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<東京怪談ウェブゲーム アトラス編集部>


果を呼ぶ声

<序>

 むせ返る程の香りと共に 頬を濡らすは 紅色の――…

 私はただ 祈る事しかできませんでした
 私もまた その紅色に還り往く身
 この名に課せられた その意味の示すがまま

 礎と なりて

               *

「……なーんか気になるのよねえ」
 ぼそりと低く紡がれたその声に反応するものは一人もなく。
 特に誰に反応してもらいたい訳でもなかった碇麗香は、前髪をかき上げながら眼鏡のレンズ越しに眺めていた数ヶ月前の三流ゴシップ誌から視線を持ち上げた。
 眼前に広がるのは、締め切りを前にバタバタと慌しい編集部内の、まあ……よく見慣れた風景である。碇の言葉に誰も反応を示さなかったのも、自分の手にある仕事に没頭する事の方が優先だからなのだろう。
 部下の三下も、今頃原稿の山に埋もれているのだろう。どこにいるのか姿が見えない。
 ふっと短く溜息をつき、彼女はまたその怜悧な眼差しを、紙面へと落とす。

 ――血の惨劇? 頸無しの少女たち

 そんな見出しが躍る記事。とある小さな村での出来事らしいのだが、何と一週間に一度、その村に住む少女が頸無しの死体となり発見されると言うのだ。
 猟奇殺人か何かとも思うが、それにしては不審な点が三点あると記事には書いてある。
 一つは、その遺体が必ず、少女たちの部屋で見つかる事。
 彼女達は、戸締り等しっかりしてある自室で眠っている間に、どうやら頸を切断されているらしいのだ。
 室内からなくなっているのは、彼女達の頸だけ。
 残されていた胴体は、特に暴れた様子もなく、眠っている時そのままの姿勢で静かに横たわっているのだという。
 白い着物を着た姿で。
 もう一点は、その頸の切断面。
 何か器具を使って切断されたのではなく、どうも何かに噛まれたかのような切断面らしい。
 そして残るもう一点は、被害者である彼女達の名前である。
 共通して、「リカ」――梨果、というらしいのだ。
「……リカ。梨果、ねえ……」
 同じ「リカ」という名でも、他に色々字のつけようもあるだろうに、どうしてその村にはそんな名前の娘が多いのだろうか?
 だが村人達に話を聞こうにも、彼らはその事件に関する事については一切口を開かないのだという。
「うーん……その字面が流行ってた、とか?」
 それとも、何か意味があるのだろうか?
 そう呟いた時、遠くから「碇編集長、お客さんです!」と声が飛んできた。煩わしそうに紙面から顔を上げると、セーラー服姿の少女が、慌しい室内の様子を見て眼を瞬かせているのが見えた。
 腰までの真っ直ぐな長い黒髪。清楚な雰囲気を漂わせたその少女。
 怪奇ネタの持ち込みかしらと、碇は椅子から腰を上げて少女に歩み寄った。
「何か御用かしら?」
 その碇の言葉に、少女はぺこりと頭を下げて、ぽつりと言った。
「助けて、欲しいんです」
「助けて?」
 怪訝そうに眉を寄せた碇。それにまた、こくんと頷き。
 少女は、言った。
「私、若宮梨果(わかみや・りか)と言います。お願いです、このままじゃ私、頸をとられて殺されてしまう……!」
 告げられた言葉とその名前に、碇は眼を瞠った。
「あなた、もしかしてあの村の……?」
「助けて下さい、お願いしますっ。今度はきっと私の番……、このままじゃ」
 縋るように碇の腕を掴み、少女はその双眸から大粒の涙を落として。
「贄にされてしまう……!」
 ――贄。
 その言葉を聞き、碇はすぐさま頭の中で知り合いの顔をいくつか思い浮かべた。
 彼らなら、この件を調査し、彼女を助けられるかもしれない。
 上手くすれば、人助けの上に美味しいネタを拾えるかもしれないと即座に計算し、碇はぽんと、安心させるように少女の肩を叩いた。


<始まりは>

 その日。
 シュライン・エマは、いつもは胸に下げている少し色味の入ったレンズがはめ込まれている眼鏡をしっかりと掛けて事務机に向かったっきり、顔を上げもせず真剣な眼差しで何かをやっていた。
 左手の下には、電卓。
 右手には筆記用具。
 そして彼女が向かっているのは、無数の領収書の山。
 黙々と彼女はその紙片に書かれている数字を、電卓に視線をやりもせず、けれども打ち損じする事もなく正確に叩き込み、その紙片を傍らへ押し遣ってからまた現れた次の紙片に記されている数字を電卓へ叩き込み……という作業を朝から延々黙々と繰り返していたのだが。
 一向に減る気配のない領収書の山。
 更にそこに。
「あ、シュライン、これも頼むわ」
 ぽい、と輪ゴムで纏められた新しい領収書の束が追加されるに至り、それまで必死に冷静を装っていたらしい彼女のそのこめかみに、ビシリと怒りマークが浮かんだ。
「……っっ、武彦さぁぁぁん……」
 低めの、ややドスが効いた声を上げつつ、シュラインは眼鏡を外しながらがたりと椅子から腰を上げる。
 これだけ大量の領収書を発生させておきながら罪悪感の「ざ」の字もないらしいこの興信所の主である草間武彦のそのケロリとした態度に、どうやら堪忍袋の緒がプッツリと切れたらしい。
 不穏な響きを持って室内に響くシュラインのその声に、鼻歌混じりに煙草をふかしながらデスクについてスポーツ新聞に眼を通そうとしていた草間が、ビクリと身動きを止める。が、それも束の間、すぐさままるでシュラインと自分の間に仕切りを立てるかのように、大仰なほどに大きな音を鳴らしながら新聞紙を広げて顔を隠す。
「おお、今日の洗濯指数は100%だと! 今日はいい天気になりそうだなあ」
「……私の心は土砂降りになりそうなんだけど。というか暗雲立ち込めて今にも雷が発生しそうな勢いだったりするんだけど」
「…………。い、いやあっ、し、シュラインさん、コーヒーでもお淹れしましょうかっ。それとも今日は冷たい麦茶なお気分だとか……?」
 スポーツ新聞の向こうから返って来る声に、シュラインは一つ、強くデスクの表面に手を叩きつけた。バンッ、という大きな音にまたしても草間が新聞の向こうで身動きを止めたらしい事を察しつつ、その新聞に穴すら開けそうな程の視線を向け。
「……一体、このゴールデンウィーク中に何やってたのかしらねえ? 豪遊したようにしか見えないんだけど」
「い、いやいや、調査だ調査っ。連休中は調査員もなかなか手配できなくてなー、全部自分でやってきたんだっ、はっはっはたまには仕事に勤しむのもいい事だなあっ」
「……じゃあこの領収書は何?」
 手近にあった領収書を指先でつまみ、つかつかと草間のデスクへと歩み寄ってひらりと新聞紙の向こうへとその紙片を落とす。
「スナックでの飲み代、数万ってどういうこと……? それのどこが調査で、どこが必要経費だっていうの!」
「い、いやいやいやこれはだなあ、その、浮気調査の一環で」
「だったら水でも飲んでたらいいでしょっ! 数万って何っ、数万って! この事務所の台所事情くらい武彦さんもよーくわかってる筈じゃない!」
 それにしても、だ。
 本人、探偵なのだからこれくらいどうにか上手くごまかしたりする気はないのだろうか。
 いつもいつも領収書を整理しながらシュラインはそんなことを思うのだが、当の草間はというと新聞紙を慌てて畳み、ごめんなさいつい出来心で、などと訳の分からない言い訳を始めている。
(何が出来心……)
 もはやツッコむ気力も萎えて思わずがくりとうなだれそうになったところ、電話のベルが鳴り響いた。反射的に素早く手を伸ばし、ワンコールで取る。
「はい、草間興信所――……あら、麗香さん?」
 その声に、おや、という表情で新聞の向こうから草間が顔を覗かせた。それにくるりと背を向けて受話器から零れてくる碇の話を聞き、依頼内容を確認すると、シュラインは了承の言葉を告げて受話器を置いた。
 そして、くると肩越しに顔だけ草間に向けて。
「出かけてくるから」
 ぴ、と指先で自分のデスク上の書類を指差し、
「後はよろしく」
「ちょ……っ、よろしくって、おいシュラインっ!」
「いってきまーす」
 聞こえない聞こえない。
 バッグを手に取ると、シュラインは涼しい顔で事務所を後にした。
 閉ざされたドアの向こう側から「この始末一人でやれってかぁぁぁっ」という草間の叫びを聞いたような気もしたが……聞こえない聞こえない、と自分に言い聞かせて少しだけ振り返り。
「少しは反省しなさい」
 言って、くると頭を正面へ向けた。
 その時。
 突然、目の前に何かがドアップで迫っていた。
 茶色い、のっぺりと笑ったような顔――それは、お面?
「っっ?!」
 一瞬それがなんだかよくわからなかったシュラインは驚きで二・三歩後退ったのだが、その拍子に何かに足を取られたのか、後ろ向けに倒れそうになり。
「あ……っ」
 かすかな声を立てた所、ひょいと腕を引かれて、その謎の物体――を被った人物に抱きとめられた。
 が、礼を言うより何より、シュラインはその人物の顔を覆っている物体を凝視し続けていた。
 そのシュラインの前に突然現れたお面……木製で縦長の、ちょっとへろりとした顔。けれど妙に鼻筋だけは深く彫り込まれていて……というそれは、シュラインが以前アンティークショップ・レンで購入し、某人の元へ誕生日プレゼントと称して送りつけたものだったはずなのだが、どうしてここに?
 瞬きを繰り返しているシュラインの前で、そのお面の下からよく見知った顔が現れた。
「嫌だなぁ、自分で送って来られたのにどうしてそんなに驚くんだろう」
 笑いながらそう言うのは、黒スーツの青年――鶴来那王だった。
「つ……鶴来さんっ!」
「あまりにも素敵な誕生日プレゼントで嬉しくなったので、被ってきてしまいました。ここに来るまでにたくさん変な目で見られまくりましたけど、お面被ってたら素顔見えませんものね。ほら眼に電気も点きますよー」
 いつになく屈託なく笑いながら、外した――どこぞの島で作られたとアンティークショップの店主・碧摩蓮が言っていた愛嬌のある顔立ちのお面を眺めつつ楽しそうに眼に埋め込まれた電気をつけたり消したりしている鶴来に、シュラインはかすかな違和感を覚え、その正体を探るように暫しじっと彼の顔を見つめてから、ふと緩く首を傾げた。
 さら、と。
 少し排気ガスの臭いが混ざる風に揺れる、彼の漆黒の髪。
 今までは肩甲骨に触れるほど長かったのに、その後髪が、ばっさり切り落とされていたのだ。
「……鶴来さん、髪、切っちゃったの?」
「え? あ……ええ、もうすぐ夏ですしね。暑いでしょ、長いと」
 スーツの胸元から何かを取り出しながら、緩く首を傾げて眼を細めてふと微笑み。
「もうすぐ夏なのに、後ろ髪を桜に引かれてばかりもいられないので」
 ――桜。
 クールな物言いだが、その言葉の裡にかすかな痛みを感じ取り、シュラインは少し眼を伏せた。それに彼は、優しい笑みを浮かべ、そっとその頭に手を乗せて。
「でも今はその桜も俺の傍に居ますから」
「え?」
 驚いて顔を上げたところ、ついと目の前に何かを差し出されてシュラインはまたしても瞬きする。
 それは一枚の、写真。
 写っているのは、シュラインと草間、零。そして、シュラインが持っているのは今鶴来が被っていた面。その面の横に矢印つきで書き込まれているのは『鶴来さんと一緒に記念撮影』という文字。
「ふふ、わざわざありがとうございました、俺と一緒に記念撮影。もし自分が死んだら、葬儀の時の遺影にはこの写真の俺を使ってもらう事にしよう」
「やだわ鶴来さん、ただの冗談なのに」
「いやあ、男前ですよねえこの写真の俺。惚れ惚れします。この通った鼻筋がまたなんとも言えず」
「…………、鶴来さん?」
 ……何か、性格変わっただろうか?
 前から腹黒さんだとは思っていたのだが、ここまであからさまに腹黒さをアピールするような事を言う人物ではなかったように思うのだが。
 ほんの少しだけ眉を動かした時、ふと鶴来が微かに左側に向けて頭を傾けて、問うた。
「そういえば、どこかへお出かけですか?」


