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霧里学院怪奇談−寂しがり屋の夜想曲−
【-】
あの絵は、あの人の魂なの。
月宮は過激派だわ。退魔剣匠といって、彼の目的は滅神を解放させる事。
異界存在に対抗する切り札だなんて、そんな思想、学院にとっては悪夢でしか無い。
人の命を何とも思わない犯罪者!
『滅神って……何……?』
闇。それは恐ろしい闇なの。
あの人でさえ、その為に命を削られて行ったの。その闇が、学院を覆うような事になれば……。
『……う……ん……、……え……と、……じゃ……取り返せば……良いんだよね、月宮から……絵……、』
月宮の強さは半端じゃ無いわ、そう、彼の剣も、……意思の凶悪さも。
──大丈夫、任せて、……と彼は笑った。
美雪は何故? と目蓋を伏せた。
何故、あなたはそんなにして私に手を差し伸べてくれるの?
『……だって、……君……が、一番、苦しそうだから』
……何て人。
『もしかして、……寂しい? ……恋人だったんだよね、……その絵を描いた人……、……もう、居ないんだろ……?』
……そうね、……寂しいのかも知れない……。
『だったら、──……返してあげなきゃ……ね、……君に……』
【0】
──叶わなかった、と思った。
せめて力の及ぶ限りの空間だけは滅神の力を防ごうと、水の結界を張り巡らせる事に意識の全てを注いでいたセレスティ・カーニンガムの、黒い視界がホワイトアウトしようとしていた。
その意識の隅、彼の聴覚の一部が捉えた声は、必死で彼の名前を呼んでいた。
「確りして下さいよぉおお、直ぐに、出ますからねっ、ねっ、セレスティさぁん、しっかりいぃぃぃぃぃ……、」
「……、」
──うわぁぁぁぁあああん……、
──情けない事この上無い、然しどこか愛すべき響きの泣き声は、誰の物だっただろう?
──死なないで下さいよぉぉおおお、……セレスティさぁあああん……、
「……、」
──意識を失っていたようだ。
どれ程の時間が経過したのか、……身体に残る気懈さから、そう長い時間では無かったと思う。
彼の感覚は常に、物事を「見通そう」としていた。然し、この時ばかりはまるで混線した回線を前に途方に暮れたかのように、世界の形を彼へ伝えてくれる事が叶わなかったようだ。
「……、」
──力強い手の存在を感じた。意識の覚醒が奪われかけたセレスティの身体を、あの黒い霧の手中から逃がそうとする力を。車椅子を押すその手を、最初は夢路かと思った。……が……。
「……、」
──一瞬間の間だけ、目を見開く事が出来たのだ。視界はまるで嘘のようにクリアで、──元来、視力の弱い彼には感じられない筈の光さえ見えたように思えた。
そこに見えたのは、力を失って項垂れた美雪を抱き抱えて、空気全てが抵抗となっているように一歩ずつ、波に逆らうように歩を進める夢路少年の姿だった。──そう、ならばその手は夢路の物では無い……。
その光を彼の目に齎したのは、目蓋に伝い落ちた暖かい雫の効用らしかった。
──頑張って下さいよぉ、死んじゃヤですようぅぅぅ……、
「……三下君?」
【1】
「──セレスティさん!」
「う」
──目蓋を開いたと同時の熱烈な抱擁(しがみ付いて来たと云ったが正しいか?)に思わず発してしまった呻き声が、三下に伝わったかどうかは甚だ疑問である。彼、三下少年は両目からは感激のあまり滝の涙を、口唇からは悲鳴のような歓喜の叫びのような声を発する事に随分と御多忙であったようで。
「良かったです良かったですぅああああああああぁぁん、僕、僕セレスティさんが死んじゃったかと思ったんですよおぉぉおぉおおお……、」
「……ああ、……三下君ですね……、」
「失礼ですが、……君が、私を護って下さるとは思いもしませんでしたよ」
「えぐ」
酷いですよおぉ、と叫ぶかと思えば三下は返事の代わりにそうしてしゃくり上げ、鼻を啜りながら件の見上げるような、──某金融業者のCFに出演する真っ白い犬のような──饒舌に物を訴える目でセレスティをじっ、と見詰めた。
「おや」
「えぐ、……えぐえぐえぐ、……だっ……てぇえ、して貰って、嬉しかった事はぁ、他の人にもしてあげなさいってぇ、……えぐえぐえぐえぐ、へんちゅうちょぉは云わないけどぉ、学校の先生は云うんですよぉぉぉ(←お前は一体何年生だ)……、」
「三下君」
三下は堪え切れず、とうとう「うわあぁぁぁん」と両腕で顔を覆って絶叫した。
「セレスティさんは僕を苛めっ娘から護ってくれたじゃないですかあ、うう、うぅ〜、嬉しかったんですよぉ、だから、僕もお返しにセレスティさんを護るんですぅ〜!!」
「……、」
「セレスティさんが死んだらヤなんですようぅぅぅぅ、」
──何となく、この状況で彼が現れない事も当然だと納得出来た。如何に本人が非力な、華奢で小柄な少年だと云えども今のセレスティの傍らにはこれほどまでに彼の身を案じ、護ろうとする強い意思の存在があったのだ。
真摯な思い遣りの感情は、無意識下のセレスティにもいつの間にか──大丈夫だ、という心の支えとなっていたらしい。だから、セレスティも外に助けを求めなかったのだ。だから、今この場に居るのはセレスティの他に三下少年と、夢路、美雪だけ、と……。
「──ここは?」
セレスティは俄に、涙でぐしゃぐしゃになった三下の泣き顔から意識の焦点をその背景へと移した。──和造りの武張った部室、──覚えがある。夢路の所属する古流武術部の部室だ。以前訪れた事があるにも関わらず、既視感を覚えないのは外の空気がその時とはあまりに違い過ぎる所為だろう。……空が、暗い。幽かに洩れ聞こえるのは叫び声か……。
