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楽園に花は降る
「おかしいなあ。何だってこうも毎日慌ただしいんだろう」
4月になったばかりのある日。蛇之助はぼやきながらJR吉祥寺駅へと急いでいた。これから草間興信所とアトラス編集部を回って、コピー配布をしなければならないのである。
それは彼が仕える女神さまの、有無を言わさぬ御命によるものであった。
『温泉に行く前に、お花見と隠し芸大会をとりおこなう。参加者募集の広報を例によって大々的にしてくるのじゃ!』
『私だけで行くんですか?』
『わらわは買い物で忙しい。さて、温泉リゾートには何を着ていこうかのう。ふふふ〜ん♪』
――ふう。
あの女神さまの眷属になってからというもの、心休まる日々とは縁がなくなってしまった。
選択を間違えた……とは言わない。言わないが、しかし。
何度目かのため息をつきながら、駅の南口に続く横断歩道で信号待ちをする。
うつしよは、今日は休日であるらしい。春の陽はうららかで、道行く女性たちもそれぞれが、風に舞う花びらのようだ……などと思っていたら。
「あら、蛇之助。ちょうどよかったわ。これから公園に迎えに行くところだったのよ」
行き交う花々の中でもひときわ目を引く一輪が、横断歩道の向こう側から大きく手を振ってくる。
とき流した長い髪が、手の動きに合わせてなびくさまに見とれ、蛇之助は一瞬反応が遅れた。
「え? あ?」
「ちょっと! 蛇之助ってば。私よ、私!」
「しえるさん!」
信号が変わるやいなや走り寄ってきた嘉神しえるは、にっこり笑って蛇之助の腕を掴んだ。
「今、暇?」
「……ええっと。あの、これから都内各所で広報依頼を行う予定でして」
「今日は、女神さまは一緒じゃないのね」
「はあ。何でも温泉旅館の無料招待状をもらったとかで浮かれてまして……。朝から吉祥寺のデパート巡りをするのじゃと息巻いてお出かけになりました」
「ふうん。その招待状って、もしかして私が貰ったのと同じものかしら……。まあ、それはともかく、今、暇?」
「ですから、広報活動を……」
「暇でしょ? つき合いなさい」
「は、はい」
とてもじゃないが逆らえない迫力に、蛇之助は思わず頷いてしまった。
この有無を言わさぬ口調は誰かに似ている――などと思いながら。
あっという間に蛇之助は、京王井の頭線急行渋谷行きに引っ張り込まれていた。
渋谷から山手線に乗り換えて品川へ、さらに京急本線で金沢八景へ、そして金沢シーサイドラインに乗るのよ! としえるは畳みかける。目的地の見当がつかず、おそるおそる蛇之助は聞いた。
「それで……あのう、しえるさん。今日はいったい何処へ?」
「クリオネ見に行くの」
「は……? クリ――オネ? クリオネというと……」
『流氷の妖精』クリオネ。和名ハダカカメガイ。英名シーエンジェル。学名クリオネ・リマキナ。
とっさにそこまで思い浮かんだのは、何を隠そうかの女神も、一時期クリオネにハマったことがあるからだ。
『クリオネはいいのぉ。あの頭の角に見える部分は触手で、顔に見えるのは実はお腹での。頭がかぱっと割れてプランクトンを捕食するときは、天使のような可愛い姿が豹変して本性剥きだしになるのじゃ! そこらへんが辛抱たまらぬ。萌えるのう』
――はああ。
思わず額に手を当てた蛇之助と、にこにこご機嫌なしえるを乗せて電車は走る。
乗り継ぎの終点から徒歩で向かった先は――横浜・八景島シーパラダイスであった。
◇◇ ◇◇
「わあ、桜が満開」
メリーゴーランドからアクアミュージアムへと続く道、その名も『シェルロード』は、手入れされた春の花々で満ちていた。色とりどりのパンジーの上に、桜吹雪がはらはらと散る。
「まだ時期じゃないけど、ここは紫陽花も綺麗なのよ。いつ来ても、四季折々のいろんな花が見られるの」
