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<東京怪談・PCゲームノベル>


『時の牢獄』

【壱】

 車の硝子越しに満開の桜の木を認め、セレスティは車を停めさせる。ウィンドーを開けると春の香りが滑りこんでくる。微かな風に僅かに枝が揺れる度に淡紅色の花弁がはらはらと舞う光景は溜息が出るほどだった。
 日本の春は美しい。白い雪に覆われていた世界が緩やかに淡い色彩を取り戻す。素肌を晒していた枝は緑の葉の装いを纏い、味気なかった畦道にもぽつりぽつりと小さな花が色彩と共に目を覚ます。そのたおやかな変化は極めて視覚が弱いせいで記憶をなぞるように色彩を呼び起こすようにして見ることしかできないセレスティにとっても飽きるものではなかった。
「こんな桜が庭にあったらさぞ美しいでしょうね」
 呟く声に運転手が頷くのがわかる。
 垣根越しに見知らぬ他人の庭で鮮やかに花弁を散らす桜が羨ましかった。古めかしい日本家屋によく似合っている。手入れの行き届いた庭は桜の美しさを際立てるには十分だ。桜が自分の屋敷には似つかわしくないことは十分承知していたが、それでも桜の美しさを手元に置きたいと思う心は本当だ。
「見事な桜でしょう?」
 不意に声が響く。セレスティが声のしたほうへ視線を向けると、まだあどけない少年が独り、障子戸越しに彼を見ているのがわかった。
「えぇ、本当に」
 銀の髪が春風に靡く。微笑むセレスティの美貌に見蕩れるでもなく、少年は微笑みを浮かべた唇で云う。
「桜の下には屍体が埋まっているんですよ」
「梶井基次郎ですね」
「よくご存知ですね。でもこの桜の下には本当に屍体が埋まっているんです」
 少年との間には大きな隔たりがあったが。しかしそれを感じさせないほどに少年の声はよく通った。変声期を迎える前の少年特有の高い声がやさしくセレスティの鼓膜を震わせる。
「僕が殺して埋めたんです」
 少年の整った容貌から微笑が消える気配はない。セレスティは自分の微笑が綻び始めていることに気付いた。少年の声は真摯で、冗談を云う声にしてはあまりに硬質だった。それがセレスティの微笑を綻ばせる。些細な綻びはだんだんと広がり、完全に微笑を壊してしまう。
「宜しかったらお茶でもいかがですか?」
 少年が云う。なんて大人びた少年だろう。セレスティは自分が考えているよりも少年が年を重ねているような気がした。落ち着いた雰囲気。柔らかな口調。所作や微笑の端々まで、完成されていると思うと見た目に騙されている気がした。容姿からしてまだ十四、五だろう。しかしそんな短い年月を超越して老成した雰囲気を身につけた少年がそこにいた。
「では、お言葉に甘えて」
 云うセレスティの応えに満足したのか、少年は玄関からどうぞと云って姿を消した。
 予定を済ませた後だったことを幸いだと思い、セレスティは家の正面に車をまわすよう運転手に告げた。

