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<東京怪談ノベル(シングル)>


立山に咲く黒百合



 優しく凪ぐ日本海に沈む、金色の夕日が見たい。

 黒澤早百合の朝は、さほど早くない。
 真っ白なシーツから、なまめかしい魚のようにすべらかな肢体を起き上がらせるのは昼に近い頃である。
 夜更かしは肌に悪いが、睡眠不足も良くない。睡眠時間は許す限りたっぷりと取ることにしている。
 寝乱れた黒髪を手ぐしで緩慢に整えてから、ふらふらとした足取りで洗面所に向う。
 その頃にはまだ、彼女は素顔である。
 が、三十路の声を聞くほどの女の素肌にはとうてい見えない。それだけの手間と金を掛け、時間も掛けて保つ美しさだ。清冽な雪を思わせる白い肌は柔らかく、時にはつやめいて上記していることすらある。
 指先でたっぷりと泡立てた洗顔料で、のんびりと顔を洗う。贔屓にしている化粧品の販売店で言われた通りに、目尻はできる限り優しく。口の回りや目の下もそう、余計な力は決して与えない。
 それをぬるま湯で洗い流したあとで、ようやく彼女は寝室のドレッサーへと引き返していく。化粧水、乳液、美容液。メイクボックスからそれらの基礎化粧品を取りだして、目の前に並べていく。使う順番に、左から右へと並べていく。長い間に培った妙癖のひとつだ。
 その時はまだ、穏やかな朝の(もしくは昼の)訪れに、気怠くぼんやりとしたままの彼女だった。
 えてして覚醒とはそういうものである。重たいまぶたを押し上げた瞬間から、覚醒と無意識の境目を華麗にくぐることのできる者は少ない。手のひらに落とした化粧水で両頬を包み込むように潤しながら、ふと――早百合は、鏡の中の自分を見つめて思ったのである。
 優しく凪ぐ日本海に沈む、金色の夕日が見たい。
 一度思い至ってしまえば、その衝動を宥め賺すことは難しい。早百合は毎日欠かさないスキンケアもそこそこに、クローゼットの奥にしまってあった小さなトランクを発掘した。その中に、一泊旅行ができるのに最低限の、思いつく限りの荷物を押し込んでいく。
 気まぐれだ。自分でも思った。
 上野から越後湯沢。乗り換えて、和倉温泉、穴水、そして能登へ。
 新幹線を使えば、それほど遠い距離ではない。斜陽には充分間に合うだろうし、向こうで一泊するつもりなら帰りを焦る必要もない。
 自分の気まぐれさに、早百合は一人苦笑するが、その行動力に関しては密かに誇りを感じている。
 が、その行動力こそが、彼女の婚期を遅らせていることに本人は気付かない。

 そして彼女は今、特急はくたかの中にいる。越後湯沢から乗り込んだが、移動の中ではこの電車に乗っている時間が一番長い。
 遅い昼食は車内で済ませ、あとは一人景色を眺める気ままな旅である。
 もしもそのままうとうとと、浅い眠りにでも落ちてしまえば――彼女は無事に旅路を辿り、能登で素晴らしい金色を堪能できたかもしれない。
 が。
「・‥…――………」
 特急電車の緩やかな振動に揺られ、早百合は自分の心が微かに揺さぶられているのを感じていた。
 黒部の駅を電車が通り過ぎた辺りからのことだ。息苦しさとも、不快な気分とも違う。
 最初、早百合はその感覚を、まるきり無視してしまおうと心に誓った。今日の彼女は自由人である。仕事はしないと、朝決めた。
 だが、魚津で止まった電車の扉が開いたとき、ふいに呼気と共に彼女の中へ染み込んできた『感触』。
 長い時間を外気に晒され、清冽と静寂を手に入れた白骨のような摩耗を感じさせる――
 強いて言うならば、虚無。
 死してなお、この世界に留まる者は多い。その大半は、現世に鋭い執着や未練を残し、望むと望まざるとに関わらずその場所に縛りつけられている場合が殆どである。黒くこびりついてがさがさとした感情の残りかすを抱え、留まる周辺を現世の者が過ると非道く息苦しさを覚える。
 滑川を渡ったころには、早百合の中で沸き上がった疑問は、確信へと変化していた。
 祓う必要もないが、祓われることを願っている。
 執着こそが現世に『それ』を留めているが、『それ』から咎はすでに風化してしまっている。
 そして富山で開いた電車の扉から、早百合はその身を滑り出した。

