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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


『蝶が求めるは花の蜜』

【T】

 きっかけは古びた雑居ビルの前を通りかかった、それだけのことだった。
「お仕事してみませんか?」
 ビルの前に佇んでいた黒髪の少女が遠慮がちに十九を呼び止めて云う。草間零と名乗るその少女は興信所の所長である草間武彦という男の妹だそうで、依頼を引き受けたはいいが一向に動く気配を見せない兄に呆れて働き手を探していたのだという。零の様子からして本当に困っているようだった。十九はできることならという条件で零に連れられ草間興信所に足を踏み入れた。草間興信所と印字されただけの愛想のない看板を掲げたドアが零の手によって開かれると、目に飛び込んでくるのは雑多な書類が積み上げられ、雑然とした事務机と申し訳程度の応接セット。室内にはラジオから零れるノイズ交じりの甘ったるい女性歌手の声と視界を曇らせるほどの紫煙が満ちている。その煙に反射的に顔を顰めた十九の様子に煙草嫌いを悟ったのか、零は素早く窓を開け放った。
「兄さん。依頼を引き受けて下さる方が見つかりましたよ」
 零の言葉に事務机の書類に埋もれるようにうつ伏せていた男が顔を上げる。細められた目は明らかに不機嫌そうだ。
「ここの所長で兄の草間武彦です」
 紹介してくれたのは零だ。
「秦十九です。仕事をさせて頂けると聞いて伺ったのですが、それはどういったものなんでしょうか?」
 云う十九に武彦は面倒くさげに説明を始める。事務的な、感情を一切孕まない簡潔な説明の仕方にその依頼を快く思っていないことがわかった。
 簡単に云えば依頼内容は花を捜してほしいということだった。それくらいなら別段驚くこともなかっただろう。しかしその依頼主が蝶に寄生された人間だというのは不思議だった。それが顔に出ていたのだろう。零は微笑みを湛えて、現実は思いのほか不思議で満ちていますよ、と云う。
 制約はないといった。勝手にやってくれと云ったきり武彦は再び事務机に突っ伏す。眠たいのだろう。開かれた窓から差し込む陽光はうたた寝をするには十分な柔らかな温度だった。
「宜しくお願い致します」
 零が礼儀正しく頭を下げる。
 その姿に十九は断ることができなかった。どうすればいいのかもわからない。けれど結果として引き受けてしまったことになっている現実に、途方に暮れながら草間興信所を後にする。通りに出て、当てもなく歩く足は自然と馴染みの店へと向かっていた。風景画を展示している遊月画房だ。依頼者である蝶に寄生された男性の住所や簡単な履歴は書類として与えられている。しかしそれだけを頼りにどこにあるとも知れない花を捜すのは無理な相談だと思った。
 考えごとをしながらどれくらい歩いただろうか。不意に背後から声をかけられてはっと振り返る。
「どうした?」
 そこには師匠である眞宮紫苑の姿がある。
「あぁ……眞宮さんですか。脅かさないで下さいよ」
「考え事でもしながら歩いていたのか?」
「えぇ。ちょっと頼まれたことがありまして……」
 素直に答える。
「聞かせてもらおうか」
 面白いことに出逢えそうだというのが表情からわかる。十九は紫苑が一緒ならば心強いと思って頷き、遊月画房で話しませんかと提案した。
「丁度酒でも飲もうかと思っていたところだ」
 答えに、十九は紫苑と連れ立って遊月画房を目指して歩き出した。
 言葉少なに他愛もない話をしながら暫く歩くと、馴染みの遊月画房が見えてくる。二人は慣れた足取りで戸口を潜り、店主の出迎えに紫苑は手を上げる格好で、十九は小さく頭を下げるということで応え席についた。
 紫苑の前には穏やかな雰囲気の店主が運んで来た水割りのウィスキーが注がれたグラス。十九の前にはドーナツだ。紫苑は足を組んでラークに火を点けた。愛用のジッポが軽やかな金属音が響く。それを合図だとでもいうように十九はゆっくりと話し始めた。
 細く煙を吐き出しながら、紫苑は難題を押し付けられたかのようにしている十九に云う。
「夜の華って云うくらいだ、花って云えば女だろう。しかも依頼主は男だしな」
 それは花なら女、女なら夜の華、夜の華といえばお水の女性という単純な連想によって発せられた言葉だろうことが楽観的な口調からわかる。十九はそんな紫苑の言葉にどうしてといった風に頸を傾げて問う。
「どうして女性が夜に咲く花なんですか?」
「お子様はまだ知らなくて宜しい。とにかく女を捜せばいいわけだ」
「短絡的すぎませんか?」
「世の中はそんなに複雑じゃない」
 煙草の煙に十九が僅かにだが無意識に眉を顰めている。それに十九が煙草を嫌っていることを思い出したのか、紫苑は咄嗟に目の前の灰皿でまだ長いラークを揉み消した。十九が安堵したように細く吐息を零す。気付かれていないつもりだろうが。気付かれていないと思ったが、紫苑の様子から気付かれていることは明らかだった。
「まずその依頼者の男にでも会いに行くか」
 目の前のグラスを一息で空にして紫苑が席を立つ。十九が呆れ顔でそれを見る。十九は酒も煙草も嫌っている。紫苑もその理由を理解していないようでもないようだったが、愉しんでこそ人生だと思う紫苑が十九の態度を見習おうとはした今まで一度としてなかった。
「住所はわかっているんだろう?」
「はい。零さんから聞いています」
 答えて、どこかで今回は愛銃の出番がないことをつまらないと思っている様子の紫苑に笑みが漏れた。

