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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


『蝶が求めるは花の蜜』

【T】

 その日、眞宮紫苑は酒でも飲みながら暇でも潰そうかと遊月画房に向かっていた。趣味同然の仕事はこのところ閑古鳥が鳴いている状態が続いている。食指が動くようなことにも出会えない。結局酒を飲んで暇を潰すほかないくらいに、ただひたすらに暇なのである。
 辺りを眺めるでもなく眺めながら足を運んでいると、前方に見慣れた人影があることに気付いた。小柄なそれは明らかに弟子である秦十九だ。気配を殺しながら大きなストライドで近づき、脅かすように背後から声をかけるとまるで小動物のようにして十九ははっと振り返った。
「どうした?」
「あぁ……眞宮さんですか。脅かさないで下さいよ」
「考え事でもしながら歩いていたのか?」
「えぇ。ちょっと頼まれたことがありまして……」
「聞かせてもらおうか」
 面白いことに出逢えそうだと直感が囁く。十九は心強い見方を見つけたとでも云うように頷いて、遊月画房で話しませんかと提案した。
「丁度酒でも飲もうかと思っていたところだ」
 答えて、紫苑は十九と連れ立って本来の目的地へ向かって歩き出した。
 言葉少なに他愛もない話をしながら暫く歩くと、馴染みの遊月画房が見えてくる。二人は慣れた足取りで戸口を潜り、店主の出迎えに紫苑は手を上げる格好で、十九は小さく頭を下げるということで応え席についた。
 穏やかな雰囲気の店主が運んで来た水割りのウィスキーが注がれたグラスを前に、紫苑は足を組んでラークに火を点けた。愛用のジッポが軽やかな金属音が響く。それを合図だとでもいうように十九はゆっくりと話し始めた。
 話の内容は簡単なことだった。蝶に寄生された人間が花を求めているそうである。
 細く煙を吐き出しながら、紫苑は難題を押し付けられたかのようにしている十九に云う。
「夜の華って云うくらいだ、花って云えば女だろう。しかも依頼主は男だしな」
 それは花なら女、女なら夜の華、夜の華といえばお水の女性という単純な連想によって発せられた言葉だ。十九はそんな紫苑の言葉にどうしてといった風に頸を傾げて問う。
「どうして女性が夜に咲く花なんですか?」
「お子様はまだ知らなくて宜しい。とにかく女を捜せばいいわけだ」
「短絡的すぎませんか?」
「世の中はそんなに複雑じゃない」
 煙草の煙に十九が僅かにだが眉を顰めている。それに彼が煙草を嫌っていることを思い出し、咄嗟に紫苑は目の前の灰皿でまだ長いラークを揉み消した。十九が安堵したように細く吐息を零すのがわかる。気付かれていないつもりだろうが、紫苑の目には明らかだった。
「まずその依頼者の男にでも会いに行くか」
 目の前のグラスを一息で空にして紫苑が席を立つ。十九がそれを呆れ顔で見ている。酒も煙草も嫌っている理由をわからないわけでもなかったが、愉しんでこそ人生だと思う紫苑は十九の態度を見習おうとは思ったことは一度としてなかった。
「住所はわかっているんだろう?」
「はい。零さんから聞いています」
 今回はコルトパイソンの出番はないだろうなと思いながら、紫苑は十九を伴い店主に軽く挨拶をして店を出た。

