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<東京怪談ノベル(シングル)>


チェリー・ブロッサム、または一期一会


 ほくほくと湯気を上げながら、てしてしと歩くずんぐりとした影がひとつ。
 ここは小さな町の小さな裏路地、古びた街灯の明かりも心もとなく、天にのぼる月の方が、はるかに頼り甲斐がある有り様だった。
 濡れた檜の湯桶を抱えて、てしてしと歩き続けるずんぐりした影。
 影は時折、年代ものの煙管をふかし、ふぱあと旨そうに煙を吐いた。
 しかしながら、その煙を吐いているのは、くちびるではなくくちばしなのであった。
 てしてしと歩む足には膝がない。そもそも、靴を履いていない。水かきがついた鳥足なのだ。
 湯桶と煙管を持って歩いているのは、イワトビペンギンのようなものだった。
 文太という、れっきとした名前も持っていた。
 彼は、時折ふらりとよろめいた。日が沈んだ頃から、満月にちかい月が中天に達しようとするまで、彼は銭湯で湯につかっていたのである。

「お客さん、お客さん。もう、湯を抜くよ」
 古い銭湯の主は、目がもう満足には見えない老人であった。文太が、彼の魂をそのまま具現化した存在のように見えたにちがいない。即ち、少し太った、年配の男に。
 ああ、確かに、そろそろ発たなくては。
 何処へ?
 さあてな。
 こころの中で自問自答をしながら、文太は湯船から上がった。番台に代金を置くと、彼は脱衣所の掃除をしている老主人に、ぴょこりと頭を下げた。
 それから、自販機で買った牛乳を飲み干し、銭湯をあとにした。
 引き戸に示された銭湯の営業時間は、とうに過ぎている。

 それにしても、少しばかり長く湯につかりすぎていたようだ。好きならば好きなだけやったりしたりしてもよいというわけではない。ひと瓶だけの牛乳では、どうにも火照った身体を鎮めるには力不足であったようだ。
 ぺたぺたとしばらく歩いた彼は、ようやく夜風に涼しさを覚えた。
 ざああ、
 風に音がついた。
 ふと、文太のくちばしの根元にある鼻腔を、芳しい香りがかすめる。
 おう、桜か。
 ひどいなで肩になんとか掛けられた手拭いが、芳しい風に吹かれてずり落ちた。
 見事な桜だ。
 桜の季節を迎えるのは、もう何度目になるだろうか――。ひいふうと数えて、とおで数えるのをあきらめた。ひょっとすると二度目なのかもしれないし、千度目なのかもしれない。彼はもの覚えがひどく悪い。どこから来て、どこへ行くのかさえも覚えてはいないのだ。覚えていることはと言えば、煙管をくれた友人のこと、その友人のことば。
 実のところ、今しがた長風呂をしていた銭湯の湯の具合さえも忘れていたのだ。とても、いい湯加減だったのだ――それすらも。
 しかしながら、満開に咲き誇る美しい一本桜が、『桜』というものであることは知っている。桜が美しいものだということも、月下で見る桜は格別だということも。嗚呼、一杯やりたい気分でもある。

 すん、と文太は香りの中の臭いを嗅いだ。
 屍と血と死の臭いだった。

 酔っているのか、醒めているのかも定かではない彼の糸目が、それを見る。
 青白い糸のようなもの。
 桜の枝に絡みついた煙。
 しかし、文太が持つ煙管の中の刻み煙草は、すでに燃え尽きている。
 冷えた風は、この青白い煙が放ったものであったのか。
 立ち尽くす文太の前に、ぅわっと光が堕ちてきた。


