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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


図書室を泳ぐ魚

0.オープニング

 非常灯の薄明かりが灯る室内を、ユラリユラリと魚が泳ぐ。
 透き通った体が銀色に輝くは、魚自身が放つ燐光か、あるいは非常灯に照らされたが故か。
 乾いた空気と薄闇が支配する室内を、ユラリユラリと魚が泳ぐ。
 物悲しげな瞳が映すは、暗闇に並ぶ幾多の本棚の影。
 古い時計が時を刻む室内を、ユラリユラリと魚が泳ぐ。
 透き通る魚影はやがて、棚に並ぶ本の隙間に消えていった――

「……で、その夢がどうしたって?」
 向かいの古ぼけたソファに身を沈めた老人に、草間・武彦(くさま・たけひこ)はウンザリしたように問う。
 高橋(たかはし)と名乗った温和そうな老人は、間もなく取り壊される小さな区民会館の図書室で、長年司書を務めてきた人物であった。
「毎晩のように夢に出てくるその魚が、日を重ねるごとに弱っていくのです。そして、何故か魚の夢を見る度に私の体も萎えていく。初めは年のせいかとも思ったのですが……医者にかかっても首を捻られるばかりで」
 殆ど病気にもかからず、健康そのもので過ごしてきた老人は、最近では食欲もなく、杖が無ければ歩けぬ程に弱ってしまった自分の体に不安を抱き、ここを訪ねて来たらしい。
「とにかく、もう魚の夢を見ないで済むようにしていただきたい。何が原因であるのか、それを調べて原因を取り除いて欲しいのです」
 提示された謝礼の金額に目がくらみ、思わず頷いてしまった草間の向かい側で、杖にすがってようやく立ち上がった老人は、ふと思い出したように呟いた。
「そう言えば……あの頃からでしたな、夢が始ったのは。新しい区民会館が完成して、蔵書の移送と古い本の処分が始った頃ですよ」


1.依頼人と調査員

 相変わらず、興信所の事務所には暇を持て余した知人や怪異に興味を持つ者が集まってくる。時折見かけない人間が混じっていたりもするが、草間はあまり気にしない。ここに来るのは怪異好きか依頼人ぐらいなものだ、強盗や空き巣が興味を持つほどの蓄えがあるでなし――これは達観と言うか諦めと言うべきか。
 零(れい)がテーブルの上の山盛りになった灰皿を取り上げ、綺麗に洗ったそれと交換した時――その依頼人は興信所を訪れた。