<ヒント?>

「娘さんの名前、字面が『梨』と『果』ですか……」
 一人で考えるよりは誰かに何か意見を貰った方がいいだろうかと思い、折角現れてくれた事だし、と当たり障りなく鶴来に今回の件について話したところ、彼はぽつりとそんな事を呟いた。
 自分の右頬に手を当てて、シュラインは頷く。
「名前、気になる? 私もね、梨と、あと齧り取られる部分が頸、って事で梨状窩を彷彿としてみたりはしたんだけど。梨状窩瘻って病気とかね」
「病状や病歴については病院でカルテを見せてもらうなりなんなりすれば分かる事でしょうが……それもまあ、素直に見せてもらえれば、の話ですね」
「そうね。随分と閉鎖的な村みたいだから。まあそれは何とかするとして……あとはまあ、本人が贄とか言っているのも気になるし」
 梨といえば、今頃は花の時期であるはず。
 殺される娘の名が、梨の実に相当する事から、秋に実をつける為の受粉、なんて方向でも考えが浮かんでくる。
 建物の壁に背を預けてスモッグで少し汚れた空を見上げるようにして、肩に零れる黒髪に指を絡めながらシュラインが溜息を一つ零す。
「頸がどこにあるか分かればそこに犯人はいるんだろうけど」
「あまり深入りしない方がいいかもしれません」
「え?」
 空から、乱れなくその場に立つ鶴来へと視線を戻し、シュラインは二度、瞬きして少し顎を引くようにして彼を見据えた。
「何か気になるの?」
「……少し、ね」
 言って、彼はスーツの内ポケットから何かを取り出してシュラインに差し出した。
 その手に乗っているのは、少し赤みがかった木で彫られた人差し指くらいの大きさの人形だった。
「お面のお礼です。常に身近に持っていてもらえると嬉しいですけど」
「何? コレ」
 その問いに微かに笑って、シュラインの手にそっとそれを持たせてから、鶴来はその手に軽く自分の手を添え。
「少女が言っている『贄』という言葉。それから『梨果』という名。……神域に近しいモノ、もしくはそれを模したモノ……の仕業かもしれません」
 紡がれる言葉に、シュラインは、そういえば彼の本職は陰陽師だったか、と今更ながらに思い出す。ただの草間興信所に依頼を持ち込む仲介人ではなかった、と。
「鶴来さんには大体の目星はついたのかしら?」
「……例えば……龍、とか。少し思い当たることがあったので」
「思い当たる事?」
「梨の果。少女が贄と言っている点。後は水でもあれば……ヒント出しすぎかな」
 くすっと悪戯っぽく笑い、触れていたシュラインの手から手を引いて、鶴来は興信所の窓を見上げた。
「草間、いるんでしょう?」
「え? あ、もしかして会いに来たとか? 今、泣く泣く領収書の整理してると思うけど、多分」
「……しょうがないな……、手伝ってやろうかな」
 言って、お面を抱いたまま建物内に足を踏み入れようとして、ふと足を止めて振り返り。
「その人形、桜でできているんです。持っているときっと綺が守ってくれますから。……ともかく、調査の際には気をつけて」
 微笑みと共にそう言い置く鶴来に了承の言葉を告げると、彼は小さく会釈をして興信所へと向かう階段へと姿を消した。
 それにしても、だ。
「……龍、ねえ」
 ぽつりと呟き、シュラインは掌に残された小さな人形へと視線を落とした。
 彼がさっき、桜は自分と共にいる、と言ったのは、つまりこういう事なのだろうか。比喩ではなく、こうやって呪術の道具のようにして桜の一部を常に所持する事にしたから、だろうか。
 引きずられるわけにはいかないといいながらも、まだ、しっかりとは割り切れていないのだろう。
 七海綺、と言う名の、少年の死を。
「……それにしても、一体武彦さんと鶴来さん、二人でどんな話するのかしら」
 考えてみたら、今まで彼らが話しているところをまだ見たことがない。
「…………」
 ちらりとその場面を覗いてみたいような気はしたが……。
「仕事仕事」
 その欲求を無理矢理押さえ込むと、シュラインは手にした人形を肩に掛けていたバッグの中へと丁寧な手つきでしまいこんだ。
「それじゃ、行きましょうか綺くん」
 そう、声を掛けて。


