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おかえり
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そんな都合がいい場所、あるはずないのに。
そう思いつつも、ゴーストネットOFFの掲示板に書き込まれた情報を、一ノ瀬羽叶はもう一度読み返した。
その記事によると、春の夕暮れ刻だけ死者と逢うことが出来る橋があるらしい。
『もしもあなたに逢いたい人がいるのなら、「待ち橋」を訪れてみるとよいかもしれません』
そう結ばれた文章の後に書き込まれた住所は、羽叶が暮らす街からは少し離れていたが、足を延ばせぬ距離ではない。
この掲示板の投稿情報には、嘘やでたらめも多い。全てを信じるのは馬鹿げている。
分かっているけれども、羽叶は自分の手帳に「待ち橋」の住所を書き留めた。
そんな都合がいい場所があるはずないのに、信じたいと思う自分がいる。
「待ち橋」があちらとこちらを結ぶというなら、「あの人」に逢いたい。
心から逢いたいと願う人が、羽叶にはいる。
そして出来ることなら……。
羽叶はそっと目を閉じ、自嘲の笑みを浮かべる。
自分らしくないことは、羽叶自身が一番よく分かっていた。それでも可能性があるのならば、それに賭けてみたいと思うほどにこの思いは切実だった。
折しも、季節は春。この街の桜も徐々に蕾が綻び始めている。
羽叶は瞼の裏にまだ見たこともない橋の姿を思い描いた。
──「待ち橋」の桜は、もう花を咲かせているだろうか。
◆
都心からバイクで約一時間。県境に位置する市の、その端に「待ち橋」はあった。
住宅街からも国道からも若干離れた場所であるためか、それとも死者が現れるという怪異のためか、人通りは全くなく、橋はひっそりと夕闇の中に埋没しようとしている。
橋自体はどこにでもあるコンクリート製で欄干だけが金属で出来ていた。経た年月のためだろう、エメラルドグリーンの塗装は所々が錆で剥げてしまっている。
羽叶はその欄干に頬杖をつき、そこから見える景色へと視線を向けた。
赤と青が入り混じる空を、忠実に映す川の水面。
徐々に明度を落としていく太陽の光を浴びて、河川敷を覆う緑は淡い橙色を帯びる。
川の両岸に並ぶ桜並木は今が盛りとばかりに花開かせ、夕陽に映えるその花弁の白は、まるで自ら発光しているかのようだった。
夕陽が生み出す光と影。切なささえも生み出す茜色の光が満ちる情景を、羽叶は目を眇めながら見詰める。
初めて訪れた場所だというのに、何故か懐かしいと感じてしまうのはこの温かな光の色のせいかもしれない。
そういえば、と羽叶は昔のことを思い出す。
夕焼けの中、母と共に歩いたことがあった。
随分と昔のことだから細かい事柄は覚えていないけれども、どこからかの帰り道だったのかもしれない、手を繋いだり、長くのびたお互いの影を踏みあったりした。
もう自力では顔も満足に思い出せないのに、繋いだ手の温かさや柔らかさ、笑い声、そして自分がどれほど母を好きだったか、そんな儚い事ばかりが羽叶の心にこびりついている。
『おかあさん、だいすき』
あんなふうに誰かに無防備に笑いかけることなどもうないと思う。
『お母さんも羽叶が大好きよ』
あんなふうに優しく自分を抱きしめてくれる人はもういないと思う。
──退魔師であった母は、羽叶が五歳の時にその仕事のために、落命してしまった。
今の義母を嫌いというわけではない。むしろ、とても感謝している。自分のような人間を受け入れてくれて。それでも。実母のようには慕えない。
義母だけではない。もう誰も、あんなふうに心から慕うなんてことはできないと思う。無防備に誰かを信頼することなど出来はしない。
『おかあさん、おかあさん、おかあさん、おいていかないで』
今でも時々耳に蘇る幼い自分の声。目を開けない母に向ってどれだけ叫んだだろう。引き取られた家で、寂しさに震えながら何度呟いただろう。
「……お母さん」
羽叶はくるりと向きをかえ、欄干に背を預けると、地面に延びる自分の影を睨みつけた。
自分には似合わないセンチメンタリズムだと思う。 こんな感傷は今の自分には必要ないはずなのに。
それでも羽叶の中にある、あの頃に帰りたいと、母に逢いたいという思いは強い。
「お母さん」
夕焼けの空に、羽叶はもう一度呟いた。
どれほどその場で物思いに耽っていたのだろう。
笑い声がしたような気がして、羽叶は視線をあげた。
陽はだいぶ西に傾き、夜の闇は徐々に濃くなっている。道端に浮かび上がる影もだいぶその輪郭を薄めていた。
周囲に人の姿はなく、幻聴かとほっと息を吐いた途端、再びその笑い声は羽叶の耳に届いた。楽しげな、嬉しげな──子供の声。
羽叶は視線を声のした方向へと……橋の彼岸へと走らせる。
そこには。
母が立っていた。写真とおぼろげな記憶の中にしかいなかった母の姿が、そこにあった。そしてその人の傍らには、無邪気な笑みを浮かべた幼い少女の姿がある。
誰?
