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雄敵
【発端】
槻島綾と藤水和紗の付き合いは、決して、長くはない。
幼い時分を知り合っているような馴染みの関係でもないし、例えば相手の弱点も短所も笑って許してしまえるような、特に親しい間柄でもない。
友人、と、二人とも、答えるだろう。
お互いに、好きな部分がある。
お互いに、譲る部分がある。
あるいは自分が純粋な人間だったら、それもまた変わるのかと、和紗は、ふと、考える。
彼は、生きる時間が長すぎた。人という生き物の、その裏表を、嫌と言うほどに見飽きてしまうほど。
彼は、未だ、この世界に完全に溶け込んではいないのだ。真昼の光を避ける度に、自らの中の異形の血を、強く、深く、感じずにはいられない。
「生きてきた長さも、生きる長さも、違うけれど……」
幾度も幾度も、言葉を交わすたび、確実に成長していった、信頼の芽。
失いたくない。大切な、友人なのだ。
その彼の頼みだから、引き受けては、やりたいのだけど……。
槻島綾が、初めて、本を出すことになった。
長大な推理小説ではない。賞を総なめにしたような、栄えある一冊でもない。これまでに、あちこちの雑誌社で細々と書き溜めてきたものを、一つに纏めただけである。ストーリーはなく、ただ情感を述べただけの、エッセイだ。
行き着いた先の景色を、自分の目で見たままに、心で感じたままに、文字という手段で書き表す。楽しかったり、驚いたり、素直な想いで筆を取るのは、綾にとっての十八番。
気取った飾りなど、いらない。余計なものを取り除いたその先に、切れの良い、味のある、目指す文章があるのだから……。
「詩を……読んでいるみたいですね」
槻島綾から、今度出版する本の表紙絵を描いてくれないかと依頼されたのが、三日前のこと。
活字を追うよりも、ひたすらに絵を描いていたい和紗にとって、いきなりどさりと渡された大量の原稿は、実は、苦痛の種だった。
目を通さなければと思いつつ、好きな仕事の方に没頭する。腐れ縁雇い主に、いい加減にしろよとチクリと刺され、今日やっと文を手に取った次第であった。
「詩……」
目の奥に、行ったこともない景が浮かぶ。
海であったり、山であったり、無人であったり、都会であったり、珍しさも奇抜さも無いけれど、決して一言では言い表せないような趣を湛えた雅やかな残像が、華やかな画となって、交錯する。
ほとんど無意識に、絵筆を取ったほどだった。
計算され尽くした精巧な文章なら、きっと、食指は動かされない。
それには想像の余地がないからだ。
和紗は画家だから、書き手の、素直な想いに惹かれる。余裕のある心に魅せられる。情景を自らが豊かに変化させることの出来る、空間のようなものが欲しいのだ。それが無ければ、和紗の絵は、たちまちのうちに死んでしまう。
つまらない模写ならしたくない。当然だろう。模写ならば、写真に任せればよいのだ。絵の出る幕ではない。
だからこそ……目の前の、詩のように謳う文章に、惹かれた。
描いてみようか。
まだ見ぬ風景を。
初めての試みかも知れない。
文字で表された景を、映像に置き換える……。
「俺は、貴方の書くこの文が、好きですよ。槻島さん……」
好きだからこそ、妥協はしたくない。
ほんの少し、揉めることにもなりそうな。和紗は、唇の端を微かに持ち上げて、有るか無きかの微笑を浮かべる。
窓の外を眺めると、折しも雨が降っていた。あの忌々しい太陽が出ていない今ならば、夜闇が無くても、出歩くことが可能だ。
電話が、鳴った。
きっと、彼からだろう。
受話器を取って、送話口に話しかける。お引き受けしますと言う前に、どうしても、先に伝えたかった一言を、口にした。
「詩を……読んでいるみたいでした。そこに行ったこともないのに、景色が、確かに、見えました」
綾が、電話の向こうで、唖然としてぽかんと口を開けている様子が、手に取るようによくわかる。
とりあえず、和紗は、打ち合わせのため、綾が懇意にしている出版社に向かった。
【真昼の夢を】
いつもより二割増ほど緊張した面持ちで、槻島綾が、藤水和紗を迎え入れる。
遊月画伯はやんわりと綾と編集者に頭を下げると、勧められるまま、ソファの上に腰を下ろした。
彼が人外の者だからだろうか、和紗の周りは、奇妙に時間が凝って見える。
少しずつ何かが違う流れの中にいるような、不思議な感覚。彼は人物は描かないが、彼自身が絵から抜け出てきたような人だと、槻島綾は、常々思う。
友人という立場を最大限に活用して、和紗に表紙絵の白羽の矢を立てたが、この期に及んで、綾は、少し、迷っていた。
身に過ぎた人を、選んでしまったのではないか……不安感が、あまり物事には動じないはずの綾の表情を、ますます、固いものにする。
でも、それにも増して、和紗の絵が欲しい。
綾は大人だし、どちらかと言えば、自らを押さえる術をよく身に付けてしまっている方だ。こうしたい、と、我を通したことは、あまり無い。幼い子供のように、自分が自分がと主張を繰り返すのは、恥ずべき事だとすら思っている。
もちろん、それが、時には必要になることも、知ってはいるけれど……この損な性分は、すぐに直るものではない。
でも、今だけは、譲れない。
絵が欲しい。他の誰でもない、遊月画伯の絵が。彼の絵でなければ、駄目なのだ。
彼の絵でなければ……綾の書いた文章に、対抗できない。溶け合わない。
「ご迷惑なのは、十分承知しております。ですが、どうしても……遊月画伯に」
綾が、迷いを振り切るように、話を切り出す。
拍子抜けするほどあっさりと、良いですよ、と、和紗が頷いた。
「お引き受けしますよ。槻島さん」
「え……」
勢い込んで、あれやこれやと考えていた説得の台詞が、一気に綾の頭の中から消し飛んだ。
思わず、はぁぁ、と息を吐いて、背もたれに沈み込む。嬉しいと言うよりは、ただひたすらに、気が抜けた。
「これはね、挑戦なのですよ。槻島さん」
出された湯飲みを手で弄びながら、遊月画伯が呟く。意味を図りかねて、綾が、訝しげに眉を顰めた。
「挑戦?」
「ええ……そうです。競争、とも言いますね」
「競争?」
和紗が、少し温くなったお茶を、口に含んだ。飲んだと言うよりは、渇いた喉を潤しただけのようだった。
「俺は、槻島さんが書く文章を、より越える絵を、描いてみせます。そして、槻島さんも、その俺の絵を越える文章を、書くのですよ」
お互いに、上を目指す。お互いが、お互いを、越える。
面白い試みでしょう?
