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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


『蝶が求めるは花の蜜』

【T】

 宝生ミナミは数々の声と人いきれに埋め尽くされた通路を颯爽と歩く。時折眉を顰めるようにして盗み見るような視線を感じたがすっかり慣れてしまって気にならない。ミナミの長い黒髪は前髪だけが鮮やかな赤色だ。それだけでも人目を引くには十分だったが、ミナミの持つ雰囲気と装いがそれ以上に人目を惹く要因になっていた。レザーのパンツに揃いのジャケット。それに愛用しているカラーコンタクトのせいか、常識人とされる人々の目にミナミは異分子として映るようだった。ステージの上なら許容されるその格好も、一度そこを降りた途端に異分子を見るような目で見られるのが常なのだ。だからいつの間にかそんな些末な視線に煩わされることは莫迦みたいだと思うようになっていた。
 ミナミが訪れているのはデパートの催事場で開催されている国際蘭展の会場だ。いつものミナミなら自ら望んでこんな場所を訪れることはない。
 しかし今回は特別だった。
 きっかけは草間興信所の前を通りかかったという些細なこと。
 いかにも胡散臭い名前だと思いながら前を通り過ぎようとした時に不意に声をかけられた。少女の声に降り返ると、お仕事しませんか?と微笑みかけられたのだ。その声には否と云わせない響きがあった。草間零と名乗るその少女は興信所の所長である草間武彦という男の妹だそうで、依頼を引き受けたはいいが一向に動く気配を見せない兄に呆れて働き手を探していたのだという。新手のキャッチセールスかとも思ったが、雫の微笑と礼儀正しい態度に好感を覚えたミナミは時間にゆとりがあることもあってそれを引き受けたのだ。
 簡素な応接セットで聞いた依頼内容は花を捜してほしいということだった。それくらいなら別段驚くこともなかっただろう。しかしその依頼主が蝶に寄生された人間だというのは信じがたい現実であった。それが顔に出ていたのだろう。零は微笑みを湛えたまま、現実は思いのほか不思議で満ちていますよ、と云った。
 そして今、ミナミはその仕事を全うすべく国際蘭展の会場を訪れているのである。仮設切符売り場の店員は怪訝そうな目で切符を渡した。似つかわしくないと思ったのだろう。それはミナミ自身も十分承知している。自分にはこんな場所は似合わない。来場者はいかにも暇を持て余しているといった体の中年も後半に差し掛かったようなご婦人方ばかりだ。遠慮のない大声で話しながら順路に沿って歩いていく。それに紛れるようにミナミも先へと進む。
 しかし蘭に添えられた解説を眺めるだけで、花自体は特別意識していなかった。蝶に寄生されたという依頼主に会う前に、少しでも情報を収集してからと思って訪れただけで蘭を鑑賞しに来たわけではないのだ。入場料は経費で落ちるのだろうかなどと現実的なことを考えながら、ミナミは簡単な解説の添えられたシートを一枚一枚眺めて足早に人込みのなかを行く。なんて煩い場所だろう。音楽をやっているせいか耳は自然と音を拾ってしまう。どんな雑音であってもつい聞いてしまう癖がついていた。
 そしてその声もまたそうした雑音のなかから音楽によって培われたミナミの耳が拾い上げた声だった。
「人に寄生して咲く蘭があるんですってねぇ。変種らしいけど、人に寄生して花を咲かせるそうなのよ」
 妙に間延びしたその声はミナミの斜め後ろで話していた二人連れの中年女性の一人のものだ。
「ここにも展示されているのかしら?」
 もう一人が云う。
「厭だわぁ。だってその花があるってことは、ここに花に寄生された人がいるってことでしょう?気味が悪いじゃない。寄生された人を展示しているようなものだわ」
 上品だが声の響きは下品だとミナミは思う。
 それでも情報収集だと思って問い詰めようと踵を返して、不意に向けられた視線にさりげなく興味を逸らす。彼女たちは明らかにミナミを異分子として見ていた。
 厭になる。
