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『聖母<マドンナ>の暗き淵』〜 追憶の天使 〜
●章前
鏡に映ったその人の面影は、
ひっそりと識域下に沈んだ遠い記憶の眠りを揺らす――。
誰ダッタカナ?
――思イ出セナイ‥
でも、きっと知っている人。
だって、心がこんなにざわめく‥‥
会イタイ人?
――ソレトモ、待ッテイタ人‥?
ああ、誰だっけ‥
もどかしくて、切なくて
覗き込んだ鏡面に映っているのは、
少し気難しげに眉を顰めた自分の眸。
●サイレン
救急車のサイレンが響く。
忙しなく行過ぎようとする人の足をそこに止める不吉な音色。
事故? それとも、事件?
この街では、日常茶飯の良くある出来事。
少しも珍しいことじゃない。
‥だけど‥‥
あの音は嫌い。
だって、なんだかツライ記憶を思い出しそうなんだもの――
「自殺、らしいよ?」
「‥‥から、飛び降りたって‥」
異世界から招かれた異形の蟲は、遠巻きに眺める野次馬の言葉を拾う。
意味など理解していない。
紡がれた音を真似ねて、くつくつ嗤う。
「‥‥いたって‥」
今、何て言ったの?
「赤ん坊がね‥」
赤ちゃん?
――ねぇ、赤ちゃんがどうかした‥?
「子供を抱いて飛び降りたらしいよ――」
声を潜めて。
少し息を呑みこんで――
それから、やっぱり声の調子を落す。
「‥‥それって、育児ノイローゼ?」
「さぁ、そこまでは‥」
子供を育てるのはツライこと?
心が壊れてしまうほど。
「‥‥可愛そうにね‥」
その言葉は誰に向けたの?
飛び降りたお母さん?
それとも、お母さんに殺された赤ちゃんに――?
●哀しい咎人<つみびと>
冷たい雨が降っていた。
灰色の空から静かに銀の糸を引く桜雨――
白と黒の垂れ幕
並んだ献花
絶え間なく訪れる黒い装いに身を包んだ弔問客
帰らぬ人との別れの儀式は、粛々としめやかに‥‥。
「――行かないの?」
少し離れた路地の影からひっそりと手を合わせていた女は、ふいに掛けられた子供の声に驚いて振り返る。
雨空が紡いだ暗がりの中に少年が立っていた。――年の頃は12、13歳といったところか。小柄な体躯に、大人用の黒いコウモリ傘が妙にアンバランスで、見ようによっては少し滑稽にも思われる。
「お葬式、行かないの?」
喪服姿の人々が出入りするその家を指差して訊ねた瀬川・蓮(せがわ・れん)に、女は少し困った風に首を振った。
「あそこに行く資格がないから‥」
安っぽく地味なスーツ。痩せた手に握られた水晶の数珠。化粧けのない乾いた肌に青白く生気のない表情は、許されることのなに重い罪を心に背負いどこか生きることに疲れた人間のもので。
蓮の良く知っている大人とは、違う種類の人間。――蓮に優しく援助の手を差し伸べてくれる大人は、富と名声を欲する野心家が多い。常にアグレッシブに何かを求めて走り続ける人間は、目の前の女のようにくたびれてはいないから。
だが、そのどこか悲壮にも見える暗い双眸には覚えがあった。――なんだか気持ちが落ち着かない。
「ねえ、知ってる?」
胸に支えるもやもやを振り払おうと、蓮はつとめて明るい声を出す。
「あの子、お母さんに殺されたんだってさ」
運び出される小さな柩。
参列者の列から洩れる啜り泣きは細く冷たい雨に拾われ、ふたりの立っている場所にも切れ切れに届く。
孤立し疲れ切った若い母親は、泣き止まない子供を抱いて街を彷徨い。そして、高層マンションの屋上に立った。
「――殺すなら、どうして子供を生んだりしたのかな‥」
声に滲むのは憤り。
蓮自身が、母親に殺された子供だから。――幸か、不幸か。こうして生きているけれど、蓮が帰る家はこの街のどこにもない。
蓮の持つ能力を誰よりも恐れ、最後まで認められなかった女性<ひと>。――耐えかねて、遂に、我が子を手にかけてしまった人。
いつか巡り逢うことができたなら、復讐してやろうと決めている。
「‥どうしてかしら、ね‥‥」
蓮の言葉に、女は力なく微笑んだ。
「‥‥あの人も子供が憎かったワケではないと思うの‥」
昼夜を選ばす泣き止まぬ子供。
炊事、洗濯、育児以外の家庭の仕事は、決して少なくないだろう。
夫は仕事で忙しく、妻の憔悴には気づかない。疲れて帰った耳に、赤ん坊の泣き声は騒音以外のなんでもないから。眠れないと明日の仕事に差し障る。――子供を育てるのは女の本能。動物の雌だって誰にも教えられず子育ては出来るはずだ、と。
そう、突き放される。‥‥否、自分自身が思い込む。
――私ハ、母親トシテ失格デスカ‥?
