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引き金に掛ける指
「喫煙は身体に良くないよ、橋掛君。わたしが消してあげよう」
「煙草のひとつやふたつで存在ごと消されるつもりはねぇんだが……つーか、あんたが危ねぇって」
「大丈夫。心配しなくても店内は一切汚さず証拠も残さず経済的にやってあげるよ。わたしはプロだからね、苦しまないように配慮もしてあげよう」
「イヤ、だから俺じゃなくてあんたの命の方が危ないって話をだな……」
都内に構える橋掛惇のタトゥ・スタジオには、現在、職業的にはかなり相性が悪いとされている人物が何故か入り浸っていた。
ソファに腰掛けたまま、城田京一はショーケース内を整理する惇の背を目と声で追いかけ、手の中で拳銃を弄びながら、時折冗談めいた仕草でその照準をこちらに合わせてくる。
絶対禁煙。
一日10本と決めた少ない喫煙時間すら、ある日を境にその自由を失った。
無意識に胸ポケットへ手を滑らせ、煙草を咥えたところで大概は今のやり取りへと流れて、結局火をつけないままもう一度シガレットケースへしまう羽目になる。
「ねえ、橋掛君。きみはさ、どうしてわたしを助けたりしたの?」
月もなく、外灯もなく、ただひたすらに荒れきった暗い廃ビルの一角で鉢合わせてしまった時から、京一にとって、惇はただの患者ではなくなってしまったらしい。
好奇心、というものなのだろうか。
整形外科医は仕事後にふらりと立ち寄っては自分に銃を向け、質問を繰り返す。
「どうしてきみは、わざわざ生きろとわたしに言うのかな?死んでいなければ生きているし、生きていれば死ぬだろう?わざわざ身体を張ってまでわたしのその瞬間を遅らせて、きみに一体なんの得があるんだね?」
戯れと取るにはあまりにも物騒な視線を投げ掛ける薄青の瞳。
銃口はいまだ、惇の急所を正確に捉えている。
「どうしてって聞かれても困るんだがな、センセー?俺は当たり前のことをしたまでだ」
だが、自分に向けられる明確な攻撃意思を黙殺し、惇は輸入雑貨の陳列棚に盗難防止用の鍵を掛けた。
「当たり前?それは質問の答えにはなっていないよ」
「答えになってないって言われてもなぁ……」
死とは何か。生とは何か。
そんな禅問答じみたものに明確な答えを出せるほど、自分は人間というものも生命というものもよく分かっていない。
「おや。きみは自分の行動の理由を説明できないのかい?それは困ったね」
軽く目を見開いて、彼が肩をすくめる。
「性分だから、っても納得しないか……まいったな、ちくしょう。ろくな説明が出てこねえ」
かしかしとキレイに剃りあげた頭を掻いて、惇は困ったように視線を彷徨わせる。
当たり前のことを当たり前のことだと思っていない人間に説明するのはあまりにも難しい。
三十数年という時間の中で培われた『価値基準』が自分の行動を決定している。それはほとんど仕様と言ってもよい代物だ。
さて、これをどう説明しようか。
「………ああ、と。なんだな……アレだ。センセー、あんた試しに生きてみろよ。そうすりゃ死んじまうよりずっと確実に答えが出るだろ?」
理屈で得られない答えは実践あるのみだ。
とりあえずこの提案で納得してくれないだろうか。
そんな思いで振り返った惇が目にしたのは、少々見慣れない光景だった。
「ふむ。それは一理あるね。なるほど、きみはなかなか面白いことを言う」
京一が実に楽しげに声を上げて笑っている。
やけに子供じみた無邪気な笑顔は、年齢とも、そして彼の弄ぶ凶器とも不釣合いで、思わずまじまじと見つめてしまう。
彼を<ラボ・コート>と呼ぶ存在がいる。
そして、死神と恐れ、忌み嫌うものたちがいる。
ソレが何を意味しているのか惇には分からない。
おそらく知ってはいけないことなのだろう。
でなければ、たまたまあの日居合わせただけの自分が、ここまで彼に命を狙われる謂れがない。
「さて、と。そろそろ店じまいなんだが……センセー、今日はどうすんだ?飯食いに行くか?」
「ん?そうだねぇ……ふむ。ちょっと別件で片付けなきゃいけない仕事もあるし、今日はパスさせてもらおうかな」
「そうか。じゃあな、センセー」
「また来るよ、橋掛君」
ソファから立ち上がる際に一瞬閃いた京一の瞳が、いま彼が懐にしまいこんだものよりもずっと物騒な気がしたのは自分の錯覚だろうか。
*
生物とは、全て例外なく生を受けたその瞬間から死に向かうものだ。
なのに何故、人はそんな当たり前の現象を悼むのか――――?