【U】

「なんて辺鄙な所に住んでるんだ」
 目的の場所に辿り着くなり紫苑がぼやく。
「知りませんよ、そんなこと。職業が植物学者だと聞いてますからきっとできるだけ自然に近いなかで生活していたいんじゃないですか」
 十九の答えが紫苑を満足させたように思えなかったが、紫苑の双眸は既に面白いものを見つけた子供のような輝きを帯びていた。
 依頼主の自宅は集落に埋没することを厭うように小高い丘の上にぽつんと佇んでいた。門扉もない。緩やかな坂を登りきったそこからが既に所有地だとでもいうように濃い緑が生い茂る庭が広がり、そこを突き抜けるように玄関に向かって細い道が伸びている。
 紫苑はやけに静かな場所だと思いながら一歩を踏み出す。十九はそれを追いかけるようについてくる。小道に敷き詰められた砂利が二人の足音だけを音を響かせる。
 柄にもなく美しい場所だと思った。ただそれだけで、他に言葉が見つからない。無駄な装飾のない庭はありのままの自然がそのまま横たわっているように純粋で、降り注ぐ陽光を静かに受け止める姿は造られたものではないのだということを伝えるには十分だ。
 無機質な玄関のドアの前に立ち、その傍らに備え付けられたインターホンを十九が押す。紫苑は全く関係のない方向へと視線を向けていた。屋内から軽やかにベルが響く気配がして、次いで僅かなノイズ交じりにスピーカーから声が零れる。
『どなたですか?』
 たった一言だというのに振り絞るように発せられたような声だった。
「草間興信所の者です」
 十九が答える。するとスピーカーの向こうから安堵するような細い息が漏れる気配がした。
『鍵は開いています』
 男性の声ではあったが、それにしてはあまりに細い声だった。今にも途切れてしまいそうな声で、玄関から入ってすぐの左手の部屋に自分は居るという旨を告げた。短いその言葉に随分時間を費やしたように思う。衰弱していることは十九から聞いていたが想像していた以上に男性の衰弱は進んでいるのかもしれない。紫苑は思って、十九と共に玄関を潜った。
 そして二人はドア一枚に隔てられていた世界を目の当たりにして驚いた。
 家ではなく温室だった。噎せ返るような花の香り。どこに視線を向けても植物がある。明らかに異国のものだとわかる色とりどりの花々。緑鮮やかな観葉植物。建築法はどうなっているのだろうかと思うほどに、ドアの向こうの世界は植物のためだけに造られていた。人の住む場所ではないと直感的に思う。
「入ってすぐの左手のドアというのはあれか?」
 云う紫苑の声に呆然としていた十九がはっとする。蔦の這う壁の間にぽっかりと開いた口のように硝子のドアがあった。さくさくと歩を進める紫苑の後ろをパタパタと十九がついてくる。一体どんな男性がいるのだろうかと。そして自分にしては珍しくふと会うのが怖いと紫苑は思った。しかし花の香りに朦朧としてしまったかのように、足は躊躇うことなく躰を前へと運ぶ。
「いらっしゃいませ」
 植物の鮮やかな色彩に埋もれるように設えられたベッドの上で上体を起こした男性が微笑んでいた。中性的な雰囲纏い、その性別の曖昧さが不思議な美しさを生み出している。しかしその眼孔は落ち窪み、頬には濃い影が落ちていた。皮膚が貼り付いているだけのような血管の浮き出た腕から点滴の管が伸びている。それを照らし出すように強い陽光が頭上から降り注ぐ。仰ぎ見るとそこはガラス張りの天井だった。サンルームなのだと思う。不快を感じないのは空調が完備されているからなのだろう。
「初めまして、秦十九と申します」
 名乗る十九に続いて、おざなりに紫苑も名乗る。男性も微笑みでそれに答え小さな声で名前を告げた。
「早速なのですが、幾つか質問させて頂いてもよろしいですか?」
 云う十九に、男性は緩慢な仕草で頷いて二人に椅子を勧めた。静かに腰を落ち着ける十九に続いて、紫苑も決して優雅とは云えない体で腰掛ける。
「その、蝶に寄生されたということに気付いたのはいつでしたか?」
 男性は遠くを見つめるように視線を天井に向け、過去の記憶を探るように目を細める。
「……羽化した時です。最初は痣みたいなものでした。それが次第に広がっていって、気付いた時には羽化していたんです」
 話す男性はあまりに力なく、今にも掻き消えてしまいそうな儚さを漂わせている。蝶が寄生している気配など全く感じられない。しかし何かによって生命を侵食されているような気配がする。魂の中核に根を張るように、静かに生命を侵されていっているような危うさが漂っているのだ。
「いつ寄生されたか心当たりはありますか?」
「えぇ。きっと谷にあの花を採取しに行った時だと思います。二ヶ月ほど前だったでしょうか……。あの時、崖から転落して、無傷だったので大事には至らなかったのですけれど、食欲が落ちて無性に花の蜜を求めるようになったのはそれからです」
「他に貴方のような方は?」
 男性はゆったりと横に頸を振る。
「医者には相談なさったんですか?」
「しました。けれど原因は不明です」
 云って男性は点滴が吊り下げられたスタンドを見上げる。そこからはゆったりとした速度で雫が管を伝い落ちている。紫苑はそれを見上げ、これが今男性の生命を繋いでいるのだろうと思った。
「花の、貴方が採取しに行ったという花のお話を聞かせて頂けますか?」
「動物などの死骸に根を張る変種の百合です。百合といっても珍しい黒色の花弁の百合です。特徴といえば、そう……甘い香りがします。一見グロテスクにも見えますから、厭う方も多いようですがとても美しい花です」
「虫媒花ですね?」
 十九が云う。その言葉に紫苑は意外と博識なのだろうかと思った。
「よくご存知ですね。そうです、虫を媒介にして受粉をするんです」
 答えた男性の顔には濃い疲労の影が見て取れた。
「最後に一つだけ。寄生したという蝶を見せて頂けますか?」
 十九の言葉に男性は弱々しい手つきで白いシャツの釦を外して二人の目の前に胸元を晒した。
 その下には陽光を反射させるような白い肌。
 はっきりと浮いた鎖骨と肋骨。
 薄い皮膚の上で息づくようにして胸元で赤紫の羽を広げた蝶の姿があった。

