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メクルメクセカイ(紅)
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指先からトリガーの感触が失われて二時間ほど経った今でも、胸がどきどきしていた。
本物の銃を手にしたのは、初めてのことではなかった。訓練の間にも何度となく扱っていたし、発砲だって経験している。
だが、自分の撃った実弾が『肉』に埋もれ、虚ろに開いた孔から限りなく黒に近い深紅が溢れ出す光景が、目の裏で色褪せることなく繰り返されているのだった。
『会社』の更衣室に戻り、詰めていた銀の髪を解いてからも変わらない。
「あなたはとっても筋が良い、銀華――この分なら、もっと重要な要人の難しい任務がすぐに任させるようになる」
大陸の方からやってきたという同僚、おそらくは銀華と年の変わらない少女。
屈託のない笑みを銀華に向けてそう云ったあと、傍らで手際よくバトルスーツを脱ぎ捨てにかかっている。
ありがとう。
やはり銀華も愛想良く笑んで返すと、歯を向いて少女は笑った。
そばかすの目立つ色白の肌で、銀華よりもほんの少しだけ背が低い。
気のきいた若い娘の好む服を着て、ひとけの多い街を歩いていれば、やはり年頃の青年たちが声をかけに来るだろう。
学校? 行ってないわ。何をしているのかって? 働いているのよ。
人を守って、人を殺すの。
そんな非現実的な言葉さえ口にしないままであれば、彼女や銀華――藍銀華とて、普通の少女と変わりない筈なのだ。
「主任は、あまり部下を褒めない。けれど私判るよ、今日の任務に彼はとても満足している。主任は冷静で脅えない子を信用するから」
他の少女が口をはさみ、銀華を褒める。
その声はやはり幼く、それでいて『主任』と呼ばれる男への初々しい信頼の念に満ちていた。可愛らしい薄色の下着を身に着けている。彼女たちが少女性を垣間見せるのは、そう云った瞬間のみだった。
警備会社とは名ばかりの、規律厳しい組織である。
銀華は義父と強い繋がりを持つこの会社に所属し、今夜初めての任務を終えたところであった。
彼女の配属された一角から暗殺者が忍び込んだということは、敵にもこちらの行動が筒抜けていたと云うことだ。
唯一彼らが知り得なかったことと云えば、銀華がとうてい初任務だとは思えぬ射撃の腕前と、度胸を持っていたということのみであった。
要人警護の任務を終えた幼いヒットマンたちはバトルスーツを脱ぎ捨て、年頃の少女の表情へと戻って行く。
「銀華、『彼』があなたを呼んでいる。きっと褒めて頂ける――スマイル、スマイルね」
ロッカーについた鏡の中、銀華は自分の顔を覗き込んでみた。
そこには、街を歩く年頃の少女と同じ、そしてまったく違う笑い方をする女の虚ろな顔が映っていた。
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彼、とは銀華の義父である。
彼女の義父はこの会社に執務室を持ち、自ら要人警護や暗殺任務の指示を執ることもあった。
銀華の初任務が、彼の管轄外であったことは彼女には意外であったが、いざこうして呼びだされると浅い狼狽が彼女を苛む。
その狼狽の呼び名を、彼女は知らない。
小さなノックの後で、扉の向こうから誰何が聞こえる。
「――藍です。失礼します」
短く答えて、彼女はドアノブに手を掛けた。
室内は極めて機能的に整えられ、ほどよく温められた空気にはうっすらとミントが香っている。
脳の活性化を促す香りだと、以前どこかで耳にした記憶がある。
「ご苦労」
部屋の奥にあるエグゼクティヴ・チェアに腰を下ろしているのは――銀華の養父であり、義父でもある男だ。
冷徹。
非道。
眉の根一つ動かさずに銃のトリガーを引くと云われている彼の、表向きの役職は軍人である。
若くして軍部の上層に食い込み、伴う実力でその地位を確固たるものにしている。
