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レム
□オープニング□
<20日(土曜)>
その連絡が入ったのは、小春日和にまどろんでいた午後のことだった。
「春眠暁を覚えず……と言うよりも、冬眠って感じですね」
と、零が感想をこぼした。
確かにそうかもしれない。俺はもたれていた椅子から体を起こした。くわえ煙草から灰が落ちる。
「しゃーない、調査に行ってみるか……」
差し出された資料に目を通す。
思わず、写真を放り投げてしまった。零が慌てて拾い「困る」と膨れた。
写真はひとつの学園。
異常に広い敷地を持つことで有名な「城内学園」だった。幼稚園から大学まで揃う、学問のテーマパークのような場所。
「誰かに同行を頼みます?」
「もちろんに決まってる……まったく、もっと大きな探偵事務所だってあるってのに」
個人経営の興信所には不釣合いな仕事だ。それだけ評価されているのかもしれないが、俺はこの暖かな陽射しの中、惰眠をのさばっていたいと思うのだった。
<報告書内容>
学園内で、学生が机に座ったまま、眠り続ける奇行が発生。
発症している人物は、金縛りのように動かすことができない。
16日火曜現在で、5名。
特筆すべき共通点なし。
あるとするならば、図書館で同じジャンルの本を借りている。
医師から、彼らは眠っている――との報告も有り。
至急、調査されたし。
□物語の始まり ――シュライン・エマ+綾和泉汐耶
モーリス・ラジアル+山藤・天奈
欠伸をしている探偵を横から眺めて、シュラインは唸った。
「そんなんだから、ウチは貧乏なのよ。武彦さんたら、もう……」
「ああ……?」
本人は分かってない様子。怒る気力も出て来ない。それどころか、憎めない鈍行さにシュラインは草間の肩をポンポンと叩いた。
「それから、居眠りで風邪ひかないよう気をつけてね。さぁ、受けると決めたら仕事頑張りましょ♪」
まだ机に貼り付いている草間を引き剥がして、シュラインは手際良く草間の選んだ協力者に連絡を取ったのだった。
待つこと数分。近くまで来ていたという協力者がドアを開けた。
「こんにちは。いにしえ屋の添野律です。何か本のことで困ってらっしゃるとか……」
「ああ、ここだよ。以前、あんたの友人にはたいへーーーんお世話になったもんで」
「コホッ…武彦さん、ちょっとグチが入ってるわよ」
シュラインの指摘に照れたように視線を外した。草間は顔を真剣な表情に戻すと車へと先導した。
「添野さん、電話で伝えた通りだ。――で、この人は?」
律の横に、まるで影のように黒ずくめの人物が寄り添っていた。帽子にサングラスとマスク、コートに手袋。完全防備だ。日の光に怯える吸血鬼の如く。
「同じ古本屋で働いている友人で、山藤天奈ですわ。本のことにはとても詳しいので連れてきました♪」
「そ、そうですか……でも、協力料は――」
「もちろん、1名分でかまいませんわ。飛び入りですもの」
律の背後に花が飛ぶ。草間はのんびりした受け答えにいささか閉口しつつ隣にいる人物を見た。名前からしてどうやら女性らしいが、あまりにも着込んでいるので区別が出来ない。
「さ、自己紹介は車の中で。急ぎましょ」
本題から踏み外しやすい草間。助手兼彼の保護者でもあるシュラインの的確な指示の元、一行は問題の発生している城内学園へとようやく向かい始めた。
「待っていましたよ。医学的にも興味がありますね。草間さんが持ってくる案件にしては」
「最後の一言は不要だ。モーリス」
城内学園の長い壁を過ぎ玄関に到着した。既に医師であるモーリス・ラジアルが、彼の愛車のジャガーの傍に立っていた。開口一番の言葉尻に草間は一瞬渋面し、肩をすくめた。
「この調査、本が原因かもしれないだけに興味深いと思いますが、草間さん……今、私仕事中なんですけど」
背後から声を掛けてきたのは、図書館司書をしている綾和泉汐耶だった。すんなりとした女性で眼鏡が知的さをより際立たせている。
「汐耶さん、あなたにも苦労を掛けるわね」
「シュラインさん。いいんです、もう慣れましたから」