【U】

「なんて辺鄙な所に住んでるんだ」
 目的の場所に辿り着くなり紫苑がぼやく。
「知りませんよ、そんなこと。職業が植物学者だと聞いてますからきっとできるだけ自然に近いなかで生活していたいんじゃないですか」
 十九の答えが紫苑を満足させたように思えなかったが、紫苑の双眸は既に面白いものを見つけた子供のような輝きを帯びていた。
 依頼主の自宅は集落に埋没することを厭うように小高い丘の上にぽつんと佇んでいた。門扉もない。緩やかな坂を登りきったそこからが既に所有地だとでもいうように濃い緑が生い茂る庭が広がり、そこを突き抜けるように玄関に向かって細い道が伸びている。
 紫苑が先に一歩を踏み出す。十九はやけに静かな場所だと思いながら後に続いた。紫苑も同じように思ったようだ。十九は大きなストライドで穂を進める紫苑を追いかけるようにしてついて行く。小道に敷き詰められた砂利が二人の足音だけを音を響かせた。
 美しい場所だと思った。ただそれだけで、他に言葉が見つからない。無駄な装飾のない庭はありのままの自然がそのまま横たわっているように純粋で、降り注ぐ陽光を静かに受け止める姿は造られたものではないのだということを伝えるには十分だ。
 無機質な玄関のドアの前に立ち、その傍らに備え付けられたインターホンを十九が押す。紫苑は全く関係のない方向へと視線を向けていた。屋内から軽やかにベルが響く気配がして、次いで僅かなノイズ交じりにスピーカーから声が零れる。
『どなたですか?』
 たった一言だというのに振り絞るように発せられたような声だった。
「草間興信所の者です」
 十九が答える。するとスピーカーの向こうから安堵するような細い息が漏れる気配がした。
『鍵は開いています』
 男性の声ではあったが、それにしてはあまりに細い声だった。今にも途切れてしまいそうな声で、玄関から入ってすぐの左手の部屋に自分は居るという旨を告げた。短いその言葉に随分時間を費やしたように思う。衰弱していることは十九から聞いていたが想像していた以上に男性の衰弱は進んでいるのかもしれない。十九は思って、紫苑と共に玄関を潜った。
 そして二人はドア一枚に隔てられていた世界を目の当たりにして驚いた。
 家ではなく温室だった。噎せ返るような花の香り。どこに視線を向けても植物がある。明らかに異国のものだとわかる色とりどりの花々。緑鮮やかな観葉植物。建築法はどうなっているのだろうかと思うほどに、ドアの向こうの世界は植物のためだけに造られていた。人の住む場所ではないと直感的に思う。
「入ってすぐの左手のドアというのはあれか?」
 云う紫苑の声に呆然としていた十九がはたと我に返る。蔦の這う壁の間にぽっかりと開いた口のように硝子のドアがあった。さくさくと歩を進める紫苑の後ろをパタパタと十九がついて行く。一体どんな男性がいるのだろうかと。ふと会うのが怖いと十九は思った。しかし花の香りに朦朧としてしまったかのように、足は躊躇いを無視して躰を前へと運ぶ。
「いらっしゃいませ」
 植物の鮮やかな色彩に埋もれるように設えられたベッドの上で上体を起こした男性が微笑んでいた。中性的な雰囲纏い、その性別の曖昧さが不思議な美しさを生み出している。しかしその眼孔は落ち窪み、頬には濃い影が落ちていた。皮膚が貼り付いているだけのような血管の浮き出た腕から点滴の管が伸びている。それを照らし出すように強い陽光が頭上から降り注ぐ。仰ぎ見るとそこはガラス張りの天井だった。サンルームなのだと思う。不快を感じないのは空調が完備されているからなのだろう。
「初めまして、秦十九と申します」
 名乗る十九に続いて、おざなりに紫苑も名乗る。男性も微笑みでそれに答え小さな声で名前を告げた。
「早速なのですが、幾つか質問させて頂いてもよろしいですか?」
 云う十九に、男性は緩慢な仕草で頷いて二人に椅子を勧めた。静かに腰を落ち着ける十九に続いて、紫苑も決して優雅とは云えない体で腰掛ける。
「その、蝶に寄生されたということに気付いたのはいつでしたか?」
 男性は遠くを見つめるように視線を天井に向け、過去の記憶を探るように目を細める。
「……羽化した時です。最初は痣みたいなものでした。それが次第に広がっていって、気付いた時には羽化していたんです」
 話す男性はあまりに力なく、今にも掻き消えてしまいそうな儚さを漂わせている。蝶が寄生している気配など全く感じられない。しかし何かによって生命を侵食されているような気配がする。魂の中核に根を張るように、静かに生命を侵されていっているような危うさが漂っているのだ。
「いつ寄生されたか心当たりはありますか?」
「えぇ。きっと谷にあの花を採取しに行った時だと思います。二ヶ月ほど前だったでしょうか……。あの時、崖から転落して、無傷だったので大事には至らなかったのですけれど、食欲が落ちて無性に花の蜜を求めるようになったのはそれからです」
「他に貴方のような方は?」
 男性はゆったりと横に頸を振る。
「医者には相談なさったんですか?」
「しました。けれど原因は不明です」
 云って男性は点滴が吊り下げられたスタンドを見上げる。そこからはゆったりとした速度で雫が管を伝い落ちている。紫苑はそれを見上る。十九も同じように見上げて、これが今男性の生命を繋いでいるのだろうと思った。
「花の、貴方が採取しに行ったという花のお話を聞かせて頂けますか?」
「動物などの死骸に根を張る変種の百合です。百合といっても珍しい黒色の花弁の百合です。特徴といえば、そう……甘い香りがします。一見グロテスクにも見えますから、厭う方も多いようですがとても美しい花です」
「虫媒花ですね?」
 十九が云う。零から得た情報だった。
「よくご存知ですね。そうです、虫を媒介にして受粉をするんです」
 答えた男性の顔には濃い疲労の影が見て取れた。
「最後に一つだけ。寄生したという蝶を見せて頂けますか?」
 十九の言葉に男性は弱々しい手つきで白いシャツの釦を外して二人の目の前に胸元を晒した。
 その下には陽光を反射させるような白い肌。
 はっきりと浮いた鎖骨と肋骨。
 薄い皮膚の上で息づくようにして胸元で赤紫の羽を広げた蝶の姿があった。