*
真夜中がもたらす静謐な空気は、どこまでも冷たく優しい。
月のない夜。
疎らな外灯が頼りない光を投げ掛け、そこかしこに死角が生まれる廃墟と化した一角。
周囲の空気が徐々に下がっていくのを肌で感じながら、惇はかつて雑居ビルと呼ばれていた無人地帯をひとり歩く。
真夜中の散歩は、一日の終わりと一日の始まりを自分に示してくれる貴重な時間だ。
無言の重圧が自分を取り囲んでいるのが分かる。
またか、と溜息をこぼさずにはいられない。
これとよく似た状況に、自分は既に一度陥っている。
あの時もやはり自分は巻き込まれたのだと思う。
撃鉄を引き起こす微かな音が、押し殺された息遣いの合間で響く。
『<ラボ・コート>を渡せ』
そんな台詞を耳にするのも今回で2回目だ。
前回はアクション映画というよりはむしろB級スプラッタ・ホラーと呼んだ方がふさわしい有様となって幕を閉じていた。
あの時の話が彼らの耳に伝わっていないとしたら、一体組織の情報網はどういうことになっているのだろうかと余計なことまで考えて、ふと、思いつく。
「なあ、兄さん達。殺しちまう前にちょっと質問に答えてくれねえか?」
せっかく得られたチャンスだ。殺してしまう前に――彼らの放った凶弾が彼ら自身に致命傷を与える前に、自分の疑問に答えてくれないだろうか。
「ラボ・コートってのは何モンだ?」
鈍い光を放つ外灯の下で閃く銃口は、依然1ミリの狂いもなく正確に惇の眉間と心臓と喉とこめかみを捉えている。
答えは期待できないかもしれないと思いながら、同じ質問をもう一度繰り返した。
「ラボ・コートってのは何モンなんだ?一体何をしでかして、あんたらみたいのに追い回されてる?」
プロは余計な言葉を発しない。
あらゆる情報をけして相手に与えない。
だが、サングラスと黒服で個性を埋没させた1人が、ゆっくりと低く呻くように聞き取れるギリギリの音で言葉を返してきた。
「ヤツは死神だ」
かつて戦場には、死を恐れず、死を悼まず、死を厭わない、ベテランの傭兵がいた。奴は――――
だが、答えは唐突に放たれた銃声によって掻き消された。
一切の慈悲もなく、警告もなく、深夜の銃声が生きとし生ける全ての存在を一方的に捩じ伏せていく。
断末魔の叫びも、狙撃者への呪詛も、反射的な抵抗も、ありとあらゆる全ての反応を許されないまま彼らは床に沈んだ。
「……なんっつーか……容赦ねえな、センセー」
カツンと冷たい靴音を響かせながら深く穿たれた闇からゆっくりと浮上する影へ、惇は軽く首を捻って振り返った。
「おや。ヒトの命と平穏な生活を脅かす輩に容赦が必要なのかい?」
酷薄な光を閃かせ、傭兵仕様の迷彩服に身を包んだ整形外科医は、両手に銃を構えたまま微笑んだ。
指は引き金に掛けられたままになっている。
生ぬるい液体が床をじわじわと侵食し、どす黒く変色しながら冷え固まっていく。
立ち込める臭気の中で、医者は惇と正面から向き合った。
「きみがわたしに『生きてみろ』と言ったんじゃないか。ということは、わたしはわたしの身を守る必要性が出てきたことになる」
そのためには、自身の安全を確保した上で可及的速やかに障害を排除し、平和な日常を保っていかなくてはいけないじゃないか。
悪意も善意も作意もなく純粋に、彼はそう言葉を繋げていく。
惇は、しばしあらぬ方向へ視線を彷徨わせた。
何かをどこかで決定的に間違えてしまった気がする。
だが、その修正場所も修正方法も見つからない。
「……OKだ。この際、生に対する前向きな姿勢を評価して今の発言には目を瞑ることにする」
自分的に非常に長い葛藤の末、この問題は一時棚上げした方が話が進むだろうということで脳内可決された。
惇は視線を京一から逸らさないまま、親指だけで床に転がるモノたちを指し示す。
「あいつらは一体なんなんだ?」
そういえば、今夜はやけに質問ばかり口にしている。
「わたしの生活を脅かすんだよ。次から次へと結構出てくる……あ、1人見つけたら30人というのは本当なのかな」
「そりゃゴキブリだろ?」
「ああ、なるほど。まあそれほど変わらないかもね。ああ、いや……向こうでアレを回収して掃除までしてくれるんだから、ゴキブリよりは多少マシかもしれない」
「ひでえ言い様だな」
「心外だなぁ。的確な表現と言ってもらいたいね」
やれやれと肩をすくめる。