「そう言えば……あの頃からでしたな、夢が始ったのは。新しい区民会館が完成して、蔵書の移送と古い本の処分が始った頃ですよ」
 向かいの古ぼけたソファに身を沈めた老人が、ゆっくりと立ち上がる。
「蔵書の移送と処分、ね……」
 老人を見送る為に自らも立ち上がりながら、草間はちらりと事務机を見やった。彼の昼寝用指定席でもあるそこは、立花・一臣(たちばな・かずおみ)と3Dジグソーパズルに占拠されていた。プラスチック製のピースがはめ込まれる度にパチリという小さな音が立ち、直径40センチ程の地球儀が完成に近づいていく。
 パズルを組み立てていく一臣の指先を背後から覗き込んでいるのは、黒葉・闇壱(くろば・やみいち)。無造作に伸ばして括った髪が、首を傾げる動きに従って背に揺れる。
「器用なものでやんすねぇ」
「うん、パズルはいつもやってるしね」
 ゴーイングマイウェイな2人の青年は、レンズ越しに銀の瞳と黒い瞳を机の上に固定させ、此方に注意を向けているような気配は一切感じさせない。しかし草間は、この依頼内容が彼等の興味を惹くであろう事を知っていた。
「大丈夫ですよ。ここは怪異事件を扱い慣れている場所ですから。近い内によい結果をご報告できると思いますよ」
 穏やかな笑みを浮かべて依頼人を励まし、興信所の外まで送ろうとした柚品・弧月(ゆしな・こげつ)は、ドアを開けたところでティエン・レイハート(てぃえん・れいはーと)と七伏・つかさ(ななふせ・つかさ)に出くわす。
「あれ? 新しい依頼が入ったの?」
 ぴょこんっと老人に頭を下げてから、青年に向き直るつかさ。弧月とは初めて顔を合わせる筈なのだが、目の前の青年の物慣れた様子から、草間の知人であろうと判断したらしい。
「ええ。たった今、この方の依頼を草間さんが引き受けたところです」
 自分を見上げてくる少女(実際は27歳なのだが)に穏やかな笑顔を向けて、弧月が言った。
(多分、ボクの事を子供だと思ってるんだろうなぁ……仕方ないけど)
 ほんの少しだけ、つかさの心に痛みが走った。成長の止まってしまった肉体の事はとうに諦めている。しかし、だからといって心の痛みが消えてくれる訳ではない。それを表面に出すほどには、彼女の内面は幼くはなかったが。
 ふと、弧月の視線が流れた。何気なくそれを追うと、つかさの視界にティエンの金髪が飛び込んでくる。
「安心してください。この事件は俺が解決します!!」
 ティエンが老人の両手を握り締め、力強く宣言する。まだ依頼の内容すら聞いていないのだが、そんな事はお構い無しだ。
 依頼人の方はといえば、さっそく草間が調査員を集め始めたとでも思ったのであろう。人好きのする温和な笑みを浮かべて「よろしくお願いします」と頭を下げる。
「ところで、調査するにあたって重要な質問があるんですが」
「はぁ、私に判る事でしたら何でもお話しますが……」
 ティエンの真剣な口調と表情につられ、老人の顔にも緊張が薄く張り付く。
「お爺さんには年頃で可愛い孫娘とかいますか?」
「……は?」
 この予想外な台詞に、依頼人だけでなく弧月やつかさの目までもが点になった。

「いや〜参ったね。まさか『年頃で生意気盛りの孫息子ばかり4人ほど』なんて返事が来るとは思わなかったよ」
 先程まで依頼人が座っていたソファに腰掛け、零に淹れてもらった緑茶をすすりながらティエンがぼやく。
「重要な質問と言うから何かと思えば……」
「だよね。依頼人のお爺さん、呆れてたんじゃない?」
 本棚に背中を預けた弧月が苦笑し、向かいのソファに座ったつかさも同意する。
「重要な質問なんだけどな〜。僕のやる気が大いに左右されるからね」
「やる気が出ようが出まいが、引き受けると公言したからには働いてもらうからな」
 開けた窓の傍で紫煙を吐き出し、草間が言った。言われた側は「はいはい」と軽く受け流す。
「図書室の魚かぁ。う〜ん、よく分からないけど、夢っていうのは人の深層心理が現れるってよく言うよね。お爺さんの場合もそれなんじゃない?」
 小さく首を傾げるつかさ。彼女の膝に抱かれたクマさんリュックが「そうカモね」と頷くが、怪異に慣れきってしまった周囲の人間は誰も驚かない。
「実際にストレスから体を壊す人も居るからね。そっちのほうが確率高いでしょ。怪異事件だっていう可能性も皆無とは言えないだろうけどね」
 相変わらず、一臣の視線はジグソーパズルに向けられている。傍から見ているとあまり集中しているようには見えないのだが、複雑な形のピースは次々と定められた場所を埋め、地球儀の形を成していく。
「もう8割方は完成したみたいでやんすね」
「今のが1236個目だから、完成度は82.4%だね」
「はぁ……数えてたんでやんすか。しかも計算まで」
「うん」
「……随分と暇そうだな」
 一臣と闇壱に向かい、呆れたような口調で声を掛ける草間。
「暇を持て余してるんなら手伝え。俺はどうも図書館やら図書室と聞くと体が拒絶反応を起こすんでな」
「はぁ、別に構わないでやんすよ。あちきとしては処分される古書が気になりやすし」
「僕も構わないよ。でも草間さん、僕が居ない間にパズル壊さないでよね」
「……お前ら、依頼より本やパズルの方が心配なのか……?」


