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死人<しびと>の神 闇の桎梏<しっこく> 〜 追憶の天使 〜
●章前
鏡に映ったその人の面影は、
ひっそりと識域下に沈んだ遠い記憶の眠りを揺らす――。
誰ダッタカナ?
――思イ出セナイ‥
でも、きっと知っている人。
だって、心がこんなにざわめく‥‥
会イタイ人?
――ソレトモ、待ッテイタ人‥?
ああ、誰だっけ‥
もどかしくて、切なくて
覗き込んだ鏡面に映っているのは、
少し気難しげに眉を顰めた自分の眸。
超低速のヘアピンカーブから、短いストレートコースをフルパワーで一気に駆け抜け、立体交差へ。
世界的にも珍しいコンクリートの陸橋が作る薄闇を潜り抜けるその瞬間――
神の啓示が、見えるという。
●桎梏の闇の中で
何かがいる。
蒼王・翼(そうおう・つばさ)は暗がりの中で目を凝らした。
物理的な質量さえ感じる深淵の闇。右も左も、前も後ろも。自分が立っているのかどうか、重力の感覚さえ麻痺させる漆黒に、肌が粟立つ。
神に叛いて地に下った闇の眷属たちを追い<無>に還すのが、「天才レーサー」と将来を嘱望される少女のもうひとつの‥‥そして、真実の顔。
闇の狩人である翼にとって、闇は恐れるものではないはずだった。――時には、安らぎさえ感じる世界であるはずのその場所が伝えてくるのは‥。
じわじわと翅翼を広げ浸透していく重圧は、紛れもない畏怖。
感じているのは、恐怖だろうか。
伸ばした手の先さえ見えぬ厚い闇の帳<とばり>を隔て、翼の前に対峙するそれ。これまでに彼女が狩り取ってきたいかなる者とも異なる冷たく、そして、冒しがたいまでの高貴な存在感。
ただそこにいるだけの、静かな視線に圧倒される。
コイツニハ、敵ワナイ――。
本能的にそれを悟った。
少なくとも今の翼の能力では太刀打ちできる相手ではない‥‥その器量を測れないほど、鈍くはないから。
強く張り詰めた緊張に、冷たい汗が背中を濡らす。足元から這い登る密やかな冷気は実感ではなく、あるいは、震えが呼んでいるのかもしれない。
周囲に気をくばる余裕さえなく、ただ身を強張らせ神経を研ぎ澄まして目前の闇を凝視する翼を見つめ、それは嗤った。
密やかな笑みがくつくつと闇を震わせ、耳に届く。繊細な神経を逆撫でされる不快と屈辱に、頬が熱くなるのを自覚した。
「‥‥貴様は‥」
ようやく紡いだ誰何に、応えはない。さゆらぐ闇が、苦笑を伝える。
戸惑いと怒り、焦りを隠せない脆弱な獲物を前に、面白がっているようでも、また、少しがっかりしている風でもあった。
全てを遮る暗闇のなかで、ひとつだけ確信する。
それは、翼を知っていた。
――そして、翼もそこにいる“誰か”を知っている。
全てを包み押しつぶさんと広がる深遠の畏怖の中に、喩えようもなく懐かしい匂いがしたから。そこにいるのが、何者なのか‥‥確かに知っているのに、思い出せない。そのもどかしさも焦燥を募らせる。
一筋の光も射さぬ、桎梏の闇。
囚われの雛を眺める視線は、ただ、淡々と――。
狩人としての経験と裡なる声が、危険を告げた。少しでも隙を見せたなら、それは一片の躊躇いも呵責も感じることなく牙を剥き、翼を闇の底に沈めるだろう。
ただ、対峙するしか術<すべ>はない。――それさえも、相手の掌中で足掻くのに等しい行為なのだけれども。静かに降り積る沈黙が張り詰めた細い銀糸を脆うく撓め、翼を消耗させていく。
どれくらいの刻が経ったのか。
睨みあいに飽いたのか、あるいは興味を失くしたのかもしれない。ゆるゆるとそれは翼から視線をはずした。
まるで汐が引くように深く閉ざした闇が、薄れる。
「‥‥ま、‥待て‥っ!!」
呼び止めたその声は、乾いた口に張り付いて。
思い出したように闇の彼方から這い出したそれは、翼という魂の輝きを確かめるかのように掌に乗せ眺めると、また深遠の淵へと戻っていった。――人ではなく、魔と呼ばうには余りにも強大な。
敵?
それとも‥‥
密度を薄めた闇の先に、微かな光が見えた。
●追憶の天使
遠くで誰かが呼んでいる。
微かに聞こえる程度であったその声は、薄れる闇とともに次第に大きく、はっきりと耳に届いた。
「‥‥‥しっかりしろ、蒼王‥っ!」
「――翼さん、目を開けてっ!」
聞き覚えのある声。
うるさいな、と。少し辟易しながらも、そちらに向かって闇を手探る。
ぽつりと遠くに見える小さな光は踏み出すごとにその明度を増し、やがて、眩いばかりの白い世界へと翼を導いた。
「蒼王っ!」
「翼さんっ!!」
はっきりそれと判る呼び声に揺さぶられ、翼はぱちりと眸を見開く。
ピットクルー、レースクィーン、チーム監督といったレーシングチームの面々が、心配気に覗き込んでいた。
「‥‥僕は‥?」
起き上がろうとした翼を、クルーの1人が慌てて止める。
「ああ、まだ大人しくしていた方がいい」
どうやら、ピット内の簡易ベッドに寝かされているらしい。
休憩中に眠ってしまったのか。あるいは、事故ってしまったのか。――皆の反応から察するに、おそらく後者であるようだ。
大人しく枕に銀色の頭を沈ませて、まだぼんやりと霞のかかった思考の中で記憶を探る。
立体交差を突き抜けたその先に――
圧倒的な畏怖と存在感をその身に纏い、狂おしいほどの漆黒に鎮座する闇の支配者。
あれは何者だったのだろう。深遠の淵にて翼を待ちうけ、それでいて、引きずり込もうとはしなかった。
ただ、その存在を確かめるかのように、興味深げに彼女を眺め。そして、また闇の狭間へと姿を隠す。
いずれ狩り取らなければならぬ敵の予感と、ひどく懐かしい闇の匂い。
瞼を閉じて、それを想う。
既に輪郭さえ形にならない闇の視線は、いつだったか覗き込んだ鏡面に映った遠い記憶の面影に重なった。
=おわり=
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
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☆2863/蒼王・翼/女性/16歳/F1レーサー兼闇の狩人
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■ ライター通信 ■
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《ロードヴァンパイアですら謁見できない人物》にどうやって会わせるか。なかなかまとまらずに遅くなり申し訳ありません。――ラスボス(?)が街中にいるのも威厳に欠ける気がしましたので、臨死体験という形をとらせていただきました。
F1パイロットに必要なスーパーライセンス。国内B級以上は取得資格が18歳以上という規定があるらしいのですが‥‥カートじゃなくて、F1なのですよね?(ちょっと悩んでしまいました)。
存在だけで他を圧倒する神の気配が表現できれいればよいのですが。お気に召していただけると幸いです(尚、「●●参照」は禁じ手ですので、依頼文を書く際にはお気をつけくださいね)。
(21/Apr/04 津田茜)
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