しえるは手のひらをすっと上に向け、花びらをひとひら受け止めた。
「ここはね、日本に来て初めて家族で遊びに来たトコなの。……不思議だったなぁ。スイスと全然違ってて」
「そうでした、しえるさんは帰国子女でしたね。おいくつのときに日本へ?」
「んーと、私と双子の妹が中2で兄貴が高1だったかな」
中高生だった頃の嘉神兄妹を、蛇之助は想像してみた。
「それは、さぞ愛らしかったでしょうね」
――天使のように。そう言おうとして、蛇之助は言葉を呑み込んだ。天使――クリオネ。
……ちょっと怖い考えになってしまったのである。
「可愛かったわよ。特に兄貴がね。並ぶとモロに3人姉妹に見えちゃって、ここに来たときだって家族でいるってのにナンパの嵐よ。それもほとんどが兄貴狙い」
「それは……なんと申してよいやら」
次第に歩調が遅くなる蛇之助の腕をしっかと掴み、しえるは足を速める。
「さあ! クリオネを見ましょ♪」
絡められた腕にどぎまぎしながらも、蛇之助はささやかな抵抗を試みる。
「あのう、どうしても見なくちゃ……いけません……か?」
「何言ってるの。早くついてらっしゃい」
「は……はい」
抵抗は、瞬殺された。
そうこうしているうちに、ふたりはアクアミュージアム3階に到着した。
特別展示の『流氷の妖精クリオネ』は、大好評につき展示期間延長中だそうである。もともと混み合っていた館内であるが、クリオネの前にはいっそうの人だかりができていた。
「ところで、どうしてクリオネなんですか?」
「だって可愛いじゃない」
「はあ……」
巧みに人混みをすり抜け、しえるはベストポジションに陣取った。満足そうに眺めては、蛇之助を振り返る。
「ね? 可愛いでしょ?」
確かに可愛い。かぱっと頭が割れてプランクトンを食べたりしなければ、であるが。
びくびくしながら蛇之助は、体長2B程度のハダカカメガイを見つめる。
幸いなことに、本日、天使は満腹であったらしい。捕食シーンは見受けられず、シーエンジェルはエンジェルの姿のままであった。
ほっとした蛇之助を、しかしさらなる試練が待ち受けていた。クリオネを満喫したしえるが、新しいターゲットを設定したからである。
「1階の『アクアホール』に戻るわよ。次はカニを見るの」
「か、カニ?」
「そう。世界中のカニを100種類以上集めた特別展よ。題して『かにカニカーニバル2』」
「『2』ってことは、『1』もあったんでしょうか?」
とりあえず、どうでもいいことをつぶやいてみたりする蛇之助であった。
「以前、50種類のカニを集めた『かにカニカーニバル』があったみたいね。1が好評だと2が企画されるのは世の習いよ。さあ、キンチャクガニやミナミコメツキガニやスベスベマンジュウガニを見に行くわよ!」
「……スベスベマンジュウガニ」
これも何となく、かの女神が喜びそうなカニだ。あまり見たくない。
どうもしえるは、女神と似ている部分がかなりあるような……気がする。
「ちょっと蛇之助」
敏感に何かを察知したしえるが、するどく言う。
「デート中に、他の女性のことを考えたりしないでよ。ルール違反よ」
「す、すみません。って、デ、デートなんですかっ? そんな恐れ多い」
「ああもう。もたもたしないの」
照れる蛇之助の腕を、しえるはぐいと引く。
「他にも行きたいところたくさんあるんだから。歌うシロイルカと笛を吹くセイウチと踊るアシカとで結成された『海獣パフォーマーズ』のミュージックショーも見なきゃだし」
「……海獣パフォーマーズ」
それはちょっと楽しそうだ。考えてみれば滅多にない機会であるところの、美女とふたりっきりの休日(注:蛇之助はサボタージュ中)ではないか。今も女神の怒声が脳裏をよぎってはいるが、考えないことにしよう。
蛇之助は口元をほころばせ、しえるに合わせて足を早めた。
◇◇ ◇◇
ひととおり見回った後、ふたりは水族館近くのブーズカフェで小休止することにした。