 神通川は、富山市内を南から北に向けて流れる大きな川である。
 駅を下りてから、早百合は南に、川上へ向けて歩を進めて行った。
 南に向うごとに、『感触』の手触りが良く伝わるようになってくる。混乱や怒り、恨みの類いはもう風化してしまっているようである。よほどの長い時を、『それ』はその場所で縛られていたのだろう。
 女、だ。呼気を整え耳を澄ませると、そう感じる。
 川沿いに、見事な桜並木があった。公園か何かなのかもしれない。
 満開よりも、少し手前といったところだろうか。天気の良い休日の昼間なら、おそらくは近隣の住民が花見にでも訪れていただろう。が、すでに日は傾き、神通川は淡いだいだい色に染まっている。
 ――日本海の、金色の夕日。
 早百合は恨みがましく、そんな未練を心中に呟く。
 そして気怠げなため息のあとで、ひたりと――早百合の視線が、川のほとりに止まった。
 そこには、腹から下を深紅に染めた、非道く小柄な女――その亡霊が、ひっそりと佇んでいたのである。

 女は、自分の肩の後ろで静かに立ち止った早百合の気配に、つ……と振り返った。
 華奢で、幼さの残るあどけない顔をしている。細い肩は、男の支配欲を疼かせることだろう。もの言いたげに開かれた可憐な口唇は、男の淫らな嗜虐心を煽ることだろう。
 だが女は、膝から下を透けさせている。腿の辺りから滴る深紅の血液は、消えかかった膝から芝に滴り吸いこまれていた。とめどなく溢れる深紅は、決して絶えることがない。
「花見客が少なくて、退屈?」
 早百合は問う。型通りの挨拶など、必要ないと思った。女はそんな早百合の顔をまじまじと見上げている。透き通るような瞳は、今まさに目覚めたばかりと言うような新婦の夢見心地を思わせた。しばしの沈黙のあと、女は弱々しくその瞳を細めさせる。
『――ああ、わたくしは……ようやく、巡り合えたのですね……』
 女の腹部はざっくりと裂け、だいだい色の内臓をのぞかせていた。小さな手指が、恥じらうように粘膜を覆う。いたずらを窘められて哀しむ、幼女の仕草のようでもあった。
 女は語る。
 自らの一生を、そしてこの地に伝わる――黒百合伝説を。



