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White Valentine's Day
【村上涼の憂鬱】
信じられない。
これが、今の村上涼の正直な気持ちである。
こんな馬鹿な話があって良いものなのか?
3月14日。バレンタインデーに男にチョコレートを渡した経験のある女の子なら、誰もが何かを期待してしまう、少し特別な、今日この日。
片思いなどではなく、両思いなら尚更だ。
図々しい願いを持っているわけではない。顔が見たい。側にいたい。話したい。それだけなのだ。それだけなのに…………あの超朴念仁は、なんと、涼のことなど頭の片隅からも閉め出して、さっさと仕事に行ってしまったのである。
決算期で忙しい。そう言っていた。ほんの一時間でも、時間が惜しい。そう、言っていた。
「馬鹿やろぉぉぉ!!!!」
かくして、村上涼は、虎と化す。むろん、被害者は草間武彦だ。他にもっと相応しい苛められ役など、いやしない。
事務所内に上がり込み、友人やら腐れ縁やら弟子やら有象無象の輩を連れ込んで、飲んで騒いでついでに蹴飛ばし殴り倒しての、大乱闘……もとい……大宴会である。
それでも、草間は、律儀に耐えた。涼の気持ちが、わからないでもないからだ。とりあえず、おさまるまで様子を見ようとした中途半端な優しさが、しかし、かえって、仇となる。
下手をしたら草間よりも長生きしていそうな黒電話が、窓から路上に放り出された時、草間の決意は固まった。
駄目だ。これ以上放置しておいたら、俺と事務所の命に関わる!
「来てくれ、水城! お前の猫が大虎と化して、暴れて手に負えん!! 助けてくれぇぇ!!!」
少々情けない物言いだが、仕方ない。
本当に、この時の涼は凄かったのだ。金属バットまで持ち出して、草間は本気で殺されるかと思ったほど。しかも、正真正銘、正体不明の酔っぱらいである。力加減を知らないので、その傍若無人たるや、いっそ天晴れなほどであった。
「水城ぉぉ!!!」
この悲痛な叫びを無視できるほどには、水城は、鬼ではなかった。
【手強いのは】
決算期の仕事を抱え、最近、水城は、事務所に引き籠もりっぱなしである。
秘書でも雇って雑務は任せてしまえば良いのだが、水城は、基本的に何でも自分で片付けてしまいたいタイプの男である。決して他人を信用していないわけではなく、その方が、万事早いのだ。
何より、司は、自分の仕事が好きだった。極力、他人任せにはしたくない。
けたたましく鳴り出した携帯に出ると、発信者は、草間武彦だった。
ほとんど半錯乱状態で、電話の向こうで「水城ぉぉぉ!」と叫んでいる。
何事かと、ふとカレンダーを一瞥し、司は、ああ、と一人納得した。
3月14日だった。すっかり忘れていたが、今日は、男の方から、一ヶ月前のお返しをしなければならない日ではないか!
「水城!」
「怒鳴らなくても、聞こえるさ。今、引き取りに行く。少し待ってくれ」
「早く来い! 一分一秒でも速く!!」
「猫一匹に、だらしない……」
「その猫が問題だ! あれはお前の言うことしかきかない女豹だろ!」
「まさか。俺さえも、いつも振り回されているのに。最高に手強い猫で…………ああ、だから、やっぱり、草間にも手に負えないか」
猫が暴れている原因は、自分。
大切な日のことを、ころっと忘れていたから。
喜んだら、草間に申し訳が立たないのだろう。だが、思わず、口元が弛んでしまう。
「今、行くから」
この一言は、草間ではなく、涼に。
今、迎えに行くから。
今、会いに行くから。
水城が迎えに行った時、涼は、既に潰れて撃沈していた。
涼がぐでんぐでんに潰れるのは、今に始まったことではないが、それにしても、時間的にまだ早い。
ざるではないが、涼は宴会慣れしているから、意外にしぶとく酒を飲み続ける。三次会くらいまでは、保つはずなのだ。日付が変わってもいないようなこの時間、先駆けてダウンしているのは、稀だった。相当無茶な飲み方をしたのだろう。
「ほら。村上嬢」
呼びかけたが、返事はない。
抱き上げると、意識はないはずなのに、なぜか司に懐いてくる。心が、体が、馴染むのだろう。絶対に口には出さないが、涼にとって、水城の腕の中が、一番居心地の良い場所なのだ。
安心して、微睡んでいられる……。
「うぅ〜……」
自宅マンションに連れ帰ったところで、涼が、ぼんやりと目を開けた。
