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『星月夜 ― 藍色の夜空に広がる星々というマリンスノーを見上げながらあたしの手がその指で掴むモノ ― 』
―【二つの海】―
月のない星降る夜空―星月夜。
あたしの好きな夜の空の風景。
夜の色とは黒じゃない。深い藍色。それは深海に似ている。
だったら散りばめられた星々はさながらマリンスノー。
夜空が深海に例えられる由縁。
耳に届く風の音――屋根に近づくにつれて風の音が変わっていく。
だけどあたしの心の中では、それは深い海の奥底から上がっていく時に感じる気圧の変化による耳鳴りに聴こえる。
はあはあはあはあ。
息苦しさに喘ぐあたしの心は小さく半開きにした口から、二酸化炭素を吐き出す。
はあはあはあはあ。
その呼吸音はだけど、
こぽこぽ、
と、あたしの心の中では水の中にいる時に漏らす気泡の音。
じゃあ、あたしの体に纏わりつくこの夏になる少し前のまだ肌寒い夜の空気は水の抵抗?
うん、そう。水の抵抗。
あたしの心は深い深い冷たい水の底に沈んでいる。不快な水の底に。
嫌いな大人。
大人たちの目が、
大人たちが吐き出す二酸化炭素が、
大人たちの心が、
不快な海となって、あたしの心を溺れさす。
息苦しさに喘ぐあたしの心。
嫌い。きらい。キライ。大人なんて大嫌い。
溺れるあたしは不快な大人たちの作り出した海の底で、透明度の悪い深い水の底からだけど天上を見上げる。そこに何かを探すように・・・
何かを求めるように伸ばす手・・・めいっぱいに広げる指。
だけど指がその海の中で掴み取るのは、どろりとした粘性を持つ媚びや嫉妬、羨みという・・・ひどく不快な感情ばかり。その不快な海の底にあたしのこの手が掴みたがっている探し物は無い。
探す?
―――あたしは何を探すの?
その大人たちが作り出した海の底からはそれは見えやしない。
だからあたしは懸命に掻き泳ぐ。
ただその海の海上を目指せ。
―――そこにあたしが探すモノがある。
掻き泳ぐあたし。
―――お祖母様の家の屋根にかけられた梯子を登る。
ひとつ、梯子を登るたびに、暗く冷たい不快な大人の海に沈んでいたあたしの心が浮上していく。
鼻腔をくすぐる新鮮な空気の匂い。味。
心がはやる。
自然に口元に零れる笑み。
だけどダメだ。あたしは笑みを消す。はやってはダメ。はやる気持ちを落ち着かせて、あたしは執拗にあたしの手足を掴み、また不快な海の底にあたしの心を沈めて溺れさせようとする水に気づかれないように注意する。
奴らはひどく賢しくって、こっちが油断すると、その油断に生じて心の隙間に入り込んできて、心を溺れさせる。
すごく巧妙なのだ。やり口が。
だからあたしはきゅっと唇を噛み締めて、梯子を登る手足に力をこめて、気を張って、梯子を登る。
ただ上を目指せ。そこに大切な探し物があるから・・・。
そしてあたしは祖母の家の屋根という海平線にようやく浮上する。
そこで初めて気が付く。今夜、風が吹いていたことに。
街の灯が、夜の帳を黒く濁ったモノに変えて、星の海の明度を下げしてしまうように、明度の悪い不快な海の底は普段感じられるモノまでも感じなくさせてしまう。不快な海に溺れる心はその余裕を無くしてしまう。
大きく息を吸って、吐いた。肺に篭る大人たちが吐き出した二酸化炭素を吐き出すように。綺麗な空気で汚れた肺を満たすために。
口や鼻、体中の毛穴から染み込んで心を汚染していた不快な海の水はだけど、夜の風の前に綺麗に飛ばされて消えていく。
べっとりと不快な海の水に濡れて張り付いていたような感触がして気持ち悪かった髪も、今は風に軽やかになびき、首筋をくすぐって、その感触がひどくこそばゆい。
風になびく髪を掻きあげながら見上げた星月夜はどこまでも青く澄みきっていた。
「・・・・きれい」
黒い山並みを背にした日本家屋の屋根の上。どこからともなく聴こえてくる虫の鳴き声という音色に、木々が風にざわめき奏でる波のような調べ。
不快な海の底に沈んでいたあたしの心はもう苦しくない。苦しくないけど・・・
あたしは星月夜に・・・浮上してきた屋根という心の海平線の下にある不快な海の底に見つけられなかったモノを、今度は屋根という心の海平線の上に広がる星の海に求めて指をめいっぱいに広げて手を伸ばすのだけど・・・・・・