「……」
セレスティは古い木張りの床を軋ませて車椅子を動かし、出口へと向かった。
──あ、──……あ……、と微妙な時間差を置いて美雪と夢路が声を洩した。それに続いて「あああっ、」と叫びつつ、(在ろう事か今回は夢路少年よりも間を空けてしまった……)慌てて追って来た三下の声が追い縋る。
「危ないですよぉっ!」
「先ずは状況確認を」
「駄目ですってぇぇ!」
心優しい三下少年はセレスティを気遣うあまり、戸口に立ち塞がって「通せんぼ」する。……しようとするが、広げた両手が羽ばたき損なった鳥のようにわたわたと空中を泳いでいるので、既に整然とした思考を確保したセレスティはその脇をするり、と擦り抜けてしまえた。
「ああ〜、セレスティさぁん〜、」
「……!」
立て付けの悪い木戸を、目覚めなりに──この状況下に於いて低血圧も何もあったものでは無いので──精一杯の力で引いたセレスティは、そこに広がった、まるで彼を嘲笑おうとするかのような光景に一瞬間、言葉を失った。
「……何という事を……、」
【2】
──地獄。
地獄絵図、と云えば何となく陳腐な比喩表現に聞こえるが、今実際、彼の目の前に広がっている光景は、そうで無くば何と云えば表せるだろう? ……悪夢の森……。
空が真っ黒に染まっていた。
その空が広がっているのは直ぐそこ、一歩足を踏み出せば自らもそこへ取り込まれてしまうようにも思えたし、闇の中に聴こえる乱暴な叫び声や悲鳴、人ならない者達の存在のあまりに現実味を欠いた気配から、遥か遠い世界の色にも見えた。
あの霧、──展覧会の絵から吹き出した黒い霧が、学院の全てを変えてしまったのだ。
その霧に触れた生徒達は狂気の沙汰の乱闘を始め、肉体の限界を超えるまで暴走する。事切れた後には再び霧がその骸を取り込み、力を得て魑魅魍魎が生まれ出る。
……会場でその様子を目の当たりにしながら、彼等が無事だったのは……或いは、辛うじて一時的に避難したここ、古流武術部部室だけは黒い霧の狂気を免れているのは、単えに水の守護の恩恵だろう。水霊使いも尽力したが、少しでも役に立ちそうな種類を、と数多のミネラルウォーターの種類の内から単純に単価の高価なコントレックスを選んで忘れず持ち込み、水霊使いの身の安全を守り抜いた三下君、君、珍しく偉いぞ。
「──ここに避難するだけでも命懸けだったんですよぉ、周りの人達は滅茶苦茶に襲い掛って来ようとするし、ええ〜、あのぉ〜、そういう人達は美刀さんがやっつけてくれたんですけどぉ、あぁ〜、やっつけるって云っても勿論殺したり……は……してないですよ……、──ね?」
妙に不安になったものか、三下は同意を求めるように恐る恐る、と夢路を振り返った。どうやら、意識を失ったセレスティの車椅子を押している責任の上に豹変した生徒達に襲い掛られる恐怖に被さって例の「オラオラオラオラァ!」──を、見せつけられたかその辺りだろう。確かに、傍から見ていて相手に命があるか否かに自信を持って応とは応え難い。実際には、武術に長けた人間程相手のダメージを最小限に押さえ得る事が可能ではあるのだが。
「……」
こんな事にまで、夢路の返答はスローテンポだ。直ぐにでも「勿論☆」という返事を貰って安心したかっただろう三下の顔色が──さっ──と蒼ざめた。
「……」
急な話題転換で申し訳無いが、作曲にグランド・パウゼ、或いはサイレンス、という手法がある。例えば、エクトル・ベルリオーズ作品番号14番「幻想交響曲」第1楽章。魑魅魍魎を象徴するという半音階の上昇が急激なクレシェンドを伴って音楽が最高潮にまで達した瞬間、全てのパートがきっかり3小節の間、沈黙を守るのだ。その無音状態の不安定な無気味さと云ってはこの上無い。──つまり、だが。
この状況下に於いての三下の精神状態は、そのサイレンスに包まれた瞬間の聴衆そのものであったようだと云いたかっただけなのである。不安が極限に達したか、蒼白になった三下の表情には笑顔さえ浮かんだ。
「あの〜、……美刀〜……さん……?」
「……、……うん」
「うんって、あの、死んで無いですよね、多分、あの人達」
「……、……???」
「あ゛ぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
再び泣き出しそうな三下の絶叫を耳許に一瞬間だけ軽く眉を顰めてから、セレスティは木戸を閉じた。
「──そこは、大丈夫でしょう。夢路君の事ですから、信用出来ます。……ただ、」
「ただ……?」
ほんとですか〜? ──じっ、と未だ不安そうな目で再び車椅子を古流武術部部室の中央へ向けたセレスティを見送りながら、三下が反芻した。
「──あの霧に喰われた方が、居られるようです」
「へ」
「……、」
夢路と、美雪の前へ来た所でセレスティは車椅子を停めた。──霧里・美雪、彼女は今でも、会場でそうしていたように胸元を抑えてやや俯き加減だ。夢路が時折り気遣って背中をさすってやっている甲斐あってか苦痛は幾分和らいだようだが、気分は優れないままのようだ。
「──美雪さん」
「……はい」
掛けられた声に、悲痛な表情で顔を上げた美雪の目に驚きが浮かんだ。恐らく、先ず今回の件について詰問されるとでも覚悟していたのが、思い掛けず穏やかな労りの色に満ちた蒼い瞳の微笑みと、白い華奢な手が差し伸べられた所為だろう。
セレスティはそのまま、指先を美雪の額に触れ、──こめかみ、喉元、肩、と移して行った。心無しか、その指先の白が蒼いガラスを通したような色彩の光に輝いたように見えた。──hish-hish……、雫の跳ねるような音がこの悪夢に囲まれた空間の中で清澄に響いたのは、空耳だろうか?