<若宮邸にて>

 若宮梨果の家は、村の少し外れにあった。
 比較的大きな古い日本家屋。白い土塀にくるりと周囲を囲まれていて、なかなか立派な構えの門まである。
 家、というよりは屋敷、と言う方がしっくりくる佇まいである。ひんやりとした空気が邸内にはあり、現在調査中の内容とも相まって、なにやら屋敷自体不吉な感じすらする。
「しっかし」
 通された、庭に面した和室で両足を畳の上に放り出し、両手を後ろについて天井を見上げながら、黒い詰襟に身を包んだ黒髪に黒い瞳の中学生、季流美咲(きりゅう・みさき)が呆れたように言った。
「娘が贄にされるかもって時に他の家族揃って旅行とはまあ何ともノンキなもんだよなぁ」
 その言葉に、自分も含めてその場にいる六人分の茶を運んできた梨果が僅かに口ごもる。が、美咲はすぐに天井からそんな梨果の方へと顔を向けて、パッと明るい笑顔を浮かべた。
「知ってる事あるなら、喋った方が色々とラク。隠してんの、しんどいだろ?」
 本当ならこういう調査の場合、口を割らない村人に怯まず地味に情報収集して回るべきなのかもしれないが、そんな面倒な者は、碇に声をかけられた他の誰かがやってくれるだろうからそれにお任せ、と割と気楽な美咲である。その代わり、直接梨果から聞き出せる事があるならさっさと全部吐かせてしまおう、と思っての先の台詞だった。
 笑顔と共に紡がれた言葉に、けれども梨果は静かに美咲から視線を逸らせて、その場に両膝を落として盆から座卓の上へと湯飲みを移動させていく。
 そんな彼女に、庭に面した廊下に立ってぼんやり外を眺めていた、前髪の一部のみ金色に染めた黒髪の青年――香坂蓮(こうさか・れん)が、青い瞳を向けて冷めた顔で言った。
「話さないのなら、こちらを信用していないのだと判断させてもらうが構わないか? 勿論、その場合はお前の命を助けるために手を貸してやる事もできないな」
 紡がれた言葉に、ぱっと梨果が顔を蓮へと向けた。その顔には困惑の色が濃く浮いている。
「そんな……っ」
 けれども蓮は一向に構わず、冷めた眼差しのまま淡々と言葉を継ぐ。
「何も情報を出さずにただ助けてもらおうなどと思ってもそれは甘いだろう。本当に助けて欲しいのなら、助ける為に必要な情報を出してもらわなければ」
 そう言い放った蓮に、梨果を手伝い蓮に湯飲みを差し出した、白いセーラー服に腰までの長いウエーブした栗色の髪が印象的な女子高生、久喜坂咲(くきざか・さき)が僅かに眉を持ち上げて諌めるような表情を浮かべた。
「蓮ちゃん、女の子に向かって言葉キツすぎ」
「…………、そうだろうか」
「そうよ。助けを求めてる女の子にはもっと優しくしなきゃダメ。はい、お茶」
 自分より年下の少女に窘められて緩く首を傾げた蓮の手に湯飲みを押し付けると、くるりと咲は梨果の方へと体の向きを変えた。さら、と髪と後頭部辺りで結ばれた青いリボンが動きに合わせて揺れる。
「でも、梨果ちゃん。もし知ってる事あるのなら、話してくれないと私たちも梨果ちゃん助けてあげられないかもしれないのはホントよ?」
「…………」
 きゅっと、梨果は少し俯いて一度緩く唇を噛んだ。その頬に黒髪が零れ落ちる。
 碇のところへ助けを求めに行った時にはそれなりの覚悟はついていたのだろうが、閉鎖的な空気の漂う村に戻ってきたことで、その心がまた村の結束の方へと引かれてしまっているのだろうか。
 少女二人のやりとりを見ながら切れ長の青い眼を少し細め、額に落ちてくる黒い髪一筋を手でかき上げながらシュライン・エマはそんな事を考えていた。
 勇気を出してアトラスまで行ったはいいが、村へ戻って日常に引き戻されたら、やはり皆が口を噤んで秘めている事を村外の者にぺらぺらと話していいものかどうかと迷いが復活し……梨果自身も揺れているのだろう。
 自分の命と、村とのしがらみの間で。
 そんな梨果の前に咲はしゃがみ込み、そっと両手に自分の手を添えた。はっと顔を上げたその瞳を覗き込む。
「名前は個を示すものであり、形あるものを縛るもの。梨果ちゃんも、何かに縛られてるの? 何に? 恐怖に? それとも、もっと別の何か?」
 もし何かに縛られているのなら、自由にしてあげたかった。せっかくこれからが人生の花、だというのにこんな所で摘まれてしまうのは、あまりにも酷というもの。
 優しく言葉をかける咲に、梨果はもう一度唇を噛み締めた。
 それでもまだ揺れているらしい彼女に、それまで黙って壁に背を預けて片膝を立てて座り様子を眺めていた黒髪に茶色い瞳の秀麗な面差しの青年――相沢久遠(あいざわ・くおん)はその口許に微かな笑みを浮かべた。
 アトラス編集部に来た梨果を、碇に言われてこの村まで送り届けたのは彼である。
「梨果。さっき言っただろ? 助かりたいと願うのなら、全て話せってな。救いを求めるなら他人の力を借りようとするばかりでなく、自分もそれなりに協力する事も必要だ」
 分かるだろ? と笑みと共に言われ、梨果はふっと吐息を漏らした。
 ようやく、彼女の中で何か、決心がついたらしい。
 ことりと盆の上に残っていた自分の分の湯飲みを座卓へと移すと、梨果は顔を上げ、その場にいる五人をゆっくりと見渡し、
「……私に分かる事なら、お話します。だから、お願いします、どうか私を助けてください」
 真摯な顔で言う梨果に、シュラインは彼女のその不安を拭うかのように穏やかな笑みを浮かべた。
「大丈夫よ、そんなに不安がらなくてもね。ともあれ、とりあえずは色々聞かせてもらうわよ?」
「うん、大丈夫。梨果ちゃんは私たちが必ず守るから!」
 だから元気出してね、と明るい笑みを浮かべて、咲がそんな梨果の肩をぽんぽんと叩いた。


