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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


神の所業・その聖なる救いの手



 緩慢な速度で歩を進めているだけでも、コートがうっすらと露を帯びて濡れる。始めは気にもしていたが、しばらくするとそんなことはどうでも良いと思えるようになってしまっていた。濃密な霧は淡い雨のように空気をつやめかせており、深夜のロンドンと二人の姿をを靄がけている。
 石畳を叩くヒールの音、そして、もうすこし鈍い革靴の音。高いビルが道の両端に乱立している細い路地に、そんな二種類の異る靴音が響き渡っている。
 人の気配は、他にない。
 カツリ。
 その音がふいに止められると、街並みは水を打ったように静まり返った。うつむく黒髪の女性――天樹燐の爪先の下には、今もまだどす黒く染み込んだままの黒い染みが残っている。
「ここですね。……まだ、事件から半日しか経過していないですから」
 涼しい声音は、それでもまだ若々しい。大学に籍を置くか、社会人になったばかりかと言ったところである。自らの足下を見下したままでゆっくりと首を傾げると、肩の上からはらりと長い髪が零れた。
「ええ。随分と出血が多いみたいです。やっぱり……」
 傍らで、同じく染みを見下していた御子柴荘が頷く。肩の高さは、天樹とさほど変わらないだろうか。が、それは御子柴の身長が低いということを意味するのではない。天樹の身長が、日本人女性にしては幾分高い方であることが原因なのである。
 二人はそのまま押し黙り、石畳に刻み込まれた黒い染み――血痕を、しばらくの間見つめている。

「君たちには、極めて秘密裏に事件を解決してもらいたい」
 天樹と御子柴が、クライアントである英国政府から何度となく要求された条件である。
 ヒースロー空港に下り立った二人を迎えたのは、英国政府の役人だった。内務省からではなく、国防省から来た男である。目つきの鋭さや、スーツを纏った腕回りが妙に目についた。
 互いが同時に、『厭な予感』とやらを感じ取ったらしい。
 通された客室のソファに腰を下ろすまで、二人は言葉少なに辺りを見回すだけだった。
「メトロポリタンからの依頼ではない。今回の事件は彼らからこちらに回ってきたものだ。我々は君たちの力を借りたいと思っている」
 二人とは向きあう形で、男はソファに腰を沈めた。英国首都圏警察本部――メトロポリタン・ポリスのプライドの高さは格別である。確かに彼らならば、極東の島国に済む民間人に自国の事件を依頼することなどありえるわけがない。
「階級をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
 表向きは飽くまでもおっとりとした笑顔を浮かべながら、天樹は逞しく腕を張らせた男に問う。
「……先週、キャプテンの階級章に別れを告げたばかりだよ」
 男はそう答えた後で天樹をまじまじと見つめ、苦笑した。
「察しの良いレディだ、ミス・アマギ」
「どうぞ、リンとお呼び下さい」
 そして、改めて見上げると、彼の逞しさはやはり尋常ではない。
 帰ってしまいましょうか。
 天樹が一瞬漂わせたそんなオーラを、御子柴は穏やかな微笑を浮かべたままでやりすごす。
 そんな二人のささやかな目配せを知ってか知らずか、男はテーブルの上に広げた書類の束を指差しながら彼らに依頼を説明し始めた。
「ここ一ヶ月の間に、我等が英国政府の要人たちが次々と暗殺されている。どんなに警護を固めても、深い霧が街を包む日の夜に事件は起きる」
 そして、あらゆる方法で捜査を進めた結果、国内のとあるテロリスト組織の犯行であることが判ったこと。
 テロ行為の理由と目的がはっきりとしない以上、一刻も早く彼らの暴挙を止めなくてはいけないこと。
「犯行声明は出されていない。が、奴らはもともとテロリストですらない――暴徒だ。だから、何かの信仰や主義主張に則って行動しているわけではない。言動に理由がない」
 事務的に経緯を語る男の口調には、それでも重々しい何かが滲みだしている。
 無理もないだろう。一国の警察と軍隊を以てしても止められぬ暴徒がいるという事実、そしてその制圧を他国の民間人に依頼しなくてはならない状況。
 冷静に享受することは難しい。
「テロリストについての資料がこれだ、厳重に取り扱って欲しい。……あとは君たちに任せる」
 男は一通りの説明を終えたあとで、分厚い書類の束を二人の前に差しだした。トップ・シークレット。表紙には、そう判が押されている。天樹がそれをめくり、御子柴が覗き込む間、男はじっと窓の外を見つめていた。
「……これ……は……」
 天樹が、困ったように左手を頬に当てながら呟く。
 帰ってしまいましょうか。
 御子柴の、そんな心の声を聴いたような気がした。
「ソレを、同時に五匹ほど目撃したという証言もある。メトロポリタンは勿論、我々の手にも余る」
 そこに記されていたのは、テロ行為の実行犯と想定されている男の、凡そヒトとは思えぬ身体的特徴の箇条書き、であった。怪訝そうに眉を寄せ、ううん……と御子柴が唸る。
 はらり。
 挟み込まれていた紙片が舞い落ち、二人は慌ててそれを目で追う。
 そう、日本でこんなキャラクターを見たことがある。肌の色は鈍色で、筋骨隆々とした体躯。禍々しい形に笑まさせた口の端からは、真っ白な牙がのぞく。限りなく人間の形に近い、コウモリのような。
 床の上の紙片には、非現実すぎるあまりに滑稽さすら感じさせるそんなラフスケッチが書き込まれていたのだった。ヒトではない。よって、ヒトの手には余る。
「まだ非公開ではあるが、既にバイオハザードとして認定されている。できれば……これから先も、公開はしたくない。人類の未来と平和のために」