女性同士の意味ありげな頷き合いを目にしつつ、現在の状況をモーリスに尋ねた。
「患者は5名。年齢も上から下まで色々で、統一感はありません。机にうつ伏せになったまま動かなくなったのはほぼ同時のようです」
「なるほど。報告書には眠っていると書いてあったが――」
モーリスは鞄から黒バインダーを取り出し広げた。
「点滴を実施しています医師によると『急速眼球運動』が見られるとの報告がありました。レム睡眠状態だと推測されますね」
「なぁ、あんた。それってどういう意味?」
男二人の会話に入ってきたのは、あの黒づくめの人物だった。声はわずかに細く高い。やはり女性のようだ。
「夢を見てる状態ってことさ。机で突っ伏したまま、みんなオヤスミしてるってわけだな」
「シュラインさん、患者さんのところに連れて行ってもらえますか…天奈は日に弱いんです」
会話を笑顔で聞いていた律が、天奈の顔色に気づいて声をかけた。
「確かにさっきより元気がないわね。わかったわ。武彦さん、私一足先に彼女達を連れていきますね」
「ああ、頼む」
遠く玄関に入って、天奈が帽子とサングラスを取るのが見えた。帽子を取ってもさほど変わらない黒髪。やけに金に光る瞳が印象的だった。
「そうだ、綾和泉も先に行くか?」
「まだ受けるとは行ってませんよ。……しょうがないですね」
汐耶は軽く溜息をつくと、眼鏡を人差し指で持ち上げた。
「学園の方から、館長の方に私を借り受ける旨の連絡入れてもらえる様根回ししてもらえませんか? 『研修』『出張』名目でたまに、曰く付の本を引き取りに行く事もありますから」
「頭の回転と切り替えが早くて助かるなぁ」
「誰のせいですか」
肩をすくめた汐耶は軽快な靴音を響かせて、シュライン達を追った。残ったのはモーリス。
「彼女達は図書館に行くのでしょう? なら、草間さんは私と一緒にまずは患者のところへ。共通点を見つけなければ」
「了解。さて、行くか」
全員が学内へと入った。俄に空が曇り始めたことを知らずに。
□這い出す者あり ――モーリス・ラジアル+綾和泉汐耶
「あら、モーリスさんもこちら?」
「綾和泉さんもシュラインさんと図書館に行かれたのかと」
「すぐに行きます。でも、まず確認しておかなければいけないことが2、3あって…」
各教室に分かれて患者が眠っている。動かすことができないため、草間と汐耶、モーリスの3人はずいぶんと歩かされた。初等部、中等部の他に高等部。年齢も性別もまちまちだった。一様に感じられたのは、眠っているにしては苦しそうだということ。眉を寄せ、息は荒い。ひどい者は手足を痙攣させる場合もあった。
「モーリス、どう思う?」
「夢見が悪い――といった感じですね。体が動かない理由は分かりません。本を借りていた以外に共通点はないんでしょうか?」
「そうだ。ちょっと面白いことを聞きましたわ」
看護婦に話を聞いていた汐耶がペンを指で器用に回した。
「読んでいたジャンルは同じ。ファンタジーだそうです」
「他には?」
「特にはないでけど……」
「患者の名前をチェックしてみましょう。何かあるかもしれない」
何か思い立ったらしくモーリスが、机に紙を広げると患者名を書き始めた。
「橘ちさと。佐々木百合。多田葉介。露崎柊悟。岡谷蓮花――以上、5名と」
「で、何があるんだ」
「草間さん、ファンタジーの醍醐味はなんですか?」
「は? 意味が分からん」
モーリスの問いの意図が理解できず、草間は首を傾げた。紙に書かれた患者名をペンで追っていた汐耶が手を叩いた。
「異世界。大概の場合が西洋で、森や湖に城。自然をモチーフにしたものが多いんじゃないですか!?」
「気づきましたか、綾和泉さん。私も書きながら、もしやと思ったんですよ」
草間は二人の会話について行こうと、必死に紙に顔をくっつけた。
「そうか! 患者の名前の中に必ず自然や植物をイメージする言葉が含まれているんだ」
「橘。百合。葉。柊。蓮……どれも物語にはよく出てくるものですから」
「借りられた詳しい本の種類は、シュラインさん達が調べているはずですわ」