2.新区民会館

「さて、そういう訳で」
「何がそういう訳なんです?」
「……はて、なんだろう?」
「……(溜息)」
「なんだか漫才みたいだね」
 ティエンと弧月の会話を聞いていたつかさが、くすくすと笑い出す。
 ここは間もなく利用が開始される新しい区民会館のロビーである。本来であればまだ一般人は入館する事が出来ないのだが、つかさが依頼人の関係者として面会を求め、担当者との交渉の結果、彼等は特別に入館を許されていた。
 ソファーに座って老人を待っているのは、弧月、つかさ、ティエンの3人である。一臣と闇壱は、ロビーに展示してあるモニュメントの前で何やら話し込んでいるようだ。
 依頼人の居場所は、旧区民会館に問い合わせたところすぐに判明した。今日の午後は私用外出(つまり興信所に立ちよった)後、そのまま新らしく建てられた区民会館に向かう事になっていたらしい。
「それにしても、こんなに簡単に入館できるとは思いませんでした。傍から見ていると普通に話しているようにしか見えなかったのに……暗示とは便利なものですね」
 つかさと職員の先刻のやりとりを思い出し、弧月が微かに笑う。無論、話し声の大きさにも注意は払っている。人気の少ないロビーの空気は、足音や人の声を反響させて遠くまで運ぶ。受付で何やら作業を行っている先程の職員に、自分が暗示に掛けられているなどと聞かせる訳にはいかないのだ。
「暗示じゃないよぉ。おまじないだもん。お・ま・じ・な・い」
 やや拗ねたように唇を尖らせ、つかさが隣のソファで足をぶらつかせる。『暗示』という言葉があまり好きではないのだろうか、意識的に能力を使う場合、彼女はそれを『おまじない』と呼んでいるらしい。
「まぁまぁ。それより、依頼人さんのご登場みたいだよ」
 ティエンがゆっくりと立ち上がる。彼の視線の先でロビーの隅にあるエレベーターの扉が開き、杖を持った老人が姿を現した。

