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<東京怪談ノベル(シングル)>


絶望と選択

 がくり、と視界が揺らいだ。
 危うく地面に手をつきそうになって、白銀は寸での所で踏み留まる。
 無色の風が月光を紡いだような銀の髪を揺らす。その流れはどこまでも無機質で、一片の温もりさえも感じさせない。
 何もないのだ、ここには。
 今、突き落とされたこの世界には。
 たった一つの事実としてそれを無意識に認識した瞬間、堪えていたはずの膝が力なく折れる。
 滲む視界。
 何処までも果てのない天の様に蒼い瞳から、大きな雫が零れ落ちた。
 落ちて、落ちて、落ちて止まらない。
 静かに頬を伝うその流れは、この世界唯一の光となって宙を舞い、ぽたりぽたりと闇の大地に跳ね落ちる。
 最期の希望とばかりに散り散り消える銀の飛沫。
 何もかもがスローモーションのようにゆっくりと動き続けた。一つ一つを含み聞かせるように。変える事の出来ない真実で、未成熟な心を穿ち滅ぼしてしまおうとするかの如く。
 今、ここで何もかもを投げ捨てて、狂ってしまえればどんなにか楽だろう。
 声にはせずに、ただ涙を流し続ける白銀はそれだけを痛む胸で思い続ける。
 狂って死んでしまえたら。
「このまま……」
 不安定に霞む何もない地面を見詰め、血の気を失くした白い唇がそれだけを形作り、再び噤む。
 ダメだ、声にしてはダメだ。
 残る最後の理性で、それだけを自分自身に言い聞かせる。
 堅く握り締めた指先が、手の平に深く食い込んでいたが、既に痛覚など今の白銀には残されていなかった。
『声に出してしまえよ……楽になれるぞ?』
 不意に誰かの囁きが、そう白銀の耳に吹き込まれる。
 木立のさざめきのように大気が細かく震え、たった一つの言葉を――この上なく甘美な誘いを銀の髪の主へと運ぶ。
『手放してしまえ、何もかも。そして――』
「うるさっ――」
 五月蝿い、五月蝿い五月蝿い!! 黙れ!!!
 迸らせようとした絶叫は、僅かに喉の奥に絡んだだけ。嗚咽の混じったその悲鳴は、そよ風ほどもなく、ただ力なく無情な世界に四散した。
 駄目、なのだ。
 声にしてしまっては。
 耳につく嘲笑を、聞こえないふりをして固めた拳で地を打つ。
 綺麗に切り揃えられた爪が、薄い皮膚を引き裂き己自身に傷をつける。けれどそれさえも今の白銀の心を慰めることはなかった。
 何一つ、救いはない。
 それでも声にしてしまってはいけない。
 言葉にしてしまった瞬間に、それが全て真実になってしまう。
 誰が諦めてしまっても、自分だけは。何があっても自分だけは諦めるわけには行かないのだ。
『……馬鹿者が』
「いいさ……馬鹿で。これが俺の選択なのだから」
 響いて来た声に、そう応えを返す。
 そう、馬鹿でいいのだ。いっそ醜悪なほど足掻けばいい。この手の平に今は何もなくとも。無から有を生み出すことが不可能であろうと、自分はそれを成してみせる。
「そう……それで……それでいいんだ……」
 言葉を覚えたての子供のように、ただそれだけを反芻する。
 繰り返して繰り返して、やがてそれだけが自分の心を占めるように。
 けれど、そう決めたのに――溢れ出る涙は止まらない。
 誓いの言葉に混ざる嗚咽が喉を塞ぎ、呼吸さえままならなくなる。薄く開いた花弁のような唇が、酸素を求めて浅い喘ぎを繰り返す。
 このまま窒息してしまいそうな苦しさ。
 その息を絶やそうとする凄絶なまでの誘惑に、白銀は脆いガラス細工のような心で立ち向かう。
 既に幾重にもひびが入り、今にも粉々になってしまいそうな心で。
「……泣くな、泣くな……泣いてる場合じゃないはずだ……」
 言葉で自分を呪縛した。強く己を戒め、悲しみに瓦解しそうな魂を強引に肉体へと繋ぎ止める。
 ひっくひっく、と見苦しく鳴るしか能がなくなってしまったかのような喉を、自分の手で強く締め、咽びを殺す。
「止まれ――止めろ」
 それは命令。
 自分から自分に発した言葉。
 枯れることなどないように湧き出で続ける、絶望に打ちひしがれる己を厳しく律する力。