 どうして人は外見でばかり判断するのだろうか。外見などただの殻でしかないというのに。
 思いながら歩を進める展示物も終盤に差し掛かり、出口が見えてくる。そこは入り口と違ってそれほど混んでいない。店員がご来場ありがとう御座いました、とまるで機械人形のようにひたすら同じ行動と言葉を繰り返していた。その言葉を背中で聞いて、手がかりが見つからなかったことに無駄足だったと思った。否、無駄でもないのかもしれない。人に寄生して咲く蘭は現実に存在しているのだ。その情報源が当てにならないご婦人方の戯言にしても、そういった変種の蘭を捜してみる価値はあるだろう。次は図書館か。思ってまた自分には似つかわしくない場所だと思う。あの静寂と無数の書物に満たされた空間には決して自分が馴染むことができない確信がある。しかし必要なことだと思って、エレベーターに向かう途中で不意に女性が肩にぶつかる。
 香りがした。
 眩暈がするほど甘い香りだ。
 きつすぎる香水は好みじゃないと思いながら、転びそうになったその女性に手を差し伸べると思いの外その人は軽く支えることができた。ミナミの腕に当たる総てが骨ばって、今にも脆く崩れてしまいそうだった。
「……すみません…」
 細い声は雑踏のなかでやっと聞き取れるほど弱々しく、向けられた視線もまた同じような脆弱さを帯びていた。顔色も悪い。まるで紙のようだった。
「大丈夫ですか?」
 云うミナミの声に女性は頷く。しかしその足元はおぼつかなく、ミナミは女性の肩を抱くようにして咄嗟に座れる場所を探した。人込みから離れた、少しでも静かな場所をと思って視線をめぐらせるとエレベーターとは反対側に申し訳程度の休憩所を見つけた。
「歩けますか?」
 女性は頷く。
 そしてしきりに謝罪の言葉を繰り返しながら、ミナミの腕に縋るような格好でやっとのことで休憩所に辿り付き、ペンキの剥げたベンチに腰を下ろす。距離にしたら短い。しかし女性にとってはそれが重労働だったとでもいうように肩で呼吸をしている。
「あの、必要なら医務室とかそういう所にお連れしましょうか?」
 ミナミの言葉に女性は頸を横に振り、絞り出すような声で云う。
「いつものことなんです」
 前屈みになって呼吸を整える女性は痩せすぎて、纏うワンピースは余裕がありすぎた。かわいらしいデザインのミュールを履く足も棒切れのようだ。ミナミが手を添えている肩も薄く、少しでも力を強めたら砕けてしまうのではないかと思われた。
「いつものことなら、病院には通っているんですね」
「原因不明なんです」
 云って女性は苦しげに深く息を吸い込み、続きを口にする。
「手の施しようがないと云われました」
「それじゃ、あの……」
 云いかけて不意に視線を掠めた女性の項に奇妙な痣があることに気付いた。まるで植物の茎のように鮮やかな緑色の、タトゥにしては肌になじみきれていない痣だった。まるで皮膚の上を這うようにしてそれは項から背中のほうへと続いている。
 女性が頬に掛かる痩せた手で髪をかき上げると、再びあの甘い香りがする。
 そしてミナミはそれが蘭の香りに似ていることに気付いた。
 まるでパズルが徐々に完成に向かうようにして、一つ一つのピースがミナミの頭のなかで符合していく。
 人に寄生して花を咲かせる変種の蘭。
 依頼主は蝶に寄生されている。
 人に寄生する蝶。 
 人に寄生する蘭。
 その依頼主が求めているものは特別な蘭の花の蜜。
 草間零の言葉が頭のなかでリフレインする。
 ―――人に寄生して花を咲かせる花の蜜を求めていらっしゃるんです。
 依頼主が求めているのはこの女性だ。
 直感的に思う。
「ご迷惑でなければ家まで送りましょうか?」
 女性は頸を横に振ったが様子を見るからにして一人で帰るには困難あろうことは明白だった。立つことはおろか、呼吸することさえも困難なようだ。ミナミが触れている肩はしきりに上下運動を繰り返している。
 何度か送る、大丈夫だというやり取りを繰り返して、結局は女性のほうが折れた。
 そしてミナミは女性を支えるようにして無数の人々が蠢くデパートを後にしたのだった。