【弐】

「あの桜は他の桜に比べて紅色が濃いでしょう?」
 柔らかな高音が云う。
 セレスティは座卓を挟んで少年と向かい合う格好で、庭に視線を向ける。薄く開かれた障子戸の向こうに庭の桜が見える。云われてみればそれは確かに他の桜に比べて少し紅色が濃い気がした。だがそれは錯覚だと云う自分もいる。満開の桜が見せる錯覚だと思うのに、少年の声がそれをやさしく否定する。
「血を吸っているんですよ。だからあんなに美しく咲くんです」
 庭の桜に視線を向けたままのセレスティに視線を戻し、少年が試すように訊ねる。
「冗談だとお思いでしょう?」
 声に視線を少年に向けると、彼は真実だと云うような確信に満ちた笑みでそこにあった。
「冗談なんかじゃありませんよ」
 疑念を抱かせないほどに少年の声は強く響く。
「僕がこの手で殺したんです」
白い陶器の湯呑み茶碗を両手で包み込むようにしている少年の手が人を殺せるとは思えなかった。あまりに細い幼い手だ。しかし幼いからこそ人を殺せるのではないかとも思う。少年らしい純粋な愚かしさは、身軽であるが故にいとも簡単に自分の人生を無駄にしてしまう危うさを持っている。
「君は何歳ですか?」
「今年で十五になります」
 まだ幼い。
 少年の唇から零れた年月は純粋な愚かしさを纏うには十分な短さだった。セレスティは自分の七百年以上の年月と少年の年月を重ね合わせて、自分の双肩に圧し掛かるものの重さを知る。
 守らなければならないものができた。
 愛しいと思う存在ができた。
 維持していかなければいけないものができた。
 それ以上に自分自身や愛するもの、大切なものを守ろうと思う気持ちは月日を重ねるごとに肥大した。
 しかし少年はまだそれらを知るには幼すぎる。十五年という短い月日は、自分さえも簡単に捨ててしまうことができる短さだ。それを思うと冗談などではないことがわかった。
 彼は本当に人を殺したのかもしれない。
 確信めいたそれがセレスティの思考に張り付いて離れない。
「殺してほしいと云われたんです」
「だから殺したと?」
「簡単なことでした。彼は僕に多くのものをくれたから、それくらいの恩返しは容易いものだと思ったんです」
 両手の指を絡め合わせるようにしたその上に顎を乗せて少年は笑う。それはひどく老成して、世界の終わりを見てしまったような空白に満ちた笑顔だ。
「でも、不思議なことに殺した彼は今も僕の所へやって来てくれるんです。毎晩、いつも同じ時間にそれまでと同じようにやって来て、他愛も無い話をして帰っていく。殺してしまったからといって変わったことは何一つありません。殺されたことにさえ気付いていないかのように、彼は以前のままです」
 セレスティは不意に少年の言葉に綻びを感じた。決定的なところが破綻していると思う。殺した相手が毎夜この部屋を訪れている。そう思うと不意に鼻先を死臭が掠めたような気がする。そして同時にそれが幻であるということ覚る。
 この部屋は少年の世界なのだ。
 ただ独りで完結する、ただ独りの意思に支配された他の誰にも侵すことのできない聖域なのだ。
「その彼は君にとって大切な人だったんですか?」
「唯一の理解者です。僕を遺して去った両親よりも、今共に暮らしている祖母よりもずっと僕のことをわかってくれる人なんです」
「私も会えますか?」
 試すようにセレスティが問う。刹那、少年は躊躇いを見せたが、それは瞬く間に溶解し完璧な笑顔によって修繕される。
「会えますよ、きっと。お会いになりますか?」
 僅かに語尾が震えた気がした。まるで否の答えを望むようにさえ思える切実さが仄かに漂う。しかし確信に満ちた完璧な少年の笑みがその形を崩すことはなく、自分の目の前にある現実だけしか見ようとしない視線が揺らぐことはない。
「午前零時に来て下さい。そうすればきっと彼もあなたに会ってくれると思います」
 少年の微笑が崩れることはなかった。
 ただ目の前に並べられた香り高い緑茶だけが静かに冷めていった。