 知ってしまったのは、随分前に芽吹いていた不安から遥かに成長した真実。
 何を尋ねようと、ただ優しく笑う常に傍らに有り続ける男に関すること。
 誰よりも白銀の心を落ち着かせる微笑の裏に隠されていた、運命と言う残酷な現実。
「……違う、そうじゃなかった」
 熱く乾ききった砂漠を彷徨う旅人のように、水気に飢え酷く痛むような喉で愚かな自分の今までを悔い嘆く。
「気付こうとしなかっただけだ――その機会は幾度となくあったはずなのに」
 与えられることのなかった母親の温もりそのもので、そっと目隠しされ続けることを甘受することを選んできたのは自分自身。例え、それこそがあの男の望みであったとしても。
 ゆらり、と顔を上げる。
 しっかりと前を見据えた蒼の双眸には、力弱さの象徴はすでに微塵も浮かんではいなかった。
 ただ、くっきりと頬に残る跡だけが、白銀の今なお張り裂けそうな胸の内を物語る。
 喉に廻していた手を振り解くと、そこに咲くのは鮮やかな緋。
 不思議に思って、指で首をなぞれば、どろりとした感触が残った。
 深く抉り取られた肉の狭間から、人々に恵みを齎す泉のように、鼓動にあわせて滾々と鮮血が溢れ出す。
 それはまるで、さきほどまで流れ続けていた涙の代わりを果たすかのように、止め処なく止め処なく。
 その時になって、ようやく白銀の感覚が痛みを主へと訴えた。
「違う。まだ、こんなものじゃない」
 何が『こんなものじゃない』のか、言葉にしながら白銀は分かってはいなかった。
 心に負った傷の痛みなのか、それともあの男たちが抱える痛みなのか。それとももっと違う誰かが抱える痛みなのか。
 そしてそれが過去なのか現在なのか未来なのかさえ。
 立ち上がることを放棄していた膝に、力を込める。暫くの間、抵抗するようにがくがくと振るえた関節は、やがてゆっくりと白銀に一歩を踏み出す強さを呼び戻す。
 世界は変わらず、漆黒に染め上げられたまま。
 ただ止まらない血が、微かな温もりを白銀に伝えていた。
 立ち上がり、凛と前を向き胸を張る。
 手の甲で頬を拭うと、ざらりとした感触。それは何度か擦ることで、ようやく白銀から消え去った。
『自ら修羅の道へ踏み込むか……』
 先ほど白銀を嘲笑った声が、再び白銀の鼓膜を僅かに揺らす。その響きに明らかな侮蔑が混じっていることを知りながら、真紅の薔薇と同じ艶めきを纏わせた唇が描いたのは、嫣然とした曲線――至上の微笑み、アルカイックスマイル。
「俺はこの先、何度となく間違うだろう。封じたはずの悲しみに負け、甘い誘惑に乗ることもあるだろう――けれど、それは今じゃないんだ」
 流せる涙は全て流した。
 否、これからも数知れぬ涙で頬を濡らすことになるだろう――それは確信。
 けれど、それでも立ち止まったままでは、何も変わらないから。
 変わらないとしても、変えようと努力するのは自身の自由のはずだ。例えそれが気休めであろうとも。
 ぐっと、唇を噛み締める。ぷつりと切れた新緑の芽よりも柔らかな皮膚の下から滲んだものが、口内に錆びた鉄の味を広がらせた。
『理解の範疇を超える。愚かな……』
「愚かで結構。そうじゃない人間の方が少ないんだ」
 鉛のように重い足を、前に押し出す。
 決して軽くはないそれが、白銀の心が真実に晴れたわけではないことを如実に表していた。しかし決意を心に秘めた少年は敢えてそれに気付かないふりをして、何もない漆黒の天を無限に広がる空と同じ色の瞳で、まっすぐに射抜く。
「俺は認めない――こんな現実。絶対に変えてみせる」


