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遠い紅い日々/遠い紅い日/メヌエット
公園の砂場で、ただただ山を築き上げる子供がいる。湿った砂をしっかりと押し固めて、それでも、ただの山を作っていた。砂のお城の作り方など知らなかったし、砂では怪獣やヒーローといった複雑なかたちのものを作り上げるのは、子供にはむずかしい。
その男の子はしかも、たったひとりで遊んでいた。すでにそれは遊びではないようにも思われた。何者かに、山を作れと強制されているかのようだ。
いちど、広場の方角からルビー色のゴムボールが飛んできて、男の子が作っている砂山にぶつかり、深刻な損害を与えた。ゴムボールを取りに駆けてきた女の子は、友達との遊びに夢中で、砂山を壊してしまったことを男の子にあやまることもない。
男の子の方も、女の子を咎めることもなく、
「あ」
小さく小さく声を上げただけだった。ルビー色のゴムボールと女の子が砂場から消えたあと、彼は黙って崩れた砂山を直し始めた。
夕陽が沈み、5時のサイレンが鳴り響く。いまは秋。もう、日が沈むのも早くなってきた。5時になる頃には、すっかり空も紺色に染まっている。
男の子は本当に、独りきりになっていた。それでも彼は、納得するまで砂山を作り続けた。そうして出来上がった砂山は、彼が今まで作り上げたものの中で、いちばん大きいものだった。
そして、ようやく自分が長く外に居すぎたことに気がついた。
彼は安物のバケツとスコップを抱えると、慌てて帰路に着いた。
怒られた、凄まじい勢いで怒られた。
彼の両親の怒りたるやまったくいつも凄まじいもので、些細な失敗でもかなり怒られたし、大きな失敗でもかなり怒られたし、何もしていなくてもかなり怒られた。
とどのつまり、存在すること自体が叱るべき事象であったようなのだ。
今日は、5時を過ぎても帰ってこなかったことを咎められた。
彼は当分の間外出を禁じられ、砂遊び道具も叩き壊されてゴミに出された。
壊されたものは、道具だけではない。
男の子は気を失い、痛みで目を覚ます――右手の親指が折れていた。それまで、たった独りになる夢をみていた。それは、寂しいくせに、いやに満ち足りた夢だった。
痛みと恐怖と悲しみで、彼は泣いた。
五月蝿いという声、そして鉄拳が飛んできた。
怒られた、凄まじい勢いで怒られた。
ねじを巻き、『メヌエット』を聞こうとしたのだ。それは彼の母親が大切にしている、立派なオルゴールだった。男の子に触られまいと、母親は高いところにそれを置いてあったのだが、母親も父親もいないとき、彼はこっそり椅子に立って、そのオルゴールのねじを巻いていた。男の子は、『メヌエット』がオルゴールの基本であることなど知らなかったし、どうでもよかった。その曲が単純に、好きだった。
公園に行くことも河川敷に行くことも禁じられて、彼はそうして家の中で遊びと楽しみを拓いていくしかなかったのである。凡庸な曲も、彼の安らぎとなり、楽しみとなった。
それを自ら壊してしまった。
オルゴールを高みから落としてしまったとき、
「あ」
彼は小さく小さく声を上げただけだった。
仕事から帰ってきた母親は、くたびれているはずなのに、壊れたオルゴールとタンスの前に据え置かれた椅子、びくびくと自分の顔色を伺ってくる息子を見た。怒りが弾け、母親はまず言葉で叱りつけた。
いつも、それから直接的な指導へと変わるのだ。女の力でも、まだ2桁にも届かない年齢の子供にとっては、充分に脅威となる攻撃になった。母親は息子を憎み、仕事の疲れと苛立ちを、いつもそうして晴らしてきたのだ。
「だからあんたなんか、死ねばいいのよ!!」
彼女は手を振りかざし、息子の頬をあらん限りの力で張り飛ばそうとした。
5時のサイレン。
咆哮。
ばりっ。