【U】

 女性を送り届ける道すがら体調不良がいつからのことなのかを聞き出した。途切れ途切れで随分時間がかかったが、女性の答えは言葉少なながらも的確で、ミナミが求めている情報の肝心なところだけをきちんと話してくれた。
 体調不良は趣味の植物採集に出かけてからのことだと云う。珍しいと云われる蘭を求めて数人の仲間と連れ立って出かけたそうである。そして事故にあったのだという。目的の蘭を見つけ、手を伸ばした拍子に足を滑らせて崖から転落したのだそうだ。幸いにして大事には至らなかったが、それからずっと体調が芳しくないとのことだった。
 きっとそれが蘭展でご婦人方が話していた人に寄生して花を咲かせる変種の蘭だったのだろう。
 なんらかの拍子に寄生され、今に至るのではないかとミナミは推測する。
 そして女性を家に送り届けてすぐに、蝶に寄生されているという依頼主の家へと向かった。住所は零から知らされていたので容易に辿り着くことができた。しかしそこは人が住むには相応しくない場所であったことにミナミは呆然とした。
 依頼主の家は集落に埋没することを厭うように小高い丘の上に建っていた。緩やかな坂を登りきったそこからが既に所有地だとでもいうように濃い緑が生い茂る庭が広がり、そこを突き抜けるように玄関に向かって細い道が伸びている。
 美しい場所だった。ただそれだけで、他に言葉が見つからない。無駄な装飾のない庭はありのままの自然がそのまま横たわっているように純粋で、降り注ぐ陽光を静かに受け止める姿は造られたものではないのだということを伝えるには十分だ。
 ミナミは覚悟を決めて細かい砂利が敷かれた小道の上を行く靴が踏む砂利の音だけが微風にそよぐ草木の囁きの合間を縫って響き、まるで森の奥深くを一人で歩いているような心地にさせた。
「草間興信所から派遣されてきた者ですが」
 無機質な玄関のドアに備え付けられたインターホンに云う。
 すると程無くして細い声の応えがあった。
『鍵はかかっていません。どうぞお進み下さい』
 女性の声だった。それは今にも途切れてしまいそうで、玄関から入ってすぐの左手の部屋に自分は居るという旨を告げたて途切れた。短いその言葉に随分時間を費やしたように思う。依頼主は衰弱がひどく外出が困難だとは聞いていたが想像していた以上に女性のそれは進んでいるのかもしれない。ミナミは思って玄関を潜る。
 そしてドア一枚に隔てられていた世界を目の当たりにして驚いた。
 家ではなく温室だった。噎せ返るような花の香り。どこに視線を向けても植物がある。明らかに異国のものだとわかる色とりどりの花々。緑鮮やかな観葉植物。建築法はどうなっているのだろうかと思うほどに、ドアの向こうの世界は植物のためだけに造られていた。人の住む場所ではないと直感的に思う。蘭展の会場など比ではない。あそこは明らかに人に見せるための場所だったが、ここは植物のために造られた場所だということがはっきりとわかるくらいに人の生活を無視した構造であることが一目でわかる。
 救いを求めるように視線を巡らせて、目的のドアを探す。蔦の這う壁の間にぽっかりと開いた口のように硝子のド見つける。一体どんな女性がいるのだろうか。ドアノブに手をかけて、ふと会うのが怖いと思った。しかし花の香りに朦朧としてしまったかのように、足は躊躇うことなく前に進む。
「いらっしゃいませ」
 植物の鮮やかな色彩に埋もれるように設えられたベッドの上で上体を起こした女性が微笑んでいた。一目で美しい人だということがわかる。しかしその眼孔は落ち窪み、頬には濃い影が落ちていた。皮膚が貼り付いているだけのような血管の浮き出た腕から点滴の管が伸びている。それを照らし出すように強い陽光が頭上から降り注ぐ。仰ぎ見るとそこはガラス張りの天井だった。サンルームなのだと思う。不快を感じないのは空調が完備されているからなのだろう。
「初めまして、宝生ミナミと申します」
「お待ちしておりました」
 女性はミナミの装いを気にすることもなく微笑を湛えたまま云い、続いて名前を告げると細い肩を包むショールを引き上げた。
「早速なのですが、幾つか質問させて頂いてもよろしいですか?」
 云うミナミに、女性は緩慢な仕草で頷いて椅子を勧めた。ミナミは云われるがままに腰を下ろす。花の香りに頭名が朦朧としている気がした。つい先刻送り届けてきた女性のものとは違う、幾つもの花々の香りが交じり合った香りが意識を侵食する。
「その、蝶に寄生されたということに気付いたのはいつでしたか?」
 女性は遠くを見つめるように視線を天井に向け、過去の記憶を探るように目を細める。
「……羽化した時です。最初は痣みたいなものでした。それが次第に広がっていって、気付いた時には羽化していたわ」
 話す女性はあまりに力なく、今にも掻き消えてしまいそうな儚さを漂わせている。蝶が寄生している気配など全く感じられない。しかし何かによって生命を侵食されているような気配がする。魂の中核に根を張るように、静かに生命を侵されていっているような危うさが漂っているのだ。それは痣のある女性によく似ていた。
「いつ寄生されたか心当たりはありますか?」
「えぇ。きっと谷にあの花を採取しに行った時だと思います。二ヶ月ほど前になるかしら。あの時、崖から転落して、無傷だったので大事には至らなかったのですけれど、食欲が落ちて無性に花の蜜を求めるようになったのはそれからだわ」
 その言葉に依頼主が求めているのは紛れもなくあの女性なのだという確信が生まれる。二人は個人の意思という範疇を越えて、もっと深いどこかで自覚なきままに繋がってしまったのだろう。
「他に貴女のような方は?」
 女性はゆったりと横に頸を振る。
「医者には相談なさったんですか?」
「しました。けれど原因は不明です」
 云って女性は点滴が吊り下げられたスタンドを見上げる。そこからはゆったりとした速度で雫が管を伝い落ちている。これが今彼女の生命を繋いでいるのだろう。
「花の、貴女が採取しに行ったという花のお話を聞かせて頂けますか?」
「動物などの死骸に根を張る変種の着生蘭です。蘭といっても肉厚の鮮やかな色彩を持つ花で、特徴といえば、そうね……眩暈がするような甘い香りがするの。グロテスクだと云う方もいるようだけど、とても美しい花よ」
 依頼主の言葉を聞く度に確信は強さを増し、強固なものとなる。
「虫媒花といって虫の仲立ちで受粉して、媒介にして種を残す花なのです」
 答えた女性の顔には濃い疲労の影が見て取れた。
「最後に一つだけ。寄生したという蝶を見せて頂けますか?」
 翼の言葉に女性は肩からかけていたショールをはらりと落とした。
 その下には陽光を反射させる抜けるように白い肌。
 はっきりと浮いた鎖骨と肋骨。
 女性の纏うワンピースの大きく開いた胸元で赤紫の羽を広げた蝶が息づいていた。
 もう総ては明らか。
 思ってミナミは云った。
「花の所在はわかっています。お連れしたいと思いますが宜しいですか?」
 その言葉に女性は安堵した笑みを浮かべ頷く。
「しかし花に寄生された方のほうも衰弱が激しく、歩くのがやっとという状態ですからすぐにというわけにはいきませんそれでもかまいませんか?」
「お待ちしております。もう他に縋るべきものはないんですから」