それが何を意味しているのかはまだ分からない。けれど、的は射てなくとも近くを差していることは確かだ。可能性を賭けモーリスが数人の患者にハルモニアマイスターと呼ばれる生命の調律能力を使用した。
「これ以上は無理ですね」
意識を取り戻したのは、初等部の生徒である多田葉介ひとりだった。目覚めた少年を目にして3人は驚いた。彼は涙を流していたのだ。草間が肩を揺さぶって叫んだ。
「何を見ていたんだ!? 恐い夢か? 何が見えた!」
「泣いてる…泣いてるの。ごめんね。ごめんね。僕、何にもできない……」
それだけ呟くと、少年は意識を失った。それはレム睡眠への逆行ではなく、極度の緊張から放たれた安堵からのようだった。医師の腕に抱かれて、救急車へと運ばれる。
「他の者には通じない…回復したのは幼さゆえか」
「ラジアル医師! 別の教室――いえ職員室に発症者が発見されました!」
モーリスの呟きを遮るように医師が駆け込んできた。
「倒れている人物の名前は何ですか?」
反射的に問う。帰ってきた答えは、彼らの予想を確信に変えるものだった。
「蔦川良行。28歳、数学の教師です」
「やはり……。ここでは解決できないようですね。シュラインさんと山藤さん? 古本…特にいわくつき本について調べる必要がありますわ」
『蔦』の文字に反応して、汐耶が頷く。
「そうしよう。モーリス、ここにいなくても大丈夫か?」
「ええ。担当の医師に任せましょう。彼らを回復するには図書館に行くのが正道。それにその方が面白そうですからね」
懲りない奴だと、草間が苦笑し足早に3人は図書館に向かった。
おどろくべき光景が待ちうけているとも知らずに――。
□埃と誇りと差し込む光 ――シュライン・エマ+山藤・天奈
入ってすぐに、シュラインは目を見張った。黒ずくめだった山藤天奈が、コートを脱いだかと思うと図書館の中を浮遊し始めたのだ。閉鎖してあるとはいえ、人がいないわけではない。通常とは言えない光景に、司書が椅子から転げ落ちた。律はというと慣れた様子でニコニコと笑っている。
広大な敷地を誇る城内学園。図書館の数もひとつではない。今、騒動が起きつつあるここは学園内でも一番大きな図書館で、持ち出し禁止の書物や重要資料が眠っている場所でもあった。
入ってドアを背にして2階建て構造になっており、1階は一般図書と初等部や中等部用。歴史や専門分野に関しての書物は2階に分類されている。本棚は稼動式のものと固定式のものが併用され、日頃使われることのない高い部分には埃がたまっていた。
西側を除いて明り取りの小窓があり、天井からは巨大な地球儀が吊るされている。読書スペースの上には天窓が設けられ、地球儀の影を机に落していた。
驚いているシュラインに気づき、律はちょっと困ったように眉を寄せた。
「ごめんなさい。これから調査する上でやはり言っておかなくちゃいけませんね」
「このこと? もう、よくわかったけど」
シュラインの指差す先で、天奈の姿は透き通り本棚の間を行き来している。
「話しが早いですわ♪ 天奈は本の精霊なんです。もうずいぶん前から人型でいるらしいんですけど、ここの本の話し声が気になるようで」
「本の精霊ね……道理で日の光を嫌うわけね」
「ええ、本人いわく『酸化』するんだそうですよ。でも、人となった今はそんなことないのに、まだ本だったころの習慣が抜けないらしくて」
「あなた、慣れているのね」
律はシュラインの問いに笑顔で答えた。『いにしえ屋』と言えば、どんな本でも買い取ってくれるので有名だ。特に、妖しげな噂がある本なんかも――。
「もしかして……」
「そのもしかしてだね。律は私みたいな本ばっか相手してんのよ。恋人でも作りゃいいのに」
突然、天奈が話しに割り込んできた。シュラインの持っていた眼鏡に半分体が掛かっている。さすがに異常現象に慣れっこになっているシュラインも思わず手をひいた。律は困った笑顔を見せて、咳払いをひとつ。
「さぁ、お仕事しましょう。シュラインさん、患者さんの借りていた本の題名わかります?」
「あ、ああ。分かるよ。これだわ」
