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春の日差しの中で
守崎邸は、はっきり言って、広い。
どれくらい広いかというと、正当なる忍者のこの上もなく怪しげかつ危険な罠を、これでもか、これでもか、というくらい張り巡らせて、それでも他人様が余裕で数十名は寝泊まりできるくらい、広いのだ。
さすがに、あの奇態なことで有名なあやかし荘には及ばないかも知れないが、初めて守崎家を訪れた人々は、まずただ一人の例外もなく、あそこの家は謎だらけだ、と口にするという話である。
確かに、本物のからくりが目白押しの家など、滅多にない。某時代劇村だって無理だろう。しかも、恐ろしいことに、守崎家のからくりは、その全てが本物である。手を抜いている半端物など、一つもない。
幸いにして、この家を訪れるのは、素晴らしい運動神経の持ち主ばかりであるから、今のところ、死者負傷者は出ていないが……。
いや、俺が最初の一人かもしんねぇ……ちょっと深刻に考える少年は、守崎北斗。十七歳。
元気が快活という服を着て歩いているような、それはそれは生命力に満ち溢れた高校生である。兄に叱られるとは重々承知しながらも、ついつい道草買い食いなどしてしまった北斗は、それらを綺麗に腹の中に納め、完全に証拠を隠滅すると、ただいまぁ、と一声かけて、家の門を潜ったのだった。
「兄貴ぃ〜……いつも元気な弟様が、帰ったぞ……って、あれ?」
いつもなら、この時間、夕飯の支度をしているはずの兄の姿が、台所に、ない。
どこ行ったんだ?
俺の大事な大事な夕飯が……いやそうじゃなくて……大事な大事な兄貴が……。
広い家の中を、啓斗の姿を求めて、探し回る。
いつも姿が見えないと、不安で不安で仕方ないわけではない。
双子と言っても、別々に生まれてきて、十七年。違う選択を選んだこともあれば、互いに譲れない部分も、既にたくさん持ち合わせている。
何となく、話してみたくなったのかも知れない。平凡な日常と、ほんの少しだけ、違う行動をした兄と。
ぶつぶつと文句を言って見せても、腹を空かせた弟のために、毎日、律儀に厨房に立ってくれている、兄。
何処へ行った?
もしかして、いつも、何もかも、任せきりだから、疲れて、ふらりと出て行ってしまったのかも……。
春の晴天の日は、何だか、いっそう、太陽が長く留まっているような気がする。
守崎邸の、縁側の片隅に、暖かい日差しをたっぷりと浴びて……啓斗がいた。
庭の桜の花びらが、風に吹かれて、幾つも幾つも、こんこんと眠り続ける兄の傍らに、舞い落ちる。何だか、祝福されているみたいだと、思った。
「いくら春だからって、こんな所で寝てたら、風邪ひくぞ」
起こさないように、呼びかける。掛布でも、持ってこようか。人にはあれこれ注意するくせに、呆れるくらい、自分には無頓着な兄だから……。
「似ている、か……」
同じ、ではない。
顔の造作は、さすがに瓜二つだが、眠り込んでいても、自分とは明らかに違うと、確信できる。表情が、雰囲気が、違うのだ。どれほど似ていても、別々の人間なのだから、当たり前の話なのだが……。
でも、似ていないことが、今は、ありがたい。
「兄貴に足りないものは、俺が、気合いで、補ってやるからさ」
昔は、兄に、嫌なことばかり押しつけていた。
何も言わないことを良いことに、あれも、これもと、頼りにしていた。
兄は強いと、壊れるはずがないと、いつの間にか、勘違いをしてしまっていた、自分。
その表情が、少しずつ、確実に失われていくのに気付くのに……要した時間は、決して、短くはなかった。
でも、今は、違う。
「身に降りかかる火の粉なら、全部、消し飛ばす。そんなくだらない連中の喉笛は、幾らでも、容赦なく、俺が食いちぎってやる」
戦える。自分も。
戦わなければならない。自分こそが。
物騒? だからどうした。