「……ああ、……」
「少しは楽になりましたか?」
──トク……トク……トク……、
美雪の鼓動が穏やかに変わった幽かな音には、外の壮絶さの中ではこの上無く清澄に耳を済ます事が出来た。
「……、」
少女は麗人の慈愛に満ちた微笑みに、僅かな戸惑いを見せてこくり、と頷いた。──夢路が、矢張り数秒の間を置いて笑みを浮かべた。
「……あ……、……楽になった……? ……良かった……、」
「大丈夫……、……有難う」
「改めて、お話を伺えますか。刻限は刻一刻と迫っているようですので、単刀直入に伺いましょう。……貴女は? そして、あの絵とは一体どういう繋がりが?」
「……絵……、」
「あの霧里の絵には封印が施されていました。月宮の言動から察するに、封じていたのは滅神、あの黒い霧もその封印が解放された事に拠るものと考えます。……所で、憶測で恐縮ですが、美雪さん。貴女はあの絵の封印が弱まるにつれ、御気分が優れなくなって行ったように見えます。貴女とあの絵には、何か連動する物があるのではありませんか?」
「……、」
美雪は、黙ったまま耳許に片手を軽く添え、目を伏せた。
何を隠し通そうとするのでも無いらしい、ただ、何かを想い返すような──懐かしむような愛らしい動作だった。
セレスティは彼女の顔を覗き込んだまま、微笑みの陰に真摯な切実さをも垣間見せた。
「貴女に、そして私心無く困っている人間に助力した夢路君を責める気はありません。──寧ろ、要らない邪魔をしてしまったのでは無いかと心が痛みます」
「そんな、」
美雪は目を開き、慌ててその言葉を否定した。邪魔なんて、──今この時にも、こうして護られているというのに、……この寛大な水霊使いは、一体……。──ついでに、これには夢路少年もが速度は相変わらずアレなまま「ぐーるぐーる」と首を横に振って(いるつもりらしい)いた。──え、僕邪魔じゃないですよね……、とこそこそ、セレスティの陰に隠れて然し外があの闇では逃げ出す訳にも行かずに結局、板張りの冷たい床に高校生らしい体育座りを極め込んだのが、三下。
「──良かった。……その上で、何か私に出来得る事があれば是非、尽力したく思います。貴女も、夢路君も気掛かりですし月宮の行動は黙認出来ません。が、何よりもこの学院の大事を放っては置けません。……ここに居るのは、生徒達、何も知らない、罪無き日常を一瞬にして奪われた子供達なのです」
「……あの絵はあの人の──、」
──ぽつり、と美雪が呟いた。あの人、……誰か。
彼女はそこで言葉を切り、それ以上は続けなかった。然しその声に滲んだ愛おしさから、誰か大切な人間を指すのだろうと思う。
再びセレスティへ真直ぐな視線を向けた時には、彼女の様子は幾分、毅然とした気高さと意思を見せていた。
──そこへ。
「君達、君達は無事か、」
俄に、慌ただしくそう叫んで木戸を引いた人間がいる。複数人。三下が何事か、と悲鳴を上げてセレスティに抱き着いたが、それは霧に死の愛撫を受けた異形と化した者達では無かった。
【3】
「──あなた方は?」
男達の声に応えたのはセレスティだった。
彼等は極普通の人間のようだが、その本質的な立場はセレスティには即座に理解出来た。
退魔士だ。
不安定な空間、それでいて一個の学園都市として人の集う霧里に、有事の際には即守護を、と表向きは学院関係者として監視、警備の為に存在して来た連中。ここへ来て、彼等も彼等なりに尽力して来たものだろう。
「……ああ、君の守護か」
先頭に居た退魔が、──彼もまた『視る』事に長けた人間らしく──セレスティの気配に気付いて目を細めた。
「外は黒い地獄だ。ここの空間には霧に狂わされる事の無い存在が居ると思って駆け付けてみたが、……守護者が居たか」
「及ばずながら。私は学院関係者ではありませんが、以前より度々こちらを訪れて封印の存在を気に留めて居りましたので」
「感謝する」
「いいえ。──申し遅れました、セレスティ・カーニンガムと申します」
霧里の退魔士だ、と手短に男は応え、彼等は陣中で出会った本陣と援軍の代表者のように簡単な握手を交わした。
「外の様子はもう見たか」
「大方の所は」
セレスティの笑みは消え、蒼い瞳は物憂気にくすんだ。──彼の目に見える世界は、この黒い霧のためにすっかりあるべき姿を失ってしまった。
悪夢だ、と吐き捨てた退魔もまた、半ば自分の目が信じられないというように首を振って脳裏に焼き付いた地獄絵図を追い払おうとしているかに見える。
「あの霧だ、全て。あの霧に触れた者は全て変貌してしまう。森の木も、草も、……ああ、空もだ。空も既に霧に覆われて闇しか無い。生徒達は狂気に支配されて死闘沙汰だ」
「どうなさったのです、まさか、殺しはしないでしょうね?」
「未だだ。……未だ……、」
眉を顰めた男の手には、──退魔らしい、異形の者を斬り捨て得る刀が──どこか、月宮の手にしていたものと似た──収まっていた。
「然し、もうあれはどうしようも無い。そうしなくとも自殺行為に出て霧に喰われるんだ。……斬るしかないか、と決断を迫られていた時だ」
ちらり、と男は背後の仲間達を横目で振り返った。相談の最中だったか、同意、と云う視線が複数、返って来た。
「なりませんよ、それは!」
