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目眩く世界(あるいは秒針の交わる場所)
つ、と眉間を温かなものが伝った。
自分の涙で、銀華は目を醒ました。
「………」
ゆっくりと目を開けて広げた視界が、うすぼんやりと滲んでいる。
波打っていた琴線は、今は静かに凪いでいた。頬の辺りが温い。シーツが濡れていたので、眠りながら涙を流したことをようやく自覚した。
もそもそと毛布の下で身体をずらし、上体を起す。肩の上をすべった毛布から白い肌があらわになる。銀華はぎょっとした。どうして裸のままで、自分は眠りこけていたのだろうか。
良く良く考えてみれば、このベッドには金髪の少女(言わずもがな、ゼゼ・イヴレインのことである)を寝かしつけておいた筈だ。彼女はぐっすりと眠っていた。自分はそれを確認してから手早くシャワーを浴びてしまおうとして――
シャワー。
そうだ。
バスルームでシャワーを浴びていたところで、自分の記憶がぷつりと途切れてしまっている。
「……シャワーを浴びて……髪を洗って……」
服を着た記憶がない。
それどころか、きちんとシャワーから出た記憶すらない。
さてどうしたものかと、濡れた眉間に知らず皴が寄ったとき――
「……あ」
開いた扉から、金髪の少女――ゼゼ・イヴレインが、顔を覗かせていた。
ベッドの縁で、毛布に包まることもせずただ座り込んでいる女の姿を覗き込んでゼゼは顔をしかめた。
この女は、たしなみという言葉に聞き覚えがないのだろうか。
薄く膨らんだ乳房が肩に隠されていなければ、そんな心の内は表情に表れてしまっていたかもしれない。
「起きたなら、服……着たら」
何を話しかけて良いのかわからず、つっけんどんにそう言い放った。
「……なぜ、殺さなかった?」
銀華が問い返す。視線は静かに、彼女自身の足首に注がれている。彼女が扉の縁に倒れ込んだのを抱き運んだとき、少し捻ったらしい腫れを見留めてゼゼが手当てをしたところだ。それほど派手に転んだわけでも無かったから、一日冷やしておけば痛みは取れるだろう。
「私を殺しに来たんだろう。なぜだ」
再び、銀華が問う。
「――キミだって。どうして僕をそこに寝かせて介抱したの。僕はキミと同じことをしただけ」
ゼゼが早口に答える。そしてそっぽを向いた。「早く服を着なよ」再び、そう繰り返す。
「………」
銀華はまじまじと、ゼゼの横顔を見つめていた。
紅。
ゼゼの瞳の色に、恐怖はなかった。ただその色を陰らせる伏せ睫毛を、僅かに好ましく思っただけだった。
端正な顔立ちである。鋭利で酷薄な印象を与える銀華の整い方とはまた違った、年幼さと柔らかさの交じり合う温かい面立ち。睫毛が長く、鼻筋も女らしい曲線を描いている。
――向いていないだろう。銀華は思う。
死を躊躇うものが見せる表情だ。いたむことを知り、尊ぶべきを知る者の顔。
かつて銀華の周りにも、そんな横顔を見せる者は存在した。が、彼らは決して長くを生きなかった。『向いてない』からだ。
だからゼゼの言葉に、敏感に反応してしまったのかもしれない。
「……勿論、何度か縊り殺してやろうとは思ったよ。でも……」
「無理だ。おまえは暗殺者に向いていない」
死を、受け止めてしまう者は向かない。受け流すことができずに留めてしまう者は向かない。
時計の振り子は、ただ『止め』れば良いのだ――歯車を抜いたり、ねじを外したりしてはいけない。
『向いていない』者は、それを心の引きだしにしまってしまう。やがて引きだしは溢れ、彼らの心は崩壊していく。
縊り殺す?
無理に決まっている。
この子は私を殺すことができたとしても、私の歯車を心の引きだしにしまいこむような子だろうから。
ゼゼは、銀華の思惑を汲むことができずにしばし沈黙した。
自分が彼女をベッドに寝かせ、当初の目的通りに殺してしまわなかったことを遠回しにさげすんでいるのだろうか――ふとそんな思いが、心を過ったが。
だが、そんなふうに考えること自体が、自分の中にある戸惑いの具現化であるとゼゼは知っている。
そうだ。自分は今、戸惑っている。
タオルを纏うのみの姿で自分を凝視した鋭く碧い瞳は、今はとても穏やかな光を湛えていた。
碧。
もう顔も思い出すこともできない母親の、自分を見上げる深い青の瞳。それは幼かったゼゼの自我を確立させ、自らの力で己の足を前に進めることを教えた――それが、正しいことだったのか、間違えたことだったのか、ゼゼには判断できないが。
あの日自分の手を取り、組織に導いた女の勝ち気な青の、瞳。たった一人で歩いて行くことに疲弊し摩耗した自分に『家族』を与え、自分の以外の何かを信じるという大切なことを教えた――それも、果たして正しかったのか否か、ゼゼには判らない。
そして今。
自分を見上げ、深い青の瞳が言う。
お前は暗殺者に向いてはいない、と。
「……訳が、」
判らない。
やっとの思いで、ゼゼは銀華にそう言葉を投げた。
おどけて笑ったつもりの苦笑を向けたが、それはともすれば泣き笑いの表情ですらあったかもしれない。
ゼゼの言葉を遮る代わりに、銀華がすくりと起ち上がった。
一糸まとわぬ姿のままで扉の方へと歩み進め、それは立ち竦むゼゼをぎょっとさせる。
「とにかく」
銀華はゼゼの横を掠め通り、背中を向けたままで言い放った。
「お前を、このまま野放しにさせておく訳にはいかない」
反論を返そうと銀華を視線で追うが、再びゼゼは視線を逸らすことになる。形の良い小振りな尻が、無防備にこちらへと晒されていた。
銀華は足を止め、リビングの前で室内を見回した。大きなガラス窓を遮るカーテンが半分ほど開いている。自分が覚醒するのを待つ間に、手持ち無沙汰のゼゼがいじくりまわしていたのだろう。
「まずはその服を洗濯させろ」
目当てのものが見つかったと見え、銀華はゼゼを振り返り言い放つ。彼女が指し示すのは、ソファの上に畳まれた衣服であった。
は、の形で口を開けたゼゼが、幾許かの沈黙のあとで反論した。
「バカ言わないでよ。むしろキミがそれを早く着るべき」
「そんな汚い服のままでこの部屋をうろつかないでくれ。迷惑だ」
「……僕、女装僻ないし、その予定もないし。キミの趣味だとしても、付きあう気ないから」
「………。」
銀華の言動が、ぴたりと止まった。
そのまま、ゆっくりと――俯き、日の光に晒されて純白に輝く自分の裸体をじっと見下す。
「……そう思ってた方が慰めになるなら、別にいいけど」
ゼゼが視線を彷徨わせる前で、くたりと銀華がその場にへたり込み、ソファの影に隠れた。
彼女が手指だけを伸ばして衣服を掴み、隠れたままでもたもたと着衣する間、ゼゼは憮然と窓の外を眺めている。
「――ゼゼ。ゼゼ・イヴレイン」
ぽつりと、自分の名を彼女に届ける。返事はない。
あとは衣擦れの音だけが、室内にただ響き渡っていた。
(了)
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