【V】

 男性の家を後にする頃には既に日は傾き、辺りは薄闇に包まれつつあった。
「奇麗な男だったな」
 二人肩を並べて緩やかな坂を下りながら紫苑が漏らした言葉に十九が眉を顰める。
「そういう趣味もあったんですか?」
「も、とはなんだ、も、とは。そう云う意味じゃない。印象のことだ。あぁいう男を好きな女も多いからな。十九が考えているほどこの依頼は難しいものじゃない。すぐ分かる」
 坂を下り、だんだんと町へと近づく道すがら十九が傍らでぽつりと呟く。
「これからどうしますか?」
「繁華街にでも行けばいいんじゃないか」
「繁華街……。その方面には全然詳しくないんですけど、眞宮さんはどうですか?」
「商売柄それなりにな。繋がりもないわけじゃない」
 答えて眞宮は颯爽と夜の繁華街、それも多くの女性が働く一角に爪先を向けた。十九はただついてくる。男性と会った時は一言も話さなかったくせにと思った。
 時間が遅ければ遅いほうがいいだろうと思ったのか、紫苑が遊月画房で暇でも潰そうと提案する。しかしそれは表向きは提案であっても、紫苑のなかでは既に決定されていることを十九は知っていた。だから異を唱えることもなく従う。もと来た道を遊月画房を目指して歩きながらも十九が辺りの気配に気を配っていた。些細な気配も逃すまいとあたりに視線を巡らせる。
 通りを行く人の数が増えている。時間帯が帰宅時間であるからだろう。十九はそのなかに手がかりを探そうと目を凝らしていた。多くの人が犇くこのなかになら、花が混じっていてもおかしくない。本能が云う。
「あっ……」
 不意に十九が立ち止まった。そしてふと視線の端を掠めた姿を追いかけるようにして振り返る。つられて紫苑もそちらに視線を向けると、そこはただの人込みだった。
 花が見えたと思った。
 今にも枯れてしまいそうな、それでいて鮮やかな花弁を内に宿した女性がいますぐ傍を通り過ぎて行ったのかわかった。
「どうした?」
「花が視えたんです。はっきりしていなかったけど、今にも枯れてしまいそうな花を内側に宿した女の人とすれ違った気がします」
「追えるか?」
「多分……」
 自信なさげに云う十九の言葉を頼りに、紫苑は踵を返す。
 十九に云われるがままに進んだ先は繁華街のなかでもいかがわしい店が犇く一画だった。小さなテナントビルが押し込められたように建ち並び、壁際に貼りつくようにして掲げられている看板はけばけばしいネオンに彩られている。派手な化粧をした客引きの女性があちらこちらに立ち、時折紫苑の腕を引いた。しかし紫苑はそんな女性たちにかまっている余裕などないようだ。十九が危なっかしくてしょうがなかったのだろう。明らかに未成年である十九が補導される可能性だってある。補導されるくらいならいい。それ以上の危険がこの一画に潜んでいることを紫苑は十分承知しているのだと十九は思う
「ここ……だと思います」
 一つのビルの前で十九が立ち止まって云う。どんな店であるかはわからなかった。ジャンパー一枚しか着てないのではないだろうかと思われる濃い化粧を施し、白い足を晒した女が紫苑を見とめて微笑みかけながら駆け寄って来る。十九はその女性の姿に圧倒された。呆然と見つめることしかできず、言葉が出てこない。
「久しぶりじゃない。今日はお客様になってくれるの?それともいつもの人には云えない別のお仕事?」
 派手な赤色のルージュで彩られた唇から媚びるような響きの声が零れる。
「人を捜してるんだ」
「うちの子?」
「わからん。十九次第だ」