セレスティは静かだが、有無を云わせない強い調子で云い放った。びくり、と──対妖しの闘いに慣れた退魔士さえもが畏れる崇高さが、彼の声にはあった。
「誇り高き退魔士たるあなた方が、何を仰るのです。あなたまで霧の狂気に触れましたか。──お分かりでしょうね、あれはもともと、無邪気な学院の生徒であったという事を」
「生け贄だ、あれ達は!」
屹然たるセレスティの言葉に後ろ暗さを感じたか、歯切れの悪い言葉で男は云い返した。
「その豹変した生徒を喰う事で、霧は、滅神は力を増す。今に見ろ、その結果生まれ出る異界の強大さたるや如何なるものか! 最早手後れなんだ、生徒達を放置すればその分、滅神が力を得る。放逐するには、先ず力の源を断たねば──」
「させはしませんよ」
──つと、セレスティは車椅子より身を起こして意思だけを支えに立ち上がった。
「何を……」
──する、と云う側から、退魔達の身体も視線も、口許にだけ笑みを浮かべたセレスティの煌々と輝く瞳の蒼に縛されたように吸い寄せられた。彼らの口唇から口々に驚愕の声が上がり、セレスティの目の前の男は何をする、と毒吐いた。
「罪の無い生徒を一時の恐れから手に掛けようとするならば、私も手段は選びません」
ここへ来て、ようやくセレスティは目を細めた。
「ならば、どうしろと云うんだ、あの、黒い霧を、異界を! ──月宮の暴挙を!!」
「──、」
セレスティは一旦口唇を開きかけ、然し、背後から飛んだ絞り出すようなか細い声に気付いて黙した。
「……絵を、」
──美雪だ。既に麗人へと強い信頼を寄せているらしい少女は、急を要する事態に野蛮な気配を隠そうともしない退魔士達の前へ、臆せず立ちはだかった。
「……何、」
「絵を封印するの、……そうすれば……、」
「そうすれば、学院は救われ、異界も放逐される?」
「……、元はと云えば、彼を止められなかった私に責任が──」
美雪さん、──セレスティは少女の強い横顔を見遣った。それに応えるように、彼女は屹然と顔を上げた。
「私が行きます」
──と、と、……と、彼女は、呆気に取られた退魔達を後に確固たる足取りで部室を後に、あの禍々しい闇の中へ進むように思えた。──が。
「……きゃあっ!!」
「あっ、あっ、あっ、」
ばたり。
……こうした深刻な場面で、斯様に間の抜けた物音を発するのは一人しか居ない。
「……三下君、」
──自身が幾度となく被害(逆、という説も有り)に遭っているセレスティは肩を竦めた。
「だってぇ、危ないですよぉ!」
「でも、行かなきゃ──」
じたばたじたばた。
取りすがるお荷物基い三下と、振り切ろうともがく美雪嬢。本人達は真剣そのものなのだが、傍目には滑稽でしか無い。突如展開される茶番劇に、退魔達さえすっかり毒気を抜かれたように、部室の空気は一転生暖かくなった。
やれやれ、──溜息を吐きながら、セレスティは軽く三下を窘めた。
「お止しなさい三下君、君の優しい気遣いは分かりますが、そうしがみ付いては彼女の身体に毒でしょう、」
「はぅっ! そうでしたあ〜、あぁ〜、ごめんなさいぃぃぃぃ、」
そして更にずるずると引きずられる三下少年。流石に、美雪が悲鳴を上げた。
「大丈夫、大丈夫だから引っ張らないでぇぇえ、──重い!」
「ぅああぁぁぁ……、──……ん?」
ひょい、と不意に、三下の身体はあっさりと脆弱な少女の腕から引き離された。
君、矢張り何にしても言動が遅いのだよ、──そう夢路君。
「……と……、……俺も行く……から、……だから……」
「……、」
美雪を庇うように、ぐるりと部室へ視線を巡らせた夢路の沈黙に、既に慣れたセレスティはともかく退魔達は固唾を飲んで二の句を待っていた。
「……だから……、……ええと……ん……んー……、……大丈夫」
「──君は!」
ふと、退魔士の内一人が声を上げた。彼の指は失礼にもびし、と夢路の焦点のあやふやな夢路の目を指していた。
「君は、古流武術部の美刀・夢路君じゃ無いか!? ──噂には聞いていた、普段の言動は亀の歩みにも勝るとも劣らないスローモーションでありながら、一度戦闘の場に立てばその強さは彼の核燃料で稼働する戦闘ロボット並とも、或いは北斗七星を司る某戦士にも匹敵する別名『オラオラ』の美刀・夢路!」
「何!」
──お約束通り、ざわめきが。
「そうか、貴様か、展覧会会場で警備員に紛れて護衛に能っていた仲間を『オラオラオラ』と跳ね飛ばしたのは!」
「あー……うーんと、……多分、……そう……かな?」
「おのれ、仲間の敵(←死んでねぇ)!」
「お待ちなさい、シナリオが違います」
全く、この場で冷静なのはセレスティただ一人である。否、逆に目の前で展開される遣り取りのあまりの下らなさが却って、麗人に客観的な一言を云わしめたとも考えられる。
「あ、失礼、つい」
にこり、とセレスティはその退魔士に微笑んだ。分かって頂ければ、良いのです。
「そうだ、君、──是非とも討伐隊へ助力を仰げないか。君が居れば、恐らく魑魅魍魎共さえ赤子の手を捻るようなものだ」
「……、」
──美雪に付いて行くか、退魔達へ協力するか。
にこ、と微笑んで振り返った夢路の答えは知れていた。不意に笑顔のかち合ったセレスティと夢路の間に、珍しく意志の疎通、基い暖かい視線が交錯した。
「赤ちゃんの手……捩っちゃ……駄目だよ、……可哀相だから」
「君っ!」
──轟!