「へぇ。中の準備は殆ど終わってるんだね」
 スペースの大半を本棚に埋められた室内を見回し、のんびりと一臣が頷く。ロビーでの会話は何かと気を使う為、弧月の提案を依頼人が承諾する形で、彼等は図書室へと場所を移していた。
 本棚にきちんと収められた本は約半数が旧区民会館から移送されたもので、残りの棚には真新しい書籍が並んでいる。新しい区民会館はかつての約2倍という延床面積を持ち、建物が大きくなった事に合わせて、中に入っている諸々の施設も以前と比べてかなり充実したものになっているようだ。
「本棚に囲まれた物静かな空間……まるで水底にでも居るような気分になりやすねぇ」
 闇壱がぽつりと言葉を漏らした。公開前という事もあってか、窓にはブラインドが下ろされており、外の光を遮断している。天井から照らす蛍光灯はかえって室内を薄暗く感じさせ、本棚の並ぶ隙間を歩いていると、自身が深海を泳ぐ魚にでもなったような不思議な感覚に囚われる。
「そうですねぇ……私も時々そんな風に思う事がありますよ」
 本棚にきちんと収納された本の背表紙を撫でながら、依頼人である老人は愛しげな笑みを浮かべた。
「私も長年、向こうで司書を務めてきましたからねぇ。建物も本も、良いものは時間が経つほど味が出てくる。最近はそんな本も少なくなりましたが……」
「お爺さん……じゃなかった、高橋さんは新しい区民会館でも司書の仕事をするの?」
 つかさの問いに、老人の笑みが寂しげなものに変わる。
「いや、もう歳ですからねぇ。旧区民会館が閉鎖になれば……私も引退ですよ」
「寂しい?」
「そりゃあ寂しいですよ。何せ30年以上も努めた仕事ですからねぇ」
「……あのね? ボク、思ったんだけど……お爺さんのその『寂しい』っていう気持ちが、魚の夢を見る原因になってるんじゃないのかな。夢はその人の心の現われだって、よく言うでしょ?」
 自分の孫よりも幼い外見のつかさの言葉にも、老人は真摯に聞き入っている。
「だから、処分されちゃう本をもう一度読んでみるとか、大好きだった前の図書室にお礼言ったりとか……自分自身の気持ちに区切りをつける為にも、やってみたらいいんじゃないかな」
「……成る程。それはいいかも知れませんなぁ」
 考えながら懸命に言葉を紡ぐつかさに、高橋老人は暫しの間をおいて頷いた。
「ただ、明朝から業者の方が古い本の処分を始める事になっていますし、私ももう暫らく此処での仕事がありますから、それが出来るのは今夜ぐらいしかありませんが……」
「あのー……もし良ければ、あちきにもその本を見みせてもらえないでやんすかねぇ」
 物珍しそうに周囲を見回していた闇壱が、つかさと老人の会話に割って入った。
「はぁ、それは構いませんが……」
「……もう一つ、俺からも聞いておきたい事があるんですが」
「確か……あなたは弧月さんでしたな。私に答えられる事でしたらなんなりと」
 闇壱の背後に立っていた長身の青年へと、老人が視線を向ける。
「仮に『魚』が夢の中だけでなく、現実に存在した場合……あなたがそれをどうしたいかをお聞きしたいんです。本と共に『処分』してしまうのか、新しい『住処』を与えるのか……」
 この弧月の問いは、老人にとって予想外であったらしい。彼にとって、『魚』はあくまでも夢の中の存在であり、現実には一度も実物を見た事など無かったのだから。
「そうですなぁ……もしそんな『魚』が本当にあの図書室に住んでいるなら、やはり助けてやりたいですな。あの寂しげに泳ぐ『魚』が実在するならの話ですが」
「うん、僕もそれには賛成だね。基本的に僕は殺生も失笑も好きじゃないし」
「「…………」」
 一臣の放った親父ギャグが、一瞬、室内の気温を氷点下にまで下げてしまう。
「くっ……こんな場所でこんな敗北感を味わう事になるとは……」
 図鑑の並んでいる本棚の前で、一冊の本を広げていたティエンがガックリと膝をついた。肩が微かに震えているのは、脱力感に耐えている故か、それとも一臣の言葉がツボにはまった為か。
「と……とりあえず、私は下の事務所で手続きがありますので。暫らくこちらに居るようでしたら、帰る時に声を掛けてください」
 ふらふらと部屋を後にする老人の背中を、闇壱は気の毒そうに見送った。