<贄少女>

「今まで亡くなった子たちの家族も、その子が死んだ時、旅行に出かけていなかったんです。私の家族も、先日突然旅行に行くとか言い出して……それで、もしかしたら次は私なのかも、って思って」
 畳の上に姿勢よく正座して、梨果はぽつぽつと語った。
 家族がその、事件が起きる日に限って必ず家にいないで旅行等に出かけているのは、もしかしたらアリバイ作りの様なものかもしれないと言い添え、ふっと一つ、またため息をこぼした。
「最初の子が亡くなった時は、私も村の人たちが言うように、ただの病気だと思ったんです。でも、梨果、って名前の子ばかりが続けて……一週間に一人ずつ、死んで行ってるんで……」
 病気ではなく、何者かの意図なのではないかと思ったらしい。
 言葉を区切った梨果に、両手で湯飲みを包んで軽く揺らしながら、シュラインが尋ねた。
「周期は、一週間に一度なのよね? 大体曜日とか決まってたりはしない? 何年かごとに起こるとか、起こり続ける期間とか……そういうのに規則性はないかしら?」
「曜日は、特に決まっていなかったような……。先週は確か、お葬式が木曜に出て……先々週は火曜、だったから……」
 和室の片隅に貼り付けられている水墨画の描かれたカレンダーを見ながら、梨果が言う。
「こういうことが起こったのは、多分、初めてだと思います。だから規則性とかはちょっと分かりません。でも、もしかしたら前にも起きていたかもしれません……けど、誰もそういうこと、言わないし……」
「イヤになるほど閉鎖的だよなあ」
 ヤダヤダこういう因習って、とぼやきながら、ずず、と音を立てて茶をすする美咲にシュラインは困ったように笑うが、すぐさまその眼を梨果へと戻す。
「その名前って、なんかいわれがある名前? 特定の年に生まれた女の子にだけつけるとか、血筋によってつけるとか、そういうのは? なにかこう、他の『梨果』さんたちと共通点とかはないのかしら」
「亡くなった子たちは、皆私と同じ学年の子ばかりです。その年には女の子が村で六人も生まれて。みんな、梨果って名前なんです。不思議だねって、いつも皆で言ってたんですけど」
「六人も近くに同じ名前の子がいたら、呼ぶの大変ね」
 梨果、と一人を呼べば、六人全員が振り返るだろう。
 それを想像しながら言う咲に、梨果が小さく笑った。
「皆、名前だと混乱するから名字で呼び合ってました。私は、若宮だから『わかちゃん』。先週亡くなった子は『高木』だから『たかちゃん』。そんな感じで」
「……若宮って、なんか名前からしてすでに贄ちっくでご愁傷サマとか思ったけど、高木は別に贄ちっくじゃねえなあ」
 さすがにそんな事、梨果の耳に届くようなボリュームで言いはしなかったが、近くに座っていた久遠の耳にはしっかり届いていた。ちらと眼だけを、そんな呟きを漏らした美咲へと向け、軽く横から頭を小突く。
「贄ちっくとか言うな。美咲とか言ったか……お前本当に梨果の事、何とかする気あるのか?」
「おう、それはそれなりにバッチリと」
 ニヤリという笑いと共に返された何となくすっきりしない言い回しの言葉に、やれやれと言うように前髪をかき上げて肩を竦めながら久遠はシュラインと梨果の会話へと耳を向け直した。
 シュラインは、茶を一口飲むと、湯飲みを座卓の上に置いて自分の喉元を指差した。何かを示すように。
「じゃあ何か、梨果さんたちには同じ疾患とかなかった?」
「疾患、ですか? 病気……のことですよね? 特にはないと思いますけど……。みんな一緒に風邪ひいた、なんてこともなかったですし」
 突然出てきたその問いに、耳だけ室内の会話に向けつつ目を庭へ向けたままだった蓮が、引かれたように不思議そうな色を浮かべた視線をシュラインへと移動させる。
「病気、で気になることでもあるのか?」
「んー……梨に、頸……だから、ちょっと気になることがあって」
 曖昧に言うと、シュラインはそれはまた後で、と話を一旦横に置き、ふうと溜息をついて座卓に頬杖をついた。
「うぅん……もし何かが『梨果』さんたちを襲っているのだとしたら、目印になる物があるはずよねえ。それを取り除くとかできないかと思ったんだけど」
「目印っつったら、やっぱ名前か?」
 他につながりが見出せない以上は、多分それだろう。
 美咲の問いにシュラインが頷いた。
「いっそ改名とかして回避はできないかしらね」
 梨果、という名が目印なのだとしたら、それを変えてしまえばどうにかなりそうな気がする。さっき咲が言っていたように、名前が個を示すものだとしたら、それを変える事で目印を失くす事はできないだろうか?
 だが、その案に眉を寄せたのは咲だった。
「梨果、って名前。折角可愛いのに改名なんて絶対に勿体無いわ。それに、多分既に目印はつけられてるんじゃないかな。としたら改名しても間に合わないと思うの」
 家族が梨果を残して旅行に出てしまっていること。
 何か察するところがあったのか、それとも誰か村人の指示なのかは分からないが、次は若宮梨果が死ぬ番だとわかっているから、旅行に行ってしまったのだろう。
 ……娘が死ぬと分かっていても、旅行に行くその神経が、その場にいる者たちには理解できなかったが。
「あ、そうだわ。そういえば、白い着物着て被害者は見つかったっていうけど、その着物って死装束と白無垢、どっちっぽいもの?」
 ぽんと手を打って再び梨果に問いかけたシュラインに、久遠が怪訝そうな顔をした。
「白無垢? 花嫁衣裳か?」
「んー……白い着物、って聞いて浮かぶのってその辺りじゃない? 贄、っていうのも……梨果さんには悪いけど、食べられるってこと以外に、嫁にやる、みたいな意味合いもあるかもしれないと思って」
 そういえば、昔、贄に女を差し出す時にはそういう言われ方をしていた事もあったなと思い、久遠は視線を落とす。嫁にやると言えば聞こえはいいが、実際には命を差し出すわけだから、嫁に行くもなにもあったものではないのだが。
 襟の合わせがどっちだったか分かるかとシュラインに問われ、梨果は考える間もなくあっさりと答えた。
「普通のあわせです。左前とかではなくて。この村の人たち、寝る時にいつも着てますから、白い着物。着物というか、浴衣というか……そういうの」
「じゃあ、とりあえず今日はそれ着て寝るのやめとけ。あ、代わりにオレが着て梨果の代わりに寝たフリしてみよっか? ちょっと愉快かもしんねえ」
 梨果に成り代わるには少し身長が高すぎるが、まあ布団にもぐってしまえば中に誰がいるかなどわかりはしない……はず。気配を読まれでもしたらすぐバレそうではあるが。
 軽い口調で言う美咲に、ふむ、と久遠が頷いた。
「寝てる間に襲いに来るっていうなら、人形か何かを代わりに寝かせておいてオトリに、とか思ったが、まあお前が代わりでもいいかもな。殺しても死にそうにないし」
「シツレイなっ。こんな普通の男子中学生掴まえて殺しても死にそうにないとはっ。……ま、どうせならオレだけじゃなくて全員白いの着たらどうだ?」
 久遠に抗議をしたのも束の間、あっさりと話題を元へ戻して美咲がニッと快活な笑みを浮かべた。
「いっぱい白いの着たヤツ居たほうが、目くらましになんねえ? 村中の連中が白いの着て寝てるなら、梨果の家族だって持ってるんだろ、白い着物。じゃ、それ借りちゃってさ。皆それ着たらどうだろ?」
「なんだかそれって修学旅行で旅館に泊まりに来たみたいな状態になりそうね」
 いざとなれば術を使って梨果と自分の姿を入れ替えようと思っていた咲だが、美咲の提案に否を唱えるわけでもなく、逆にややノリ気味で答えた。それに、蓮と久遠の青年二人がやれやれとでも言いたげに溜息をついた、その時。
 来客を告げるインターホンの音が邸内に響いた。


<合流>

 インターホンを鳴らしたのは、村に関わりのある警察署と図書館を回ってから若宮梨果宅に訪れた、長い銀の髪に青く澄んだ瞳の麗姿を持つ、黒い丈長のドレスシャツを纏ったセレスティ・カーニンガムと、限りなく白に近い銀髪に黒い左目と不思議な色合いの右眼を持つやや小柄な線の細い、白い着物を纏った青年――十桐朔羅(つづぎり・さくら)だった。
 村で死亡した娘は全て病死として扱われ、すでに火葬済みで警察は全く介入していないということ。死亡診断書を医師が捏造しているため、火葬までの手続きがスムーズに行っていること。
 そして、十六年前。
 梨果が生まれた年にこの村で大規模な水害があり、その時亡くなった者たちを祀る慰霊碑が村の西方向にあり、その碑の近くに枯れた古木があった事等を二人から聞いた五人――美咲、咲、シュライン、蓮、久遠――は、自分達が今しがた梨果から聞いた事を二人に聞かせた。
 梨果、という名の少女は、皆、同じ年に生まれた者たちなのだという事。贄にされる、という事態は昔からあったことではなく、つい最近起き始めたものだ、という事。
 死した少女たちが纏っていたのは死装束ではなく、この村の者達が皆、寝る時に普通に着ている白い浴衣だったという事。
「浴衣……でしたか」
 生贄だから、白い装束を纏わされていた訳ではなかったと知り、セレスティは小さく頷いた。それに、美咲がニッと笑う。
「まあ、何にしても念のため、梨果にはそれ着せない事にして。逆に俺たちが全員白い浴衣着てたらちったぁ目くらましになんねえかなあって事でそれ着用ってのが既に決定済みなんだけど」
「……若宮梨果を囮に使うのは避けた方が良いと私も思う。が、私は元より白い着物を着ている。だからそのようなものは要らぬ」
 突き放しているようにも聞こえそうなほど淡々と答えて、伏目がちに梨果が出してくれた茶を口に運ぶ朔羅に、美咲は、ああ、と頷いた。
「確かにもう着てるもんな、白い着物。じゃ、アンタはそれでよしとして」
「……というか、贄になる少女だけが着物を纏っていたという訳ではないのなら、別に全員がそれを着て目くらましなどする必要はないような気がするんだが」
 口許に手を当ててぽつりと言う蓮に、今度はそちらへパッと美咲が顔を向ける。そしてぐっと握り拳を作って。
「何言ってるんだ蓮ちゃんっ。一人はみんなのために、みんなは一人のためにって言うだろっ」
 深い意味はないがとりあえずなんか面白そうだから、などという言葉は口にせず、真顔でそれらしく言ってみる。が。
「……その言葉が今ここで出てくる意味がわからん」
 無駄に力説する美咲からふいと目を逸らせて、蓮はセレスティと朔羅へ問いかけた。
「その、枯れていた古木とやらは、どんなものだったんだ? 何の木だった?」
「おそらくは梨の木。根拠はないが何故かそんな気がした」
「梨……」
 答え返した朔羅の言葉を聞き、全員の視線がその時別の部屋から白い浴衣を人数分運んできた梨果へと向かった。え? と忙しなく瞬きする。
「どうかしましたか?」
「梨果ちゃん、西の方にある慰霊碑のこと知ってるよね?」
 梨果が抱えている浴衣を半分引き取りながら、咲が尋ねた。
「その慰霊碑の傍に生えてる木、なんの木か知ってる? 枯れてるみたいなんだけど」
「慰霊碑……ああ、水害の供養石のことですね? 傍に生えてるのは梨の木です。去年までちゃんと実もつけてたのに冬を越せずに枯れちゃったんです……」
 秋にその枝になっていた梨の実の事を思い出しているのか、どこか遠い目をして言う梨果を、七人はじっと見ていた。
 枯れた、梨の木。
 昨年までは実をつけていた、木。
 それが枯れてから、急に襲われるようになった『梨の果』と言う字面の名を持つ娘達。
 慰霊碑が建ったのは、その、襲われている娘たちが生まれた年。
「……大体、何となくつながった、か?」
 久遠が零した言葉と同じものを、おそらくその場に居た者たちは抱いていたのだろう。無言のままだったが、何となく空気でそれが周囲に伝わる。
 ふと、咲が浴衣を抱えたまま梨果を見やった。
「梨果ちゃん、碇編集長に『贄にされる』って言ったのよね? どうしてそう思ったの? 他の梨果ちゃんたちも、贄にされて殺されたと思ったのはどうして?」
「警察が来るよりも先に、遺体は火葬されてしまっていた。としたら、噛み痕があったとかそういう事はわからなかったはずですね」
 咲の言葉に重ねられるセレスティの問い。
 知らないはずの事を知り、贄にされると怯え、助けを求めてきた梨果。
 まっすぐに自分へと向けられる幾つもの視線に、梨果は僅か視線を落としてから、ゆっくりと目を上げた。
「火葬されても、頸がないことはすぐに分かります。骨が頭の部分だけないから。それに、『たかちゃん』……先週亡くなった高木梨果ちゃんのお母さんが、次は私の番かもしれないから気をつけてって言ってくれて。順番に『梨果』が頸を取られて殺されて言っているのなら、次は私かもしれないって。だから早く村から逃げてって、そう言ってて……」
 結束された村。
 けれど、娘と母の絆だけは、それ以上に固かったあったという事か。
 自分の娘を無残に殺された母は、自分の娘と同じ名を持つ少女の命を、何とか助けてやりたくなったのかもしれない。先に殺された高木梨果の母は、自分の娘が何かに襲われ食らわれたのだと察したのだろう。そして村ぐるみでそれを隠すという事は、村人たちの間で隠された『何か』に殺されたのではないかと――『何か』の為の贄にされたのではないか、と思ったのだろう。
「でも、梨果さんのご両親も、よく梨果さんが生まれた時そういう名前をつける気になったわね」
 村に同じ名前の子が居たら、できたらその名は普通避けないだろうか?
 シュラインの言葉に、梨果は苦笑を浮かべた。
「両親は何も知らなくて。祖父母が、姓名判断でいい名前貰ってきたよ、と言って持ってきたのが、この『梨果』という名前だったんです」
 最初は梨果の両親も、他に同じ名前の赤ん坊がいるから、とその名前は止めておこうと考えていたらしいのだが、祖父母がさっさと役場へ出生届を提出してしまったらしいのだ。
 今回の旅行も、祖母に強引に押し切られてしまったのだと、梨果は表情を曇らせた。ちなみに、父は単身赴任で大阪へ行っているのだという。
「孫の命よりも村の結束、か……」
 古い因習の罪、とでも言えばいいのか。
 渦巻く黒いものを感じ、久遠は僅かに眉宇を曇らせた。セレスティも同じ事を考えたのか、浅く吐息を零した。
 こうも閉鎖的で結束の固い村で生きていくのならそれに縛られるのも仕方ない事なのかもしれない。
 だが、だからと言って人の命を『贄』として――ましてや、孫の命をそんなに容易く差し出していいものか。
 いい訳がない。
「……何にせよ、この凄惨な事件を止める為にも……彼女は守らねばならぬ」
 そうすることで、この連鎖も止まるだろう。
 悪しき因習による死の連鎖が。
 零れた朔羅の呟きに、否を唱えるものはいなかった。