5時の闇の影から牙が閃き、男の子の目の前に女の腕が落ちた。腕は、平手打ちをしようとしたかたちのままびくりびくりと跳ねている。
ひいっ、
母と子が同時に息を呑んだ。そのタイミングの良さは、まさに、親子の成せる業である。
母親の二の腕の半ばから先はすでにない。ぎさぎざの傷口から血が迸る。
がぅるるるるるるる――
鼓膜に届くこともないその唸り声が、大きくなった。その牙を濡らす血は、今しがた食い千切った女の腕のものだけではないらしい。
ひいっ、
悲鳴はやはり、喉にはりついた。
牙が閃いた。悲鳴を上げることもかなわない首が咬み破られた。いったん牙が離れたそのとき、ほとんど皮1枚で胴とつながっていた母親の首が、滑稽な角度に傾いだ。牙は再びその傷口に咬みつき、今度こそその首を喰い千切った。
恐怖に満ちた表情を湛えたまま、母親の首は男の子の前に転がった。首と腕を失った女の身体がぐらりと傾き、男の子を求めるようにして倒れた。ぎざきざの傷口から噴き出す血は、男の子を頭の先からつま先までルビー色に汚していった。
5時の闇から現れた獣は、唸りながら男の子を見つめた。
「や、やめて――」
自分にその力を奮うことを、制したのか。
はたまた、これ以上母親を傷つけないでほしいと願ったのか。
どちらにせよ、血に濡れた牙はとまらなかった。
「やめて!」
そう、母親も父親も、そう哀願したところでとまらなかったではないか。
牙は母親の脚を喰い千切り、腹を咬み破って臓腑を引きずりだし、肋骨をばりばりと咬み砕く。脊髄をしゃぶり、心臓を舐める。
「やめてよう!」
飛び散る血飛沫が、半開きのドアに振りかかった。
ひいっ、
新たな悲鳴の出来そこないがそこで生まれた。牙と瞳が、ぎらりと扉の向こうに向けられた。
「ばけものだあ! ばけものだあ! ばけもの――」
どばぁん! がぶり!
「――だっ――」
父親は、今日は早くに帰宅したらしい。
安物の酒と、すき焼き用の肉を買ってきていた。こんな家でも、たまには鍋を皆で囲んだり、肉をつついたりしていたものだ。本当に、たまに。オルゴールを壊してしまって、母親がばらばらになってしまった今夜、男の子がその肉にありつけるはずもないのだが。
影の獣はその牛肉には見向きもせず、
「やめて!」
男の子の父親の背に牙を立て、
「やめて!」
ばきりぼきりと脊髄を咬み砕いた。
新たなルビー色の噴水が生まれた。
砂場のそばにも、噴水があった。
あのやま、いまはどうなってるかな。
もう、こわれちゃってるかな。
いちばんおおきいやまだったのに。
獣は、振り向く。狂気と怒りに満ちた唸り声と牙は、男の子に向けられたものではない。すでに日は沈み、明かりもない家の中は、影に満ちていた。獣は、その影の中に溶けこんでいる――影そのものが獣であるようだ。大きすぎるし、恐ろしすぎる。
闇の中でも、男の子の紅い目は、部屋中を彩る血を見て取ることが出来た。傷だらけの自分の顔や腕に塗りたくられた血糊を拭いながら、男の子はようやく、しくしくと泣き始めた。
泣きながら、小さな牙は小さなカバンを押し入れから引っ張り出した。いぬの刺繍が、手のひらについた血で汚れた。
しののめ こうが
母親がフェルトペンでカバンに書きつけたその名前も、血で汚れた。
中に詰めたものは、歯ブラシとコップ、小さないぬのぬいぐるみだけだった。それしか、彼のものはなかったのだ。
しくしくと泣きながら家を出た血みどろの子供のあとを、影が静かに追っていく。
満ち足りた夢の通りに、彼は行く。
姓は東雲、名は紅牙。
それが、血塗られた牙が持つ名前であった。
彼は砂で獣を作り上げることは、出来なかった。
それから何十年経っても、出来ないままだった。
<了>
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