この質問もそこで打ち切られ、これ以上踏み込むことは許してもらえないらしい。
人間から動かない物体へと変質してしまったそれらを見つめる硬質な瞳が質問の切り替えを要求している。
「……あんた、戦場にいたのか?」
「ん?ああ、結構長いこと居たね」
「医者として行ったんじゃないよな」
「傭兵であって衛生兵じゃないね」
「なんでだ?」
「なんでだ、って……そうだね、死を身近に感じてみたかったのかな」
ふむ、と拳銃を引っ掛けたままの指で顎をさすり、彼は真顔で思案する。
「橋掛君は、過去……そうだね、いわゆる若い時分に人が死ぬ瞬間というものを見たことがあったかい?それを悼む人々に囲まれたことは?」
疑問の形を取りながら、まるでこちらの答えなど待たずに、京一は既にカラになっていたらしいた弾倉にマガジンを装填しながら話を続ける。
「困ったことに、わたしは親が死んだ時ですら哀しむことが出来なかったんだよ……あの時はさすがにちょっと…なんというのかな……疎外感?そんなようなものを感じてしまったね」
「センセー?」
「飼い犬が死んでも、友人が死んでも、それを当たり前の事象としてしか受け止められない。わたしは何も感じなかったよ……通常の感覚が麻痺しているとか、そういうレベルじゃないところが実に問題だね」
途方に暮れている迷子のような表情で彼は深く溜息をついた。
「だから、死の瞬間を見続けることが出来れば、多少なりともソレを理解できるかと思ったんだが……研修だけじゃ埒が明かなかったしね」
病院とは、生と死と、その狭間にある不可思議なもので形成されている。だが、彼が望むような『実感』を得るには、そこはあまりにも不確定要素が多すぎた。
だから、戦場へ行った。
しかし、あの世界でも京一は異端でしかなかった。
そして彼は今、傭兵から医者へと進む道をもう一度修正しなおし、<ラボ・コート>ではなく<城田京一>としてここにいる。
そういうことなのだろうか。
「……あんた、ずっとそうやって……」
続けるべき言葉が思い浮かばず、惇はそのまま沈黙した。
答えを求めることしか出来ていない自分に、これ以上何が言えるというのか。
この状況で吐露される真情に自分はどれほどのものを返せるというのか。
「さて、橋掛君。ここでひとつ提案があるんだけど……きみ、わたしにご飯を奢ってくれるつもりはないかな?」
「は?なんでだ?」
思考を中断させるのに充分な発言に、思い切り反射で言葉を返す。
「いや、実はこんな有様でわたしは晩御飯を食べ損ねていてね。少々激しい運動なんかもして血糖値が下がっている。早急に栄養補給が必要というわけだ。というわけで食事に行きたいんだよね?」
「うおう!?だからなんで俺が奢るんだ?理屈から言や、巻き込まれた俺の方が迷惑料をもらうべきじゃないかって話にならねえか!?」
「いろいろ知ってしまったきみを、わたしは殺さずにいてあげるんだよ?その礼くらいはするべきじゃないかな?それから……奢ってくれたら、うっかり口が滑るかもしれないよ?」
まだ色々聞きたいことがあるんじゃない?
そんなふうに笑いかける彼の表情は、明らかにこの状況を愉しんでいる。見透かすように細められた眼がやけに悪戯めいていて余計腹立たしい。
「…………この時間から行くんだ。あんま料理に期待しないでくれよ……」
「嬉しいなぁ。有難う橋掛君。悪いね?」
おそらく、京一が口を滑らせることなんてないだろう。
そう思いながらも、今日何回目か数える気もなくなった深い溜息をついて、惇はまったく悪びれていない様子で歩き出した京一の背中を追いかけた。
「ああ、そうだ。あんた、とっとと着替えてくれよ?そんな格好じゃ目立ちすぎるからな」
「おや?きみと対して変わらないと思うんだけどね?」
「違う!全然違うぞ!俺のはファッションだ!!」
「そんなに吠えなくてもいいじゃないか。軽い冗談なのに」
「ああ、くそ!」
まるで子供のケンカように、あるいは親友同士のじゃれあいのように、当人にとっては重要だか傍から見ればまったくもってクダラナイ言い合いをしながら、惇は京一とともに廃ビルを後にした。
彼の指はいつも引き金に掛かっている。
その眼差しは闇を見つめている。
だが、彼の心はほんの僅か、生に傾き始めている―――――
END
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