【V】

 男性の家を後にする頃には既に日は傾き、辺りは薄闇に包まれつつあった。
「奇麗な男だったな」
 二人肩を並べて緩やかな坂を下りながら紫苑が漏らした言葉に十九が眉を顰める。
「そういう趣味もあったんですか?」
「も、とはなんだ、も、とは。そう云う意味じゃない。印象のことだ。あぁいう男を好きな女も多いからな。十九が考えているほどこの依頼は難しいものじゃない。すぐ分かる」
 坂を下り、だんだんと町へと近づく道すがら十九が傍らでぽつりと呟く。
「これからどうしますか?」
「繁華街にでも行けばいいんじゃないか」
「繁華街……。その方面には全然詳しくないんですけど、眞宮さんはどうですか?」
「商売柄それなりにな。繋がりもないわけじゃない」
 答えて眞宮は颯爽と夜の繁華街、それも多くの女性が働く一角に爪先を向けた。十九はただついてくる。男性と会った時は一言も話さなかったくせにと思っている気配が感じられたが無視した。
 時間が遅ければ遅いほうがいいだろうと思い、紫苑は遊月画房で暇でも潰そうと提案する。しかしそれは表向きは提案であっても、紫苑のなかでは既に決定されていることを十九は知っていた。だから異を唱えることもなく従う。もと来た道を遊月画房を目指して歩きながらも十九が辺りの気配を伺っていることに紫苑は気付いていた。熱心なことだと思いながら、これから何を呑もうかと酒の種類を考える自分の思考は真面目じゃないと自嘲する。
 通りを行く人の数が増えている。時間帯が帰宅時間であるからだろう。十九はそのなかに手がかりを探そうと辺りに気にしている。紫苑の頭のなかは相変わらず酒のことでいっぱいだった。少しだけ煙草が吸いたいとも思う。
「あっ……」
 不意に十九が立ち止まった。そして誰かの姿を追いかけるようにして振り返る。つられて紫苑もそちらに視線を向けると、そこはただの人込みだった。
「どうした?」
「花が視えたんです。はっきりしていなかったけど、今にも枯れてしまいそうな花を内側に宿した女の人とすれ違った気がします」
「追えるか?」
「多分……」
 自信なさげに云う十九の言葉を頼りに、紫苑は踵を返す。
 十九に云われるがままに進んだ先は繁華街のなかでもいかがわしい店が犇く一画だった。小さなテナントビルが押し込められたように建ち並び、壁際に貼りつくようにして掲げられている看板はけばけばしいネオンに彩られている。派手な化粧をした客引きの女性があちらこちらに立ち、時折紫苑の腕を引いた。しかし紫苑はそんな女性たちにかまっている余裕などなかった。十九が危なっかしくてしょうがなかったのである。明らかに未成年である十九が補導される可能性だってある。補導されるくらいならいい。それ以上の危険がこの一画に潜んでいることを紫苑は十分承知していた。
「ここ……だと思います」
 一つのビルの前で十九が立ち止まる。どんな店であるかはわかっていないのだろう。ジャンパー一枚しか着てないのではないだろうかと思われる濃い化粧を施し、白い足を晒した女が紫苑を見とめて微笑みかけながら駆け寄って来る。十九はその女性の姿に圧倒されたのか、呆然と見つめるばかりで黙ったままだ。
「久しぶりじゃない。今日はお客様になってくれるの?それともいつもの人には云えない別のお仕事?」
 派手な赤色のルージュで彩られた唇から媚びるような響きの声が零れる。
「人を捜してるんだ」