<不法侵入>

 午前零時。
 コンビニもないこの村は皆寝つくのが早いらしく、外に出ればついている灯りと言えば、ぽつりぽつりとかなり離れた間隔で設置されている外灯くらいのものだった。
 どの家の窓にも光は宿っていない。周囲には静かな闇が満ちている。
 梨果の頸を狙う何かが現れるまでの間、雑談をして時間を潰している面々をその場に置き、そっと外に出てきたシュラインは、やけにくっきりした姿を夜空に浮かび上がらせている星と月を見上げながら、さて、どうしたものかと呟いた。
 碇に話を聞いた時からずっと、引っかかっていた事。
 梨状窩瘻。
 気になる事を放置しておけず、ならばとりあえず村医者にでもカルテを見に行こうと思い外に出てきたのはよかったが、どうせ素直に「見せてください」と言っても、そんなもの見せてもらえる訳はない。
 それは閉鎖的な村の者だからという事だけではなく、医者としての守秘義務があるから、だ。
「困ったわね。行った所でどうにかなるかしら?」
 美咲の提案により纏わされた白い浴衣の袖をはらりと振り、溜息をつく。
 と、その背に。
「どこへ行くんだ?」
 ふいに声をかけられ、驚いてシュラインは振り返った。そして声の主を見、ほっと吐息をつく。
「香坂くんか、脅かさないでよ」
 いつからそこに居たのか分からないほどひっそりと、闇の中、シュライン同様に白い浴衣を身に纏った蓮が立っていた。緩く首を傾げて微かに笑う。
「すまない。驚かせるつもりはなかったんだが……それで、どこへ行くつもりだ、こんな時間に」
「んー……気になることがあるから、ちょっと病院でカルテ見れないかなあと思ってね。忍び込んでこようかしら、とか考えてたとこ」
「忍び込むって、アンタ……」
 呆れた色合いの強い声に、シュラインが苦笑する。
「だって見せてくれって直球で言っても絶対見せてくれるわけないじゃない? なら、こっそり見るしかないし」
「気になってるのは、さっき言ってた『梨に頸』が何とかというアレか?」
 どうやら先ほど梨果に尋ねていた事を覚えていたらしい。蓮のその言葉にシュラインは頷く。
「妙に梨状窩瘻を連想しちゃって」
「…………、病気に関してはよく分からないが、とりあえず一人で行くのは危険だと思う。俺も行こう」
「一緒に?」
「忍び込むつもりなら、俺を連れて行けば役に立つぞ。得意だから」
 右手の人差し指を曲げて口許に笑みを浮かべる蓮。
 過去、便利屋をやっていた時に様々な場所への侵入は何度も経験している蓮である。自慢できる事ではないが、今はそれが役に立つだろう。
 蓮の申し出にシュラインは眉を僅かに持ち上げてから、くすりと笑った。
「じゃ、お願いするわ。頼りにしてるわよ、共犯者さん」

 若宮梨果の家から歩いて五分くらいの距離に、こじんまりとした古い診療所はあった。元々は真っ白だったであろうその壁はあちこちにひびが入り薄汚れている。入り口に診療所の名を書いた看板が下げられていた。
 どうやら診療所の奥が住まいになっているらしいが、そちらの方も既に電気は消えている。他の村人たちと同じで既に眠りについているようだ。
 それでも細心の注意を払って足元で砂利などが音を立てないようにゆっくりと歩を進めて、蓮は診療所の正面入口の扉の前にしゃがみ込んだ。
 月明かりのみで鍵の形状を暫し眺め、ふと笑う。
「どうしたの?」
 声を抑えて、背後から同じように鍵を見たシュラインに問われ、蓮はここまで来る道すがらに拾った針金を少しだけいじってから静かに鍵穴に差し込み、親指と人差し指に神経を集中させながら言った。
「いや、さすがは田舎の村というか……無用心だと思ってな」
 それだけの言葉を紡ぎ終えると同時に、シュラインの研ぎ澄まされた聴覚に、かたりと施錠が解除された音が届いた。あまりの速さに暫し言葉を失ってから。
「……頼もしい共犯者だわ」
「連れて来て正解だろう?」
 針金を引き抜きながら肩越しにシュラインを見て笑みを浮かべる蓮に、シュラインも頷きながら唇に笑みを刻んだ。