3、『魚』の名前は

「ウチの大学の生物学科の教授が虫のサンプルを欲しがってたよ。夢枕に立つ程奇異な虫なら教授も喜びそうだし、『魚』の住処が必要なら話をしてみてもいいよ」
「古書には付き物。その痕跡もまた情緒あるものでやんすが、あちきとしては貴重な古書で腹を膨らませられるのも困るでやんす。依頼人の希望もありやすし、それが無難でやんすかねぇ」
 高橋老人の姿が扉の向こうに消えた後、残った5人は閲覧コーナーのソファに腰を下ろしていた。先刻の弧月たちの会話について、一臣と闇壱が言葉を交わしている。
「ねぇ、ちょっと聞いていい?」
 2人の会話を聞いていたつかさが首をかしげながら声を掛けるが、彼等がそれに気付いた様子は無い。
「大学は古書も一杯あるからね。僕の学科の本に生息されては困るけど、生物学科なら僕的には無関係だから荒されても問題無いし。あそこの教授は珍し物好きだから、『魚』が夢枕に立つ程奇異ものなら大喜びするだろうね」
「向こうの図書室に残ってる本、やっぱり全部処分しちまうんでやんすかねぇ。古い書物は貴重でやんすから……めぼしい物があればあちきの店に引き取りたいんでやんすが」
「あのさ、聞きたい事があるんだけど……」
「あ、それは僕も思ってたんだよね。数学に関する本で、何か面白いの無いかなぁ」
 今度は少し大きな声で呼びかけてみるも、やはり効果は無い。
「後で高橋さんに聞いてみましょか。どうせ処分するならあちき達で引き取っても同じでやんしょ」
「ねぇってばぁ!」
「……え、何?」
「どうしたんでやんす?」
 痺れを切らせたつかさの大声で、ようやく彼等はつかさに顔を向けた。通常であれば司書や係員に注意された挙句につまみ出されそうな大声を出されるまで、本気で気付かなかったらしい。微妙に不機嫌になった彼女を、不思議そうに眺めている。
「さっきから聞きたい事があるって言ってるのにぃ〜」
 ぷぅっと頬を膨らませたまま、つかさは上目遣いに2人を見た。火を点けぬまま咥えていた煙草を口から離し、一臣がすまなそうに頭を掻く。
「あぁ、ごめんごめん。それで聞きたい事って?」
「2人でさっきから何の話してるの? 『魚』って、お爺さんの夢に出てきた魚の事だよね。虫のサンプルとか、本を食べるとか……それが夢と何の関係があるの?」
「おや、ひょっとして気付いて無かったでやんすか? 『魚』の正体」
 数度まばたきしてから、闇壱はズレた眼鏡を指先で直した。
「正体って言ったって、『魚』は夢の中の……」
 そこまで言った時、つかさは軽く肩を叩かれた。自分の肩に乗せられた手を逆に辿っていくと、穏やかな笑みを浮かべた弧月の瞳に出会う。
「さっき皆が高橋さんと話している時に、夢判断の本というのを見つけたんです。少し読んでみましたが、水の中にいない魚の夢というのは自分以外の死や病気を表す場合が多いと書いてある。なのに、高橋さんは夢を見るたびに体調が悪化しています」
「……どういう事?」
 優しい口調で話す弧月につられてか、つかさの声からはいつの間にか不機嫌そうな雰囲気が消えている。
「高橋さんに心残りがあるのは事実でしょう。それがストレスとなって体調を崩している可能性も高いと思います。ですがそれは『魚』が暗示する自分以外の死や病気には当てはまらない。つまり……」
「つまり、夢に出てくる『魚』が暗示するものは、お爺さんとは別に居るって事?」
 真っ直ぐに自分を見上げてくる大きな青い瞳を見返し、弧月は軽く頷く。
「そう考えるのが一番自然でしょう。そして『魚』の正体は、多分……」
「銀色の体、本の隙間、魚の形をしたもの、夢に出てくる図書室はいつも夜……つまり夜行性」
 手の中で煙草を弄びながら、一臣が幾つかの単語を並べてみせる。
「突然変異した魚っていうのも考えてはみたけど、重力に逆らって空気中を泳ぐ魚なんて、幾らなんでも存在する訳が無い。仮にそんなものが実在するとしても、図書室みたいな場所と魚を関連付けるのは難しいしね。高橋さんの夢に出てきた『魚』っていうのは、多分『紙魚(しみ)』っていう虫だよ」
「虫かぁ。どうりで魚図鑑には載ってない訳だ。やれやれ、昆虫図鑑は何処の棚だっけ……」
 今まで読み漁っていた魚の図鑑を放り出し、ティエンがぶつくさ言いながら本棚に向かう。それを目で追いながら、つかさは弧月に尋ねた。
「紙魚ってどんな虫なの?」
「紙魚の付いた本なんて、俺も考古学の授業くらいでしか拝んだ事が無いですから……判らなくても当然ですよ。欧米では、その姿形からシルバーフィッシュ(銀色の魚)と呼ばれて、古くから和紙や書物につく虫として知られています。体が鱗に覆われていて、銀色の光沢があるところも魚に似てますね」
 新しい区民会館が出来、蔵書の移動や古い本の処分により住みかを失った紙魚が、依頼人である高橋老人に助けを求めたのではないだろうか――弧月はそう考えていた。高橋老人が草間の事務所を訪れて夢の話をした時、彼の脳裏に真っ先に浮かんだのは『紙魚』という小さな虫の事であった。どうして紙魚が老人の夢に現れるようになったのか、今の段階ではそこまでは判らない。しかし、推理としてはこれで間違い無い筈だ。
「しみ……紙魚……と。あぁ、これかな?」
 弧月の思考は、昆虫図鑑のページをめくりながら戻ってきたティエンの声で中断された。読書机の上に置かれた図鑑を、反対側からつかさが覗き込む。
「うわぁ……気持ち悪〜いっ!」
 率直なつかさの感想に、青年達が苦笑を漏らした。拡大して掲載されていた紙魚は、どちらかと言えば深海魚の類に近い形をしているように思われた。体長、約10ミリ。触覚や尻尾まで含めれば15ミリといったところか。写真の下には、確かに『セイヨウシミ』と表示されている。
「まぁ……可愛くは無いね。確かに」
 ティエンの声にも肩をすくめるような雰囲気がある。
「とりあえず『魚』の正体もこれで掴めた事だし。後は夜になってから、かな?」