「うちの子?」
「わからん。十九次第だ」
 そう云って、傍らの十九に視線を向けると十九は女性の後ろに小さく口を開けたビルの入り口のほうを見つめていた。ここなのだろう。紫苑は思って問う。
「このビルでいいんだな」
 十九が頷く。
「あんたの店の女の子リストとか見せてもらえるか?」
 紫苑が云うと女性は毛先だけをカールさせた長い茶色の髪を書き上げて、笑った。
「紫苑のお願いなら仕方ないわね。オーナーもOKする筈よ。待ってて。―――あっ、それとも直にオーナーに会ってみる?」
「そっちのほうが手っ取り早い」
「じゃあ、裏口から入って。事務所の場所はわかるよね?」
 云う女性に、今度は客として来るよと社交辞令を云って紫苑は十九を伴い裏にまわった。
 華やかな表とは裏腹にそこは薄暗くじっとりとした空気が満ちている。いつ来ても光と闇が共存していると思いながら紫苑はペンキの剥げた重たい鉄のドアを開けて、ビルのなかに入る。先程の女性が勤めている店はこのビルの二階だった。そして彼女の雇い主であるオーナーはこのビルのなかに入っている店舗の総ての経営者でもある。その人物がいる場所は地下の事務所だということを紫苑は知っていた。以前仕事で何度か顔を合わせているのだ。
 関係者以外立ち入り禁止という看板を無視し、十九がきちんとついてきていることを確かめて事務所のドアをノックする。返事はない。
「眞宮です」
 云うとくぐもった声がドアの向こうから響いてきた。
「お願いがあって来ました」
 ドアを開けると、豪奢な机に向かう男性の姿が現れる。腰掛けている椅子は明らかに本皮製の高価なものだ。そして男性が身に纏っているスーツも、名の知れたブランド品だった。
「久しぶりだな。仕事は順調なのか?」
「相変わらずですよ」
 笑って答える紫苑に、男性は仕事をしていた手を止めて部屋の片隅に設えられた立派な応接セットへと紫苑を促し、ふとその背後で所在無げにしている十九に目を止めて云った。
「その子を働かせてほしいとか云うんじゃあるまいな」
 その言葉に紫苑は大袈裟な仕草を加えて答える。
「まさか。あなたのお願いでもそれだけはできませんよ」
「ならいい。まぁ、座って話しをしよう」
 男は緩慢な仕草で紫苑の正面に座り、膝の上で頬杖をつく格好で、
「それで今回は何の用だ」
と云った。組み合わされた指には高価な指輪が煌き、腕にはロレックスと思しき時計が嵌められている。
「店の女の子のリストを見せてもらえませんか?人を捜しているんです」
「人捜しまでするようになったのか。金に困ってるなら仕事を紹介してやるぞ」
 云いながら男性は席を立ち、困ってませんよ、と云う紫苑の言葉に笑いながら数冊のファイルを手に戻ってきた。そしてそれを目の前のローテーブルの上に置いて、どのファイルがどの店のものであるのかを簡単に説明すると仕事に戻っていった。
「このなかから捜せ。このビルにいるならここに必ず写真がある」
 テーブルの上に並ぶファイルを視線で指しながら、紫苑が云う。十九は素直に従った。紫苑も手慰みに一冊のファイルを手に取り、表紙を捲る。どのページを捲っても同じように媚びたような笑顔の女の子が並んでいるばかりで、面白くもなんともなかった。
「この人だ」
 暫くして十九が云う。膝の上で広げたファイルに置かれた華奢な指先は一人の女性の上で止まっていた。
「黒百合……」