俄に、美雪と夢路が揃って飛び出した部室の外の黒い霧が、豪雨のような勢いでなだれ込んで来た。
顔を覆った一同が次に聞いたのは、一旦は飛び出したものの、再び戸口へ引き返して来た夢路のこんな台詞である。
「……あ……忘れてた、……戸締まり」
「……」
──ぱたん、……木戸は閉じられ、霧の流れは止まった。
静寂を取り戻した部室内にどよよん、と浮遊する黒い霧の断片は、セレスティの意思で一瞬にして煌々しく輝く透徹した水飛沫へと転じた。
「──水霊使い……、」
呆然と呟いた退魔へ、セレスティは穏やかな視線は彼達の消えた出口へと向けたままで呟いた。
「……彼……、困っている非力な人を見ては放って置けない、心の優しい少年なのです」
「……然しまあ何つー……、」
「ええ、──私もこの姿を得て久しいですが、その中でも希有な子ですよ」
──さて、とセレスティは一人手持ち無沙汰な三下を視界の隅に、笑みを浮かべた。
「私達はどうしましょうか」
──答えなど、既に決まっている。
──鍵は、彼達。……そして、あの絵。
【4】
臆せず暗い霧の前へ立った水霊使いは、彼の「領域」へ呼び掛ける。
──水よ。
「……私に、道を」
「──ぅわっ!?」
──悪夢の森が、凪ぐ。
黒い霧に覆われていた霧里森に、道が開けた。一条の光にも見える真直ぐなその回廊は、水を司る使者が罷り通る為に。
「……行きましょうか」
ぽかん、と呆気に取られている三下へ暖かい微笑を向け、セレスティは手を差し伸べた。
「ぇええぇえ……、」
「霧も、元は水ですからね」
流石に学院の霧全てを浄化する事は精神力の全てを消耗し兼ねない危険な賭けであったし、また大本の滅神を封じない事には直ぐ、元の木阿弥に戻るだろう。──が、彼等の通り道を開けて貰う程度には。……霧が、その固体を構成する水の元素の性質に従って水霊使いへ跪いたのだ。
軽く触れた三下少年の手は、恐怖で血の気が引いたらしくひやり、と体温が低い。──おや、とセレスティは首を傾いだ。
「怖いですか」
「……怖いですぅ」
「……まあ、……そうですね」
──周囲には、黒い霧の壁を通して滅神に支配され、取り込まれた存在が、魑魅魍魎の耳障りな嘲笑が高く響いていた。聖なる光の道を犯そうと試みる黒い風の唸り声もそこへ反響し、聴覚へ訴える狂気だけでも臆病で弱虫な彼には足の竦む事だろう。
「──では、」
──私は、独りでも行きますよ。
歩み出したセレスティの後ろ姿に靡く輝かしい銀髪に、黒い霧の影は映らない。──彼は、何者にもその意思を犯される事は無い。
「……、」
毅然とした足取りのセレスティの姿は、確実に遠離って行く。──ぅううう……、どうしようどうしようどうしよう恵美さぁああああん……へんしゅうちょぉおおお……、──何でも良いから縋りたい、三下の心の声まで聞こえて来そうだ。
「──待って下さいよぉおおおお!」
「……、」
──にこ、……穏やか、且つ、……ちょっと確信犯っぽい悪戯な微笑を浮かべてセレスティは振り返った。──とてとてとて、覚束無い駆け足が近付いて来る。セレスティがくす、と声を洩した瞬間、がしぃっ、と少年の身体が彼の背中に射撃のコルク玉のような微妙な勢いでひっ付いて来た。
「行きます、行きますよぉ、僕も〜、出来るだけ何かの役に立つように(←無理無理。)一応頑張りますからあ、置いて行かないで下さいよぉ!!」
「──あなたは、」
セレスティは、くしゃ、と軽く少年の散切り頭を掻き回した。
「その存在だけで、──護りたい、と思える存在を身近に感じさせて下さるだけで充分価値のある方ですよ」
──総帥……、……それ、褒めてないじゃん。
それはさて置き。
「行きましょう」
再度、セレスティは促した。──進みましょう、……この光の先へ。
──真直ぐに彼等を導く道、……この先にあるのは、展覧会場……、……あの絵と、月宮、それに美雪と夢路の待つ──。
【5】
「オラオラオラオラオラァッ!!」
「──諄い!」
刀身の細い、退魔剣匠の払った一閃は精悍な肉食獣が獲物を一瞬にして捕らえる時の牙のように鋭い敏捷な動きを見せた。
その切先は、確実に少年の身を切り裂いてしまうかに思えた。──が。
──するり。……腕を(まあ、件の連続打撃を繰り出した後素早く身に引き寄せていたのであろう)身体の前に交叉させていた夢路の、ぼんやりとした焦点の合わない印象の強い瞳は、接触の一刹那前に──喝っ──、と見開かれた。時間の流れが緩やかに変化したような錯覚を起こさせる無窮動の身のこなしで、夢路はその斬撃を躱した。──見切っていたのだ。
「──ほう、」
ひょい、と激派退魔剣匠、月宮・豹の細い眉が片方、驚いた、と云うように持ち上がった。それでも彼の口許に浮かんだ余裕は消えず、彼の刀身を躱したまま間髪入れずに懐に飛び込んだ夢路の姿は、彼の目には適格に捉えられていた。
「──、」
夢路の口唇が、「──オ(以下略)」の形にまで開かれた時だ。同時に、──ニヤリ、と酷薄さを隠そうともしない目で、月宮は笑った。
「……甘いのだよ、……少年」
──花弁を散らすように、夢路の肩から真っ赤な鮮血が吹き出した。
「きゃああああああっ!!」
顔色を蒼白にした美雪が両手で口許を覆った。その隙間から、ガラスの割れる音に似た悲鳴が洩れる。
時間差で夢路の身を切り裂いた真空波の衝撃は鋭かった。辛うじて武術に長けた人間ならではの対処法で、接触面積と衝撃を最小限に抑え得た夢路は悲鳴こそ上げなかったが少なくとも、それほどの血を流しめたダメージは大きかった。
──よろ、……普段ならば、どれほど不自然な姿勢でも空中で静止している事が可能なスローモーション少年、美刀・夢路の身体は勢い良く吹き飛ばされたように床に叩き付けられた。
「美刀君っ!」
美雪は、咄嗟に夢路に駆け寄った。
「……大……丈……夫……、……、」
「どこがよッ!!」
流石にこの時ばかりは、強がって笑う夢路のスローテンポな言葉に美雪の突っ込みが入った。
「あはははははは!!」
狂気じみた金色の瞳をギラギラと輝かせ、甲高い声で笑う月宮の声は展覧会の会場中に反響し、それは黒い霧──滅神と共鳴して大きな渦を起こす。恐怖、怒り、嘆き、悲痛──悪感情の渦、あまりに大きな醜い闇。
「壊れる、──今直ぐだ、封印は完全に解き放たれる!」
──月宮の仰いだ天、天井の高い展覧会の会場はどこか大聖堂を思わせた。然し、その空間を腕に抱いているのは神の慈愛では無い。──こんな、醜いだけの歪んだ闇を、黒い霧を吐き出し続けるだけの絵を聖堂の中心に据えた自らは司祭にでもなった積もりなのだろう。月宮・豹……。
彼の目には見えている。この会場の外でも、狂気に触れた生徒達が血を流すのが。魑魅魍魎を討伐しようと奮闘する嘗ての同胞達、退魔達が──尤も、彼は誰を友とも思った事など無かったが──、其処此処で血の流される度に確実に封印が弱まり、恐怖の発生に息を飲むのが。
「……痛い……、……い……た……、」
──夢路を庇っていた美雪も、今までに無い程の激しい苦痛に胸を抑えて項垂れてしまう。──そんな哀れな少女の姿など、滅神と同調した月宮の意識には入りもしない。
「……もっと、……もっと血を! 未だ未だ足りないぞ、血が! 滅神を解き放つに充分な血が、未だ流されていない!」
──もっと死ぬが良い、叫ぶが良い、血を流せ! 封印を破壊する為に!