 そう云って、傍らの十九に視線を向けると十九は二人の会話よりもその向こうに視える気配を追うように小さく口を開けたビルの入り口のほうを見つめていた。
 ここなのだ。
 必ずこのビルのどこかに女性がいる。
 そんな確信が芽生えるのがわかる。
「このビルでいいんだな」
 紫苑の問いに十九は頷く。
「あんたの店の女の子リストとか見せてもらえるか?」
 紫苑が云うと女性は毛先だけをカールさせた長い茶色の髪を書き上げて、笑った。
「紫苑のお願いなら仕方ないわね。オーナーもOKする筈よ。待ってて。―――あっ、それとも直にオーナーに会ってみる?」
「そっちのほうが手っ取り早い」
「じゃあ、裏口から入って。事務所の場所はわかるよね?」
 云う女性に、今度は客として来るよと社交辞令を云って紫苑は十九を伴い裏にまわった。
 華やかな表とは裏腹にそこは薄暗くじっとりとした空気が満ちている。気持ちが悪い。十九は不快感を覚える。紫苑は慣れた足取りで奥に進み、ペンキの剥げた重たい鉄のドアを開けて、十九を伴ってビルのなかに入る。ビル内の構造を把握しているのがスムーズな足取りからわかった。紫苑の淀みない歩みに続いて、地下に下りる。関係者以外立ち入り禁止という看板が掲げられたドアの前に辿り着くと紫苑はそれを無視して、十九がきちんとついてきていることを確かめて事務所のドアをノックした。返事はない。
「眞宮です」
 云うとくぐもった声がドアの向こうから響いてきた。
「お願いがあって来ました」
 ドアを開けると、豪奢な机に向かう男性の姿が現れる。腰掛けている椅子は明らかに本皮製の高価なものだ。そして男性が身に纏っているスーツも、名の知れたブランド品だった。
「久しぶりだな。仕事は順調なのか?」
「相変わらずですよ」
 笑って答える紫苑に、男性は仕事をしていた手を止めて部屋の片隅に設えられた立派な応接セットへと紫苑を促し、ふとその背後で所在無げにしている十九に目を止めて云った。
「その子を働かせてほしいとか云うんじゃあるまいな」
 その言葉に紫苑は大袈裟な仕草を加えて答える。
「まさか。あなたのお願いでもそれだけはできませんよ」
「ならいい。まぁ、座って話しをしよう」
 男は緩慢な仕草で紫苑の正面に座り、膝の上で頬杖をつく格好で、
「それで今回は何の用だ」
と云った。組み合わされた指には高価な指輪が煌き、腕にはロレックスと思しき時計が嵌められている。
「店の女の子のリストを見せてもらえませんか?人を捜しているんです」
「人捜しまでするようになったのか。金に困ってるなら仕事を紹介してやるぞ」
 云いながら男性は席を立ち、困ってませんよ、と云う紫苑の言葉に笑いながら数冊のファイルを手に戻ってきた。そしてそれを目の前のローテーブルの上に置いて、どのファイルがどの店のものであるのかを簡単に説明すると仕事に戻っていった。
「このなかから捜せ。このビルにいるならここに必ず写真がある」
 テーブルの上に並ぶファイルを視線で指しながら、紫苑が云う。十九は素直に従った。紫苑も手慰みに一冊のファイルを手に取り、表紙を捲る。十九も同じように手近な場所にあったファイルを手に取り、表紙を捲った。媚びるような笑顔の女性たちの写真が並んでいる。その下には簡単なプロフィールと源氏名とおぼしき名前が記されている。
 このなかに必ずあの女性がいる。
 思いながらページを捲っていくと、不意にその女性が十九の視線を捉えた。
「この人だ」
 十九が云う。膝の上で広げたファイルに置かれた華奢な指先は一人の女性の上で止まっていた。
「黒百合……」
 手にしていたファイルを放り出して、紫苑が覗き込むと十九が呟く。
