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<東京怪談ノベル(シングル)>


色は人なり、色は命といい


 のどかな陽射しが空から降り注ぐ穏やかな春の日の午後。

 柏木アトリはこれから開き見る写真の美しさを思い、白く透き通るような肌をわずかに紅潮させながら歩いていた。
うららかな陽射しに似合う柔らかな風が、満開に咲き誇る桜の花を悪戯に吹き散らしていく、とある日曜日。
静かな空気に包まれた図書館の中、彼女は書棚から数冊の本を手に取って窓際の机に向かっていた。
 パラリと静かな音を立てて開かれたページでは、京友禅の美しい作品が雅を競うように自分達の色彩を主張している。
 アトリはそれらの美しい写真に細い指をそっと乗せて目を閉じた。閉じた瞼を通して薄っすらと見える春の陽射し。
彼女はその陽光に似た微笑みを浮かべて、以前京都を訪れた時のことを思い返していた。

§

 ちょうど今ほどの時期であっただろうか。
 アトリは器用な手先を活かし、和紙を使った細工小物を作り上げる行為を趣味にしている。
コレクションとしても収集している和紙を買い求めるため、彼女は京都に足を踏み入れる機会を度々設けている。
行きつけの店舗を覗いて新作を手にしてみたり、馴染みの和紙を購入してみたりと古都を満喫していた時、彼女は偶然にある一軒の工房との巡り合いを得た。
 それほどに大きな工房ではなかったが、手描友禅によるものを手がけている所で運良く一般公開もしていたため、
アトリは友禅が作り上げられていく行程を目の当たりに出来るという、予定に組みこんでいなかった思いがけない幸運を得た。

 手描友禅の作業行程は図案を描くことから始まり、それを元に下絵を描いていく。
”あおぼうし”という露草から抽出された青花という染料を使って下絵を描き、そこから糸目糊置という作業に流れ、挿し友禅という作業に入る。
挿し友禅という作業行程で様々な色彩が施され、京友禅ならではの雅やかな柄に生命を吹き込んでいくのだ。
 四季折々の花々を主とした絵図を描き、鮮やかな色を乗せていく。
梅という題材一つを取ってもその構図や色遣いは多種であり、同じ花の持つ様々な側面を垣間見ることが出来るのだ。
 真摯な表情で一つ一つ作業を進めていく職人達の動作と、彼らが色づけしていく彼らの世界。
そういった様々な色に目を奪われていたアトリの傍に、一人の男が近寄った。

「どないしたん、あんた」
 声をかけてきたのは白髪の交ざった頭髪をした初老の男性だった。
「どこか怪我でもしたんか」
 男性は心配そうな顔をしてアトリの顔を覗きこみ、そう言いながら一枚の手ぬぐいを差し伸べた。
「……?」
 心配そうに自分の顔を眺めている男の顔を見つめ、アトリは小さく首を傾げた。
男のいでたちから察するに、工房で働く職人の一人らしい。
「ありがとうございます。いえ、どこも悪くはありませんから、大丈夫です」
 差し出された手ぬぐいに指をかけて笑みを浮かべ、アトリはその男性の言葉に応えた。
その返事を聞いて安心したのか、初老の男性は何度か頷いて手ぬぐいをズボンのポケットにしまいこんだ。
「そうかい。……いや、あんたが泣いとったから」
「泣いてた?」
 男が告げた言葉はアトリの意表をつくもので、彼女は驚いて自分の頬に指をのせてみた。
確かに彼女は泣いていた。幾筋もの涙が頬を伝って流れていて、触れた指の上ではその雫がかすかに震えている。
「……?」
 自分でも気付かない内に泣いていたことに、そしてそれを見知らぬ相手に見られてしまったことに、アトリは顔を上気させた。
両手で頬を包みこんで俯き、小さな声で男に謝罪する。
男はそんなアトリの仕草を見て小さく笑い、片手をひらひらと振ってみせた。
「いやいや、構わへんよ。もしかしてあんた、友禅が好きなんか?」
 男はそう言ってアトリの顔を眺め、柔らかな笑みを浮かべてみせる。
「好きです。あの、私、日本画を専攻して学んでいるんです。日本の色彩がとても好きで……」
 顔を少し上気させたままでそう応え、ふと言葉を区切って首を傾げた。
「いえ、好きという感情よりも……もちろん好きなのですけれど。それよりも、日本の色彩にはどこか郷愁をそそられるんです」
「ほう」
 男が頷くのを見てアトリは小さく微笑んだ。

