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さくら邂逅前線
春眠暁を覚えず。
そんなことを、昔の酔いどれは口にしたのだと言う。
確かにその通りである。
庭はぽかぽか、心はうきうきである。
お酒の一口でもすすって、桜を見ながら陽気に惑うのも悪くない――
「なんて、考えている人もいるのですね……」
呼んでいた漢書から目を放したラクス・コスミオンは、窓から指す陽日に眉を伏せた。
どんな世界でも、ことの始まりは春である。
自らがかつて暮らしていた場所でも、春は他の四季に比べて、それなりに特別な意味を以って迎えられる季節であった。
だが、そんなことは、ラクスにとっては、あまり関係が無かった。
彼女にとっては、春は戦々恐々の季節である。
呼吸をするように書を解く者にとって、蔵書に大きな動きが起こるというのは、やぶさかでは無い。
古く朽ちた本が消えて行き、新たに見出された本が顔を出してくる。
町の図書館からインターネット上のアーカイブに至るまで、どこでも行われる儀式――棚卸し。
……消えそうな本に、目星をつけておかねばならない。
そう、ラクスは考えている。
それは緊張を強いる作業である。
それなりに使いこなせるようになって来た、パソコンに寄る探索は、あまり人前――特に男性の前に出ることを好まないラクスにとって、鬼子のごとき手段だった。
手軽な反面、足で稼いで初めて分かる要素は、そこからは排除されてしまう。
それでも、電脳上からその本の確保が出来るのであれば、それに越したことは無いのだった。幸い、資金にはこと欠かない。
負うリスクよりも、得るメリットの方が大きい。それをラクスは分かっていた。
しかし、いつまでも、PCの自動検索に頼っているわけにも行かない。
彼女の求める書は、書店の本棚にも、電子の海にも浮かんでいる。
つまり、どこにでも有りえるということ――
ラクスはため息をついた。
「……?」
まさにつき終えたその時に、それは差し出された。
「いかがですか?」
カップから漂う湯気の向こう――万蕾(ばんらい)のごとき微笑みに、ラクスは思わず頬を染めていた。
恥ずかしかったわけではない。それは、愛らしいものを目にした時に、それを解するものならば必ず浮かべる、そんな"照れ"であった。
季節は春を迎えていた。
◆ ◆ ◆
海原みなもはご機嫌であった。
家事と家計にてんてこ舞いなバイト少女にとって、その仕事はまさに僥倖であった。
『春休みの間、住み込みで洋館の家事、及び管理』
登録していた使用人派遣会社から通知を受け取った時に、あまりの嬉しさに、コミックのように素で飛び上がってしまったほどだ。
「やった! やった! やったぁ……ッ!」
洋館の主が、旅行のために家を空ける。
その間、同居人が不慣れなので、住み込みでお世話をして欲しい、とのことであった。
住み込みということは、相手方の家にいなければならない、ということである。
相手方の家にいなければならないということは、自分の家にいなくてよいということである。
自分の家にいなくてもよいということは――楽が出来るということである。
……いけない、いけない。
少女はもちろん自戒したものである。
しかし、喜ぶのも無理は無い。
この仕事を持ってきた使用人派遣会社は、古来より行われてきた『メイドを斡旋する』ということを現代に継承して来た、紛うこと無き本物の"メイド"を扱う会社であり――
「住み込みでメイドさんやれる……ッ!」
少女は無意識コスプレバイト少女であったからだ。
母(はは)さまに、事情を話さなくちゃ――そう思うみなもの心は、晴れやかだ。
どんな風にごまかそうか、なんてことは考えない。彼女は真面目な娘である。
だから、結果的にそういうことをしなければならない、と言うことに気づいていない。
が、ともあれ。
お屋敷メイドの大義名分は成った。
チェストの奥に眠るメイド服を取り出し。ぎゅうと抱きしめて一回転半。
海原みなもの楽しい春休みは、この瞬間に約束された。
◆ ◆ ◆
その湯呑みからは、春の匂いがしていた。
……ストローが差さっている。
ラクスは、使用人の表情を、それとは気づかれないように、そっと見やった。
にこにこと微笑んでいる。
……何が楽しいのだろう?