この警備会社が軍部の認可を受けているのかどうかは、銀華の知る所ではない。
それを知ったからと云って、何がどう変わるというわけでもない。
彼は机の上の書類から顔を上げるでもなく、銀華が扉を閉めて両手を後ろに組むのを待った。
「報告します」
非道く大人びた、大人びてしまった銀華の声。
若い娘の甘い響きを失ったその声音は淀みなく、自らの初任務であった要人警護の一部始終を上司に――今の二人は、義父と娘の関係ではない――報告する。
先ずは、結論から。彼女たちが要人の警護を遂行したこと。
任務中、要人の暗殺を企てていたどこかの組織の人間を殺害したこと。
現在、遺体が所属していた組織の洗い出しの最中であり、それにもさほどの時間は掛からないであろうこと。
最後に、怪我人の有無、要人の状態など。
「――良いだろう」
彼はようやく書類から目をあげて、銀華の整った顔立ちを見上げる。
しゃんと背筋を伸ばし、休めの姿勢をとったままで銀華は彼の二の句を待った。
――何を望むことも、彼にはすまい。
彼女がそう決意したのは、指折り数えた彼との年月の中でただの一度も与えられたことのない何かをやっと諦めることのできた先週の新月の夜だった。
そう思うまでに、幾年の期待を切り裂かれてきただろう。
同世代の『普通の少女たち』が、どんな方法で愛を求めるのかを銀華は知らない。
どんなふうに親族の愛情を求め、どんなふうに男に甘え、どんなふうに無防備な笑みを振り撒くのかを彼女はしらない。
そして、いかに自分が無知であるのかを、銀華は知らない。
「銀華」
男が呼ぶ。
彼女は微動だにせず、男の後ろに架けられている大きな額縁の肖像画を見つめている。
「銀華」
再度、男が呼ぶ。
ようやく、銀華は男の面持ちへ視線を移行させる。
男は、銀華の無表情な視線をじっと見つめ返すまま、静かに席を立った。
そして大振りの机の脇を回り、彼女の傍らで足を止める。
「私が呼んだら、返事をしなさい。――銀華」
男が繰り返す。
銀華の口唇は動かない。
「……褒美も仕置きも、お前には変わりなどなかったか」
男の薄い口唇の端が、残酷な愉悦に引き上げられる。
と。
「・‥…――ッ…!」
勢い良く振り上げられた男の手のひらが、乾いた音で銀華の頬を打った。
力任せの一撃に、しなやかな銀華の上体が僅かに揺らぐ。
その隙を柔軟に掬い取り、男が机上に銀華の半身を押し倒した。
「あ……」
銀華の視界の端で、積み上げられた書類の束が床に散って行く。
歯裏に鉄の香りを感じていたがどうしてか、はらはらと散って床を埋める白い海のことが気になっていた。
「銀華」
男の声が耳許に響く。
ぬめる舌先が首筋に温い跡を残していても、銀華の虚ろな眼差しはただ床の上を彷徨うばかりだった。
臙脂の絨毯が、白く染まる。
数時間前に自分が殺めた男の最期を脳裏に描く。
彼女が弾丸で穿った孔から零れた真っ黒な紅は、男の足下で小さな泉を作っていた。
紅色の、絨毯。
暗闇の中で見留めたならば、この部屋の臙脂の絨毯もそう変わりはないだろう。
とある男の一生は、紅色の絨毯の上で幕を閉じた。
ならば、この部屋の臙脂の上で終るのは、誰の人生だろうか。
誰の夢だうか。
「銀華」
男の声が掠れている。
そこに宿るのは情欲と執着だ。
銀華が求める、愛情ではない。
「銀華」
肌の上を滑るおぞましい指先の感触に、知らず銀華は喉をのけぞらせた。
頭頂で束ねていた銀の髪が押されて解け、机の端からしなやかに零れて散らされる。
いつか終りが来れば良い。
赤が、全てを終らせる運命の色調ならば。
「お前は、他の誰にも触れさせない」
いつかめくるめく世界を、鮮やかに広がる赤い果てで。
「銀華――…」
男が小さく呻く。
視界が潤むその理由を、銀華はやはり知る由もなかったのだった。
(了)
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