『彼方の空に向かう』
『銀烏帽子』
『鳥が届けた物語』
『虹色国』
『果てのない時 海の底の羽』
一様にファンタジーと呼ばれるジャンル。題名から見てもそれと分かる。
「何か気づきません?」
「そう言えば、共通点があるように思うわね」
「なんでしょう?」
律もシュラインも喉元まで答えが出ているのに、最後の一押しが足りない。思案顔に相変わらず2階と1階を行き来している天奈が視界に入り込む。と、ふたりは同時に叫んだ。
「鳥!」
「空ですわ」
目を合わせて苦笑する。
「確かに全て空を連想するわね。それに空と一緒に鳥も浮かんでくるわ」
「あんた。その本の声が一番大きいって知ってる?」
シュラインの発想に天奈が舞い下りて付け加えた。何を言っているか尋ねると天奈は睫毛を伏せ、僅かに拗ねたように呟いた。
「人間は勝手だから……」
「え? どういうことなの山藤さん」
「本はただの文字の羅列じゃないし、心をこめて書かれたものなら尚更、命を持ってる。登場人物は物語の中で生き、風景もまたそこで四季を迎え繰り返していく」
律はよく聞かされているのか、頷きながら目を閉じている。シュラインは興味深く聞いた。本の気持ちを知る機会などそう多くはないだろう。自分の本棚にある本も同じことを考えているかもしれない。自然と耳を澄ます。
「だから、本は本である前に歴史と時間に紡がれた人と同じ心なんだ」
さし込んだ光が僅かに起こる風で舞い上がった埃を光らせる。時間とともに忘れられていく物語。それでも本の中では、時間は繰り返し訪れ人が読むのを待っている。読んだ人が眠ったままでいるのは、本が何かをしたいからなのか、何かを伝えたいからなのか、それはまだ分からない。けれど、本にも心があるならそれを叶えてやれば、患者は目覚めるのではないだろうか。
「こんなところに集めたられたら当然。たったひとつの願いに執着してしまうに決まってる!」
天奈が叫んだ瞬間、図書館のドアが開いた。
□夢幻回廊 ――シュライン・エマ+綾和泉汐耶
モーリス・ラジアル+山藤・天奈
「うわっ、なんで彼女が飛んでるんだっ!?」
「……武彦…さん」
シュラインは思わず溜息をついた。天奈は見るからに機嫌を悪くし、元の姿に戻ってしまった。語るべき口は閉ざされてしまっている。
「これは珍しい光景ですね。主人にも見せたかった」
「モーリスさんまで……。ま、しかたないわ。それより、何か分かったの?」
「シュラインさん! ファンタジーには自然は付き物。患者には名前に植物の名が含まれていたんです」
汐耶がもたらした情報は、先ほどシュラインが得た情報とリンクしていく。
「植物の名を持つ人物に出会って、本はうれしかったのかもしれませんね」
律の言葉に一同が振り返った。天奈が5冊の本を自分の傍に浮遊させ立っている。
「天奈。さっきの続きをお願いね」
「わかった。私は本の精霊。今は人の形をしてるけど、本の一番の理解者でありたいから。人間がどれだけ勝手か知って欲しいしね」
「なんだって? 精霊?」
シュラインが驚きの声をあげた草間に短めの解説を囁く。汐耶は最初から思うところがあったのか、浮遊の理由がわかり納得したようすだった。どの顔も異常現象にはすっかり慣れてしまっているのかもしれない。
「話を戻しましょ。私達の方で分かったことは、5人の借りた本の題名に空や鳥を連想させるものが含まれていたこと。それから、呪いの類ではないということね」
シュラインは胸をなで下ろした。呪いであったならば、一番の解決法は焼却処分ということになる可能性が高い。それは発症者にどんな影響を及ぼすかも知れず、ましてやいつも自分楽しませてくれている本を、そんな風に扱わなければならないのが辛かっただろうから。心から安堵する。モーリスが深い緑の瞳を輝かせた。
「では、山藤さんならこの本の気持ちが理解できる――つまりはレム睡眠に陥っている原因が分かるかもしれない訳ですね」
「なるほど。興味深いですね。よかった。場合によっては私の能力を使ってでも本の内容を解読しなければならない、と思っていたんですよ」
