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『献酬』〜 追憶の天使 〜
●章前
鏡に映ったその人の面影は、
ひっそりと識域下に沈んだ遠い記憶の眠りを揺らす――。
封じていた思い出と、
閉じ込めていた悲しみに、胸が騒いで‥‥。
ふとした瞬間、
何気ない動作のひとつひとつに想いが溢れる。
積み重なる年輪に色褪せることなく、鮮やかに。
――あるいは、いっそうの輝きをもって心を惑わす‥。
止まった刻<とき>に囚われる
愚かなことだと理解<わか>っているけど。
それでも、どうしても確かめたくて。
おそるおそる覗き込んだ鏡面に映っているのは、
少し気難しげに眉を顰めた自分の眸。
鏡を覗き込んだのは出来心。
愛想のない鉄筋作りの古い雑居ビル。申し訳ばかりの応接セットと、事務机一つに棚が少々――野暮としか形容しようのないその空間に、余りにも場違いな骨董品。
少し重量を感じるアンティークゴールドのボディに、可愛らしい天使の彫金。
いかにも女の子の喜びそうな小物が、くたびれた部屋に置かれる不自然に笑ってしまった。
「お前の趣味か?」
たっぷりの揶揄を込めた来生・十四郎(きすぎ・としろう)の問いに、事務所の主は顔を顰めて。
「知らん」
憮然と、ひとこと吐き捨てた。
あるいは不用意だったのかもしれない。
久しぶりに記事が当たって、まとまった金が入った。――半年かけて調査して、ようやくひとつ。
努力が形になるこの充実感と満足感が堪えられなくて、危ないヤマに手を出してしまうのだろうか。
解決の報告と、助力の礼なんてモノを兼ね。殊勝にも手土産など持参したのは、やはり少々浮かれていたのだろう。
●割烹【安藝】
草間興信所から地下鉄で二駅。
似たり寄ったりのくたびれた雑居ビルの1Fに、その店はある。
朝、築地で仕入れた魚の種類でその日のメニューが決まる割烹で、値段も時価と懐具合が苦しいときはなかなか入り辛い店だが、主の人柄と出される料理に足繁く通う客も多い。
厨房に面したカウンターと3つのテーブル席があるだけの手狭な店内は、この日も既に仕事帰りのサラリーマンで賑わっていた。――来生の知った顔も、何人かいるようだ。
「おや、来生さん。そろそろ見える頃じゃないかって、噂してたところですよ」
頭に白いものの混じり始めた初老の店主は、カウンターの端に腰掛けたいっそ凶悪と形容したくなるほど目つきの悪い痩せぎすの男に、穏やかな笑みを向ける。
「久しぶりに金になる記事が書けたんでな。――今日は何があるんだ?」
政界ゴシップから芸能スキャンダル、風俗情報に三面記事、そして、オカルトにいたるまで。下世話なネタに時折、真実を織り交ぜて何かと社会に波紋を投げる『週間民衆』の記者であることは言ってはいないが、隠してもいない。
まっとう(?)な職についていないらしいことは、手櫛の跡さえ見当たらないぼさぼさの頭に、汚いシャツ、膝の抜けたジーンズ姿で推測できるが。
先付けに出された“このわた”に箸をつけながら、とりあえずビールを頼む。
「カワハギが入ってるよ。桜鯛が終わって‥‥関西の方では、そろそろ鱧が出回りはじめてるらしいね」
店の名が示しているように、主は広島の出身であるそうだ。
東京の真ん中で関西風というもの変な話だが、地方出身者の多いこの街ではそれほど珍しくもない。
「じゃあ、カワハギ‥‥太刀魚、マグロも欲しいな。あと――」
ビールを運んできた作務衣姿の女将からガラスのコップを受け取り、来生は手酌でビールを注ぐ。
大酒のみはいつものことだが。
今夜はことさら酔っ払いたい気分であった。――そして、いくら飲んでも酔えないという予感も心のどこかに。
●酔客
その客がいつ店に来たのか、残念ながら記憶にはない。
飲み始めた時、隣には誰も居なかったから、おそらく後から来たものと思われる。
記憶力には少なからず自信があるのだけれど‥‥
いつの間にかカウンター席の来生の隣で運ばれてくる料理に箸を付けつつビールを飲む客の存在が気になりだしたのは、いい具合に酒が回り出した頃合だった。