【参】

 深夜の外出を咎めるでもなく、運転手は忠実に仕事を全うしてくれる。余計な詮索をしないこの運転手の態度にセレスティは好感を持っている。それが運転手にも伝わるのか、彼は決してセレスティの要望に不快だというような顔を見せたことはない。
「お気をつけて」
 何を、と問い掛けそうになる自分がおかしかった。別段危ない場所へ向かうわけではない。ただ少年の部屋を訪れるだけのことだというのに、運転手が何を心配しているのかわからなかった。時間が時間だったせいかもしれないと思い、セレスティは事前に少年に云われていたとおり庭をまわって少年の部屋へと向かった。
「こんばんは」
 雨戸と硝子戸、そして障子戸を開けた向こう側で少年が云う。それに答えてセレスティは沓脱ぎの上に靴を揃えて縁側へと足を運んだ。ひんやりとした木製の床板が染みる。ふと振り返ると満開の桜が、しんと冷えた闇のなかにぼんやりと浮かんでいた。仄かな光を放っているようにさえ見える美しいそれの下に、本当に屍体が埋まっているとは思えない。
「隣の部屋で待っていてもらえますか?彼はあなたが訪れることを知りませんから、もしかすると来てくれないかもしれない」
 頷きで答えて、隣室と少年の部屋を隔てる襖を開ける。生活感のない部屋だと思う。そして同時に少年の部屋にもそんなものは微塵も感じられないことに気が付いた。生物が生活しているという気配がない。たとえ明日この部屋が、この家自体が初めからなかったように喪失したとしてもそんな事実には気付かないのではないかと思うほどに存在感が希薄だ。
 静かに襖を閉める。少年は祖母と共に生活していると云った。しかしセレスティはその姿も、その気配さえも感じたことはない。まるで総てが少年の掌の上にあるような気がする。自分は試されているのだろうかとさえ思う。
 ただ広がる空白のみに支配された一室。その畳の上に腰を下ろす。平素腰を落ち着けている書斎の椅子とは違う感触が新鮮だった。
 程なくして隣室から声が響く。
「いらっしゃい」
 細い、凛とした少年の声だ。
 耳をそばだてるようにしてセレスティは隣室に神経を集中させる。
「別に変わったことなんてないよ。この部屋から出ることなんてないんだから、変わっていくのはこの部屋の外だけ」
 無邪気な声だった。
「君は何か変わったことがあった?」
 少年らしいあどけない声に安堵する自分を見つける。
「何も変わらないんだよ。ずっとこのまま。何も失わないし、新たに何かが生まれることもない。僕はそれで満足なんだよ」
 その言葉に不意に疑念が生じた。
 声は少年のものだけだ。
 そして同時に何も変わらないことなど果たして本当にあるのだろうかと思う。今こうしている間でさえも総てが少しずつ変化している。肉体も細胞に分裂が生じることで、空間は時間の流れに流されることで、そして庭の桜は次の春を待つように花弁を散らすのだ。変わらないことがあるわけなどない。思うと少年の言葉が総て、内側に向かって発せられているような気がしてくる。
 最良の自己保身の方法。
 それは総てを拒絶し、内に篭ることだ。
 そういえば少年はこの部屋を出たことがあっただろうか。初めてこの家を訪れた時でさえ出迎えることはなかった。ただ部屋の場所を聞いただけで、誰へともなく挨拶を告げてセレスティは部屋へと辿り着いた。
 少年は部屋を出ることを拒んでいるのだ。それに思い至ると少年が云った殺人さえも現実ではないのではないだろうかと思う。
 この家は、そしてこの部屋は少年の意思一つで完結している。進むことも戻ることもなく、ただ一定の場所に留まったままなのだ。狂っている。時間軸が、空間認識が、総てのものに対する少年の認識が何かをきっかけに狂ってしまったのではないかと思う。そしてそのきっかけが殺人であるような気がした。
 失いたくないと思う存在が目の前で変化していくことを見続けることはきっと少年にとって苦痛だったのだろう。それ故に、仮に相手が少年に本当に殺してほしいと云ったのであれば少年なら叶えてやるのではないだろうか。簡単なことだと云った。確かに殺人という行為の善悪の判断を抜きに行為のみを考えれば簡単なことだ。
 生きているものを殺す。
 それは思いのほか容易い。
 生きているものは必ず死ぬ。
 それが当然であることのように生き物が生き物を殺すことは、倫理などに支配されていない限りは簡単なのだ。殺人への衝動。それを抑制するシステムを人間は予めプログラミングされている。誤作動が起きないよう、万全な状態でもって保持され続ける筈のものだ。しかしもし少年のそれが何がしかの理由で破綻していたとしたらどうだろうか。両親は既に他界していると少年は云った。それがもたらした喪失感が彼のシステムを破綻させていたらとしたら総ては符号する。肉親の死は、それが早すぎるものであればあるほどに大きな喪失感をもたらすだろう。そしてそれが唐突なものだとしたら、思ってセレスティは咄嗟に襖に手をかけた。これを開けるという些細な行為は現在の少年の総てを壊すことに繋がるのだということはわかる。しかし少年はまだ若い。修繕に費やされるための時間は残されている筈だと自分に云い聞かせる。
「誰もいませんよ」
 セレスティが目の前の現実を言葉にする。思い至った現実は杞憂だったのかと思うと安堵する自分がいた。
 その言葉に振り返った少年の顔には明らかに不信感が漂っていた。