 日本には四季というものがあり、それぞれの季節にしか見ることの出来ない――その時々でしか出会うことの出来ない
色を数え切れないほどに抱えている。
それは見る者によっても多様に姿を変えることもあるだろう。芸術という世界に身を置いている立場上、
実際にそれを強く実感した事も数え切れないほどに経験してきている。
例えばたった今、職人達が描いていた花々にしても同様に。
 しかし一つ確かに言えるのは、そのどれもがアトリの心を深く揺さぶるということだ。

「ほうほう」
 アトリの言葉に耳を傾けていた男は、彼女の言い分に嬉しそうな表情を浮かべてみせた。
「どうだ、友禅を体験していかへんか」
 男はそう言いながら、挿し友禅の作業をしている職人を指で示した。
「下絵なんかはうちらで用意したもんを使ってもらわんとあかんけど、色はあんたが自由にやってみたらいい」
「――――! ありがとうございます!」
 丁寧に腰を折って礼をすると、アトリは男が示した机に座って筆を手に取った。

 用意された布地はハンカチほどの大きさで、描かれている図は桔梗に花笠だった。
「好きに色づけしてみたらええよ」
 比較的若い職人がアトリに色を幾つか出してきて、穏やかに微笑んだ。
「どんどん廃れていくばっかりの文化やと思うてたけど、あんたみたいな人もおるんやね」
 職人はそう言って首を傾げると、自分の位置に戻って作業を続けた。
 返事を返す代わりに微笑んでみせた後、アトリは職人達に劣らないほどの真摯な光を瞳に宿し、深く深呼吸をしてから布地に向かう。

「ほう」
 アトリに話しかけてきた初老の男が、色を挿し終えたアトリの絵図を見て感嘆の息をもらした。
「思った通りや。あんた随分柔らかい色を選んだねえ」
 そう言って笑う男の言葉に、アトリは再び頬を赤く染めて俯いた。
「なんだか汚くなってしまいました」
「そんなことない。よう出来ましたなあ」
 俯いて首を横に振るアトリの肩を軽く叩いて、男は何度か頷いた。
「色は人なり、色は命といい。っていう言葉、知っとるかな」
 男の言葉に顔を上げて首を振るアトリの顔を、男はただ柔らかな微笑みを浮かべたままで眺めていた。
「友禅の匠の言葉でな。……まあ、機会があったら調べてみたらええよ」


§

 アトリは閉じていた目をそっと開き、視線を本におとした。
 そこに載っている写真の数々は彼女が訪れた工房で作られたものであり、そのどれもが柔らく美しい色彩を放っている。
 眺めているだけで香りまで伝えてきそうな花々の色。それは活き活きとしていて、その絵が用いられている着物そのものが
まるで小さく呼吸をしているかのように見える。

 あれからしばらくの後、彼女の手元に送られてきたハンカチには、一枚の白い便箋が添えられていた。
そこには達筆な文字でしたためられた一行だけの言葉があり、アトリの心をひどく慰めてくれたのだった。

――色は人なり、色は命といい――
 友禅の匠の言葉であった。
 『色は総てを表現している』
すなわちそういった意味合いを含んだ言葉なのだと、彼女が探し当てた本に記されていた。

 そう、色彩というものは確かに総てをあらわしているのだと考え、アトリは視線をゆっくりと窓の外に向ける。
 桜が薄い桃色をひらめかせて風と共に舞っている。
芽吹きだしたばかりの緑はまだ薄く、しかし生命の鼓動を確実に伝えてくれる。
空は柔らかな水色をたたえ、穏やかに晴れ渡った世界をそっと抱き締めている。

 外の景色を眺め嬉しそうに目を細めてから、アトリはカバンの中から一枚のハンカチを取り出した。
 そこに描かれているのは柔らかな青。ちょうど今ある空の色と同じような、春の空の色。
それは彼女が色を挿したハンカチであり、工房のあの男が嬉しそうに誉めてくれたものだ。

 アトリはもう一度視線を外に向けてから、小さく深呼吸をして目を閉じた。

 また近いうちにあの工房を訪れよう。
世界はこんなにも美しいのだと伝えてくれるものを生み出している、あの暖かな場所へ。


 
<了>