 手にしていたファイルを放り出して、紫苑が覗き込むと十九が呟く。
「黒百合がどうした?この女の子の源氏名か?」
 しかしその写真の下に記されていた名前は違っていた。
「この女性が黒百合ですよ。……あぁ、あの依頼者が捜してほしいっていう相手はこの人です」
 肝心なところで自己完結しているなと思いながら紫苑は十九からファイルを奪い取り、指差していた女の子について男性に問うた。男性は目を細めるようにしてどの子かを確かめ、暫く考えるような仕草を見せると思い出したといったように云った。
「店にいるよ。一番人気の子なんだけどね、最近体調が悪いみたいでな。呼び出してやろうか?」
「お願いします」
 すると男性は机の上の電話の受話器を取り、その子の店へと内線を繋いだ。そして短いやり取りを終えて、すぐ来るよと紫苑に云うと再び仕事に戻っていった。
 程無くして事務所のドアがノックされる。男性が短い返事をすると、ゆっくりとドアが開いてひどく痩せた女性が入ってきた。甘い香りが鼻を掠める薄手のキャミソールワンピース姿で、肌が透けて見えた。十九が視線を逸らすのがわかる。
「何ですか?」
「お客だよ。そこの二人」
 男性はおざなりに云う。そして女性は二人に視線を向けて、怪訝そうな顔をした。
「少し話しをしてやってくれ。おまえを捜してたそうだ」
 女性は素直に頷いて、二人の前に腰を下ろした。甘い香りが強くなる。一目で美女だとわかる容貌をしていたが、あまりに痩せすぎているせいでそれも台無しだった。肌も露な服装が余計に女性をみすぼらしく見せている。以前は男の視線を独り占めしていたであろう雰囲気があるというのに、今は見る影もにない。
「あたしを捜してたってどうして?誰に頼まれたの?」
「貴女の知らない人ですよ。その人が貴女に会いたいんだそうです」
「事情を説明して。それだけじゃ何がなんだかわからないわ」
 明らかに不機嫌な女性に紫苑は依頼内容をかいつまんで説明する。しかしそれを女性が信じたような様子は皆無だった。無理もないだろう。蝶に寄生された男が自分を捜しているだなんて信じられるわけもない現実だ。
「嘘でしょ。本当はなんなのよ」
「本当ですよ。―――それより、最近体調が芳しくないそうですね」
「えぇ。全く商売になったもんじゃないわ。好きなブランド品も買えやしない」
 不満そうに女性は云う。
「医者もお手上げ。原因不明なんだから困ったもんよね」
 云って大袈裟に組み合わせた足は折れてしまいそうなほど細かった。
「俺なら治せますよ」
「本当?」
 紫苑の言葉に女性が華やかな笑顔を見せる。
「ただ条件があります」
 すると瞬く間に笑顔は崩れ、不満そうな表情に変わる。
「その男に会えって云うのね」
「えぇ。どうしますか?」
 紫苑の問いに女性が答える前に男性の声が響く。
「行って来い。今のままじゃ、おまえはクビだ」
 その声に女性が縋るように男性を振り返ったが、男性は顔を俯けたままで女性を見ようともしていなかった。その姿に諦めたのか紫苑に向き直って、女性が溜息を漏らす。
「仕方が無いわ。行くわよ。でもこっちの予定を考えてよね」
「えぇ」
 それから女性と短いやり取りを交わして、男性に礼を云ってビルを出ると十九が呟くように云った。
「さすが師匠ですね」
 女性とのやり取りの間中ずっときょとんとしていた十九を思い出して、紫苑は笑った。