綾和泉汐耶は伊達メガネ。無闇に能力を使わないためだ。封印の開閉能力は本だけに留まらず、人を封印することにも使われていた。本に関しては特に知識が高く、仕事場である都立図書館の蔵書のほとんどを網羅しているくらいなのだ。
「天奈さん、本と話をしてもらえますか?」
モーリスがどこかに気を取られた様子の天奈に声をかけた。
「おかしい……」
「何がおかしいの? 天奈?」
先ほどまで威勢のよかった声が小さくなる。
「添野。あんたの連れはどうかしたのか? おい、シュライン。俺達は何か悪いこと言ったか?」
「いいえ。言ってないわよ、武彦さん。でも――」
「でも? ……こ、これは!?」
その場にいる全員が周囲に起こった異常現象を理解した。本棚から階段、天井の地球儀に至るまですべての風景が歪んでいたのだ。見れば、正常な姿でいるのは、調査していた6名だけ。天奈の浮遊に驚いて椅子から転げ落ちた司書も、風景と同化し揺らいでいく。
壁の白。木製の本棚。床の深緑。すべてがパレットの上でかき回され混ざり合う。そして、ゆっくりと速度が落ちていくと同時に、色は変化し風景を変えていった。
歪みが収まった時、そこは別世界だった。
「まるでイギリスのフォーマル・ガーデンね」
「そうですね。これはイチイの樹ですし、綺麗に整えられていますから」
、植え込みの枝を手に取り、汐耶がシュラインの意見にうなづいた。
フォーマル・ガーデンは幾何学的な植え込みで歴史的に古い庭園迷路だ。中央には神話の生き物が宿る洞窟があることが多い。化石、骨、貝殻など自然鉱物でつくられた洞窟には、『グリーンマンが洞窟から飛び出して鍵を開けます。足早に通り過ぎて下さい』などと刻んであったりするのだ。
「これはハンプトン・コートの迷路によく似ていますよ。なるほど…まさにファンタジーの王道というわけです」
モーリスの言葉に律は周囲を見まわした。整えられた樹木が美しい曲線を描いて立ち並び、密に茂っている葉の間からは向こうを覗くこともできない。背丈を裕に越え、確かに不思議の国のアリスに出てくる庭に似ていた。見えるのは透き通った青空だけ。
「鳥……同じ方向にむかってる」
「天奈さん、ここは本の中なんですよね。なにか感じません?」
「ここは物語の中だと思うけど、私の力も届かないみたいだ。たぶん、ひとつの話じゃないだと思う。それより、あんた空を見て」
汐耶は空を見上げた。太陽はなく、白雲だと思っていたのは鳥の群れだった。
「あの少年は誰かが泣いていると言っていましたね。この奥にその人物がいる可能性が高い」
「ええ。この迷路自体、その人物の迷いや苦しみを表しているのかもしれないですね」
一方向に向かう鳥。それに続く迷路。飛ぶことのできない天奈は、すでに歩み始めていた。本の精霊である以上、自分の手で解決したいと急いでいるようでもあった。
「モーリスと汐耶の言う通りだな。シュライン、ここの抜け方を知っているか?」
「どうだったかしら……」
「左手を壁につけて歩くんですよ。ハンプトン・コートの迷路はこの方法で必ず抜けられます」
モーリスは庭園設計者である。リンスター財閥の庭を主の趣向に合わせ、四季折々の花々で飾っているプロだ。庭園の基本であるフォーマル・ガーデンの法則を知っているのも当然なのだ。
一同は、天奈の後を追うように歩いた。能力は発揮できないと言っていたが、やはり同じ本であるせいか天奈は道を間違うことなく先を歩いていた。
俄に空がかき曇る。それは迷路の中央辺り。鳥はすべてそこに舞い降りていた。
「あそこらしいな」
「武彦さん、急ぎましょ。私達も現実世界では発症者と同じ状態になっているはず」
どのくらい歩いただろうか。近づいては遠ざかる。無論それは迷路の基本だ。どの顔にも疲労が見えた。天奈だけは歩き出した時と同じに軽い。追い付こうと律は足を早めた。
「きゃっ!」
「危ない……。添野さん、大丈夫ですか?」
汐耶にもたれかかるようにして、律が転んだ。逸る気持ちとはうらはらに足がついて行かなかったのだろう。
「足を痛めてますね。私が背負いましょう」
