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彩る羽
【再び】
あの日、真名は、綾が聞かされていたよりも、一時間も早く、里に戻った。
後から、彼女の兄だという男が、綾の元に来た。見送られたら辛くなるから、と、真名は、言っていたらしい。あいつも色々と大変なんだ、と、兄は庇うようなことをちらりと口にしたが、綾は、むしろ、腹が立った。
また会うまでに、伝えたい事があった。
また会うまでに、渡したい物があった。
ひどく寂しげにしていたから、少しでも元気づけてやろうと、あれこれと考えていたのだ。
気の利いた台詞も言えないし、誰かを楽しませるような甲斐性も、無いけれど……。
またね、と、一言、立ち去る背中に声を掛けてやるくらいのことは、出来る。
「鬼龍は、確かに、遠いですが……」
何も、地球の裏表の位置関係に、あるわけではない。行こうと思えば、いつでも行ける。
鬼龍は変わらない。鬼龍は揺らがない。他の誰でもない、真名が、そう言ったのだ。鬼龍は、何時だって、来た者をそのままに受け入れる場所だと。
行ってみようか、と、綾は思う。
思ったら、彼の行動は早いのだ。旅行には慣れているし、身一つで列車に飛び乗ることなど、ざらである。
未知の土地へ行くのは、彼にとって、わくわくするような冒険譚でしかないのだ。数えるほどしか足を運んでいないその未知なる場所に、会いたい人がいるのなら、なおのこと、足は速まる。
「ああ、そう言えば、甘い物に凝っていましたっけ」
東京を離れたくないと駄々をこねたのは、実は、自分を含む友人たちとの別れが惜しいからではなく、ケーキに未練があったのではないかと、一瞬、考えてしまうほど……何だか、彼女は、異様に外の世界の甘味にハマっていた。
まぁ、食べ物で釣れるなら、可愛いものか。
綾は、一つ苦笑して、無人の列車の座席の背もたれに、身を委ねる。
心地良い振動に、半ばウトウトしかけていた時、不意に、列車が、停まった。
「……もう着いた?」
窓の外を見ると、そこには、知らない駅名を載せた看板が立っていた。
一人の人間が、乗り込んできた。
「鬼龍の……里人?」
思わず、声に出して呟く。里人が振り向いた。色素の薄い瞳が、じっと綾を見つめる。
彼が、ふわりと微笑んだ。確かにそこに居るはずなのに、なぜか、空気のように存在の掴めない青年だった。髪も、瞳も、色が薄すぎるせいだろうか……。
「槻島さん……ですね」
里人は、綾のことを知っていた。むろん、綾の方に、見覚えはない。
「貴方は……」
「失礼しました。采羽、と申します。槻島さん」
ああ、では、この人が。
綾の脳裏に、墓で耳にした旋律が、蘇る。
この人が、今は亡き鬼龍の楽器職人の、忘れ形見なのか……。
「槻島綾です。采羽さん。籐早さんには……お世話になりました」
どちらかと言えば、綾がお世話をしたのだが。
それを面と向かって言えるほど、彼は、図々しい神経を持ってはいない。
「……知っております。ありがとう……ございます」
そこに何があったのか、奏者の青年は、既に知っているようだった。知っていなければ、ありがとうの一言は、咄嗟に出てこないだろう。
「今日は、鬼龍のお客様は、貴方だけです。ゆっくりと、里でおくつろぎ下さい」
列車は、更に、走り続ける……。
【古き血に】
鬼龍で、綾は、采羽の家に寝泊まりすることになった。
采羽は、一言で言えば、何とも掴み所のない人間だった。
朝は、綾がどれほど早くに目が覚めても、それより更に早起きして、しかも、朝食の用意まで、きっちりと済ませてしまっている。夜は、深夜を過ぎてなおダラダラと客人が起きていても、先に寝る気配が、全くない。
何時休んでいるのかと、綾は、不安になってくる。
また、昼間も、ほぼ確実に家に居ないのだ。綾は、物珍しさから里を散策したりと、時間を潰す手段は幾らでもあるのだが、采羽にそれがあるとは思えない。職人という割には、楽器を作っている気配もない。
不思議な人だ。綾は首をかしげる。
何だか、人間では、ないような……。
「もしかして、精霊、とか…………そんなわけありませんよね」
自分自身の突拍子もない想像に、苦笑する。
滞在三日目にして、綾は、ついに、彼にあれこれと聞いてみようと決意した。
鬼龍の里で、露天風呂巡りをするのが、綾の毎日の日課になっていた。