 かつてこの地には、富山城城主佐々成政という武将が存在した。
 霸王と畏れられた織田信長の宿将として武勲を立て、家臣からの信望も厚かった武将である。
 彼には正妻と何人かの側室がいた。その側室のうちの一人に、五福村の早百合という女があった。
 幼さの中にも切れ長の涼しい眼差しが印象的で、数年後の美貌を早くから匂わせるような美しい顔立ちの女であったと言う。
 早百合は出生の下賤に関わらず成政の寵愛を一身に受け、城に請けられてからの短い間とても幸福な日日を送っていた。
 だが、女の嫉妬とは恐ろしいものである。成政の正室と他の側室は、年若くして成政の心を完全に掌握してしまった早百合に怨念の情火を燃やすようになった。
「あの女は、殿を誑かすだけに留まらずにとうとう…」
「下賤の出生とは、かく恐ろしや」
 女たちは成政に耳打ちする。「早百合どのは、岡島殿と」「金一郎氏と」
 その頃、成政は命を賭した立山の佐良越えから戻ったばかりであった。
 時の天下人、豊臣秀吉への敵意がそれをさせた。成り上がりよと信頼置けぬ豊臣を討つ。そんな信念が、不可能と言われた立山の佐良越えを可能にさせたが、目的の徳川家康に非道く手痛い扱いを受けて失意のままに城へ戻ったすぐ後のことだ。
 信じるものを見失った成政は、岡島金一郎と早百合の間に不実があるという女たちの讒言に容易く翻弄された。事の真偽など、彼にとってはどうでも良かった。
「斬れ」
 成政は家臣に命じた。
 翌日、神通川のほとりにある一本榎に早百合は吊るされ、鮟鱇の吊るし切りと呼ばれる恐ろしい方法で惨殺されたと言う。逞しい榎の枝に首から吊るされた早百合は、美しいその身体を刀で刻まれた。心臓の高さよりも下を斬り付けられれば、身体中の血液は後から後からあふれ出す。刀による致命傷は与えられずに、一日掛かった失血で苦しみ抜いて死んだ。
 早百合に向けられた成政の寵愛が、他の側室や正室を苦しめたことが理由であれば享受もしよう。
 そのために課せられた苦難であれば、耐えて成政への忠義も立てられよう。
 が、その成政が自分を斬れと命じた。
 あれほど慈しんだ自分の言葉に耳を傾けようともせず、蔑ろにしていた他の女たちの言葉を信じた。
 ただそれだけが、口惜しかった。
「殿が越えた立山に、いつか昏い黒百合が咲こう。さすればそれが、佐々の家の終焉と思え」
 それが、己の本心から紡いだ呪詛だったかどうか、今の早百合には見当がつかぬ。
 成政はそのあと秀吉の大軍に攻められたが、どんな便宜が働いたのか彼は秀吉に一命を救われることとなる。成政は、無骨であることで武将としての筋を通す男であったが、結果的に無骨であることが彼の命を奪ったとも言えるだろう。
 さほど時を置かずして、立山に咲いた一本の黒百合があった。
 あまりに昏く、深い紫に染まった一輪に成政の家臣は戦慄したと言うが、成政はその一輪を北政所に珍しい花であると添え付けて献上した。
 それが、成政を切腹へと追い遣る。
 北政所との確執があった淀がそれを聞きつけ、逆手にとったのだ。
 そののちに起きた一揆の責を受け、成政は切腹を命じられる。成政は五十一歳の生涯を閉じた。
 女同士の確執が、彼から最愛の者を奪った。
 そしてやはり、女同士の確執が、彼から守るべきすべてを失わせた。
 佐々を滅ぼした立川の黒百合伝説は語り継がれ、今に至る。



 辺りはすっかりと暗く、ただざわざわと川の流れる音だけが響き渡る。
 早百合――黒澤早百合の前で、不敏な女の亡霊は口を噤んだ。
 その視線の先には、いまだ小さく拙い榎が祀られている。早百合が吊るされた榎は昭和に入ってから戦火に焼かれ、現在祀られているものはその種から萌えた若木であるらしい。
『あれが、あそこに移されてから――私の怨嗟は掠れ去っていきました。あとに残ったのは、殿への哀憐の思いのみ……あれほどかなしいひとを私は、どうして許せずいたのでしょう』
 女に執着しながら女を信じず、女を使おうとして女に使われた。
 唯一需めた女は、今なおこうして川のほとりで血の涙を流している――
『もう、終わりにしとうございます。ここであなたに……等しい名を持つあなたに巡り合えたことも、何かのご縁と存じます――どうか、あなたの手で』
 ――浄化を。
 女が俯く。
 細く白いうなじが露になり、早百合は黙りこくったままでそれを見下している。
 需めたものを手にしてなお、掌握の恐ろしさに手を離してしまう男がいる。
 無実の罪に罰せられてもなお、こうして男を赦す女がいる。
「……せっかくの旅行中だったのに」
 男と女は、難しい。そんなことを脳裏に思う。
 早百合はまぶたを閉じた。そして強く、浄化を念じる。
 この女に、裁かなくてはならない怨嗟はない。いかづちで打つことなど出来なかった。
 散。
 かなしみを、『――ああ』女のかなしみを、散らす。
 女のかなしみが、

『――あなたの、許に――』

 やがて砂のように零れ落ちていき、あとにはただ流れる川の音だけが残った。

(了)