【W】

 約束の日。女性は事務所で会った時のような肌も露な格好ではなかったもののノースリーブのワンピースに薄手のジャケット、華奢なミュールというコケティッシュな装いで二人の前に現れた。男性の家に向かう道すがら女性は終始我儘に振舞った。十九はそんな女性に終始困惑しきりで、紫苑は何度かぶん殴ってやろうかと思ったほどだ。
 しかしそれも男性に会うまでのことだった。
 我儘三昧に振舞っていた女性は、男性と向き合うとまるで何かで繋がっていたかというような順当さで自ら静かに男性の乾いた唇を重ねた。
 その光景に紫苑の傍らで十九が息を呑む。
 室内には芳醇な香りが満ちていた。それまで嗅いだこともないような甘い香りだ。
 天井から降り注ぐ陽光がスポットライトだとでもいうように二人を照らし出す。花はその植物の生殖器だと云ったのは誰だったろうか。直截的ではないのに艶かしく淫らな光景を目の当たりにしながら、紫苑は静かに進む受粉の光景だと思う。蝶の羽が震える。肉厚の花弁を広げてそれを花が受け止める。雌蕊から雄蕊へ花粉が移される。
 虫媒花。
 受粉。
 種の保存。
 紫苑の頭の中を単語が駆け抜ける。
「あぁ……」
 吐息のような細い声がどちらのものだったかはわからない。しかしそれが合図だったとでもいうように女性は痩せた男性の胸元に頽れた。痩身を包む洋服の袖や裾から蔦が伸びる。外界から遮断するように伸びるそれは瞬く間に二人を包み込み、伸びた茎の先端で静かに黒い百合が花開いた。
 黒百合だと云った十九の言葉が漸く理解できた。
 濡烏色の肉厚の花弁の黒百合。
 怖いと思った。
 そして同時に美しいと思ったのも本当だ。
 成長する葉と茎。
 蕾が生まれ、柔らかな陽光のなかで花が開く。
 こんなにも早く花をつけるものだろうかと思いながらも、その速さにそれだけ花がのっぴきならない状況にあったことを覚る。 
 紫苑は二人の、否、二つの花と蝶は永遠にここで種を保存し続けるだろうと思った。この光景は人知れず、この植物のために造られたような建築物のなかでひっそりと繰り返されていく筈だ。
 十九はこの結末をどのように報告するつもりでいるのだろう。
 噎せ返るような甘い香りが室内に満ちる。
 頭が朦朧として上手く考えることができなくなる。
 呆然と立ち尽くすようにして二人はただ目の前で繰り広げられる光景を眺めていることしかできなかった。



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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【2661/眞宮紫苑/男性/26/殺し屋】

【2794/秦十九/男性/13/万屋(現在、時計屋居候中)】

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■         ライター通信          ■
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初めまして。沓澤佳純と申します。
この度はご参加頂きありがとうございます。
眞宮紫苑様と秦十九様との会話を書くのがとても楽しかったです。
私の勝手な印象ですがお二人の関係が微笑ましく、どうすれば上手くその雰囲気が出せるかと考えながら書かせて頂きました。
この作品が少しでもお気に召して頂ければ幸いです。
今後また機会がありましたらどうぞ宜しくお願い致します。
この度は本当にありがとうございました。