を立てていた、憎い女の青い瞳の色へと変化していた。

 青だ。
 ゼゼはじっと空を見上げながら、赤い瞳を瞬かせる。
 風に吹かれて乾いた瞳のせいだ。ゼゼは誰にともなく、そんな言い訳をしてみる。



 女が目を醒ますのを待とう。
 ゼゼが導き出した答えは、それだった。
 既に彼は、青の呪縛に縛られてはいない。
 思うことはさまざまにあるだろう。そこにある呪縛を染みて感じることもあるだろうし、信じる何かの存在を知ることもあるかもしれない。
 ただ、ここから今、逃げ出してしまえば。
 自分の心は再び深い澱の中へと沈み込み、出口のない迷路の中で彷徨うことになる。
 それだけは間違えていると、ゼゼは強く思った。

 女が目覚めるのは、数十分後か、数時間後か。
 だがそれも、大差あるものではない。
 今までゼゼは十数年もの間、たった一つの抜け出せない呪縛の中にあったのだ。
 あと少しで出る答えならば、待つうちになど入らない。
 ゼゼは室内へ向けてゆっくりと視線を投じたあとで、ガラスの扉に手を掛ける。 
 
(了)