 ゆるゆると目を見開く。
 最初に視界に飛び込んできたのは昏い天井。見慣れたそれは、自分が寝室のベッドに横たわっている状態だ、ということを白銀に認識させた。
 ずきり、と背中が鈍い痛みを訴えている。
「あぁ……今日は新月だったか」
 肩肘に上半身の体重を預け、ゆっくりと身を起こす。質の良いスプリングは、軋むことなくその行動をそっと支えた。
 鼓動と同じリズムを刻み、肩甲骨の辺りを中心に、鈍い痛みが肩一面に広がっていく。
 既に慣れてしまった痛み。
 原因は、謎の翼。厳密に言うと、燐光を放ち新月の夜にだけ浮かび上がる、翼のような痣。
「………先見……か」
 肩膝を立て、腕で抱きこむ。眼前で開いた手には血の跡どころか、小さな傷一つ見当たらない。おそるおそる触れた頬も同じ、さらさらとした手触りは、湯上りの状態をそのまま保っていた。
「望んでもいないのに視るなんて……随分と厄介な」
 ぽつりと呟き、ゆっくりと瞼を落す。けぶるように長い銀の睫毛が、部屋に差し込む僅かな星の光で、白い顔に影を落した。
 先見――季流の当主だけが持ちえる能力。精霊の加護を受け、夢を渡りこれから先に起こる出来事を視る異端の力。本来なら、決められた手順をきちんと踏んで、ようやく視る事が叶う特別な夢であるはずなのに。
「それだけ、俺自身の問題ってこと――なんだろうな」
 今にも潤み出しそうな目頭をぐっと押さえて、自嘲気味に心を吐露する。
 憶えている、夢で視たこと。これから先に起こる事。
 でもそれは疑惑が確信になったに過ぎなかった。
 それなのに、ほんの少し思い返すだけで胸を押し潰さんばかりの狂おしさに精神を支配されそうになってしまう。
 夢の中で、あれほどしっかり誓ったことなのに。既に心は砕け散ってしまいそうなほど、無数のひびが走ってしまっている。
「……泣くな、泣くな……泣いてる場合じゃないはずだ」
 夢の中で口にした言葉を、もう一度繰り返す。
 それに今泣き出そうものなら、隣室で眠る彼が異変を察知してやって来るに違いない。それはなんとしても避けねばならなかった。こんなぐちゃぐちゃな顔を、彼に見せるわけには行かない――見せたくない。
 ずくん、と背中が一際強い痛みを訴える。
 けれどそれは心が上げる悲鳴に掻き消され。
「愚か者でいいんだ……足掻け、俺……」
 唇が間違うことなくその言葉を発するように、冷えきった指先で誰かの温もりが残されている気がするそこをなぞる。
「……季流白銀、今お前に出来ることをしろ」
 言葉に力を込めて、ゆっくりと顔を上げた。結っていない癖のない髪が、さらりとまとわりついていた肩から背中へと流れ落ちる。
 それはまるで、溢れることを禁じられた涙の代わりのように。
 白々と東の空が明るみ始める。
 苦しい夜明け、光の見えない夜明け。
 それでも少年は顔を上げ、絶望から派生する数え切れない未来を自分の手で選択していくしかないのだ。
「……泣くな。諦めるな……俺はこんなこと認めやしないからな……」


 それはまだ先の話。
 少年の心の中でほんの少しだけ燻っている火種が、わずかに燃え出す頃の事。
 今はまだ眠っている。
 声の主が誰なのか、翼の痣が何を意味するのか、何がこれから先に起こるのか、何を得て何を失うのか。
 まだそれら全ては闇の中。
 先見の夢にさえ現れ出でぬ、深い場所にひっそりと身を潜めている。

 始まりは絶望から。
 しかし未来は何一つ定まってはいない。
 あるのは無限の選択肢だけ。