 さして特別な戦法も見いだせぬままで、ただ日にちだけが過ぎていった。
 何しろ、立ち向かった者の前例がないのだ。弾丸を放った者はあったが、バイオハザードに認定されたという『生物兵器』の皮膚は厚く、傷を付けることすら困難であったと言う。
 霧深い夜に出没する、バイオハザードのテロリスト。
 ソレは複数存在し、揚げ句、空を飛ぶ。
「やっぱり……敵陣に突入してしまうのが得策だと……思うんです」
 清楚な顔立ちの割り、天樹はずいと核心を突く。
 イギリスに足を踏み入れてからと言うもの、常に『厭な予感』は御子柴の心の琴線に触れ続けて止まない。
 彼女は御子柴に、敵陣に突っ込めと示唆しているのである。
「え……と、それはやっぱり……俺が?」
 言わずもがなであるとでも、言いたげに。
 天樹はこくりと邪気のない頷きを見せる。
 うつくしいものは、ただ存在するだけで説得力を持つ。彼女の横顔を見慣れぬ御子柴ではなかったが、断じて拒否と突っぱねられるほどにはどうしてか天樹に逆らおうという気持ちが起きない。
「……判りました。天樹さん、何か思いついたんですね……?」
 渋々といった面持ちで、御子柴は己の前髪をくしゃりと掻いた。実際、彼にはそれを――テロリストたちのアジトに突入し、活路を見いだすことを可能にするだけの能力がある。そう見込んでいなければ、天樹も遠路はるばるイギリスまで御子柴を伴っては来なかっただろう。
「あの、ですね……」
 ちょいちょい、と天樹が指先で御子柴を呼び寄せる。あからさまに不審な眼差しで、それでも己の顔を近づけた御子柴の耳に、天樹が何やらかを耳打ちしてやる。
 御子柴はひそひそとした天樹の言葉を耳にしながら、思うさま顔をしかめた。
「大丈夫……ね?」
 御子柴くんのこと、信用していますから。
 耳打ちをそんな言葉で締めくくり、御子柴に向けてにっこりと微笑んで見せるのは、無防備な乙女の心情なのか、または持って生まれたしたたかさか。
 苦渋の面持ちで、それでも御子柴は――静かに首を、縦に振ったのだった。