「──哀れな人間だ」
──月宮の耳障りな高笑いを止めさせたのは、透き通った声、……清廉な水音に似た。
「……カーニンガム、」
忌ま忌ましい、とでも云いたげに月宮は振り返り、吐き捨てた。──折角の楽しみを望外されたとでも。
対するセレスティの、微笑さえ浮かべた白皙の美貌はあまりに穏やかで、その事は月宮の不快感を更に煽ったようだ。
「──折角、このまま恐怖の波の勢いで封印を大破出来ると思ったものを、」
──そんな、光をここへ持ち込むな。
「……どこまでも邪魔な人間だ」
「お言葉ですが」
にこり、と笑い掛けながらながらセレスティは軽く首を傾ぎ、片手をすい、と持ち上げて真直ぐに月宮へ指先を向けた。
「──私は、人間では無いのですよ。無論、当らずとも遠からずですが」
「……何をほざく、」
「……残念でしたね」
「何が!」
「──本当は態々あなたにお教えする事でも無いと思うのですが、少し、悪戯が目に剰りますので。特別ですよ」
「……、」
──月宮の苛立ちが頂点に達しようとした瞬間だ。
笑みを浮かべて細められていたセレスティの目に、静かな怒りが輝いた。
「あなたなど、未だ未だ小賢しい。──水の扱いに関しては、人魚たる私の方が長けているつもりですよ」
「……な……、」
──……SPLASH!!
「あ……──、……」
不意に響き渡った水音、水面に飛沫の輪が爆ぜたようなその音は、透徹した、涼やかに聴こえた。──が、狂気の者には、月宮には不意打ちの嵐のような恐怖を刹那の内に与えた事だっただろう。
「……、」
──彼が、自らの力と勘違いして周囲に侍らせ、誇示していた黒い霧。それはセレスティの指先から意思を受け、蒼い水滴のトラップと化して月宮の身体を捉えた。自由を拘束された彼の身体は一度、狂おしそうに退け反った後、糸の切れた操り人形のように音も無くその場に崩折れた。
「……うわ……、」
こそこそ、とセレスティの後から様子を伺っていた三下が感嘆の声を上げて目を瞬く。
「……彼のような思想犯にはね、──」
月宮の倒れ伏した身体を捉えたセレスティの蒼い瞳には、永き時を生きた者に特有の寛容さ、慈愛、慈しみや優しさの中に、──だからこそ、護るべき存在へ手を伸ばす悪感情には……。
「──私は、容赦はしませんよ」
三下へ見せた微笑みと、その視界に捉えた夢路と美雪へ向けられた声に、曇りは無かった。
【6】
「悪戯が過ぎましたねえ、」
最早、月宮の身体の自由はセレスティの手中にあった。彼の側へ歩み寄った所でセレスティは片膝を付いて身を屈め、揺らぎの無い目で思想犯の屈辱に歪んだ表情を見下ろした。
「……尤も、……あなたも、ただ弱い人間であった、……それだけの事だったのでしょうけれど、ね。あなたの弱さが、権力への強い憧れが、滅神に同調し、こんな残虐な行為を引き起こさせた。──哀れなのはあなたも同じ事です。……何故、と問うてもあなたには理由など無かったのでしょう? そう、あるとすればただ、それだけの事」
──余地があるならば、……そう、弱い者には、私は手を差し伸べもしましょう。
「……貴様、」
「おや」
どこまでも滅神への信仰を捧げ、セレスティへ罵倒の言葉を吐こうとした月宮を認めたセレスティは軽く眉を持ち上げた。──月宮が、足掻きながら、それでも長刀を掴んで斬り付けようとした手はいとも簡単に再び、水の檻に絡め取られる。今度こそ、壮絶な悲鳴が上がった。
「……水霊使い、……成り損ないが、何を、……、」
セレスティは肩を軽く竦め、ゆっくりと立ち上がった。──何とでも罵倒するが良い、彼の意に従う水は、月宮を捉えて再び自由を与えはしない。
「……油断した、……まさか、滅神の霧をも操るとは、」
「……だから、申し上げましたように。水の扱いならば、私の方が長けているつもりだと」
──そして、月宮は後にして、と──月宮を縛しても、絵の封印は未だ一先ず美雪達へとセレスティは歩を進めた。
一応頑張りますから、と訴えた通りにか、彼等には三下が付き添っていた。
「夢路君の傷は、」
「ぁう〜、……痛そうです〜、」
「──見れば分かります」
殊更冷たい調子で答え、三下がますます狼狽えた所でセレスティは苦笑した。
「大丈夫ですよ。……見せて頂けますか、……さあ、直ぐに楽になります」
スローモーションな夢路が自分から見せるのを待つ間は無いので、セレスティは「失礼」と彼自ら夢路の肩に手を触れ、傷を塞ぎ、彼の体内の血の巡りを正常へと戻す。
「……あ」
「未だ痛みますか?」
「……んー……、……いたくないよ……」
「何よりです」
──然し、美雪は……。
「胸が痛みますか?」
未だ、胸元を抑えて喘いでいる美雪を覗き込んだセレスティは軽く眉を顰めた。彼女の苦しみは、楽になるどころか却って悪化しているように見える。──顔色が悪い、……存在が今にも立ち消えてしまいそうに、稀薄だ。
「……美雪さん、……、──」
──ああ、……。
美雪の手に触れたセレスティはある事に気付き、合点して目を伏せた。
「……ああ、……あなたは……、」
「……、お願い、……絵を……、」
薄い息で、美雪は然しそれだけは何としても伝えたいと低声で呟く。
「分かりました」
セレスティは安心させるように頷いて見せ、視線を、先ずは周囲に未だ蠢く黒い霧、次いでその中心に吸えられた霧里の絵へと向けた。
──滅神の封印を。
足を踏み出した所で、ふらり、と彼の身体は軽くよろめいた。
「あうあっ!!」
慌てて駆け寄った三下が支えてくれた。まあどうも御苦労様だ。
「……有難うございます。……大丈夫ですよ」
「大丈夫じゃないじゃないですかぁ〜、あぁ〜、美刀さんもそうだしセレスティさんも、大丈夫って云って全然大丈夫じゃ無いんですからぁ〜、」
「……ええ、……まあ」