香り立つ紅茶がしえるの前に、ブラックコーヒーが蛇之助の前に、それぞれ置かれる。
しえるは目を細め、すぐにティーカップに口をつけたが、蛇之助はといえば湯気が立っているコーヒーをじっと見つめたままだった。
「どうしたの? 飲まないの?」
「はあ。猫舌(蛇舌?)なので。もう少し冷めるまで待ちます」
「だったら、アイスコーヒーにすればいいのに」
「でもコーヒーはホットの方が好きなんです」
「……猫(蛇)舌なのに?」
「はい」
ふうん、としえるは笑う。
「そういえば私、蛇之助のこと何も知らないのよね。話、聞かせてちょうだい」
「私の話、ですか?」
「そうよ。いろいろあるでしょう?」
しえるにひたと見つめられ、蛇之助の額に汗が浮かぶ。
「ううん……。しかし私は、さほど波瀾万丈な生き方をしてきたわけではありませんので……。しえるさんに何をお話すれば……」
「あの女神さまの眷属ってだけで、十分波瀾万丈だと思うんだけど。何だっていいのよ、たとえば好きな動物とか」
「ああ動物。それなら」
まだ熱いコーヒーをごくりと飲んで顔をしかめてから、蛇之助は答える。
「うさぎが好きです」
「うさぎ? Haseのこと?」
意外なことを聞いたという顔で、しえるは目を見張る。
「どうしてうさぎなの?」
「だって、可愛いじゃないですか」
「じゃあ、私がクリオネを好きなのと同じね」
「そう――でしょうか。……熱っ」
いっそうの汗を浮かべた蛇之助は、あせるあまりにコーヒーを全部飲み干してしまった。
くすくす笑いながらしえるも紅茶を飲み干し、さぁて、と立ち上がる。
「それじゃ次、行くわよ」
「あ、はい、どこへでも」
今度は『ドルフィンラグーン』か『ペリカンひろば』か。まさか『ウル○ラマンキッズパラダイス』ということはなかろうが、それでも彼女が行きたいと言うのなら、などと思った蛇之助はまだまだ甘かった。
しえるが向かったのは、すぐ近くの絶叫系アトラクション、『ブルーフォール』だったのである。
驚異の高さを誇る垂直型スリルライド。高さ107m、最高速度125km/h、最大加重4G……。
しえるが楽しそうに説明をしてくれたが、聞けば聞くほどに蛇之助は顔面蒼白硬直状態になってしまった。乗る前から失神しそうである。
「あの……しえるさん。申し遅れましたが、私、実は高所恐怖症で……」
「ん? 何か言った? 悪いけど、これ持っててね」
しえるはといえば、いそいそと青いハイヒールを脱ぎ、蛇之助に渡した。
「どうして靴を脱ぐ必要が……」
「足の裏に直に風圧が感じられるから、よりスリリングなのよ。さあ、乗るわよ!」
「□#▼△$……!!!(何か叫んでいる)」
◇◇ ◇◇
フェイント・ドロップ。
落下直後にいったん減速し、安心しかけたところでまたもや猛スピードで落ちていくという、二段仕掛けの演出をそう言うらしい。
それに見事に引っかかった蛇之助は、落下途中で気が遠くなり――
(……あれ?)
気がつけば、視界には暮れかけた空と、広がる桜の枝。
はらはらと落ちてくる花びら。
額に置かれた白い手が、銀の髪を梳く。ほのかに漂う、花によく似た、花ではない香り。
「大丈夫?」
気遣わしげなしえるの声に、蛇之助はようやく状況を理解した。
桜の下のベンチで、しえるに介抱してもらっていたのである。
――膝枕で。
「うわ。ど、どうも大変な失礼をっ」
「いいのよ。気がついたのなら、メリーゴーランドにでも行きましょうか。それなら平気でしょ?」
「はいっ」
花は降る。
幸せな白蛇と、楽しげな天使の末裔の上に。
……よその桜を髪に積もらせて公園に帰った蛇之助は、女神にこっぴどく叱られる羽目になるのだが、そこはそれ、であろう。
Tue Dein Bestes!
――Fin.
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