【V】

 依頼主と別れた夜、花に寄生されたという女性に連絡を取った。お礼をしたいのでと云う女性と連絡先を交換していたことが幸いした。長いコールの後、苦しげな声が受話器の向こうから響いてくる。
「今日、デパートでお会いした宝生です」
『あの時は本当にお世話になりました』
 やはり女性の声には力がない。
「体調が芳しくないところに無理を承知でお願いしたいことがあるんですが、宜しいでしょうか?」
『私にできることであれば』
 恩があることを気にしているのか、躊躇うこともなく女性は云う。
「お会いして頂きたい方がいるんです。お迎えに上がりますから、会って頂けないでしょうか?」
『私でなくては駄目なのよね……?』
「えぇ。あなた以外では何の意味もないのです」
 暫く逡巡したのち女性は小さな声で答えた。
『明日でも迎えに来て下さるかしら?体調が良い日などありませんから、相手の方のほうも早い方が宜しいでしょう』
「ありがとうございます。では明日」
 それから時間などを決める短いやり取りをしてミナミは電話を切る。
 そして果たして一体何が起こるのだろうかと思った。
 花に寄生された女性。
 蝶に寄生された女性。
 二人が出逢った時、何が起こるのだろうかと不安に思う自分がいる。
 二人の女性の心から響いた声が耳に残っているせいもあるだろう。どちらも共通して求め合うような細い悲鳴を発してした。無意識の声だろう。心から響いていた声だ。微小な音さえも聞き逃さないミナミの耳はしっかりとその声を聞いてしまっていた。だからこんなにも迅速に事を運ぼうとしているのだろう。
 求め合う声は切実で、早急に事が運ぶことを望んでいるようだった。そもそもこんなに上手く事が運ぶほうがおかしいのだ。もっと時間がかかると思っていた。それが今日一日で瞬く間に解決に向かって進展している。この現実は、明らかに双方の女性がのっぴきならない状況にあることを示しているのではないだろうかと思う。
 現実は思いのほか不思議で満ちていますよという零の言葉を思い出す。
 確かにそうかもしれない。そうでなければきっとこんなにも簡単に事が運ぶことはなかっただろう。
 不思議。
 そんな短い単語がひどく重たくミナミのなかに停滞しているのがわかった。