車に揺られているうちに、意識が戻ってきたらしい。ひっ叩かれるか、怒濤のように文句を言われるか、何にせよ、えらい事になりそうだと、水城はらしくもなく緊張した。
あしらうのは簡単だが、悪いのは、自分。
からかうのはいつもの事だが、今日だけは……優しくしてやりたい。
「ばかー……」
元気のない文句の台詞が、かえって、水城から言葉を奪ってしまう。
「……ごめん」
小さな子供をあやすように、そっと、頭を撫でてやる。それでは不満だとでも言いたげに、涼が、抱きついてきた。意地っ張りな彼女が、酒の力を借りてとはいえ、こんな風に行動するのは、珍しい。
ごめんな、と、水城が、もう一度、言った。
腕の中で、涼が、わずかに、頷いたようだった。
「仕事で、リテイク食らってしまって。不意だったから、計算し損ねたんだ……」
水城に非はなかった。
会社が客だったが、途中で、経営者が入れ替わったのだ。責任者が変われば、当然、嗜好も変化する。新経営者のために、設計図を、大幅に書き直した。
納品遅れだけは、プロとして、水城のプライドが許さない。だから、寝る時間を削り、遊ぶ時間を潰して、書き上げた。完成品は、明日、手渡してくることになっている。
「結局は、言い訳か……。だからと言って、他を忘れて良いはずがない」
なぜ、こんな事を、今、話すのか。
水城はふと考えて、苦笑する。
彼の方も、疲れていたのだろう。誰かに聞いて欲しかったのかも知れない。
「涼?」
何だか、いやに大人しいと思ったら。
涼は、すやすやと、それはそれは幸せそうな寝息を立てて、夢の中に入り込んでいた。
水城に抱きついたままの姿勢で、完全に意識を手放してしまっている。いつにも増して、幼く見えた。起こして、一晩中付き合わせてやろうなどという不遜な欲が、たちまち頭の中から閉め出されてしまう。
「おやすみ」
お預けを食らうのには、慣れている。
今に始まったことではない。
「俺の方は、もう少し、頑張るとするか……」
明日の朝までに、完成させてみせる。
明日、晴れて自由の身になったら、一日遅れだが、どこかに連れて行ってやろう。何でも、望みを叶えてやろう。
手懐けたと思った猫は、少し油断をすると、すぐにも、ふんとそっぽを向いてしまう。
扱いにくいことこの上ない。でも捕まっている事実に、心の何処かで、満足している。今の状況すら楽しいのだから、これは、もう、一生治りそうにない。そして、一生このままで良いと、本気で願っている自分が、確かにいた。
涼を寝室に運んだ後、水城は、一人黙々と机に向かった。
明かりは、深夜の二時を過ぎるまで、ずっと、消えることはなかった。
【合い鍵】
翌朝、涼が目覚めると、枕元に、見覚えのない箱が置いてあった。
あまり装飾のないシンプルな箱を紐解くと、中身は、お揃いのトップとイヤリングだった。
涼が密かに憧れているブランドの、新作だった。可愛らしいが、デザインは上品で、さすがに洗練されている。
思わず見惚れてしまったが、そこで、涼は、はっとする。箱の傍らに、鍵が置いてあるのだ。どう見ても、水城の部屋の合い鍵が。
「な、何よこれは!!」
寝室を飛び出し、水城にくってかかる。宿敵は、朝食の用意をしているところだった。
「おはよう。朝飯、パンでいいか? スクランブルエッグくらいなら付けるが」
「ちょっとぉ! 何よこれ! いらないわよこんな物!!」
「卵料理はいらないか。じゃ、サラダだけでいいかな。……そう言えば、ドレッシング切らしていたような……」
「こんなもの渡されたって、絶対に使わないわよ私は!」
「何もかけずに食べるのか。マヨネーズならあるんだが……」
ものすごいことに、微妙に会話が成り立っている。
さすが息はぴったりだ。
「ちょっとぉぉ!? 人の話聞いてる!?」
「ちゃんと聞いてるじゃないか。ほら、手伝わないなら、テーブルで大人しく待っていろ。今持って行くから」
しっしっ、と、キッチンを追い出された。
追い出されて、憤慨して帰らずに、なぜかきちんと席に着いてしまっている自分が、涼としては、ほんの少し、悲しい気がしないでもない。
「い、いらないわよ、こんな物!」
決意はしたが、この鍵、結局、涼の自宅アパート類の鍵束にちゃんと加えられて、常時携帯品になったとか。
もちろん、これは、水城には秘密である。
「ばれるのも、時間の問題って気がするのは、なんでなのよ……」
生の野菜を、何もかけずに頬張りながら、既に、自分の未来を悟っている涼だった。
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