事の大事と自らの足での歩行に長時間無理をした事と、──黒い霧を、流石にあれだけの負の感情を使役し得る水の力へ変化させた事で肉体的精神的な負荷は確実にセレスティ
に掛っていた。
──然し、最後だ。せめて、あの絵に封印さえ施せばその場で気を失っても良いとさえ思うのだが……。
「……、」
──難しいですね……。
口には出さない。三下が悲鳴を上げるだけがオチなので。
が、月宮如きはともかく、滅神を完全に封印しようとする事は、既に生まれてしまったこれだけの悪夢の力を封印へ集中させる事には、確信が持てなかった。
然しやるしかあるまい、──と……。
「私はただ、異界存在への対抗手段として滅神の力を解放しようとしたまで! 私は救世主だ、私がやらずして、誰が異界を滅ぼせる!?」
「──あなた、」
未だ懲りていなかったのですか、──絞り出すような声で叫んだ月宮を振り返ったセレスティには呆れもあったが、それよりもこの時ばかりは焦りが勝った。
──しまった、……、
「……え?」
月宮の金色の目は、真直ぐに美雪を捉えていた。
彼は、愚かしくも最後の逆転を図ったのだ。絵に近しい美雪の血を滅神の側で流す事に寄って封印を一気に大破しようと。
「美雪さん!」
「あっ……、」
夢路が身を投げ出そうとする。──が、瀬戸際に追い詰められた月宮の放った黒い霧と古伝退魔剣術の方が、速さに勝った。
「きゃあ──…………、」
「美──」
『止めろおおぉぉぉぉぉぉぉ────────!!』
【7】
──月宮の攻撃が美雪を襲った瞬間、何が起きたのかを咄嗟に理解出来た人間は居なかった。
それが、『絵からの慟哭』である事をセレスティが理解したのも、僅かに数秒を置いて後だった。──と云うのも。
「──────!!」
──表記不可能。
恐怖と混乱とで錯乱した月宮の凄まじい悲鳴に、思わず──無論、セレスティだけでなく三下もそうだ──肩を竦める事に数秒を要してしまったのである。
「……な……何なんですかあ!?」
「あれは──、」
セレスティは絵を振り返る。──霧里の絵は、未だ封印の解け掛かったまま、黒一色に覆われたままの画面を現していたが、そこに不意に感じられた存在は……。
「……あなた、」
『止めろ、美雪に手を出すな!』
「……、」
──絵の、作者。
セレスティは目を細めた。銀色の睫の合間にぼう、と光る蒼い瞳が、絵の向こうに「ある記憶」を見て捉えた。
【-】
『僕の魂を、この絵に込めて描く』
画家はそう良い、笑って見せた。──然し、その視線の先の恋人の表情は浮かない。
『……それは、あなたの寿命を確実に縮めるわ』
『じゃあ、どうしろって? 君がそうやって、黒い霧に苦しんでいるのを黙って見てろって?』
殊更軽い、冗談めかした調子で云うのはせめて恋人の苦しみを、気持ちだけでも軽くしてやりたいと願う思い遣りから。
『──止めて』
少女は目を伏せた。──彼女には、見覚えがある。……見覚えも何も……美雪、……彼女は霧里・美雪だ。
『私の為にあなたにそんな事をして欲しくない』
──私は心からそう願った。私の病んだ身体は、霧里の地に発生する黒い霧の影響をまともに受けてしまう。あの人はそんな私を愛してくれて、その為に封印画を描くと。
止めて欲しかった。だって、封印を施しながら絵を描く為にはあの人が命を削らなければならない。
止めたかったけど、……叶わないまま、私は病に倒れてしまった。
それから、あの人がどうなったのかは知らない。
気付けば、私はあの人のアトリエに居た。……随分と永い間、眠っていたみたいな感じ。
ただ、妙に身体が軽いような気はしたわ。でもそれも一瞬の事。
胸が苦しい。
いつからそんな事になったのか、──そう、そこで初めて気付いた。
私は病死した。
そしてあの人は封印画を完成させた。
でも、誰かがその封印を解こうとしている。
だから、私の胸が痛むのだと。
【8】
「……あの人の声、」
「ぅわあああああああん!! 出たああああああああああ!!!」
滝の涙を流しながら、三下少年はがっしりとセレスティにしがみ付いた。
──やれやれ、折角の恋人同士の対面を、……と溜息を吐きながらも、セレスティは三下の頭をぽんぽん、と撫でるように軽く叩きながら微笑む。
「今更ですよ」
「妖怪と幽霊は違うんですぅぅぅぅぅううううう!!」
「幽霊、と云うならば」
セレスティは笑顔を浮かべた視線を、すっかり胸の苦しみも立ち消えたらしい──未だ、絵を見詰めたまま呆然としている──美雪へと向けた。
「そちらの美雪さんとは、ずっと一緒だったではありませんか?」
「へっ」
「……ね?」
──そう、あなたは、もう何年も前に病で落命されたお嬢さんの霊だ。
「え……てー……事はぁ……、」
「……、」
──シ、セレスティは片手では三下の口を塞ぎ、もう片方の人指し指を口唇の前へ立てた。
「お静かに。……折角の再会ですから、穏やかな時間の中で」
「……(むぐむぐ)」
さて、と。
三下が何かを呻きながら頷いたのを認めると、セレスティはそっと美雪の手を取って立たせた。
「行きましょう、……美雪さん」
「……え……」
「あなたの恋人の待つ所へ」
「……あの人の……?」
──セレスティが蒼い瞳で以て指し示したのは、あの絵、──今は未だ黒いが、その向こうには、きっと。
彼女、霧里・美雪の為に自らの命を投げ打ってまで封印画を完成させた画家が、彼女の恋人が、──元の絵にあった通りの、美しい霧里の森に待っている。
【finale】
「──……彼女が絵に触れると、封印画は霧里の美しい風景を取り戻した。同時に、学院の霧は晴れ、生徒達は元の姿に。滅神に魅入られた哀れな男は、黒い霧に溶けるように、そしてそれが引くと同時に消滅。
絵の中へ消えてしまったかに見えた少女だが、恐らく今は絵の中に。恋人達の魂は永遠に、霧里の絵の中に眠り続ける事だろう、──……」
「……どぉでしょぉかあ……、」