風呂桶と着替えを抱えて、今日はここの風呂に浸かろうかと、自力作成した鬼龍の地図を広げてみせる。
空いた時間を有効活用して、綾は、鬼龍の地図を作製していた。どうもあちこちにおかしな歪みのあるこの里のこと、どこまで信憑性が持てるか疑問が残らないでもなかったが、無いよりはマシである。少なくとも、温泉探しの役には立っていた。
「考えてみれば、四月に、紅葉を眺めながら温泉に浸かるなんて、贅沢ですよね……」
鬼龍の銘酒「彩藍」も用意した。
飲み過ぎると逆上せるので、量は、控えめにしたが。
イカの薫製をつまみに、雄大な景色を眺めやり、ふと、星空を見上げる。暗い帳に、鮮やかな緋色が、よく映えた。
でも、岩が邪魔だ。
綾は、もう少し見通しの良い場所を求めて、湯の中を移動する。湯気の中に、その時、人影を見つけた。
「采羽さん?」
銀の髪の奏者が、ひどく驚いた顔をする。こんな場所で出会すとは、夢にも思っていなかったのだろう。
「槻島さん。これは偶然ですね」
「驚きました。采羽さんも、風呂になんて、入るのですね」
言ってから、これは失礼だったかと、はっとする。別に、不潔などという意味があったのではなく、風呂とか洗顔とか歯磨きとか、当たり前の日常動作が、鬼龍の奏者には、似合わないもののように思えてならなかったのである。
案の定、奏者が、苦笑した。
「こう見えても、温泉好きなのですよ。ここで生まれ育ちましたから」
「い、いえ。すみません。変な意味で言ったのではなく……」
「わかっていますよ。私は、この髪と目の色のせいで、どうも、浮世離れして見えるらしいので」
「外国人の方の血が……入っているのですか?」
好奇心の赴くまま、綾が聞く。采羽が、答えた。
「いえ。人外の者の血です」
「は!?」
「母親が、精霊なので」
「はい!?」
「冗談です」
にこにこと、奏者が微笑む。
綾は、思わず、鼻の頭まで湯に沈んだ。
「驚かせないで下さい……」
「ああ。すみません。そういう答えを、求めていらっしゃるような気がしてならなかったものですから」
「采羽さんなら、本当に、精霊とか妖精とか、そんなものの血を引いているように見えてしまいますよ……」
「それは、私が、白人(しらひと)だからでしょう」
「しらひと?」
「色素異常の人間のことです。鬼龍は、代々、血族婚を通してきました。恐ろしく血が濃くなっています。私のような異常児が、高い確率で生まれてくるのです。私は、色素程度で済みましたが、中には、精神に重度の障害を抱えた者も……おります」
その最たる者が、神官家でしょうね。
采羽が、呟く。
神官家は、代々、兄妹で婚姻を固めてきた家柄なので……。
「兄妹で!?」
それは、どう考えても気分の良い話ではないなと、綾は思わず身震いする。
咄嗟に浮かんだのは、真名のことだ。では、彼女も、いずれは、兄弟の元に嫁ぐのだろうか?
「雁夜が健在なら、雁夜と一緒になったでしょうね。ですが、彼は、おりません。雁夜は、鬼龍を完全に捨てました。真名も、鬼龍を作り替えようとしています。鬼龍の古い血は、もう、限界なのですよ。流れを止めることは出来ません」
この人も、それを望んでいる一人なのだろうか? 綾の中に、疑問が芽生える。
そう。鬼龍と外の世界を、奏者も、行ったり来たりしている。
ここに骨を埋める気はないのだろう。骨を埋めたとしても……人生の全てを鬼龍に掛けるほどの愛着は、彼からは、感じられない。
「鬼龍が……好きではないのですか?」
嫌いなのですか、と、直線的な質問を、綾は避けた。嫌いだ、という一言を、この見るからに穏やかそうな奏者の口からは、耳にしたくなかったのかも知れない。
「好きですよ」
「そうですか……」
「好きだからこそ、より良く変わって欲しいのです。腐り落ちる、その前に」
私は、真名よりも、流よりも、ずっと長く、鬼龍とともに生きていかねばなりませんので……。
最後の言葉の意味が、綾には、わからなかった。
それ以上の質問を止め、奏者がそうしたように、星空を、見上げる。
「采羽さんの笛を、また、お聴きしたいですね」
鬼龍の真の奏者の音色。以前は、祭で遠巻きに耳にするだけだった。
亡き人のたどたどしい音を、墓で聴いた。あれすらも、涙が出そうになったのに……。
真の音は、どれほどのものを、心に響かせてくれるのだろう?