「黒百合がどうした?この女の子の源氏名か?」
 指差した女性の影に黒百合の気配がある。男性から聞いたままのあの花がこの女性の内側にあると感じる。
「この女性が黒百合ですよ。……あぁ、あの依頼者が捜してほしいっていう相手はこの人です」
 要領を得ないといった体を見せながらも紫苑は十九からファイルを奪い取り、十九が指差していた女性について男性に問うた。男性は目を細めるようにしてどの子かを確かめ、暫く考えるような仕草を見せると思い出したといったように云った。
「店にいるよ。一番人気の子なんだけどね、最近体調が悪いみたいでな。呼び出してやろうか?」
「お願いします」
 すると男性は机の上の電話の受話器を取り、その子の店へと内線を繋いだ。そして短いやり取りを終えて、すぐ来るよと紫苑に云うと再び仕事に戻っていった。
 程無くして事務所のドアがノックされる。男性が短い返事をすると、ゆっくりとドアが開いてひどく痩せた女性が入ってきた。甘い香りが鼻を掠める薄手のキャミソールワンピース姿で、肌が透けて見えた。十九は思わず視線を逸らす。
「何ですか?」
「お客だよ。そこの二人」
 男性はおざなりに云う。そして女性は二人に視線を向けて、怪訝そうな顔をした。
「少し話しをしてやってくれ。おまえを捜してたそうだ」
 女性は素直に頷いて、二人の前に腰を下ろした。甘い香りが強くなる。一目で美女だとわかる容貌をしていたが、あまりに痩せすぎているせいでそれも台無しだった。肌も露な服装が余計に女性をみすぼらしく見せている。以前は男の視線を独り占めしていたであろう雰囲気があるというのに、今は見る影もにない。
 十九は今にも枯れて、干乾びてしまいそうな女性の姿に確信する。
 間違いなくこの人だ。
「あたしを捜してたってどうして?誰に頼まれたの?」
「貴女の知らない人ですよ。その人が貴女に会いたいんだそうです」
「事情を説明して。それだけじゃ何がなんだかわからないわ」
 明らかに不機嫌な女性に紫苑は依頼内容をかいつまんで説明する。しかしそれを女性が信じたような様子は皆無だった。無理もないだろう。蝶に寄生された男が自分を捜しているだなんて信じられるわけもない現実だ。
「嘘でしょ。本当はなんなのよ」
「本当ですよ。―――それより、最近体調が芳しくないそうですね」
 紫苑は巧みな話術で女性を話の中へと引きずり込んでいく。その話術に十九は感心した。
「えぇ。全く商売になったもんじゃないわ。好きなブランド品も買えやしない」
 不満そうに女性は云う。
「医者もお手上げ。原因不明なんだから困ったもんよね」
 云って大袈裟に組み合わせた足は折れてしまいそうなほど細かった。
「俺なら治せますよ」
「本当?」
 紫苑の言葉に女性が華やかな笑顔を見せる。
「ただ条件があります」
 すると瞬く間に笑顔は崩れ、不満そうな表情に変わる。
「その男に会えって云うのね」
「えぇ。どうしますか?」
 紫苑の問いに女性が答える前に男性の声が響く。
「行って来い。今のままじゃ、おまえはクビだ」
 その声に女性が縋るように男性を振り返ったが、男性は顔を俯けたままで女性を見ようともしていなかった。その姿に諦めたのか、紫苑に向き直って女性が溜息を漏らす。
「仕方が無いわ。行くわよ。でもこっちの予定を考えてよね」
「えぇ」
 それから女性と短いやり取りを交わして、男性に礼を云ってビルを出ると十九が呟くように云った。
「さすが師匠ですね」
 その言葉に紫苑は笑ったが、その理由を十九が知ることはなかった。