高校生、三下・忠が着用している制服が示す通りの職業ばかりもやっては居れないと、本来の忠雄名義で綴った原稿は今現在、読了した碇・麗香の容赦の無い視線に晒されて判決を待っている。──無罪(採用)か、良くて執行猶予(校訂)か、或いは死刑(シュレッダー)か……。
「没」
──死刑確定。即執行。
「へんしゅうちょぉおおぉおぉぉおっ!!!」
哀れな三下は長い足を組んだ碇の足許に跪いて、騒動の直後の徹夜という過酷な労働の末に仕上げた原稿の亡骸をしゅるしゅると浴びて涙する。
「飛び過ぎ。……幾ら何でもねえ、生徒全員がバケモノと化しただとか、退魔がどうだとか、ここまで来るとフィクションにしか読めないわよ。それに、その首謀者? 月宮とやらが上手く霧と一緒に消えて無くなりました、ってのも御都合主義っぽいわね」
「でも本当なんですよぉおおおおおぉ、」
「どうだか」
くるり、とハイヒールの爪先で三下の鼻先を掠めて編集長椅子を回転させた碇は、くい、と持ち上げた顎をこんな殺伐とした中堅オカルト雑誌の編集部には不似合いな来客──リンスター財閥は総帥、セレスティ・カーニンガムへと向けた。
「三下はああ云ってるけど、如何? その場に居合わせたあなたの証言は?」
「嘘は吐けませんからね。証言致しますよ。──然し、」
彼の華奢な手にはやや重い、安物のティーカップをデスクへ置いてからセレスティは苦笑いを浮かべて小首を傾いだ。──彼の視線の先には、原稿の断片を頭からスプレーのように被った少年の惨めな姿がある。
「死刑執行後に証人の発言を許す裁判長というのは、少し厳し過ぎませんか?」
「あら珍しい事、あなた、いつから三下の保護者になったの」
あなたは仲間と思ってたわよ、──三下苛めの。
と、冗談だがきゅ、と持ち上げた片方の口唇の端に言葉を滲ませた碇に更に泣く三下を、セレスティはその子犬の毛並みのような散切り頭を撫でてやる事で慰めた。
「今回は、彼にも幾分助けて頂きましたので」
「──え?」
碇が珍しく驚きに目を見開いたのは、セレスティの言葉にでは無く、「三下が役に立った」という有り得ない事実に、だったようだ。
「一体、何の役に立ったですって?」
「水を、用意して頂きました」
「──はあ?」
「……ね。助かりましたよ、忠君」
「……はあ……、」
碇はセレスティに縋付いて髪をくしゃくしゃにされている三下にこめかみを抑えた後、何を思ったか突如ハンドバッグを引き寄せて中から財布を引っ張り出した。
──ちゃりん、幾枚かの硬貨が高い音を立てて三下の前へ放り投げられた。
「取材費よ。その、あんたが用意して差し上げた水とやらの代金」
「……有難うございます……」
うだつの上がらない平編集員はたかだか数百円の報酬でも、平伏せずには受け取れない。
「──私の自腹よ。……それ、受け取った以上はきっちり、期限内にもっとまともな原稿、上げてらっしゃい」
「へんしゅうちょぉおおおぉおおおお!!!」
「……それとね、さっきの駄作だけど、あの、画家とその恋人の幽霊のエピソードはカットして。あんた、バカ? ああいうセンチメンタルなラストで締めてどうするのよ、少女雑誌じゃないんだからね」
「──……美雪さんと、画家さんの事を書かないでどうやってまとめれば良いんでしょぉおお、」
月刊アトラス編集部を後に白王社の廊下をとぼとぼと歩きながら、三下は車椅子越しにセレスティに他力本願な助言を求めた。
「……そうですねえ、難しいでしょうね」
「ですよねっ、ですよねっ、無理ですよねっ!!」
「ですから、頑張って下さい」
爽やかな麗人の笑顔と激励の言葉に、三下の表情が、消える。
「──でも、碇女史のお言葉はご尤もな事かも知れませんよ」
不意に、笑顔から悪戯っぽさを消してセレスティは呟いた。
「そうですかあ?」
「……だって、ね」
──セレスティは目蓋を伏せ、軽く天井を仰いだ。
そうして彼の見通す世界の片隅に、ささやかな情景が映った。
美しい霧里森、そこには──。
「……折角、2人一緒に安らかな時間を得たのですから。そっとしておいて、第三者が水を注すように書き立てるのは慎んだ方が礼儀かも知れません」
──ぶつぶつ、……何かを低声で呟き続ける三下には未だ不満が残るようだ。……否、不満よりは当面の、この記事をどう書き直すかという現実問題か……。
──さて。
白王社の建物を出て後は、……携帯電話にメールで神聖都学園怪奇探検クラブの連中から呼び出されたと思しく駆け足で放課後の学園へ向かった三下と別れたセレスティは目の前に横付けされたリムジンの前に立つ青年を認めて苦笑いを浮かべた。
「……態々、迎えに来て頂いたのですね」
表面上、恭しく頭を下げて後部座席のドアを開ける神経症な秘書の表情の険しい事。──監視の如くこうして「お迎えに馳せ参じ」られても仕方の無い事か、とセレスティは肩を竦めた。
心配はしないようにと連絡を入れて置いて、あれだけの目に遭って帰還したのだ。
「──君、怒ってらっしゃいます?」
「いいえ」
──その素っ気無い言葉が、耳に聞こえる声はどうあれ「勿論です」と物語っているでは無いか。
くすくす、とつい忍び笑いを洩してしまった事で、セレスティは「怒っているでしょう」と2度、訊ねてしまった事になる。
「──怒りません、……ただ、総帥が無事ならば良いだけの事で」
「……、」
彼が、自ら運転席へ乗り込む為に一旦車を離れた間に、セレスティは穏やかな低声で呟いた。
「……護るべき存在が待つ限り、私は消えはしませんよ」
黒皮張りのシートに委ねた身体は、流石に未だ疲労を訴えていた。
「どちらかへお寄りになられますか」
運転席のドアが開いた。乗り込んだ秘書の問いに、セレスティの口許が綻んだ。
「……そうですね、」
──先ずは、彼女の許へ。
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