23、24歳といったところか。こざっぱりした身なりの若いサラリーマン。――取り立てて見栄えの良いわけでもないのだが、見覚えがある。確かに知っているのだが、不思議なことに思い出せない。
記憶のその部分にだけ靄がかかったようで、落ち着かなかった。
今の流行からは少し遅れた型の背広をきちんと着こなした真面目そうな男であるが、男前かどうかは‥‥微妙なところだ。
そういえば、背格好は自分に似ている。
いや、むしろ――
思い当たったその人物に、さすがの来生も思わず愕然と顎を落した。
そんな、馬鹿な。
――いや、しかし‥
まじまじと見つめる視線に気付いたのだろう。
男はふと来生へと顔を向けた。
似ていると思う。だが、記憶は相変わらず曖昧で、確信とは程遠い。――何よりも、それがありえないコトは、来生が誰より良く知っていた。
「‥‥なにか‥?」
怪訝そうに問われ、慌てて首を振る。
別に相手にインネンを付けたいわけではない。――目つきが悪いのは生まれつき‥‥いや、今の環境がよろしくないのか‥‥。
「ああ、いや。‥‥ちょっと知り合いに似ていたのでな‥」
すまん、と。素直に詫びた来生に、男は特に気にした風もなく肩をすくめた。そして、ビール瓶を取り上げると、来生のグラスに酒を注ぐ。
「お近づきの記念に一杯」
「‥‥どうも‥」
どうも違和感が拭えない。
5歳近くは年下であろう相手を前に、喩えようのない苦手意識にちくりちくりと首筋を刺され、来生は納まりの悪い髪をくしゃくしゃとかき回した。
記憶にあるその人と、一緒に酒を飲むのは初めてではないはずなのに。
禁じられているとはいえ、今時、ビールを飲んだことのない高校生は少ないだろう。――そして、もちろん。来生は「お酒は(煙草も?)ハタチになってから」なんて標語を遵守するほど殊勝な未成年ではなかったのだが‥。
記憶にないのは、忘れているから?
ずっと友達のような関係の続く女姉妹<きょうだい>とは違い、男兄弟は成長するに従って距離を置くようになるという。
全ての兄弟がそれの法則に当てはまるワケではないだろうが。‥‥少なくとも、来生と兄の関係はそうだった。
当時も今も、それを不思議だとか、つまらないとは思わなかったが。ただ、時々、惜しいなと思うこともある。
ゆっくり酒を酌み交わす機会を得ぬまま‥‥。
来生が大人になるのを待たず、兄は鬼籍の人となったのだった。
注がれる酒が、なにやら苦い。
――やはり、今夜は酔えぬらしい‥。
●追憶の天使
二日酔いで頭が痛い。
青白い光を放つディスクトップのモニタを前に、来生はぼりぼりと髪を掻きむしる。
酔いつぶれて眠ってしまい、目覚めた時には店に男の姿はなかった。
結局、彼が何者だったのかは、判らぬままで――。
思い出そうと深く探れば探るほど。
面影は遠く、記憶は霞む。
手の届かないその距離に苛立つ自分と、妙に納得している自分を同時に自覚する。
せっかくの体験なのだから。
是非、これをネタに興信所の紹介記事でも書いてやろう。
まったく、誰の仕業か知らないが――。
「‥‥お節介め‥」
呟きが本心であるかどうか、は‥‥本人だけが、知っている。
=おわり=
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
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☆0883/来生・十四郎/男性/28歳/三流雑誌「週刊民衆」記者兼ライター
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■ ライター通信
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依頼の性質上、色々なPCさまの過去に触れられる美味しいお題であることに気が付きました。――依頼を通して、PCさまの個性を掘り下げるきっかけになっていれば嬉しいです。
お節介な天使が紡いだ再会の演出はいかがでしたでしょうか?
満足していただければ、幸いです。
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