立ち上がった律の動きを見て、モーリスが律に進言した。一度は断わったが、丁寧にお願いされ律は背負ってもらうことにした。
「ごめんなさい…モーリスさん。重くありませんか?」
「羽のようです。お気になさらずに。むしろ、光栄ですよ」
頬を染めた律を天奈が面白いものを見せてもらったと笑った。どうやら、律は鈍く照れるということがないらしい。シュラインはチラリと草間の表情を横目で覗いた。代わり映えのない顔。「あれくらい積極的ならいいのに…」シュラインは声にならない溜息を漏らした。
一向の前に広い空間が突然開けた。律の表情を楽しむためか、先頭から最後尾にいた天奈なが走る。
「あれ! 物語の主人公だ」
「……まさに、ですね」
汐耶が絶句したのも無理はない。そこにいたのは絵本から飛び出してきたかの如く金髪碧眼の皇女。金の冠には数多くの宝石。緋色のドレスが大理石の白に映える。
周囲の樹木には白い花が咲き誇り、白馬を象った像には蔦が絡まっている。その側で皇女は泣いていた。
『誰も迎えに来てくれないのです……』
カナリヤの鈴音。誰ともなく呟く姿の周囲に、草間は発症者を探した。夢に巻き込まれた自分達がいるということは、当然彼らもいるはずなのだ。
「あそこ!」
シュラインの声に目を向けると、5体の石像。動きを止めた人間の姿。すべて発症者だった。
『わたくしのせいなのです。皆さんは助けようとしてくれたのに……』
モーリスが優しく律を下ろした。律がよろめきながら近づこうとした時、皇女が叫んだ。
『触れないで! お願い…わたくしに触れれば、あの方達のようになってしまう』
「それは魔法なのか? あんたに術をかけた奴はどこにいるだ! 私が倒してやる」
『あなた……そう、あなたも本の中にいたのね。わたくしに呪いをかけた魔女は死んでしまったのです…もう永遠にこの魔法は解けない』
天奈が本の精霊であることはすぐに分かったらしく、皇女はわずかに微笑んだ。しかし、それも一瞬。長い睫毛を伏せ、涙を零した。
「だから泣いていたというの?」
シュラインが側に立った。触れることはできないが慰めたかった。物語は人の能細胞が生み出した架空の幻。けれど――。
「女性の涙は見たくありません。泣き止んでもらうには、その呪いを解くほかはないようですね」
モーリスが珍しく取り乱した。泣かれるのは苦手らしく皇女から視線を外した。天奈は異質な気を感じていた。それは同じ文字から連なるカンのようなものだったかもしれない。
「呪いの力が宿ってるのはその冠だよ。誰か壊して!」
「わかるの!?」
中央に巨大なピジョンブラッド。しかもキャッツアイだ。
「わかるよ。私もずっと前に感じたことのある悪意の塊。お願い、この人を助けてよ」
「了解しました。手を触れずに元に戻すのが私の能力ですからね」
モーリスが手をかざす。彼の金髪が舞い上がり、深い緑の瞳が輝く。涙を流した皇女の頭上で光りが破裂した。眩しさに誰もが目を閉じた。そして、何かが落ちる音が耳に入った。
「終わりましたよ」
「これが呪いなの……?」
汐耶が拾い上げたのは、冠から抜け落ちた赤い宝石――いや、赤い木の実だった。
「物語は植物と同じ、人の心に宿り育つ。熟しきってしまった実は毒となり、物語を食いつぶしてしまうんだ……」
「天奈……。私が皇女さまをお送りしてもいい?」
律が切なそうに呟いた天奈の肩に手を置いた。天奈は皇女の悲しみと同時に、死んでしまった魔女の悲しみも感じているのかもしれない。律の手にそっと自分の手を添え、天奈は小さく頷いた。
「皇女さま。ご自分の物語にお戻り下さいね。私がお送りしますから」
ようやく触れることの出来た手を取って、律が祈る。変化は何もなかったが、力が注がれたように皇女の長髪が艶やかに輝いた。背中に白い翼が広がっていく。皇女は小さな白い鳥になった。
「帰っていくわね……。私達もすぐに戻れるわ。ほら、発症者はもういないようよ」
「なるほど。終わってしまえば、面白い出来事だったな」
草間が肩の荷を下ろして笑った。シュラインもそれに準じる。おぼろげに姿が消え始めた時、天奈が言った。