【W】

 約束の日。女性は事務所で会った時のような肌も露な格好ではなかったもののノースリーブのワンピースに薄手のジャケット、華奢なミュールというコケティッシュな装いで二人の前に現れた。男性の家に向かう道すがら女性は終始我儘に振舞った。十九はそんな女性に終始困惑しきりで、紫苑は何度かぶん殴るのではないかと思うほどの苛立ちをあからさまにした。
 しかしそれも男性に会うまでのことだった。
 我儘三昧に振舞っていた女性は、男性と向き合うとまるで何かで繋がっていたかというような順当さで自ら静かに男性の乾いた唇を重ねた。
 その光景に平静を保ったままの紫苑の傍らで十九が息を呑む。
 室内には芳醇な香りが満ちていた。それまで嗅いだこともないような甘い香りだ。
 天井から降り注ぐ陽光がスポットライトだとでもいうように二人を照らし出す。花はその植物の生殖器だと云ったのは誰だったろうか。直截的ではないのに艶かしく淫らな光景を目の当たりにしながら、紫苑は静かに進む受粉の光景だと思う。蝶の羽が震える。肉厚の花弁を広げてそれを花が受け止める。雌蕊から雄蕊へ花粉が移される。
 虫媒花。
 受粉。
 種の保存。
 頭のなかを単語が駆け抜けていく。
「あぁ……」
 吐息のような細い声がどちらのものだったかはわからない。しかしそれが合図だったとでもいうように女性は痩せた男性の胸元に頽れた。痩身を包む洋服の袖や裾から蔦が伸びる。外界から遮断するように伸びるそれは瞬く間に二人を包み込み、伸びた茎の先端で静かに黒い百合が花開いた。
 黒百合だと云った十九の言葉が漸く理解できた。
 濡烏色の肉厚の花弁の黒百合。
 怖いと思った。
 そして同時に美しいと思ったのも本当だ。
 成長する葉と茎。
 蕾が生まれ、柔らかな陽光のなかで花が開く。
 こんなにも早く花をつけるものだろうかと思いながらも、その速さにそれだけ花がのっぴきならない状況にあったことを覚る。 
 十九はこの結末をどのように報告すればいいだろうかと思った。蝶に花を届けたとでも云えば納得してもらえるだろうか。それともこの現状を目の当たりにさせれば納得してもらえるだろうか。二人の、否、二つの花と蝶は永遠にここで種を保存し続けるだろう。この光景は人知れず、この植物のために造られたような建築物のなかでひっそりと繰り返されていくだろう。
 噎せ返るような甘い香りが室内に満ちる。
 頭が朦朧として上手く考えることができなくなる。
 幻惑のようだと思った。
 噎せ返るような甘い香りが室内に満ちる。
 頭が朦朧として上手く考えることができなくなる。
 呆然と立ち尽くすようにして二人はただ目の前で繰り広げられる光景を眺めていることしかできなかった。



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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【2794/秦十九/男性/13/万屋(現在、時計屋居候中)】

【2661/眞宮紫苑/男性/26/殺し屋】

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■         ライター通信          ■
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二度目のご参加ありがとうございます。沓澤です。
眞宮紫苑様と秦十九様との会話を書くのがとても楽しかったです。
私の勝手な印象ですがお二人の関係が微笑ましく、どうすれば上手くその雰囲気が出せるかと考えながら書かせて頂きました。
能力のほうを上手く生かせていないようで少々不安なのですが、少しでもお気に召して頂ければ幸いです。
今後また機会がありましたらどうぞ宜しくお願い致します。
この度は本当にありがとうございました。