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あたら桜の咎にはありける
『 老いて逝く人の孤独とは、如何許りのものであろうか。
正しき巡りのまま、先に旅立ったかの人よ。
孤独とは、死とは、何に似ていましたか? 』
百花の魁と謳われる梅が花を落とすと、世間はすぐさま桜前線の話題で盛り上がる。
あそこの咲きはこれこれぞ、あそこの見頃はいついつぞ。兎角日の本の人は桜にからっきしだ。
春になれば心が騒いで、今か今かと蕾の綻びを待ち望む。花が咲けば、今度はもうかもうかと潔い散り様を惜しみ恋う。
頃は卯月の初め。槻島綾の住む街には桜の名所と名高い公園があり、休日などは特に花見客で賑わっていた。咲き誇る木の下で、桜というよりは人の顔に咲く笑みの花を眺めて、頬に朱の射した若者などが夜遅くまで杯を交し合っている。
良い光景だ。通り過ぎ様に夜桜見物の人々を一瞥して、綾は自然頬を緩める。無論加わりたいとは思わないけれど、斯様な人の営みは愛しくまた、微笑ましい。
今宵は望月だった。月と花とが最高の姿を競い合っているかのような、美しい夜。こんな明かき月の夜に、公園がライトアップを行なうのは少々無粋な気がする。消してしまっても、隣りの人の表情くらいは見えるだろうに。
思いながら綾は花見場よりはぐっと暗い、公園の脇道をひた歩く。少々遠回りしての帰途だった。
目的は、と問われれば。何とはなく花の夜風に吹かれてみたくて、と答えようか。
凍りよりは涼しさを感じさせる春の風。喧騒が、徐々に遠のく静けさよ。
『 老いた樹木の孤独とは、如何許りのものであろうか。
正しき巡りのまま、こんな姿になってしまった木よ。
孤独とは、死とは、何であるか知っていますか? 』
その、石造りの鳥居を、木々の向こうに透かし見たのは偶然だった。
質素な神明鳥居が月の光を浴びて白く鈍く輝いている、その静謐な風景。
綾はついつい興味弾かれて道を逸れる。迂回して更に細い道に分け入って、果たしてその小さな社は眼前に姿を現した。
人は、勿論誰もいない。
在ったのは、拝殿の傍らに佇む、桜の老い木。
「こんな所にも……」
綾は木に歩み寄る。期せずして今夜は花見の機会に恵まれたのか。
夜の中で桜は艶を増し、綾は暫しその花に見入った。
……とは言っても、先程通り抜けて来た公園の百花繚乱の様とは違い、こちらはぽつりぽつりと疎らな薄紅色を数えられる程度。満開の手前、ということもあろうが花の寡なさの理由はそれだけではなさそうだ。
目を凝らし、それでも不便を感じて眼鏡を取り出し、かけて見て。そして理解した。
もう、駄目なのだ。
木自体が、死にかけている。
炭のように黒い朽ちかけた木肌、洞が穿たれ湾曲した幹。盛り上がる根には苔が蒸し、自重に耐え兼ねたかのように枝垂れる枝は、綾にこう語りかけてくるかのようだ。
────私はもう、いけません。長く生き過ぎました。
────こんな老いさらばえた姿、最早貴方の御目には叶わないでしょう。
「……そのようなことは、ありません」
綾は穏やかな微笑を唇に載せ、桜の幹に掌を当てる。ひいやり、と伝わってくる冷たさ。
この木が歩んで来た道。やがては、皆が行く末の姿。
「老いは何も、恥じることではないでしょう」
────あの老人だって、素晴らしく、好ましい人だった。
不意に脳裏を過った面影に、綾は視線を落とす。
僅か俯いたその玻璃が、砂金みたいな光を弾いた。
旅先でその人の訃報を知ったのは、つい先日のことだ。
声を掛けられ、言葉を交わしたのは数ヶ月前。再会を願い訪れたその里に、既に彼の現身は亡かった。
何気ない出逢いと、何気ない別れだったからこそ、その老人の死は綾の心に長く尾を引いて残っている。
職人だったとは後で聞いた。一途な人柄はそれ故だったのだろう。返さなくていいと言って貸した物を最期まで気に掛けてくれていたのだと、ある少女から伝え聞いた。
彼はそういう、優しき人だった。
盛りの季節、というものが人にも木石にもある。
それと同時に、終の季節、というのものが、やはり森羅万象にはある。
若い桜。老いた桜。
若い自分。老いた彼。
正しき巡りは順に死へと万物をいざなう。古いものから先に、消していく。
綾は旅先で何度も、遙か遠い昔の残像を見て来た。それは遺跡であったり、人口に伝えられた語りであったりしたけれど、それらが消える瞬間に斯程生々しく立ち会ったのは、味わったのは、今回が初めてだったのではないだろうか。
一期一会となってしまった人の死。今まさに息を引き取ろうとしているかの老木。
生者の喧騒は彼方に。亡者の冷たさはこの手に。
綾は思う。────孤独とは、死とは、何であるか。
────そして、生きるとは、何であるか。
人は死ぬために生きますか。
人は別れるために出会いますか。
花は枯れるために咲きますか。
花は散るために開きますか。
木は折れるために伸びますか。
木は朽ちるために生えますか。
死ぬことは、孤独でしょうか。
生きることもまた、孤独でしょうか。
逢い難き友とは別離の憂き目。
惜しむべき夜遊は終わりの哀しみ。
老いた人よ、老いた木よ。
────生きることは、夢でしょうか。
「……なんて」
ふっ、と。綾は苦笑を漏らして顔を上げた。
そこにはただ美しいだけの桜花。小さな五つの花弁がひっそりと、物も言わずに咲いている。
「何を、考えているのだか。僕らしくもないかな」
貴方のせいですよ。肩を竦めながら、心の中で桜に呟く。
答えは、聞かずとも分かっていた。
────花はただ咲いているだけ。
────それを美しいと思うのも、哀しいと思うのも。
────総ては其れ、人の心の有様。
────桜に罪はありますまい。
「ええ、分かってはいるのですが」
綾はくいと眼鏡を弦を押し上げ、そして──柔らかに笑む。
「人を集める美しさ、物を思わすその哀しさは、やはり桜の罪だと思います」
(そしてそれは愛すべき罪)
春先の風が吹く。まだ少し肌寒くてコートの前を掻き合せる。
冴え冴えとした月の真澄鏡。その光があるから、眼鏡をかけているから世界が良く見える。
老いたその姿。しかし花は、生きてきたというその証は。
やはり、何よりも美しかった。
「……だから今はただ無心に、薄紅の桜を楽しみましょう」
公園の賑わいが時折届き、その温かさを肴に夜桜を愛でる。
今宵が最期の盛りの桜。散華の如く舞って散る。
後は静かに佇んで、綾は凝っと、その木を花を見上げていた。
了
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