「・‥…――ッああっ! もうっ!」
 細くしなやかな身体付きが、こう言った場合には限りなく有利になってくる。
『こう言った』場合、即ち。
 身体が大きく、比較的愚鈍な身体能力を持つ『何か』と、一戦を交えている場合を指している。
「天樹さん……合図、遅いってば……!」
 焦れて前髪の隙間から、御子柴が遠くビルの屋上を見上げる。その鼻先を風を切って、禍々しく尖った鋭い爪先が掠めていった。
 ひゥ、と彼が小さく息を吐きだしながら掌底で『何か』の額を突くと、御子柴の二倍の体重を持つかというようなソレは面白いように遠くへ吹き飛ばされる。
 ――合図を待って。そしたら、とにかく逃げてね。
 何が合図なんですか、と聞いても、天樹はにこにこするだけで答えなかった。大丈夫、そんなに難しくないから。そう笑って、彼女は形の良い手のひらで自分の背中をばしりと叩いたのだった。
 テロリストのアジトであるこのビルを発見したのも、御子柴が能力を開放したからであった。ビルの中で蠢いていた黒い気配を探り、その数を確かめた。六つ。想像していたほど、多い数ではない。
「もう少し――っ眠ってろって……!」
 いくら壁に打ち付けても、すぐにもぞりと起ち上がって御子柴に向ってくる『何か』は、依頼人から受け取った書類に挟まれていたバイオハザードの姿形と酷似している。無論、これらがあのラフスケッチのモデルなのだから当然のことではあるのだが。
 こんな生物が存在することを、信じたくなかったからかもしれない。踵で打ち、肘や手のひらで打つ『何か』の肌は堅く、ヒトとしての体温は失われていた。
 じりじりと、気圧されるふうを装いながらも、御子柴は天樹との約束の場所である屋上に辿り着き――
「御子柴くんっ! 当たったらごめんなさい……!」
 ちらりと視界の端に映った、向かいのビルの天樹の言葉に顔をしかめる。
 彼女はこちらへ向けて、偉く大層な銃器を構えていた。
 ガントリングガン。
 日本でおとなしく一生を暮らせば、おそらく一度たりとも――構えるどころか、拝む機会すらないであろう兵器、である。軍隊が用いる通常弾はおよそ9ミリ、そしてガントリングガンの弾は三十ミリ。身体に少しでも掠めれば、ごっそりと肉を持っていかれるほどの威力を持つ。
 無論、『当たったらごめん』で済む話しではない。
「ちょっ……待っ!」
 お陰で御子柴は、彼が独力にて編みだした錬牙式の二つを、ほぼ同時に繰りださねばならなくなった。
 六式、縛牙索。
 捕縛の術によって、彼を取り巻く『何か』たちの動きを刹那、留めた。
 そして七式、閃瞑凌牙。
 回避の術によって、
「―――ぎぃャあアァぁアアァァ…‥・!」
 微塵の躊躇いもなく放たれるガントリングの三十ミリ弾と、それに撃たれて飛び散る『何か』の皮と肉の雨のさなかを、
「よけられましたかあ!? 御子柴くん、大丈夫!?」
 何者の目にも留まらず、何者の欠片にも触れられず、抜けきった。
 ――飽くまで、結果としての、事実である。