【W】

 花に寄生されている女性は、やはり今にも倒れてしまいそうな弱々しさで迎えに訪ねたミナミの前に現れた。ゆったりとしたワンピースを着ていたが、本来ならそれはもっと躰にフィットするものなのだろうことがデザインからわかる。女性の体調を気遣いながらタクシーで依頼主の家を向かう。あの緩やかな坂を登ることは無理だろうと判断して、無理を云ってタクシーを坂の上まで登らせた。気弱そうな運転手は明らかにミナミの風貌に気おされてか、従順にミナミの言葉に従った。
 支払いを済ませて、女性を抱きかかえるような格好で緑に埋め尽くされた庭に横断する小道を行く。衰弱した女性には庭の美しさなど気に留めている余裕はないようだった。ただミナミの腕に躰を預け、やっとといった様子で足を運ぶ。
 そして昨日と同じようにインターホンで依頼主と簡単なやり取りをして、家の中へと足を踏み入れた。不意に声がミナミの鼓膜を震わせる。
 ―――来たよ。
 辺りを見回すがミナミと女性の他に人間の姿はない。気のせいかと思ったが、それにしてはあまりに明瞭だった。
 ―――花が来たよ。
 云う声は無邪気な子供のようで、植物に埋め尽くされた空間いっぱいに反響する。植物の声かとミナミは思うが、あまりに現実離れした自分の発想に自嘲した。
 声を気のせいだと振り払い、硝子のドアを開けた。
 そしてその向こうで予め用意されていたかのような光景に呆然とした。 
 その光景をどう草間に報告すればいいのかわからなかった。
 挨拶をすることもなく初対面の二人の女性が向かい合う。そして何かで繋がっていたかというような順当さで二人は静かに唇を重ねた。
 溜息が出るような光景だった。
 しかしそれ以上に非現実的な光景であったこともまた真実だ。
 再び零の言葉が脳裏で響く。
 ―――現実は思いのほか不思議で満ちていますよ。
 室内には芳醇な香りが満ちていた。
 それまで嗅いだこともないような甘い香りだ。
 天井から降り注ぐ陽光がスポットライトだとでもいうように二人の女性を照らし出す。花はその植物の生殖器だと云ったのは誰だったろうか。直截的ではないのに艶かしく淫らな光景を目の当たりにしながら、ミナミは静かに進む受粉の光景だと思う。
 蝶の羽が震える。
 肉厚の花弁を広げてそれを花が受け止める。
 雌蕊から雄蕊へ花粉が移される。
 虫媒花。
 受粉。
 種の保存。
 ミナミの頭の中を単語が駆け抜ける。
「あぁ……」
 吐息のような細い声がどちらのものだったかはわからない。しかしそれが合図だったとでもいうように花に寄生されているであろう女性は痩せた女性の胸元に頽れた。痩身を包むワンピースの袖や裾から蔦が伸びる。外界から遮断しようとするかのように伸びるそれは瞬く間に二人を包み込んだ。
 瞬く間に進む現実にミナミは後退る。
 怖いと思った。
 そして同時に美しいと思ったのも本当だ。
 成長する葉と茎。
 蕾が生まれ、柔らかな陽光のなかで花が開く。
 こんなにも早く花をつけるものだろうかと思いながらも、その速さにそれだけ花がのっぴきならない状況にあったことを覚る。 
 どのような報告をすればいいのだろうか。蝶に花を届けたとでも云えば納得してもらえるだろうか。それともこの現状を目の当たりにさせれば納得するだろうか。二人の、否、二つの花と蝶は永遠にここで種を保存し続けるだろう。この光景は人知れず、この植物のために造られたような建築物のなかでひっそりと繰り返されていくだろう。
 噎せ返るような甘い香りが室内に満ちる。
 頭が朦朧として上手く考えることができなくなる。
 不思議だと思った。
 報告するとしたらその一言しかないような気がした。
 ―――現実は思いのほか不思議で満ちていますよ。
 零の言葉に従って、そう報告するほかないだろう。
 現実は目にしたその刹那にしか存在の有無を確かめることはできない。
 思ってミナミは逃げるようにその部屋を後にした。



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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【0800/宝生ミナミ/女性/23/ミュージシャン】

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■         ライター通信          ■
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初めまして。沓澤佳純と申します。
この度はご参加頂きありがとうございます。

今後また機会がありましたらどうぞ宜しくお願い致します。
この度は本当にありがとうございました。