「少し、そのまま、お待ち下さい」
采羽が、先に湯からあがっていった。
もしかして、と、わずかな期待に胸躍らせる綾の耳に、しばしの間の後、深く重い旋律が、ひっそりと、流れ込んできた、
音のみも 名のみも絶えず 天地の いや遠長く 思ひ行かむ
何の曲ですか、と、尋ねるまでもない。
これは……挽歌。鎮魂曲。亡き人を、想い慕って、偲ぶ唄……。
寂しみか 思ひて寝らむ 悔しみか 思ひ恋ふらむ 時ならず 過ぎにし子らが 朝露のごと 夕霧のごと……
【彩る羽】
翌朝、少ない荷物をまとめ、綾は、鬼龍の里を後にした。
籐早のことについては、あまり、尋ねる機会もなかった。尋ねられる雰囲気でもなかったが、最後に聴いたあの唄に、奏者の想いの全てが、込められていたような気がしてならない。
せめて、その噂だけでも、その名だけでも、決して忘れることなく、永遠に。
どんなに寂しく思っていることか。どんなに心残りに感じていることか。もっと長い時を信じていたのに、あの人は、亡くなってしまった。
朝露のように、夕霧のように、儚くも……。
十年間、実の息子ですらも、楽器職人の視力の衰えに気付かなかった、と、里長が、言っていた。
そうではない、と、綾は思う。
采羽が、気付かなかったのではない。
籐早が、気付かせなかったのだ。
たった一人の息子だと、言っていた。
愛情が……無かったはずがない。
「今度、籐早さんの昔話でも、聞いてみたい気がしますね……」
もう少し、時間が経ってから。
思い出話を、彼に、持ちかけてみようか。
忘れ物に気付いて、綾が、慌てて、里に戻る。
擦れ違った鬼龍の里人の会話が、耳に飛び込んできた。
「采羽様も、良いお歳なんだから、そろそろ身を固めて頂かないと」
綾は、思わず苦笑する。采羽が良い歳なら、自分はどうだ?
采羽より、更に二つも年上なのに。
「何言ってるんだい、あんたは。采羽さまは、籐早がまだ十代の頃に出来た子供だよ」
里人の言葉に、綾は、やや呆然とする。
そんな馬鹿な。
籐早は、六十一歳で亡くなった。
その十代の時に生まれた息子なら、既に、四十歳は越えているはずだ。あんなに若いなど、あり得ない。
そう、例えば、人間でないのなら、ともかく……
「母親が、精霊なので……」
冗談ですよと、微笑んだ顔が、目に浮かぶ。
騙された。
本当だった。
綾は笑った。
何だか、楽しくて、仕方なかった。
「籐早さん……奥さんが精霊だなんて、反則ですよ。それ……」
真名は、流は、この事を、知っているのか?
また、尋ねてみたいことが、増えてしまった。
まったく……これだから、興味は尽きない。
知れば知るほど、もっと、もっと、と、求めてしまう。
「采羽……彩る羽。風、ですか……」
どこかで、彼女は、見ているのだろうか?
鬼龍を……そして、息子を。
涼しく吹き抜けて行く、一陣の風の、傍らで。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【2226 / 槻島・綾(つきしま・あや) / 男性 / 27 / エッセイスト】
【NPC / 鬼龍・采羽(きりゅう・さいは) / 男性 / 25 / 奏者】
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■ ライター通信 ■
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槻島さま。いつもお世話になっております。
今回は、主に采羽の事情に迫ってみました(笑)。
彼の正体は、意外でしたでしょうか?
それとも、やっぱりと思われたでしょうか?
鬼龍のシリーズは、ファンタジーと見せかけて、実はサスペンス要素も有ります。
色々な謎を楽しんで頂ければ、幸いです。
それでは、今回はありがとうございました!
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