 唯一浴びることとなってしまった、霧飛沫のような『何か』の血は、ホテルのバスルームで天樹がジャケットを手洗いしてくれたことによって何とか落とすことができた。
 あまりに手荒すぎる、彼女の決断。
「良かった、御子柴くんって映画みたいな特技を持っていたんですね」
 トラブルを巻き起こした当の本人がそう曰う前で、御子柴はぐったりとうな垂れる。
 雨あられのように降り注ぐ弾丸と肉片の隙間を縫い、御子柴は勢いのまま向かいのビル――天樹が顔色ひとつ変えずにガントリングガンを乱射していた場所に翔んだ。
 ガントリングガンとは不釣りあいすぎる細い腕。
 この人だけは、敵に回してはいけないと御子柴は思った。
「このお食事も、経費で落ちます。今夜はたくさん食べましょう」
 にっこり。
 そしてこの笑顔にも、弱い。
 天樹の放ったガントリングの雨が『何か』たちを一掃したあとで、英国陸軍と首都圏警察本部がビルに立ち入った。が、既にテロリストたちの姿はなかった。
 厳密に言えば、「ヒトの姿をしたテロリストは存在しなかった」と言うことになる。首謀者や側近たちまでもが『何か』に変貌してしまっていたからなのか、それとも逃げてしまったあとなのか。残されていたのはただ一冊の分厚い本で、それには小さく難解な文字がぎっしりと書き込まれていた。それも重要な証拠として押収され、今は専門家の手で解読作業が進められていると言う。
 あの日、全ての謎の真相を明らかにすることはできなかったが、それはやがて英国政府が明かしていくのだろう。天城と御子柴は『何か』を一掃した。二人に課せられた任務は、そこまでなのだ。
 明日、日本に帰国する。
 せっかくここまで来たのだから、記念に高級な店の高級な食事を楽しみたい――二人のそんな細やかな願いは、即座に陸軍に聞き届けられた。ロンドンで一番旨い肉料理を出す店だと少佐が紹介してくれた店は、穏やかな昭明に照らされる雰囲気の良い店だ。内臓や骨髄を扱った料理に定評がある。食肉の卸売り市場に近いことが理由だと言う。
「築地の寿司が旨いのと同じってことですかね…?」
「素材を新鮮で安く仕入れることが、美味しさの秘密なんですね」
 二人はその肉料理屋で食べに食べ、飲みに飲んだ。明日のフライトが不安になるほどに、本場イギリスの旨味を腹に詰め込み、空気を楽しんだ。
 が、そんな二人もやはり日本人である。
 外国の食文化に触れれば触れるほどに、日本食が恋しくなってしまう。
「……お茶漬けでもサラサラ――なんて行きたい気分ですね」
 御子柴のそんな言葉が、彼の命運を真っ二つに分けてしまったのかもしれない。

 翌日、二人はヒースロー空港に辿り着くことができなかった。
 厳密に言うのならば、ホテルの部屋から、外にでることができなかった。
 御子柴に至っては、ベッドの上から起ち上がることすらできなかった。
 彼は心の内に断言する。
 全ては、天樹の茶漬けの所為であると。
「実は、日本からお茶漬けの素を持ってきていたんです――インスタントですけれど」
 天樹はホテルの部屋に戻ると、いそいそとカバンの中からインスタント茶漬けの紙袋を取りだしては御子柴に見せた。
 どんなに腹が膨れていようと、アルコールの締めはやはり茶漬けかラーメンだと御子柴は思う。
「じゃあ、お願いしちゃっても良いですか……? 嬉しいなあ、ここまで来てお茶漬けが食べられるなんて」
 鼻歌を歌いながら、天樹は洋風のカップに茶漬けを作る。その後ろ姿を、酔いの回った至福の面持ちで御子柴はながめていた。
 そしてその笑顔が、彼の最後の笑顔となったのだった。
「……っぅ」
 カップに米を入れ、茶漬けの素をのせ、湯を注ぐ。
 それだけの過程の中で、なにをどう間違えれば、あれだけの『茶漬け』ができあがると言うのだろうか。
 湯気の立つ茶漬けを一口、口腔に含んだときの衝撃を――
 おそらく御子柴は生涯忘れ得ることはないだろう。
「大丈夫ですか、御子柴くん――昨日、少し食べ過ぎてしまいましたか……?」
 再び襲い来る吐き気と戦いながら、御子柴は必死な形相でふるふると首を振る。
 あと数日は、ロンドンのこのシーツの上で暮らすこととなるのだろう。

 神様――
 その間に、幾許かでも茶漬けへのトラウマが癒されることを祈りながら。

(了)