 診療所内はしんと静まり返り、薄気味悪さが漂っていた。普段人がいるのが普通な場所というのは、どうしても誰もいないと不気味さを感じてしまうものだが。
 靴を脱いで院内に足を踏み入れると、シュラインは僅かに視線を上げて各部屋のドアの近くに取り付けられているプレートを見やった。受付、診察室、お手洗い……等々書かれている。
「診察室か受付か」
「大きな総合病院とかならパソコンでデータ管理もしてるだろうからそれを引き出せばいいんだろうが、ここは……」
 通常の人間よりは聴力がいい二人である。かなり声のトーンを落とした声同士でも十分会話が成立する。
 青い瞳を診察室と受付のプレートの間で少し彷徨わせてから、シュラインは頬に手を添えて呟いた。
「カルテとかは受付かしら」
 受付で氏名や保険証の確認等をし、カルテを出すのではないだろうか?
 その言葉を受けて、蓮が音を立てないよう気をつけつつゆっくりと受付の小さな窓を開いて中を覗き見る。古びた木製の棚があり、そこに多数の紙が収められていた。棚には「国民保険」「社会保険」と書かれたシールが貼り付けられている。
「……あれ、カルテじゃないか?」
「じゃあレントゲン写真とかはどこかしら」
「とりあえず、中、入るか」
 もたもたしていたら誰か起きてくるかもしれない。
 二人は素早く受付へと身を滑り込ませると、シュラインはカルテの棚に若宮梨果のカルテがないかどうかを探し、蓮は同室の別の棚や引き出し等を開けて中を調べていく。
 そうする事かれこれ五分。
 見事目的の物を見つけ出した二人は、ふと、戦利品を手に顔を見合わせた。
「……アンタ、レントゲン見て分かるのか?」
「……香坂くん、まさか都合よく医大出てたりはしないわよね?」
「生憎俺は音大卒だ。カルテはドイツ語か英語記入だろうからアンタ、読めないのか?」
「梨状窩瘻のことをどう言うのかまではちょっと、勉強不足」
「そもそも俺はそんな病気自体聞いたことないしな……」
「…………」
「…………」
 二人して互いを見て黙り込む。
 ここまで来て、鍵になるかもしれないものが手の中にあるというのに、それを解読する事ができないとは。
 ふう、とシュラインが溜息をついたのを見、蓮も同様に溜息をついてから、レントゲン写真を持ったまま診察室へ移動し、デスクの上にあるレントゲンフィルム観察用のライトパネルに挟み込んで電気をつけた。闇を溶かすように灯された明かりに、蓮の後についてきたシュラインが目を細める。
「香坂くん? 見て分かるの?」
「分からないなら分かる人に聞くまでだ」
 あまり気が進まないが、と呟きながら、蓮は携帯電話を取り出して、映し出されたレントゲンフィルムを、そのカメラ機能で撮影した。胸部と咽頭部辺りが写っているその画像をメールで送信する。このレントゲンから梨状窩瘻なる病状が見て取れるかどうか確認したい、折り返しメールにて連絡待つ、という非常に事務的でシンプルな一文をつけて。
「医者に聞こう」
「医者に?」
 確かに、それは確実な方法だろう。
 まさかたまたま連れてきた共犯者がこんなに有用な人物だとは思わなかったと、シュラインは微かに笑った。
「さすがは便利屋さん。顔が広いのね」
「元、便利屋だ」
 最近の携帯電話のカメラ機能は随分と高性能になっている。そこから病状を読めないことはないだろう。
 ライトパネルからフィルムを外して電源を落とすと、蓮はくるりと顔をシュラインへと向けた。
「後は連絡を待つだけだ。長居するのも何だし、撤収しないか」
「そうね、梨果さんの事も心配だし」
 ちらりと薄闇の中で腕の時計に視線を落とす。浴衣の袖から覗く文字盤内の針は、午前零時三十分を指していた。

 そして二人がカルテとフィルムを元の位置に何事もなかったように戻している時に、蓮の携帯が微震を発し、診断の結果を伝えてきた。
 答えは、否。
 その症状は見られない、との回答だった。
「ともあれ、これで気にかかる事はスッキリしたわ」
 さばけた口調でそう言うと、シュラインは「それじゃ帰りましょうか」と蓮に告げた。