疲労と憔悴が絶望を呼び、やがて、狂気を誘発するのだ。
生真面目で繊細な女性ほど、誰にも相談できずにひとり破滅の暗い淵へと追い詰められる。
「‥‥あの人は‥きっと赤ちゃんではなく、自分自身を殺したの‥‥」
子供は分身。
命をかけてこの世に送り出した大切な――
冷たい雨がコウモリ傘を静かに濡らす。
滑り落ちた雫が、濡れたアスファルトに吸い込まれるように滲んで消えた。
動き出した黒い車を見送って、蓮は小さく吐息を吐き出す。――珍しく緊張しているのを自覚した。
胸の底に渦巻く期待と不安に、息苦しいほどドキドキしている。
いつか、お母さんと再会したら‥‥
ずっと心の裡に秘めていた。
復讐を口にしながら積極的に捜そうとしなかったのは、無意識にそれを避けていたから。
言葉に紡ぐのが、怖い。
今度、突き放されたら。それを思うと、気が塞ぐ。――いっそ思いつく限りの魔を呼び出して、この街ごと滅ぼしてしまおうか‥‥。
それでも、心の底の1番奥で期待していた。
「――もし‥もし、死んだ赤ちゃんが‥‥生きていて‥‥目の前に現れたら‥‥お母さんは、ボクを抱きしめてくれるかな‥‥?」
女はゆっくりと瞬きして、蓮を見つめる。薄紅の唇が微かに動き、そして、ふうわりと透明な笑みが、白い貌に寂しく揺蕩うた。
決して憎かったワケではないから。
ただ、辛くて、苦しくて。疲れて虚ろになった心の隙間に、魔界の蟲が滑り込む。弱った心は、彼らにとってこちらに留まる格好の温床なのだ。――それを知ったのはつい最近のことだけど。
「‥‥そうね、きっと‥」
向けられた眸は、とても優しく暖かかった。
●追憶の天使
名前も覚えていない人。
ボクが魔界に通ずる力を持つことを知り、誰よりも気味悪がった人。――心の闇に迷い込み、そして、囚われてしまった可哀相な人。
ボクが生きていると知ったら、どんな顔をするだろう。
喜んでくれるかな?
‥‥あの人が言うように、ボクを抱きしめてくれるかな‥?
そうえば、あの人の目は誰かに似ていた。
ずっと思い出せなかったけれど。――あれは、鏡面に一瞬浮かんだ見知らぬ面影。そして、鏡に映ったボク自身の顔。
また、どこかで会えるだろうか?
――会エタライイナ‥
その時は――
勇気を出して名乗ってみようか?
ボクはアナタの息子です。
――どうか。
―−拒絶しないで、抱きしめてください‥‥。
=おわり=
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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☆1790/瀬川・蓮/男性/13歳/ストリートキッド(デビルサモナー)
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■ ライター通信 ■
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暗いとゆーか重い(?)話で、申し訳ないです。
子供を殺そうとしたお母さん(汗)何の予備知識も能力もない普通の人間が、悪魔を呼び出す力を持った子供を持ったら‥‥呼び出すものが「悪魔」なだけに‥(遠い目)。
子育て経験のない津田には安易に答えを出しかねましたので、お互い気付かぬままの再会とさせていただきました。
満足していただけるものであれば、幸いです。
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