4.旧区民会館

 夜の10時を少し過ぎた頃、5人の調査員は高橋老人と共に旧区民会館を訪れていた。
 無論、通常であればこのような時間に中に入る許可など下りる訳は無い。だが、つかさの『おまじない』を用いた交渉と、顔馴染みである高橋老人の申し入れにより、警備員は特に不審がる事も無く彼等を中へと入れてくれた。
「流石に本はもう殆ど残ってないでやんすねぇ」
 非常灯の緑色の光だけが灯る室内を懐中電灯で照らし、闇壱が言う。彼の言葉の通り、闇の中に整然と並ぶ本棚はその殆どが空になっているらしく、彼から見える範囲には本は無いようだ。
「えぇ、まぁ……移送分はもうあちらの区民会館で棚に並んでいますから。此処にあるのは処分待ちの古い本ばかりで」
 高橋老人は、慣れた手つきで入り口近くの壁を手で探り、スイッチを見つけてそのまま室内の灯りを点けようとした。
「あぁ、ちょっと待っていただけますか」
 気配で老人の動きを察知した弧月の声が、それを止める。
「どうかしましたか?」
「幾らカーテンが閉めてあっても、光は外に漏れますから。近所の方に不審に思われて通報されたりしたら面倒ですし」
 それもそうですな、と老人は納得し、スイッチに触れていた指を離した。彼等の会話を聞いていたティエンは、弧月が口にしなかった部分の言葉についても正確に把握していた。
 『紙魚』は暗所を好む虫である。また、動きが素早く、光で照らされるとすぐに隠れてしまう。これから紙魚を捕獲しようとしている彼等にとって、それはあまり好ましい事ではない。
(まぁ、光を嫌うっていうなら、それを利用する方法もあるけどね)
「それで、処分待ちの本はどの辺りにあるでやんすか?」
 懐中電灯のスイッチを切って懐にしまい込んだ闇壱が、依頼人へと向き直る。古書が気になるというのも事実ではあるが、此処に残っているのが処分待ちの本だけであるのならば、『魚』が潜んでいる場所はそこしかないと踏んだのだ。
「あぁ、こちらですよ」
 非常灯の僅かな灯りを頼りに、老人は受付カウンターの引き出しから鍵を取り出し、資料室と張り紙されたドアへと向かう。
「この部屋には、以前は修繕を必要とする本や寄贈されたばかりの本、それに購入されたばかりの本などが置いてあったんですが……今は閲覧に堪えられなくなった処分待ちの本だけが残っているんですよ」
 ドアの鍵穴に差し込まれた鍵が回転し、室内にカチリという小さな音が響く。
「私は若い頃から本が好きでしてね。以前から何度か蔵書を寄贈したりもしていましたが、なにぶん古いものが多かったので、殆どが此処に……こ、これは!?」
 ドアを開き、室内に足を踏み入れた所で老人は絶句した。
 そして、硬直したように動かなくなった彼の脇をすり抜けるようにして資料室に入り込んだ5人も、目の前の光景に暫し言葉を失う事となる。