<現れしは……>

 午前二時。
 電灯を消した室内。
 ただ一つ、仏間から持ってきた蝋燭が座卓の上で闇を溶かすように揺らめいていた。
 そんな中、女性陣は修学旅行よろしく布団の上に座り込んでなにやら楽しげに話し込んでいた。男性陣はと言うと、壁に背を預けて座り込んでぼんやりしている者、座卓の傍に座って揺らめく炎をただじっと見ている者、布団の上にうつ伏せに転がって眠たそうにあくびを漏らしている者、と様々だった。
 そんな中、あまり動かない空気を揺らしたのは、朔羅だった。す、と静かに正座を崩して腰を上げる。
 何かあったのかと一斉に視線が彼に集まるが、彼はその細い指先を座卓上の蝋燭へと向けた。
「あと僅かで消えるだろうから、新しい蝋燭を灯そうかと」
 すっかり炎の守人と化したかのような言葉を残し、隣室の机の上に置いてある蝋燭を取りに行こうと、襖に手をかけた。
 その時。
 ふ、と部屋の中に満ちていた空気の質が変わった。
 はっと、それまで会話に花を咲かせていた咲と、自らが張った結界に触れる何かはないかと気を周囲に向けていた久遠が、その全身に緊張を満たす。
 陰陽師である咲と、術師である久遠がいち早くその変化を察知した。
「……来た、か?」
「来たみたい」
 目だけを合わせて交わされる二人の会話。けれどもその視線はまた、その入り込んできた気配が何者かを探り当てるために忙しなくあちこちへと走る。
 す、と美咲も寝そべっていた体を起こして梨果の傍らへと移動する。
「何だ、一体これは……」
 感覚に触れてくる不可解な気配に、蓮が呟く。セレスティも、闇しか映さぬ目を気配の漂ってくる方へと向けながら眉を寄せた。
 鳥肌が立つような、気味の悪い感覚。
 シュラインにもそれが何となく分かるのか、その気持ち悪さに耐えるためにぎゅっと唇を引き結んで梨果を見る。
 彼女の髪を纏めている咲のリボンによる結界は相手に効くのだろうか……。
 ふと、久遠が眉宇を顰めた。
「これは、……古きモノ、じゃないな」
「そうね、比較的新しい感じがする。でも、これは」
 咲が唇を引き結び、傍らに置いていた長い筒状の袋を取り、中から薙刀を取り出した。
「これは……霊? いや、……何かしら、これ」
 言った瞬間、パンッ、と何かが弾ける音がした。チッと鋭く久遠が舌打ちする。彼の張った結界が破られた音だ。途端、一気に室内の気温が下がる。
 その肌寒さはシュラインにも覚えがあるもの。今まで何度も経験してきた、その冷たさ。
「来てるのね、何かが」
「このような狭い場所でやりあうつもりか」
 朔羅が冷静に室内を見渡して言う。今ここに満ちている何者かの気を感じ、そのあまりの不穏さに誰へともなく問いかけたのだ。
 が、やりあうにしても、相手がどういう類の物なのか分からなければ手の打ちようもない。咲が判じかねたように、そのモノの気配は何だか微妙で、真実を探り取ろうと自らの感覚を研ぎ澄ませていた蓮も、深く探るにつれて眉を寄せていく。
「これは」
 霊なのか、それとも――。
 ただの霊にしてはやや邪悪すぎるが、邪霊と言うには気があまりにも位が高いというか……神格に近い?
 ゆうるりと、入り込んできた気が部屋の隅の方で渦を巻き、凝り固まっていくのを察知して、それと逆方向にいたセレスティがシュラインと梨果の方へ声を投げた。
「こちらへ」
 その声に導かれるように、シュラインと梨果の腕をぐいと引き、美咲が闇の中、敷かれている布団に足を取られないよう素早く移動する。
「んで、結局何なんだよ? やっぱケモノ系の何かか?」
「何でしょうね、獣、というよりは……」
 美咲とセレスティが話す間にもするすると、入ってきた気配は集束し、徐々に一つの形を成し始める。勿論それは通常の者には不可視の姿。
 感覚の優れる者にのみ見える、姿。
 それは、体の長い……、モノ。
「蛇?」
 ぽつりと漏れた蓮の言葉に、はっとシュラインが脳裏で何かを閃かせた。
 草間興信所前で逢った『彼』は、確か、言っていなかったか?
 ――……神域に近しいモノ、もしくはそれを模したモノ……の仕業かも……例えば……龍、とか……。
「それ、龍じゃない?!」
 浴衣の袂に入れていた、彼から預かった木彫りの小さな人形を引っ張り出して握り締めながら、シュラインが声を上げる。
 それに、朔羅が瞬きした。
「龍? 何故そう思う?」
「梨の果、梨果さんが贄と言っている点、それから、水、が……とか……」
 その言葉を紡いでから、『彼』は悪戯っぽい笑みを浮かべて「ヒント出しすぎかな」と呟いていた。シュラインにはそれがどうモノの正体のヒントに繋がっているのか分からなかったが、零れ落ちたシュラインの言葉に、はっと咲が反応した。波打つ長い髪を揺らせて、シュラインの方へ顔を向ける。
「龍、……水害……、これってもしかして」
 確か、慰霊碑は西の方角にあったという。
「西、水、龍……水天龍王法? それなら梨の木が慰霊碑の傍に植えられてた事、梨果ちゃんが襲われる事と繋がる」
 水を自在に操れるとされる、西方水天竜王。それにあやかり、水害が二度と起こらぬようにという願いを込めて修法を執り行ったのだろうか?
 陰陽師であるがゆえにその辺の知識も持ち合わせている咲である。薙刀の柄を握り直しながら、部屋の隅で渦巻いているモノを見る。
 だが、水天龍王法を行ったにしては、これは……。
「……どうも神の類のようには思えないが?」
 方向性は違うが、幼い頃から神と呼ばれる者が祀られている神聖な場所で育った蓮が、怪訝そうに言う。それに、久遠が頷いた。
「おそらくは中途半端に神として祀られてしまった為に、変に神格化したものっていうか……まあそんなとこだろ」
「中途半端な知識しか持ってない人が修法を行って、雑多な霊を呼び寄せちゃったみたいな感じかも。それを皆は神と勘違いして崇めちゃったから、久遠さんが言ってるみたいに変に神格化した、みたいな感じだと思うわ」
「では、梨は一体何の関係がある?」
 朔羅の問いに、咲が眉を寄せて厳しい顔で答えた。
「龍の供物なの、梨って」
「供物、……じゃあ梨果さんの名前って、生まれた時からずっと供物としてつけられてた名前だって事なの?!」
 シュラインが目を見開く。が、すぐにその表情は険しいものに変わった。鋭く一つ舌打ちをする。
「悪趣味な村ね、随分と」
「そこから離れなさい!」
 不意に、鋭くセレスティが言い放つ。それに、ぱっと美咲がいち早く反応した。
「冗談キツいよなまったく、っと!」
 呟くと、シュラインを突き飛ばし、次はひょいと軽々と梨果を腕に抱きかかえて美咲は軽くバックステップした。
「きゃ……っ」
「はいはいゴメンよちょっと大人しくしててくれよー? 耳許で騒いだら落っことすぞー?」
 梨果が悲鳴をあげる前に軽い口調で言いながら、もう一つバックステップを入れる。
 と、今まで彼らが居た場所で空気が揺れ、布団に何かが噛み付いたような痕が唐突に生まれた。
 霊的な物に目が利かない者には突然現れた噛み痕に見えるが、見える者たちの瞳には、それが出来損ないの龍神の仕業だというのがハッキリと映っていた。大きな顎を開いて梨果がいた場所に牙を立てる不恰好な龍の姿が。
 突き飛ばされてよろけたシュラインを腕を伸ばして抱きとめ、蓮が龍の動きを追って視線を闇の中へ滑らせる。室内でうねり、獲物を探しているように時折頸を巡らせている龍。
「ようするに他の『梨果』を食らったのもコイツということか」
「ありがと、香坂くん。とにかく、コレをさっさとどうにかしたらもう梨果さんも安心というわけね?」
 蓮から体を離しながら言うシュラインの言葉に、咲が頷く。
「そういうことっ。さあ乙女の敵っ! 覚悟なさいっ!」
「勇ましいな、咲」
 薙刀を手に鋭く言い放つ咲を見て久遠が微かに笑った。そして、ゆっくりと自らの眼も、蠢く龍の方へと向ける。
「さて……お前に本当の僕の姿を見る資格はあるのかな? 出来損ないの竜神様」
 す、と浴衣の袂から数枚の呪符を取り出す。
 簡単に結界を破られた事からしても、それほど弱いモノではないのだろうが、所詮は出来損ない。それほどの強敵でもないだろう。
 ぽう、と手にした呪符に紅い光が灯る。が、それはすぐさま炎へと姿を変えた。両手に真紅の火を纏わせながら、久遠が唇の端に笑みを乗せる。炎を映して瞳が赤く染まる。
 久遠が右手を凪ぐと炎は手から離れて、梨果を抱き上げたままひょいと横に飛んだ美咲のその後を追う龍に襲い掛かる。
 するりと放たれた鬼火が龍の周囲を包み込む。と、炎がはらと舞い、傍にあった布団に燃え移りかける。
 あ、と朔羅が微かな声を上げたのも束の間、それはどこからか飛んで来たゼリーのようなものに包まれてすぐさま消えうせた。
「室内で火を使うのはどうかと思いますよ」
 伏目がちに微笑を浮かべ、セレスティが軽く持ち上げた右手にゆらりと揺らめく水の塊を纏わせて静かに言った。
「まあ、飛んだ火の粉は私が何とかしましょう。この龍が水属性なら、私が手を出すよりは炎を使う方に任せたほうが早く済みそうですし」
「ふふん、何だか余裕だねえ。さすがは総帥サン」
 龍と追いかけっこをするハメになった美咲は、梨果を抱えたまま、けれども少しも息を切らすことなくセレスティの傍まで駆け寄る。と、その美咲のすぐ背後にまで迫り来て口を開いた龍に、セレスティが素早く気を込めた水を宙に走らせて顔面に叩き付けた。そのまま龍は前に敷かれていた布団にのめりこみ、またそこに噛み痕を残す。
 もう布団の上には五つもの噛み痕が残っている。モノの気配を察することが出来ない美咲のその目の代わりに、セレスティが「避けなさい」「右へ」「来ますよ」等指示を出し、何とか逃げ延びてはいるのだが……。
 あちこち飛び回っている美咲が大声を上げる。
「ったく、さっさと何とかしろよっ!」
「ご、ごめんなさい季流さん、私、重くて」
「あーもうホント腕折れそうっ! ってまあそれはジョーダンだけどさ」
 申し訳なそうな顔をする梨果に軽口を叩き、またすぐさま軽く横に飛ぶ。それをしつこく追う龍が、また布団に噛み付いた――のを見計らい、それまでどうしたものかと様子を見ていた蓮が、片膝をその場に落として布団に左手をつき、ふっと目を細めた。
 刹那、その手から発されるのは浄化の力。あまり強くないその力程度では封じる事ができない事は蓮自身にもわかっていたが、多少は動きを鈍らせる事は出来るだろう。
 その思惑通り、バチッと火花が散るような音がして一瞬動きを止めた龍に、久遠の放つ炎と呪符が纏いついた。長い身が大きくのたうつ。
「おい、遠慮なく乙女の怒りってのをぶつけてやれ」
 すっと軽く手を振って自らの手に纏っていた炎を消し去りながら久遠が咲に声をかけた。
 それに大きく頷くと、咲は、薙刀『肆の陽』をしっかりと掴み、炎と呪符、そしてその炎が何かに移らないようにとその周囲を柔らかく霧のように包み込むセレスティの水……その全てを。
「我が刃、千妖も万邪も皆悉く済除す、急々如律令!」
 高らかに声を紡ぎ、龍と共に一薙ぎした。


<事後の対策>

 退魔の薙刀に切り伏せられた龍は、断末魔の悲鳴を上げる間もなく、鉄板の上に置かれた氷のように解け、蒸発するようにして姿を消した。
「……終わったの?」
 誰へともなく問いかけたシュラインの言葉に、ふと朔羅が目を細めた。
「……村ぐるみであの龍の存在を守ってきたのだろう。これであれがいなくなったなら一体どうなるか……」
 おそらくは、村人の心の支えのようなものでもあったのだろう。それがなくなったら、彼らはどうするのか。
 それに、久遠が余った呪符を浴衣の袂に戻しながら微かに笑った。
「梨の木が枯れたからって梨果って娘をを食らうような奴に幸せを請うのが間違ってるって気づけばいいけどな」
 だがその言葉に、片膝を落としたままだった蓮が浴衣の裾をさばいて立ち上がりながら溜息をついた。
「そう簡単な物でもないだろう。一応、神として祀られていたから多少なりとも神気を纏っていたんじゃないのか? ならその拠り所をなくした村人に、どう説明するんだ? このまま何も明かさないままなら、いつまでたっても贄にならない若宮嬢が何かの疑いをかけられると思うんだが」
 村の秘め事を余所者に話してしまったのではないか、などという目を向けられるのではないかと気にかけているのだ。
 そうなると、自然にこの村には居づらくなる。
「アレは竜神なんかじゃないから言う事きいてちゃダメ、とか言っても無駄よねえ」
 頬に手を当てて眉を寄せるシュライン。青い眼はさきほど咲により龍が消滅させられた場所を見ている。
「何とかいい方法ないかしら。梨果さんがここに今までどおりいられるような」
「そうですねえ」
 掌に乗せた水の玉を指先で転がしながら、セレスティが暫し思案するように黙し、ややしてふと、咲を見た。
「久喜坂嬢は陰陽師なのですね?」
「え?」
 薙刀をしまっていた咲は、長い睫毛を打ち合わせて瞬きしてからこくりと頷いた。
「そうよ」
「なら、式神を一体、お借りできませんか。それに私が水の気を纏わせ、水の龍のように見せましょう。それを村人の誰かに目撃されるように空の彼方へでも飛ばしてやれば、竜神は去って行ったのだと思わせる事ができないでしょうか?」
「でもそれも、梨果がヘマしたからだとか思われたりしねえ?」
 ようやく腕から梨果を下ろし、肩を軽く回しながら美咲が横から言う。それを申し訳無さそうに見る梨果。
 そんな二人を暫し見て、シュラインがくすっと笑った。
「それは梨果さんが上手く皆に言えばいいのよねえ?」
 言って、その目を、蝋燭の明かりを消して電灯をつけようと手を伸ばしている朔羅へと向けた。え? と一瞬自分が何を求められているのか分からなかった朔羅はゆっくりと瞬きしたが、すぐにシュラインが言わんとしていることを察し、少しだけ考えるようにその黒い左眼と、今は青い色を宿している右眼を暫し伏せてから。
「これ以上うら若き乙女の命を食らうわけにはいかぬ。案ぜずとももうこの村が水の害に悩まされる事はないだろう」
 言ってからふと眼を上げて梨果を見やる。
「あまり長々ごてごてと言っても覚えられまい。単純だが、これくらいの言葉でよいか」
 その言葉をそのまま梨果が村人に竜神から聞いた言葉だと伝えれば、セレスティと咲の作る偽の竜神の姿を見た村人はそれなりに信じてくれるだろう。
 もうここに竜神はおらず、『梨果』という名の娘が食らわれる事もないのだ、と。
「よし。んじゃ、ま、とりあえずはこれで一件落着、ってこったな」
 美咲の言葉に、ようやく梨果は大きく一つ息をつくと、その場にいる全員に向かい深く頭を下げた。
「ありがとうございました……!」
 その双眸が涙で揺れていたのは、心からの安堵のためだろう。