ラクスはちょっぴり考えてみた――よく、わからなかった。
まさか、メイドをやれているから楽しい顔をしている、なんて解答に、その線ではちと薄識なラクスが辿り着くはずも無い。
それでも、微笑んでいるのは、彼女にとっては好ましいことだった。
◆ ◆ ◆
ラクスは、みなもを知っていた。
禁忌を秘めた書を捜す過程で、今まさに目の前でメイドをしている蒼い髪の少女は、幾度と無くその身を書に取り込まれかけていたのである。
少女の危機をその度に見据え、その度に心を砕いていたラクス。
屋敷の主が不在である故にやって来た使用人が、その少女であったものだから、その時は素で驚いてしまった。
己の気高き姿――彼女の知るところのバステト女神ほどでは無いが――美しき四肢と翼を対象にとって『当たり前のモノ』と認識させる魔術を、思わず施せなかった程だ。
しまった……ラクスはそう思った。だが、客人はにこ、と笑みを一つ、言ってのけた。
『海原みなもです。お世話させて頂きます☆』
……ラクスは彼女の声色に、星を見たような気すらした。
興味本位で最近読んだ、コミックの最終巻に、
『出会いは引力であり、それがすなわち運命である』
と書いてあったのを、ラクスはトンデモの類――もちろん、彼女としての単語はもっと重く、そして正確である――と受け取っていたのだが。
(これはなんとも)
しかも、向こうは自分のことを知らないようだ……
◆ ◆ ◆
不慣れな同居人、そう事前に聞かされていたみなもであったが、事は思いの他、スムーズなものだった。
確かに同居人は不慣れだった。
人間の姿をしていない者が、人間の住む場所で暮らすのは、中々難しい。
犬や猫ではないが、同じ四つ足であるラクスを見て、みなもが感じた問題の種はそこだった。
だが、実際にラクスの立ち回りを見て、その考えは早々に改められることになった。
人間とさして変わるところは殆ど無い。
しかも、その振る舞いは理知的で、高貴なものすら感じさせた――ラクスの毎日の過ごし方には無駄が無く、家事をする側として、こんなに助かることはなかった。
しかし、みなもにとって、ラクスの常軌を逸した読書量は、一種異様に思えた。
だから、時々こうして、お茶を持っていく。色々と趣向を変えつつ。
些細な心配から生まれた行動だったが、何故かみなもは、それが楽しかった。
自然と笑みがこぼれるのを、自分から抑えられない程に。
◆ ◆ ◆
桜茶というものを、ラクスは知らなかった。
だから、その香ばしさが口に広がっていくのを、とても新鮮な感覚として解ることが出来た。
「ラクスは、少し頭が固いのかもしれませんね――」
「え、え?」
使用人は、うまく聞き取れなかったようだ。
こほん、と一呼吸置き、ラクスは続けた。
「このお茶からは、桜の匂いがしますよね」
「は、はいっ。桜茶です」
妙に背筋を伸ばすメイド姿に、ラクスは目を伏せながらも微笑と共に言葉を次いでいく。
「このお茶の味は、本では解らないことです」
「……味、ですか?」
「こういう味だ、と本に書いていても、書いてあることを理解するのと、舌でそれを解るのとでは、天地の差があるのだと、思ったのです」
「??????」
いよいよメイドの少女はは混乱してきたらしい。
自分にしか分かりようの無い言葉で、ものを言っているのだから、仕方が無い。
けれど、ラクスにはそれでよかった。
蒼い髪の少女がここに来たことを、ラクスは自然のことと考えている。
この、なんだかゆるやかな状況に余計な要素を加えるのは、無粋なことだと考えている。
自分と縁のある目の前のメイド姿に、その繋がりの是非を問うよりも、
「つまり、美味しいお茶だということです」
こうしているということを、素直に受け取れば良い……そう思って、ラクスは言葉をしめた。
みなもの表情が明るくなる。
「やったぁ!」
ぐっ、っとガッツポーズする、蒼い髪のメイド。
なんてことのない春の午後は。
なんてことのなくない二人を、なんてこともないように包んでいた。
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