 非常灯の明かりが差し込む室内を、ユラリユラリと魚が泳ぐ。
 銀の色に輝くは、魚自身が放つ燐光か、あるいは光に照らされたが故か。

「これが……お爺さんの夢に出てきた『魚』……?」
 つかさの囁くような声に、答える者は誰もいない。恐らくは呟いた当人も答えを求めてはいないのだろう。ただひたすらに、目の前の光景に見入っている。

 静寂とと薄闇が支配する室内を、ユラリユラリと魚が泳ぐ。
 物悲しげな瞳が映すは、がら空きになった本棚の影。

「……参ったね。こんな非現実的な光景を見る事になるとは思わなかった」
 一臣はそう言うと溜息をつき、指輪だらけの手で頭を掻いた。彼は夢が実体化する確立などを計算しようとしたが――結局、『なるモノはなるんだよ』と諦めたように目の前の光景を受け入れた。
 
 6人の人影が見守るなかを、ユラリユラリと魚が泳ぐ。
 透き通る魚影はやがて、棚に並ぶ本の隙間に消えていった――

「……高橋さん」
 『魚』の姿が見えなくなった後も、暫らくの間は誰も動こうとはしなかった。一番初めに我に返った弧月が、『魚』の姿が消えた棚へと歩み寄る。
「この本はあなたが寄贈したものですね?」
 何か確証があった訳ではない。だが、弧月の声は確信に満ちていた。ボロボロの背表紙に指先で触れた瞬間、我が子同様に本に慈しみ、大切に扱っている高橋老人の姿が脳裏に浮かぶ。
「えぇ……その辺りにある本の半数以上は私が寄贈したものですから」
 高橋老人もまた、頼りない足取りで本棚へと近寄っていく。杖を突くコツコツという音が、資料室内に奇妙に大きく響いた。
「この辺にある本は戦後間もない頃に私が買い求めて集めたものなんですよ。貴重なものが多いので、こうして寄贈した訳なんですが……古い物ばかりなので、閲覧に堪えられなくなりましてね。惜しいとは思うのですが……」
 愛情を込めた手つきで、老人は1冊の本を取り上げた。住処を追われようとしている『魚』の想いと、大切な本の処分を待つ老人の想いが、そこには込められているのだ。
「高橋さん、その本でやんすが……あちきに引き取らせてもらえやせんか」
 未だ入り口付近で立ち尽くしていた闇壱が、老人に静かに声をかけた。
「本には書き手、読み手の想いが宿るもんでやんす。大切に扱われてきた貴重な品がそのまま処分されるのを見過ごすのは、古道具屋のあちきには余りに不憫すぎやして」
 闇壱は『魚』の正体について言及するのを避けて、そう申し出た。別に老人を騙そうとした訳ではない。これまで怪異とは無縁で過ごしてきたであろう老人に、『魚』の正体を理解する必要があるだろうか? 本が処分を逃れ、『魚』が安住の地を得られれば、老人は夢から解放されるのだから。
「それは願っても無い事ですが……『魚』があなたのお店に迷惑を掛けるのでは?」
 本を棚に戻して老人は振り返る。
「その辺は問題ないでやんす。あちきはこういう類のモノには慣れてやすから」
「そうですか……判りました。それではどれでも好きな本をお持ちください。業者の方には明日の朝にでも私から話を通しておきますので」
 そうそう、警備室にも連絡しなければなりませんな――老人はそう言って資料室を出て行った。
「慣れてはいるでやんすが……実際どうしたもんでやんしょ。虫干ししたら『魚』が死んでしまいやすし」
「生物学科の教授にはもう連絡済みだよ。是非ともサンプルに欲しいって。だから持ち帰る前にここで捕まえた方がいいだろうね」
 考え込む闇壱に、一臣がサンプル捕獲用に準備してきた小瓶を渡す。どうやら自分で捕獲する気は無いようだ。
「……あちきも生きたまま捕まえた事は無いでやんすからねぇ」
「……俺が手伝おうか?」
 どうしたものかと考え込む闇壱に助け舟を出したのはティエンであった。
「手伝うって、どうやって捕まえるの? 紙魚って明るくなるとすぐ逃げちゃうんでしょ?」
 首を傾げるつかさに「まぁ見ててよ」と言いながら、ティエンは手にしていた懐中電灯のスイッチを入れる。次の瞬間、室内は懐中電灯の光とは思えないほどの強い光で満たされた。