<終――おめんでごめん>

 一夜明けて、草間興信所前に戻ったシュラインは、そこにまたしても妙なお面を被った人物がいるのに眼を留め、そして深く溜息をついた。
「よっぽど気に入ってくれたのかしら、鶴来さん?」
 歩み寄り、こつんとお面の額を小突いてピカピカ無駄に光っている眼を覗き込む。
「でもそんなの被ってここに居続けたら、その内誰かに退治されちゃうわよ?」
 なんと言ってもここは、本人は望んでいないにしても『怪奇探偵』で知られる草間武彦の居城前だ。お面の人物も怪奇の一つとして攻撃されないとも限らない。
 そんなことありえない、と言い切れないのがこの世界だ。
「退治されるのは困りますね……とりあえず、お帰りなさい」
 お面を両手で顔の前から外し、鶴来那王はにこりと笑った。
「無事で何よりです。心配でつい、今日も来てしまったんですが」
「それはありがと。鶴来さんの言ってたとおりだったわよ。龍、って」
「そうですか。とにかく、無事に片付いてよかった」
 浮かべられる微笑には心底からの安堵が浮いているような気がして、シュラインはふと瞬きした。
 何をそんなに心配していたのだろうか。
「……鶴来さん、一体……何をそんなに心配してたの?」
「え?」
「だって、守ってくれる、って言って私に綺くんまで預けたのに」
 バッグの中から、出掛けに鶴来から受け取った木彫りの人形を取り出す。結局、救いを求めなければならないような事態にはならなかった為、それが一体どういう効力を持つものなのかはわからなかったが。
「どうして、そんなに」
「もう誰も」
 言いかけたシュラインの言葉に被せるように、鶴来が言った。苦笑を浮かべて。
「誰も、命を落として欲しくないので」
「……鶴来さん……」
「というと湿っぽくなるので、今日はこれを渡しに来たという事で」
 ごそごそと鶴来は背後から紙袋を取り出し、それをシュラインに手渡した。
「どうぞ。誕生日プレゼントのお返しです。とはいえ、俺はシュラインさんの誕生日、知らないんですけど」
「思い切り時期外してるけど。私は一月生まれよ? まあいいけど」
 苦笑を浮かべる鶴来の手から紙袋を受け取り、開けていいかしらと確認する。どうぞと満面の笑みを浮かべる鶴来に何か不穏なものを感じつつも、とりあえず中を確認し――……。
「!!!」
 開けた袋を勢いよく閉じ、キッと鶴来を見る。
「鶴来さん、これっ」
「可愛いでしょ?」
 微笑んで、鶴来はその閉じられた袋の中から贈り物を取り出し、シュラインの顔の前に掲げて。
「ほら可愛い。シュラインさんそっくり」
「…………」
 黙り込むシュラインのその顔の前にあるのは、鶴来に送ったのと全く同じお面だった。ただ一つ違うのは、頭の横の方にピンクの悪趣味なリボンがつけられていることだ。しかも、物凄く不恰好だ。
「……何、このリボン。呪いのリボン?」
「俺がつけてみました。どうですか、気に入りました?」
「き……気に入るわけないでしょー!!」
 思わず鶴来に向かってそのお面を投げつけ、シュラインは木彫りの人形を両手でしっかと握り締め。
「綺くん綺くん、鶴来さんが私のこといじめるのっ、あんなマヌケなお面に似てるっていじめるのっ。成敗してちょうだいっ!」
「あっ、そんな事で綺を呼ばないように!」
「うるさいっ、腹黒い人は成敗よ成敗っ!!」
「俺は腹黒くなんてないですよ!」
「そんなに真っ黒なのに自覚ないなんてどういうことよ鶴来さんっ!」
「俺の純真さが分からないなんてどういうことですかシュラインさん!」
「何くだらない冗談言ってるのっ。寝言は寝ていいなさいよ!?」
 その、わあわあと言い合う二人のその頭上から。
「おい、お前らそんなとこで何やってんだ?」
 間の抜けた声が降って来た。見ると、草間がかりかりと頭をかきつつ、窓から顔を出している。
「シュライン、出社早々悪いがコーヒー淹れてくれないか? 鶴来も飲んでけよ、どうせ暇なんだろ?」
 言う事だけ言ってさっさと窓を閉める草間に宥められた形になり、言い合いは中断。
「ま、武彦さんもああ言ってることだし、どう? 一杯」
「そうですね、頂きます」
「じゃ、行きましょうか」
 鶴来に二つのお面を抱かせると、シュラインは綺を宿す人形を両手で包み込んだまま歩き出した。
 いつもどおりの一日を始めるために。



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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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 整理番号 … PC名 【性別 /年齢/職業】

0086 … シュライン・エマ――しゅらいん・えま
        【女/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
0579 … 十桐・朔羅――つづぎり・さくら
        【男/23歳/言霊使い】
0904 … 久喜坂・咲――くきざか・さき
        【女/18歳/女子高生陰陽師】
1532 … 香坂・蓮――こうさか・れん
        【男/24歳/ヴァイオリニスト】
1883 … セレスティ・カーニンガム――せれすてぃ・かーにんがむ
        【男/725歳/財閥総帥・占い師・水霊使い】
2648 … 相沢・久遠――あいざわ・くおん
        【男/25歳/フリーのモデル】
2765 … 季流・美咲――きりゅう・みさき
        【男/14歳/中学生】


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■         ライター通信          ■
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 こんにちは。ライターの逢咲 琳(おうさき・りん)です。
 この度は依頼をお請けいただいて、どうもありがとうございました。
 少しでも楽しんでいただけましたでしょうか?

 シュライン・エマさん。再会できてとても嬉しいです。
 毎度毎度の事ながら、鶴来と遊んでくださってどうもありがとうございます(笑)。今回は何だか変な小道具使って遊んでますが……ちょっと鶴来が懐きすぎですよね最近(笑)。
 お面、どうもありがとうございました! お返しにお揃いのお面(不恰好なリボンつき)をお贈りしておきましたのでお納めくださいませ。
 そして鶴来から今回、桜の守人だった七海綺が宿ってるという謎の人形が渡されていますが、また逢咲のシナリオに参加していただく事があれば、そのうち何か効果が出るかもしれません。
 様々調べる点を出していただいていたので、とりあえず出来るだけはそれに沿った感じになっています。某病名、異国語でも読めたのに! 等ありましたらスミマセン……。

 本文について。
 途中、幾つかの個別・別個の部分が存在しています。
 お暇があれば他PC様分にも眼を通していただけると、その時他PCさんが何をしていたのか、どういう情報をどうやって入手して来たのかが分かると思います。

 もしよろしければ、感想などをお気軽にクリエイターズルームかテラコンからいただけると嬉しいです。今後の参考にさせていただきますので。

 それでは、今回はシナリオお買い上げありがとうございました。
 また再会できることを祈りつつ、失礼します。