婉然と、和紗が微笑む。
いつもの穏やかな画伯ではない。
雄敵を見出した時の、かつて目にしたこともないほどに好戦的な、誇り高い一人の絵師が、そこにいた。
「競争って……無理ですよ。僕には……」
「景色が、見えたのですよ。本当に。かつて見たことのない景色が、文字だけで……」
写真で撮っても、絵で表しても、それを伝えることは、困難なのに。
紙面に踊る一文が、いとも容易に、実現してみせた。
心の中に、浮かび上がる。
朽ちた城壁。凍った森。暁の山河。それに……あれは、祭の風景。音と、光と。人工の炎の中に、人の歓声が入り乱れる。高揚した気をなお高く飛び越えて、夜の空に打ち上げられる、極彩色の舞は…………花火?
「描きたい絵が、次から次から浮かび上がってきて、正直、困っているのですよ」
その全てを描いていたら、常識外れに制作時間をもらうことにもなりかねない。
和紗は一向に構わないが、綾が困るだろう。
出版社も、いい加減にしてくれと、泣きついてくるかもしれない。
不本意だけど、この気持ちを抑えなければ。描きたいと想う心は、無限。けれど、与えられた時間は、有限。
まずは、表紙と、背表紙と、一枚絵を、完成させよう。
少し欲張って、見開きのページにも、美しい夜の世界を表したい。
海が良いか。山が良いか。
あるいは、何気ない日常の風景を、そのままに切り出して、ほんの少しの非現実を添えて、読み手の傍らに届けてみせようか。
何だか、未知の世界に足を踏み入れているような不思議な感覚が湧いてきて、わくわくした。
ああ……駄目だ。悪戯心が、過ぎてしまう。
夜しか描かないという縛めすらも、忘れてしまいそうになるほどに……。
「いや……俺自身が、変わろうとしているのかも」
いつか、描き出してみるのも、良いかも知れない。
目の前に広がる夜の現実ではなく、頭の奥に色鮮やかに浮かび上がる、詩のような文章が垣間見せた、この、真昼の幻想を……。
【雄敵】
昼の長時間の外出が厳しい和紗は、間もなく、画房に戻って行った。
今回、新たに担当として付いてくれることになった編集者を相手に、綾は、参りましたね、と苦笑を浮かべる。
まさか、挑戦や競争と面と向かって言われるとは、思わなかった。
遊月画伯は、綾にとっては、手の届かぬ天上の住人にも等しい存在なのだ。その天の住人に、俺の絵を越えて下さいと言われるなどと、一体、誰が思うだろう?
「買い被りすぎですよ。藤水さん」
綾が、同意を求める。
編集者は、そうでしょうかと、首をかしげた。
「私は、なかなか本質を付いていたと思いますが」
「何を言っているのですか……。心臓に良くない冗談なら、エイプリルフールの日に限定して下さい」
苦笑を浮かべたまま、綾が、すっと立ち上がる。
遊月画伯ほどではないが、彼も、本を出版するにあたり、なかなか多忙な身になっていた。
「槻島先生……。今回の出版の話は、会社ではなく、読者から出た話なのですよ……。色々な方から、投書があって……。前代未聞なんですよ。こんなこと。わかっているのかなぁ……」
きっと、わかっていないだろう。
槻島綾は、あまり、損得勘定には縁がない。
好きだから、書く。想いが消えないから、残す。
自分が見て、受けた感銘を、他の誰かに伝えたい。同じ気持ちを、知って欲しい。だから書くのだ。それ以外に、筆を取る理由など……無い。
「競争……か」
二人の雄敵が、競い合いながら生み出す、一冊の本。
全ての人の目に触れて、多くの人の手に取られる日が、きっと……そう遠くない未来……訪れてくれるのだろう。
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