「あの図書館にはたくさんの本が泣いているよ。だから、読んで欲しい。こんなことが二度と起こらないように……」
「わかったわ、山藤さん。とりあえず人数はいますしね、草間さん」
「ええっ! 俺も読むのか?」
「当然でしょ。武彦さんがリーダーなんですからね」
モーリスがふたりのやり取りに目をやって苦笑した。その笑みを微かに残し、庭園迷路は現実の図書館へと変貌していった。
□エピローグ ――シュライン・エマ+綾和泉汐耶
モーリス・ラジアル+山藤・天奈
「これ、全部読むのか……?」
「もう、武彦さんたら。約束したことは守らなきゃ」
「うむむ……」
山と積まれた本を目にして眩暈すら起こしそうな草間。シュラインが笑いながら椅子を勧める。
「草間さん、まだまだありますよ。よかったら、喫茶室を解放してもらえるよう交渉しておきましたから、どうぞ」
「気がきくわね。汐耶さん、コーヒーをもらえるかしら?」
「私が煎れてきますよ。シュラインさん、読むのが早いんですから数をしっかり稼いで下さいね」
律がトレイを用意しつつ言った。
「たまには読書三昧というのもいいものですよ」
「モーリスさん、ありがとうございます。これで本も静かに眠れますわ」
ドアを出ようとした律を捕まえ、天奈がニヤリと笑った。
「すぐに戻ってきなよ。あんたは、これを読むんだからね!」
「まぁ、逃げたりしないわよ。……どんな本なの?」
「もちろん! 恋愛小説だ!!」
律が絶句するを一同が苦笑しつつ眺める。天奈はどうにも律の恋愛が気になって仕方ないらしかった。
ドアが閉まると再び始まる静かな時間。
ファンタジーの山が、図書館を剣士やドラゴンの闊歩する世界へと誘う。
時は物語。物語は心。
人と文字。綴られていくことで、残っていくのは素晴らしい夢の記憶。
□END□
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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+ 0086/シュライン・エマ /女 / 26/ 翻訳家&幽霊作家+
草間興信所事務員
+ 1449/綾和泉・汐耶(あやいずみ・せきや)/女 / 23/ 都立図書館司書
+ 2318/モーリス・ラジアル /男 / 527/ ガードナー・医師・調和者
+ 2574/山藤・天奈(やまふじ・たかな) / 女/ 999/ 古書店店員?
+NPC/添野・律(そえの・りつ)/女/23/古書店「いにしえ屋」店員
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■ ライター通信 ■
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体調管理不足で納品が遅れてしまい申し訳ありませんでした。ライターの杜野天音です。
「レム」は如何でしたでしょうか?
さすがに6名のキャラを動かすのは大変でした。日頃、完全個別ばかり書いているので感覚をなかなか取り戻せず、自分の能力不足が申し訳なかったです。なんと、私としては3作目の東京怪談の依頼になります。依頼系は問題をラストで解決に導くのが一番の難点ですね。
シュラインさんは書かせて頂いたのは3回目ですね。草間さんとの仲が気になっていたりします(*^-^*) ちょっと匂わせてみました。
汐耶さんは冷静な観察者といった感じでした。司書をされているのでまさに「レム」にぴったりの方で、動かしていて嬉しかったです♪
モーリスさんには能力の面でとてもお世話になりました。ハルモニアマイスター…素敵な響きですね。うっとり。
天奈さんは、古書店員でしかも本の精霊ということでNPC律の友人という設定にさせて頂きました。物語を展開する上でとても貴重でした。
みなさま、ご参加本当にありがとうございました。相変わらず、前半部分が多めで反省中です……。
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