5、帰り道にて

「それじゃ、確かに引き取らせてもらうでやんす」
 旧区民会館前にて。
 風呂敷の包みを大切そうに抱えた闇壱が、依頼人を前にして深々と頭を下げる。
「いえいえ。気がかりだった古書を引き取っていただけて、私も一安心ですよ。これで心置きなく司書の仕事を引退できます」
「古書に関するストレスも消えた事ですし、高橋さんの体調もすぐに改善されますよ。これでもう『魚』の夢を見る事も無いでしょう」
「はぁ……しかし、先程の資料室で見た『魚』は何だったのでしょう?」
 闇壱から弧月へと視線を移し、老人は頭を捻る。
「それは……」
「きっと疲れてるせいだと思うよ? ボク、ストレスが溜まったりすると幻覚を見やすくなるって前に聞いた事があるし」
 一瞬言葉に詰まった弧月に、つかさが助け舟を出した。自分を見つめる大きな青い瞳を見返すうちに、高橋老人も何故かそれ以上の追求が無意味に思え、少女の言葉に納得してしまう。
「幻覚ですか……そうかも知れませんねぇ」
 更に幾らかの会話の後、依頼人は5人に挨拶を送り、自宅へと帰っていった。見送る側も、老人の背中が通りの角を曲がって見えなくなった後、興信所への道を辿り始める。
「それにしても、意外とあっさり捕獲できたね。お陰で面倒が無くて助かったけど」
「まぁね〜。それほど大した事じゃないけど」
 薄い本を小脇に抱えた一臣の台詞に、ティエンは欠伸交じりで答えた。彼は紙魚が光を嫌う習性を利用し、光を自在に操る能力を使って紙魚を一箇所に追い詰め、捕獲したのである。
「とりあえず、草間さんに報告して……出来れば報告書は明日にしたいでやんすねぇ」
「そうですね……俺としてはこの時間まで草間さんが事務所に居るかどうかも心配ですけど」
 闇壱と弧月も、言葉を交えながらのんびりと歩を進める。

 『魚』の夢にまつわる怪異は、こうして幕を閉じた。
 サンプルとして捕獲された『魚』は、一臣が助教授を務める大学の生物学科で、現在も大切に飼育されているという。



・Fin・


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【1582/柚品・弧月/22歳/大学生】
【1764/黒葉・闇壱/28歳/古道具屋「宵幻堂」店主】
【2398/ティエン・レイハート/18歳/ソードマスター】
【2571/立花・一臣/32歳/数学者】
【2678/七伏・つかさ/27歳/交渉人】


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■         ライター通信          ■
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 左京です。前回に引き続きのご参加、誠にありがとうございました。
 今回は特に戦闘シーンもなく、比較的地味な依頼となりましたが…つかささんにとって、ご満足いただける結果となりましたでしょうか?
 夢に関するつかささんのプレイングを拝見し、何よりも依頼人の『想い』を大切に行動しようとする優しさを、とても嬉しく感じました。つかささんのプレイングがなければ、後半の展開は大きく変わっていたかも知れませんね。私自身、とても楽しく書かせていただきました。本当にありがとうございます。

 今回の依頼について、何か感想などございましたら聞かせていただけると嬉しいです。次回の依頼の際に参考にさせていただきますので。
 また機会がございましたら、よろしくお願いいたします。