だけどあたしの手は・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
―【倉前・沙樹】―
初めて見たあの人は幼いなりにも何かと必死に戦っているのだという感じを覚えた。ぎりぎりの場所で、たった独りで。その姿は同じ歳の私にはとても痛々しく、そしてだからこそとても凛として映った。まるで都会の片隅に咲く名も無き花が如く。
彼女の名前は倉前高嶺。
容姿端麗で私とは同い歳の従姉妹。
私は…倉前という家に、血に縛られてはいないし、またその弊害を受けた覚えも無い。それはおそらくは私が倉前家の分家にあたる血筋の娘として、生を受けたからか。
だけど彼女は違った。
高嶺ちゃんは本家の娘として生まれ、幼い頃からいずれ彼女が継ぐべき倉前の家にだから縛られてきた。
倉前家とは、今でこそ大手建設会社ではあるが、古くは武家にあたる家柄で、それはやはり【家】というモノを残してきた武家の宿縁か、様々な犠牲を経て富を得てきた家であった。
故にかもしれぬ、本家と分家との間に険悪なモノがあったのは・・・今もあるのは。子どもには計り知れぬ大人の世界のそういう事が複雑に絡み合い、故に両家の間にはそうズレが生じたのだと想う。
そしてその業のようなモノが彼女にいってしまった。
私が幼い時から見ている高嶺ちゃんは、私やお祖母様にはとても明るい笑みを見せてくれたが、しかしその他の大人にはいつも唇をきゅっと引き結んだ・・・そう、一切の隙の無い戦士かのようなぴーんと糸が常に張り詰めたような表情を浮かべていた。
「本当に、あの娘ももう少し物腰の柔らかい娘にはなってくれぬものかしらね?」
―――それは私の母の言葉。そしてそれは母だけではなく、
「うちの沙樹と同じ歳で、あーも人を信じきっていないような目をしてくれるとはな。本当に先が思いやられる。子どもは子どもでいてくれればいいものを。変に大人になってくれて」
―――父もそうであった。
いや、倉前の人間すべてが彼女を疎み、心のどこかで彼女を恐れていた。高嶺ちゃんがそうさせていた。
そう、高嶺ちゃんは戦っていたんだ。
誰からも理解されず、
誰にも理解してもらおうとはせずに、
ただ、独りで戦っていた。
倉前というモノと・・・・。
私はそんな彼女が悲しかった。だけどそれは哀れみでも同情でも、侮蔑でも無い。あるのは彼女を切に想う心。
だって私は知っていたから。
私とお祖母様にだけ見せてくれる高嶺ちゃんの笑顔を。本当の彼女の素顔を。
だから悲しかった。
どうして誰も、本当の高嶺ちゃんの声を聞いてくれないの?
そう、私には聞こえていたんだ。
聞こえていたんだよ、高嶺ちゃん。
10歳の私は、今、17歳の私と同じようにあの日の夜に目を覚ました。
今と同じように聞こえていたから。
貴女の声を押し殺してすすり泣く声が。
本当は10歳の私は、泣いている高嶺ちゃんを、自分が怖い夢を見て、お祖母様がそうしてくれるように優しく抱きしめて、背中を優しくとんとんと叩きながら、泣き疲れて・・・その優しい腕の温もりと心臓の音色のリズムに安心していつしかまた深く心地良い眠りにつくまでずっと抱きしめてあげていたかったんだけど、だけどきっと意地っ張りな高嶺ちゃんは自分が泣いているところを私にも見せたくなかっただろうと想うから(だって高嶺ちゃんったらお祖母様にすら泣いているところを見せないのだから・・・)、だからあの日の夜の私は今から私がやる事と同じ事をしたんだ。
―【倉前・高嶺】―
嫌いだった・・・この一年に一度の倉前の家の者がお祖母様の家に集まるこの日が。
大人たちの視線があたしの心に絡み付いてくるようで、その目が、表情が、言葉があたしの心を気持ち悪くさせて、息苦しくさせた。
だけどそれをだからこそ嫌いな大人たちに見せるのが嫌だった。自分の弱みを見せたくない。そこにつけこまれるのが嫌だった。
だからあたしはあたしが倉前という家の本家に生まれて、これから一生そうやって心に気持ち悪さを感じる不快な人間関係を続けていかねばならぬと悟った時から、そう気を張ることにした。
だけどそれはさながらぴーんと張り詰めたガラスの糸。触ればひどく脆く、簡単に砕け散る。そんなガラスの糸を10歳のあたしは目隠しして綱渡りをしていたのだ。