 ざく、ざく、ざく。
 誰が言ったか、『桜の花が赤いのは、死人の血を吸うからだ』。
 ざく、ざく、ざく、ざく。
 ひたすら、桜の根元を掘り続ける影がある。満月にちかい月の下。
 ざく、ざく、ざく、ざく、ざく。
 周りは、まだつぼみが膨らみ始めたばかりの桜、桜、桜。
 男は、何故その桜を選んだか。
 ――なに、理由などない、あてもない旅と左程の違いもないだろう――
 ざく、ざく、ざく、ざく。
 そうして、男が、自分の背丈ほども掘り下げてから、ようやく穴の中に引きずり込んだものがある。それはどちゃりと湿った音とともに、桜の根元に投げ出された。
 桜吹雪の柄の振袖を着た、うつくしい女であった。
 ざく、ざく、ざく。


 口の端からひとすじの血を流した女には、桜の根が突き刺さっていた。桜が、女からぢゅうぢゅうと血を吸い上げて、うつくしく咲き誇っている。
 文太はぱくりとくちばしを開けたが、すぐに閉じた。
「おまへはもはややくにはたたぬ、されど、さくらのこやしにはなるだらうと」
 女は、言った。
「あたくしはぶすをのまされ、いきたへました」
 女は、言った。
「はなが、あたくしをとらへているのでござひます」
 女は、言った。
「はなは、さんびやくどめのはるをむかへました」
 女は、言った。
「あたくしもまた、さんびやくどめのはるを」
 女は、言った。
「あたくしは、さくらのこやしでありませうか、このさき、とはに」
 女は、言った。
「おまへはもはややくにはたたぬ、されど、さくらのこやしにはなるだらうと」
 女は、言った。
「あたくしはぶすをのまされ、いきたへました」
 女は、

 とん、と文太は煙管の中の灰を落とす。

    言った。
「なぜゆえ、あたくしはあやめられたのでありませう」
 女は、言った。
「なぜゆえ、あのかたはあたくしをはなにささげたのでありませう」
 女は、言った。
「なぜゆえ、あたくしは

 文太は、ゆっくりかぶりを振った。
 彼の、指すらない手では、桜の木の下をひとの背丈ぶんも掘り返すことはできない。そもそも、その桜の周りはアスファルトで塗り固められてしまっている。
 彼に出来ることは、延々と続く同じような台詞と節を聞いてやることばかり。
 それが哀しいことだとは思わない。
 それが己の宿命であるゆえ。
 そして、桜の肥やしとなってしまった女、それもまたひとつの宿命である。
「……」
 文太がそっと見守る中、月が隠れた。
 青白い光がかき消えた。根と女とは、連れ立って消えていった。
 めおとのごとき、様だった。


 文太は覚えていなくとも、彼が桜をみるのはこれで333度目になるのだ。
 あの桜と同じほどの、いや、桜よりも短いのだけれど、長い時を生きている。長く生きすぎてしまったのかもしれない、と彼は小さく溜息をついた。
 桜はこれまでに、300ぺん以上も同じ話をしていたにちがいない。そんな気がする。
 けれど、その300ぺんとも、聞いた相手は文太と同じことをした。一本桜を見上げ、そして立ち去る、それだけのことを。
 この辺りに咲き誇っていた多くの桜は、贄を捧げられたあの1本を残し、すべてが死に絶えていったのだ。恐らくは、桜に囚われた女の話を聞いた者も、文太を除いたすべてが死に絶えていく。
 文太は、死ぬことがない。
 いつまでも生き続け、てしてしと全国を渡り歩くだろう。
 たとえ彼が忘れてしまっても、その魂に、出会って聞かされた話を刻み込みながら。
 彼は、電柱に取りつけられた看板に目を向けた。
『さくら温泉旅館 右折 1.5km』
 なるほど、確かに、湯の香りがする。
 文太は、ぺたしと右折をした。
 彼の足には、根も草も絡みついてはいないのだ。
 動けない幽霊よりも、動ける幽霊のほうがましだろう。
 動けない桜よりも、動けるもののけのほうがましだろう。
 己以外のすべてが、滅び行く様を見届けなくてはならずとも。

 風が途切れ、湯の香りが途切れ、文太はひたと足を止める。
 して、何処へ行く?
 さあてな。




<了>