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<東京怪談ノベル(シングル)>


おでんの聖日



 出所。
 白い壁の呪縛から逃れられたとあっては、退院を彼がそう称するのも無理ないことであった。
 どういう訳か彼は――宇奈月慎一郎は、娑婆の空気を胸一杯に吸いこんでいる。
 白い壁の中で足を癒された代わりに、心を病んだ。
 肺から身体の隅々にまで行き渡ってしまった白い壁の病を、娑婆の空気で癒そうと試みているのだった。
 だがしかし。
「駄目駄目足りない、まだ足りない。痛みきってしまった僕のみずみずしい精神を取り戻す為には、」
 おでん。
 それしか手段は、ない。
 病院生活を体験した者はえてして口を揃え、食事の拙さを訴えるものだ。
 だが慎一郎にとって、それは大した問題では無かった。
 病院食に、おでんがない。
 ただそれだけが、呪わしかった。
 少し頭を捻ってみれば、それは至極当然のことでもある。真冬の入院ならばまだしも、既に桜の声も聞こうと云うような精神病棟の献立におでんはない。
 春には木の芽、夏には水野菜。
 秋には豊かに実った深い味わいの食べ物が満ちており、ごく一般的な感覚を持った日本のホモサピエンスにとっておでんはその次ぎであろう――『ごく一般的であると評価されている感覚に慣れ親しんだホモサピエンス』、とも呼ぶかもしれないが。
 だが慎一郎は違う。
 そんな胡乱で怠惰な感性を、慎一郎は持ちあわせてはいない。
 春にははんぺん、夏にはもちきんちゃく。
 秋には豊かに煮詰めた深い味わいの出汁茹で卵、冬にはほくほくのつくねと大根、である。
 彼が病院食に我慢ならなかったのは、それが唯一にして最大の理由であった。
 よって、今すぐ彼は血液中のおでん質を補給しなければならないと考えている。
「あやかし荘は、どっちの方角だろう」
 慎一郎は自分のひとさし指を口腔に含み、ちゅばっと可愛らしい音を立てて引き抜いた。
 それを、青空を突き刺すようにつんと立て、風運びを調べてみる。
 無論、そんな行為が彼に方角を示す理りはない。
 仕方なしに、彼は病院から遠ざかる方向へ繋がる路を行った。
 それが結果的にあやかし荘へと繋がる路であったことは、どこかの呪わしい神が慎一郎に与えた唯一にして最大の呪詛であったのかもしれない。



 彼があやかし荘を目指すのには、理由があった。
 私鉄電車の音やかましい汚い線路を避けるようにして歩を進めた所にある古びた巨大アパートがあやかし荘であるが、さらにその奥に慎一郎の求めるものはある。
 おでん屋台。
 それも、天地がひっくりかえるかと思うほどに美味(であると慎一郎は信じて疑わない)なはんぺんを出す屋台である。
 あやかし荘が、彼の所持する膨大な蔵書を持ち込んでも良いと云うのなら、その屋台のためにあやかし荘へ移住を決意しても良いくらいだ。
 むしろ、彼は屋台に住みたい。
 かつて慎一郎は、この屋台のはんぺんを食すためならどんな手段も厭わぬと云うほどに入れ込んだ時期があった。
 が、それも今となっては過去の話しである。
 時折足を運んでははんぺんを買い占めて、無愛想な屋台の親父に照れた横顔を見せる程度のものである。
 そして、そんな奥ゆかしさが、親父のはんぺんを殊更に旨くするのだと慎一郎は察していた。
「お、でん、はん、ぺん、お、でん、はん、ぺん」
 自分の足運びに合わせて慎一郎は呪文のように繰り返す。
 あやかし荘のこきたない屋根が木々の間から見え隠れするようになると、その呪文は少し早くなった。
 待ちきれない。
 風味豊かな煮汁の染みた白い肌を、一刻も早く甘噛みしたい。
 そんな焦りが、慎一郎の歩幅を大きくし、歩調を速めさせるのだった。
「おでんはん、ぺん。おでんはん、ぺん」
 気持ちが急くあまり、言葉運びまであやしくなってくる。
 この時、誰が想像しえたであろうか。
 数十秒後、ぱんぱんに膨らんだ慎一郎の期待が、無残なまでに打ち砕かれることになることを。