目を凝らし、羽叶は少女の姿を注視する。少女の瞳も揺らぐことなく、こちらをじっと見詰めていた。
どこかで見たことがある顔だと思う。利発そうな、少し気が強そうな面立ちの少女。
「……私?」
そこに母と共に立っていたのは、紛れもなく幼い頃の羽叶だった。おそらく母と死別する前の……。
何故母のみならず、過去の自分までもが「待ち橋」に現れるのか。ここは死者が現れる橋ではなかったのか、そんな疑問が頭に浮かぶ。
しかしそれよりも咄嗟に羽叶の心を占めたのは、驚きや懐かしさよりも、ずるい、という感情だった。
母の傍らで笑っている少女。幸せそうに笑っている──もう一人の羽叶。
自分も、と羽叶は思う。自分もそちらに行きたい。母の傍らにありたいと。
「お母さん……!」
声は届いているのかいないのか。母は柔らかな笑みを浮かべたまま、羽叶を見詰めている。
「私も、私も一緒にいきたい」
羽叶はゆっくりと橋を歩きだした。母ともう一人の羽叶に向って。
「もう、いい。もう、いいから。だから、私も連れていってほしい」
彼岸の二人は応えない。
ただ、優しく、柔らかく、愛しげに羽叶を見詰め、微笑んでいる。
羽叶は徐々に歩く速度を速める。次第に、自然と駆け足となった。
「……どうして」
小さな橋だった。「待ち橋」は小さな橋だったはずだ。だというのに、走れども羽叶と二人の距離は一向に縮まない。むしろ走れば走るほど、距離が開いていく気さえする。
「待って」
刻一刻と青い闇が空気を夜のものへと塗り替えていく。まるでそれに呼応するかのように、徐々に橋の向こうにいる二人の姿も霞みはじめていた。夕闇に埋もれるように、二つの影が消えていこうとしている。
「お願い、私を置いていかないで」
叫んだつもりの言葉は、呟きのように小さく弱々しかった。母に少女に、届くはずもない小さな叫び。けれど。
(おいてなんていかないよ)
そんな声が聞こえた気がして、羽叶は足を止めた。
少女が……幼い羽叶がこちらに向って走ってくる姿が見える。
まるで不慣れな場所を走るような、危なっかしい足取りで、飛び跳ねるようにこちらに向ってくる。
(かなしくって、かなしくって、わたしをおいていったのは羽叶のほうだもん)
あと十歩。あと五歩。徐々に少女は近づいてくる。あと三歩。二……。
(もうずっといっしょだよ。もう、わたしをおいていかないでね)
少女が羽叶に向って飛び込んでくる。
その身体を抱きとめようと羽叶が手を広げると、目の前で、光がはじけるように少女の姿が霧散した。
(ただいま、わたし)
声とともに残されたのは、明るい笑顔。彼女は消える瞬間、自分が忘れてしまった、明るい笑みを浮かべていた。
羽叶は力なく、その場に座りこむ。
視線をゆっくりとあげると、橋の向こう側で母が、それは嬉しそうに、愛しそうにこちらを見て──消えた。
◆
気付けば辺りはすっかり夜になっていた。
いつのまにか電灯が灯っていた。
陽光とは異なる強い光が、夜の河川敷を薄っすらと浮かび上がらせている。
羽叶はそっと立ち上がると、闇に埋没しようとする橋の対岸を凝視する。
そこにはもう誰もいなかった。誰かがいたという形跡さえなかった。
それでも。
夢を見たのだと、自分をごまかすことなど出来なかった。瞼の裏に浮かぶ母の微笑。そしてもう一人の自分の笑顔。鮮烈なまでに網膜に刻み込まれた二人の表情が、夢などではないと羽叶に告げている。
羽叶は冷え切った自分の身体をそっと抱きしめる。
(ただいま)
少女の声が耳の奥に蘇る。
「……おかえり」
温かい涙が、羽叶の頬を滑り落ちていった。
了
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
1613 / 一ノ瀬羽叶 / 女性 / 18歳 / 学生
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■ ライター通信 ■
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初めまして、津島ちひろと申します。
このたびはゴーストネットOFF「たそがれ」にご参加頂きまして、誠に有難うございました。
今回はテーマがテーマゆえに、ウェブゲームでありながらお三方ともほぼ完全個別シナリオとなりました。申し訳ありません。
皆様のプレイングと格闘しつつ、とても楽しい時間が過ごせました。
少しでも気に入っていただける部分があれば、とても嬉しいです。
有難うございました。
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一ノ瀬羽叶さま
他の作品を拝見しつつ、少しでも一ノ瀬さまが抱える切なさが表現できれば、と思いつつ書き進めさせて頂きました。実はライター活動をする前からイラストの方を拝見する機会がありまして、こうして自分が一ノ瀬様のウェブゲームを作成できるとは当時は予想だにしていなかったので、巡り合わせというものに少し驚いております。
少しでも楽しんでいただければ幸いです。
機会がありましたら、また宜しくお願いいたします。
今回は本当に、有難うございました。
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