―――それが怖くないわけが無かったし、悲しくないわけがなかった。いや、覚悟はしていた。倉前家本家の娘として自分は生まれたのだ、と認識してから、ぎりぎりの場所でたった独りで戦う覚悟はした。
・・・・・・しかし、そこはやはりたかが小娘。時折、暗い夜の闇の中で、たった独り泣いている時に、怖くって怖くって泣いている時に必死に意識の奥底の更にまたその深い奥底に置いてある箱に閉じ込めていた自分の弱さがどうしようもなく溢れ出る時はあった。
そう、あの夜も・・・7年前のあたしがまだ10歳だった時の夜もそうやって、あたしは泣いていた。たった独りで、布団の中でまるくなって、声を押し殺して泣いていた。
だけどそんな時だった。
こんこん、と部屋の障子を叩く音。
そのノックのリズムは沙樹のもの。
あたしは急いで涙を手で拭って、一生懸命に、はい、今、それで目が覚めました、という素振りをする。
「沙樹?」
「うん。高嶺ちゃん、ごめんね、起こしちゃって」
すぅーっと障子が開いて、その隙間から沙樹がこっそりと入ってくる。
そしてちょこんとあたしの枕元に正座して座った彼女は、悪戯っぽい笑みを浮かべて言ったのだ。
「あのね、高嶺ちゃん、星が綺麗だよ」
そう言った彼女はあたしの手を無邪気に引っ張ったものだ。
「だから行こう、高嶺ちゃん」
まるで子どものようにそう言う沙樹…いや、子どもなのだけど、その時の彼女は本当に無邪気な笑みを浮かべてそう言って、それであたしはお小遣いをねだる子どもに母親がしょうがないな、っていう笑みを浮かべて、それで布団から抜け出て、二人一緒に部屋から外にこっそりと抜け出て、よく空が見えるように、って、梯子で屋根にのぼったのだ。
そこから空を見上げる。
そしてそこにあったのは満点の星空。降るような。
少し肌寒い中見る夜空は全てを飲み込むようで。星は小さいのにとても綺麗に光っていた。
そう、7年後も変わらずに今見上げている夜空のように。
降るような星々。星月夜。
深い藍色の夜空に散りばめられたような星々。
それは深海に降るように広がるマリンスノーかのように私にはっと息を飲み込ませる。
風が吹く。
屋根に座るあたしは首筋をくすぐる髪を掻きあげながら、ため息を吐く。
―――やっぱり、見つけられてしまった。
ううん、違う。
見つけてくれた。わかってくれた。
「高嶺ちゃん、みぃーつけーた♪」
そう言って、ひょっこりと屋根と言う海平線から出した顔に笑みを浮かべる沙樹にあたしは笑う。
「見つけられちゃった」
彼女はいつもこうだ。
あたしがもうどうしようもなくなって、泣いていると、必ずこうやってその泣き声が聞こえたかのように来てくれる。
胸に広がる安心感。安堵感。温かみ。
「綺麗だね」
くすっと微笑みながらあたしの横に座る沙樹。
わかってる。7年前、あたしの気を晴らすために連れ出してくれた事も、そうしてやっぱり今夜もお祖母様の家に集まった倉前の大人たちにうんざりとしているあたしを励ましにきてくれことも。
だからあたしはこう言うのだ。7年前のように。
「ありがとう、沙樹」
「うん」
そうしてあたしと沙樹はどちらからとでもなく手を繋ぎ、そしてあたしはその沙樹の手の温もりに自分が探していたモノを見つけた。
―― 探し物はすぐ隣にあった ――
― fin ―
**ライターより**
こんにちは、倉前高嶺さま。
こんにちは、倉前沙樹さま。
はじめまして。
このたび担当させていただいたライターの草摩一護です。
このたびはご依頼ありがとうございました。^^
実は前々から書かせていただきたいな、と想っていたお二人さまでしたので、依頼文を拝見させてもらった時はすごく嬉しかったです。
故に本当に今回のノベル、気に入っていただけると嬉しいのですが。^^
プレイングの方もとても綺麗で、そして二人の仲の良さや絆が感じられて。
だからその絆の深さをどう魅せるかを念頭に置きながら書かせていただきました。
PLさまのイメージ通りの仕上がりになっていましたら、作者としては嬉しい限りでございます。^^
またよろしければ書かせてやってくださいね。
それでは本当にご依頼ありがとうございました。
失礼します。
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