 彼の目指すおでん屋台は、跡形もなく消え去っていた。


「――、ぺん。おでんはん、…ぺ……………………………。」
 あやかし荘の前を通り抜け、すでに駆け足にすら近くなっていた慎一郎の足が、そこでぴったりと止まってしまった。
 口唇の形までもが「ぺ」のまま固まっている。
 それはやがて大きく開け広げられ、「いや」とも「イア」とも付かない形で再度固まってしまう。
 錯乱のあまり、忌むべき何かを呼びだしてしまいそうになったのかもしれない。
 しばらくその場に立ち尽くし、自分の身に何が起きてしまったのかを慎一郎は考えた。
「……屋台が、ない」
 それだけをやっと言葉にして、慎一郎はストンと肩を落とす。
 屋台がない。
 親父もいない。
 どういうことだ。
 おでんが、食べられない。
「……!」
 脳が出すことを渋っていた結論が、漸く導き出されてしまう。
 慎一郎はへなへなと脱力し、アスファルトの上に座り込んでしまった。
 どういうことだ?
 おでんが食べられないとは、どこの星のなんて言葉なんだ?
「……僕はそんな言葉、今まで耳にしたこともない」
 おでん。
 おでんおでん、おでんおでん。
 ――オーディーン。
 ――そうか!
 慎一郎は、額をアスファルトに打ち付けるほど勢いでその場に突っ伏したあと、これまた物凄い勢いで起ち上がった。
 目指すは我が家、愛すべき沢山の文字が生きながらにして積もる紙くさい屋敷である。



 その日から慎一郎は、脇目も振らずにキーボードを叩いた。
 何やらぶつぶつと呟いて指先を蠢かせ、時折キーボードに付いている小さなプラスチックの外を叩く様子をみせたりもした。
 どんな奇っ怪な言葉を入力している気になっているのだろうか。
 どんなきてれつな化学反応が、彼の中で起きては消えているのだろうか。
 一心不乱とは、まさにこのことである。

 彼が無我夢中でキーボードを叩き織りなすのは、一本の小説であった。
 世間から狂人であると太鼓判を押されている、しごくまっとうな青年が主人公だ。
 彼は世間から、まるで薄汚いシンデレラか何かのように陰湿で、悪質ないじめを受けている。
 靴の中に画鋲を仕込まれるとか、給食のうどんの汁がいつまで待っていても回されないとかだ。
 先生も見てみないふりをするし、主人公がほんの少し気にしているクラスメイトの女の子もただ黙って哀れみの目を向けるだけ。
 ある日主人公は、あまりに陰湿な周囲のいじめに堪え兼ね、とうとう『人ならざぬもの』の手を借りて状況を打破しようと試みる。
 捧げ物は、おでん。
 ほくほくの湯気が立っているはんぺんと、汁色を十分に染み込ませた薫製のような卵。大根。
 かつておでんは、偉大なる創造神・オーディーンに捧げられた聖なる食べ物であったのだ。
 主人公は奇っ怪極まりない呪文を用いてオーディーンを召喚する。
 そのときに発した呪文をタイプするのに、慎一郎の手は机の上を叩いていたのだった。
「いける…いけるよ…!」
 感極まった慎一郎は誰にともなく呟いた。
 物語の最終章で、オーディーンは主人公に告げる。
 今日をおでんの日と定め、おでんというおでんはすべからく我に捧げよ。
 是則ち、おでんの聖日。
 水曜日とす。
「これだ」
 慎一郎は何かに取りつかれたように繰り返す。
 これだ、これこそ、おでんだ。

 捲られぬまま過ぎ去る日捲りのページが、水曜日を示している。
 絶望から脱した時、足を踏み出したのは絶望の世界であった――まったくもって、その通りだ。
 最後の一行までを叩き終えた慎一郎が、そのまま机に突っ伏して眠る。
 おでんの聖日、水曜日。

 やがて覚醒する彼の傍らには、どこから現れたのか大皿一杯のはんぺんが置き去られていたと云う。

(了)