安全に、安穏に、暮らしている者ばかりとは限らない。望まなくても、争いの宿世に巻き込まれてしまう人間は、確かにいるのだ。
欲しいのは、力。
守るための、力。
支えるための、心。
俺にしか、出来ない何かを、見つける。
両手両脚を投げ出して、無防備に眠り続ける兄の肩に、そっと、上着をかけてやる。浅いような深いような心地良い微睡みの中から、一瞬、揺り起こされて、啓斗が、のろのろと目を開けた。
春の若葉色の双眸と、夏の海色の双眸が、少し西に傾いた陽の中で、交差する。互いに驚いたような顔をして、そして、互いに安堵したように、笑った。
目覚めてすぐ傍らにあるのが、弟で良かったと、兄は、心の底からほっとする。他人は嫌いではないけれど、苦手だった。苦手ではない他人ももちろんいるけれど、どれほど気があっても、やはり、弟の存在には、かなわない。
「帰っていたのか。すまない……まだ……眠い……」
安心感が、再び睡魔を連れて来る。
柱の角に、申し訳程度に背を預けて、自分の家なのに妙に遠慮深げに、啓斗が、昼下がりの夢の中に、身を委ねる。
寝にくくないのかなぁ……。北斗が、首をかしげる。硬い柱の代わりになりそうなものを、探す。丁度良い背枕は、見つかりそうになかった。ふと、子供の頃のことを思い出し、これも良いかなと、自らに、兄の体重を預けた。
背中をくっつけて、もたれ合う。意識のない兄は、容赦なく重みを加えてくるのに、それが少しも邪魔に感じられないから、不思議だった。
触れ合った箇所が、温かい。
この気配が……懐かしい。
心臓の音が、重なるような。
五感の全てが、溶け合うような。
昔、確かに一つだったことを、頭ではなく、感覚で、思い出す。
目を閉じると、笑い声が、聞こえた。
何のしがらみにも囚われず、誰の指図を受けることもなく、無邪気に、無防備に、子犬のように戯れていた頃の、自分たちの……遠い、呼び声。
「なぁ、兄貴。俺、今より、もっともっと、強くなるからさ」
知ってるさ。
答える声が、聞こえた。
兄は、やはり変わらず、眠り続けている。
答えてくれたのは、過去の兄か。それとも……未来の兄か。
「少しは、頼ってくれよな」
期待している。
相も変わらず、ぶっきらぼうな、その物言い。少し照れ臭そうに、視線を反らす姿までもが、鮮やかに目の奥に浮かんだ。
「期待……しててくれて、いいからな」
兄が家そのものなら、自分は、それを支える、一番太い柱になってみせる。
鍛え抜かれた刃になってみせる。磨き上げられた盾になってみせる。
お前が弟で良かったと、いつか、その口から、告げてもらえる日が、来るように。
何だ、そんな事かと、他人が聞いたら笑い飛ばすかも知れない。
でも、北斗にとっては、いつか絶対に叶えたい…………それこそが、大切な夢なのだ。
「生まれる前から、思っていたさ。お前が、弟で、良かったって」
春の風が運んできたこの声は、幻聴?
首だけ動かして、兄の姿を盗み見て、北斗は一人苦笑する。
ああ、やっぱり、聞き違いか。
そうだよなぁ…………兄貴が、そんなこと、言うわけないか。
ひらひらと、春の象徴の花びらが、舞い落ちる。
ゆるやかに、優しく。
伸びやかに、涼しく。
花の香に包まれて、葉擦れの音に誘われて、北斗は、ふと、天を仰ぐ。雲一つない、かつて見たこともないほどの眩い青色が、目に染みた。何処までも果てしなく続いていく高い空が、頑張れと、応援してくれているような、気がした。
「俺……昔より、強く、なったよな」
答えは、既に、自分自身の中に。
「もっと、もっと、強く……なれるよな」
それは、誓い。
それは、確信。
空の青と。春の緑と。
仲の良い兄弟の像が、穏やかな風景の中に、溶け込んで……一つとなる。
平凡なその全てが、宝物のように思える、大切な……一時だった。
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