「君の前には誰もいません。一体誰と話していたと云うんですか?」
 目の前に誰かがいることをセレスティに証明しようとするかのように少年はゆったりと視線を戻す。
 しかしそこには空白しかない。
 セレスティには少年の見ているものが見えない。
 視力の問題ではないのだ。確かにそこには空白だけがあることが気配でわかる。
「君は何に怯えているんですか?」
 問いに少年が戸惑っているのがわかる。
「何に怯える必要があるというんですか?」
 救いを求めるように少年が視線を彷徨わせる。しかしそれが求めるものは部屋のどこにも存在してはいなかった。
「一つ、私も話をしましょう」
 云ってセレスティは少年の正面に腰を下ろす。
「私はもう七百年以上の年月を生きています」
 少年の目に明らかな疑念が宿る。
「冗談だと思うのも無理もないでしょう。しかし本当です。君が誰かを殺し、その相手が毎夜この部屋を訪れていると思い込むことと変わりない戯言だと思って下さってもかまいません」
「僕の云っていることが冗談だと云うんですか?」
「えぇ。この部屋には私と君、それ以外に誰がいますか?」
 少年が強い口調で答える。
「彼がいます」
 それはまるで我儘を云う幼子のそれに良く似ていた。
「いませんよ。私の年齢を君が信じないように、私には君の云う彼が見えません」
「彼は確かにここにいます。あなたの隣に、確かに座っているのが僕にはわかります」
 云う声が震えているのがわかる。気付き始めているのだろう。総てが破綻に向かって緩やかに進み始めてしまったことに、そしてそれが紛れもない現実だということに少年は不幸にも気付き始めてしまったのだ。
「では屍体を見せてもらえませんか?もし君の云うことが本当であれば、桜の木の下には屍体が埋まっているのでしょう?」
 少年は小さく頷いて、立ち上がる。セレスティもそれに続いた。そして障子戸に手をかけた少年が、不意に動きを止める。縋るように振り向いたが、セレスティは敢えてそれを無視した。すると少年は諦めたのか、それとも自分の現実が正しいことを知らしめるためにか思い切って障子戸を開けた。
 満開の桜。
 それは微かな夜風に揺れて、静かに花弁を散らしている。
 少年が手入れの行き届いた庭に下りる。そしてセレスティを導くように桜の木の根元で足を止めると、その現実に呆然とする少年がいた。
 桜の木の根元。
 そこは柔らかさの欠片もない地面だった。桜の根だけが硬い土を隆起させている。
「本当に殺したんですか?」
 セレスティが云う。少年の肩が震える。口元を覆う手は闇に浮かぶように白く、それもまた震えていた。
「誰とも関わることなく独りで終わることを望んでいたんですか?―――誰しも独りでは生きてはいけないのですよ」
 少年がセレスティを見る。その双眸は涙に濡れていた。
「私も数多くの人々と死という形で別れを重ねてきました。それでも出会いがあり、喪失があり、その繰り返しのなかで大切なものを見つけ、愛するものに出逢えました。必ず別れは来るでしょう。でもそれは仕方のないことではありませんか?生きている限り必ず死は訪れるものです」
「彼は……誰なんですか?」
「君自身だったのではありませんか?君の望みどおりの存在を創り出していたのではありませんか?」
「僕自身……」
「それは君にしてみれば幸福だったかもしれません。幸福の基準は人それぞれです。本来なら私が口出しすべきことなどではないのでしょう。けれど私はそれが君にとって本当の幸福だとは思えません」
 少年の白い手が桜の木の幹に触れる。
「両親とよくここでお花見をしました。些細なことです。でもそれがとても幸せでした」
「幸せというものは些細なものの積み重ねなのでしょうね。それも後になって気付く……」
 俯いて、唇を噛む少年の足元に雫が落ちる。
 慰めるように淡紅色の花弁がそれを隠す。
「一つだけ、お願いしてもいいですか?」
「私にできることであれば」
「抱きしめて下さい。両親がしてくれたように」
 セレスティはその美貌に柔らかな微笑を浮かべ、そっと細い少年の躰を抱き寄せた。腕に力をこめ、いつか彼が愛する人に出逢えればいいと思う。失ったのちも大切だと思えるものに出逢えればいいと願いながら、胸元に顔を埋めて幼子のように泣きじゃくる少年の髪を撫ぜた。
 


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【1883/セレスティ・カーニンガム/男性/725/財閥総帥・占い師・水霊使い】


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■         ライター通信          ■
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二度目のご参加ありがとうございます。沓澤です。
セレスティ様の纏う西洋の雰囲気と日本特有の鮮やかな四季の色彩が上手く馴染んでいれば幸いです。
長い年月のなかで繰り返された喪失と出逢いと考えながら執筆させて頂きました。
この作品の「少年」はセレスティ様のように長い年月を生きることはないでしょうが、その中で繰り返される別離を享受できるようになると思います。
この度のご参加、本当にありがとうございました。
また機会が御座いましたら宜しくお願い致します。