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<東京怪談・PCゲームノベル>


螺旋にて



 街の夜は長い。
 橙や青や白のネオンは、夜明けの光がその手を叩くまでさざめくように人々を誘う。都会の深夜を、「眠らない街」と称したのは誰だったろうか――喧騒は遅くまで止まず、目を閉じれば瞼の裏に滲み込んで来るように遠くの怒鳴り声が耳に届くのだ。
 東京にしては珍しく、星が明るい夜である。
 紗弓は男よりも半歩前を行きながら、目指す看板に灯が灯されているのを見留めて安堵の息を吐いた。男――杜部叉李は、さほど足が速いとは言えない紗弓の少し後ろにぴったりと着き、合わせた歩調で靴音を響かせている。自分の行きつけの店に連れていけとごねた彼を歩かせた揚げ句、店が閉まっていたとあってはどんなに悲しい顔をするか知れない。
 そう、叉李はまるで今まさに見捨てられんとする仔犬のように、時折愛くるしい哀惜を滲ませることがあるのだった。
「冷たかったの、ごめん。入ろう」
 相変わらずの口調で、紗弓はポツリと叉李に告げた。言葉が少ないことは自覚している。だが、それに頓着する様子を見せない叉李の態度は紗弓にとって好ましい。ヒラリと振られた大きな手を見留めると、紗弓はにこりと笑って頷いて見せた。
 何を期待されているのか、何を話せば判りあえるのか。そんなことを考えては脳を煮立たせていた時期もあった。が、今は紗弓も、この男と行動を共にすることに少しずつ慣れてきているのかもしれない。

 人は、生きるも死ぬもただ一人である。
 母の闇を抜け、脳裏の闇に辿り着くその瞬間まで、人はただ一人で孤独を暮らす。
 ただ、それに耐えられなくなる瞬間がある。
 深い海の底に沈み、いくら足掻くも己の力のみで息を継げなくなる瞬間がある。
 そんな時、人は遠い夜空に向け、ただ一心に両手を伸ばす。

 引き戸にそっと手を掛けると紗弓は、細く開けた隙間から店内を覗き込んだ。薄暗い店内に、他の客の姿はない。
 冷蔵庫が立てる微かな震動音だろうか、さほど広くない店内でその音は非道くくぐもって耳に届いた。
「……休みなのかな……?」
 紗弓の真上から、やはり店内を覗き込んでいる叉李が呟く。が、紗弓は慣れた様子でするりと店内に身体を潜り込ませていった。
「――あら、今日は彼氏と一緒なのかい?」
 カウンターの奥から、つやめいた女の声が言った。
 いつそこに立ったのか、あるいは最初からその場所にいたのか。
 うすぼんやりとした暖色の照明に、背の高い女のシルエットが浮かび上がっていた。
「珍しいじゃないか。ゆっくりしておいで」
 カウンターの奥で煙管を吹かしている女――伊杣那霧は、煙管の先から燻る煙に横顔を曇らせて笑う。
 遠くに聞く子守歌のように、小さな有線が流れていた。
「違う。ママ、ふろふき大根」
 カウンターの一番奥、壁際に背中を付けて紗弓は腰を下ろす。
 隣に叉李が腰を下ろし、カウンターの縁に両ひじを突いた。
「あら、あっさり否定されたね――紗弓ちゃんはいつもので良いね。お兄さんは?」
「………ビール……お願いします……」
 苦笑を滲ませた那霧の眼差しにいくらかの哀れみが込められていたのを叉李は見逃さなかった。がくりとうな垂れ、恨めしげに紗弓の横顔を覗きみている。そんな二人の様子を見遣りながら、那霧は緩く温めた日本酒のグラスを紗弓の前に、そして叉李の前に瓶ビールとグラスを置いた。
「鰯の生姜焼き。ししゃも。野菜スティック。たまご」
「それに風呂吹き大根だね。お通しは切り干し大根だけど良いかい?」
「ウン」
 手慣れた様子でメニューをオーダーする紗弓の横顔を叉李は、今度は頼もしげに眺めている。彼からすれば、平素見せられる紗弓の顔とはまた違う面であるのだろう。グラスの縁と縁を重ね、乾杯をした。
「それにしても、紗弓ちゃんが一人で来ないなんて珍しい」
 カウンターの向こうで小鉢を並べながら、にこにこと那霧が笑って言う。
 その言葉にピンと反応した叉李が、グラスの縁から口唇を離して那霧を見上げた。
「マジですか。最初で最後の男、なんてね」
「………」
 ちらりと盗み見た紗弓は、こくこくと無心にグラスの中身を嚥下している。
 叉李の言葉を無視したというよりは、むしろ聞いていなかった風である。叉李の口唇から、深く重たいため息が零された。
 苦労するね――そんな那霧の言葉が心に痛い。
「しっかり食べて元気をお出し。へこたれるんじゃないよ」
 コトリ、コトリとテーブルに小鉢が並べられる。まだ店を開けてからさほどの時間が経っていないのだろう。鰯の表面は飴色に照っていた。
 ほっこりとした湯気の立つ風呂吹き大根は那霧から向って右、紗弓の前に置かれる。
「すげ……旨そう」
 率直な、感想。傍らでこくりと、紗弓が頷く気配を感じた。
 叉李は割り箸に手を伸ばし、鰯の生姜焼きを口に運んだ。
 矢張、旨い。
「良いなァ、やっぱり料理の上手な女性って良いッす……おまけに美人じゃ言うことなし」
「そんなこと言って、もやし一本でも残したら承知しないからね」
「私、いつも怒られる。お箸、へたくそだから」
 ビールと料理を交互に流し込みながら破顔する叉李の横で、負けじと箸を繰りながら紗弓が言った。
「ししゃもと野菜は、お箸が無くても大丈夫だから好き」
 そんな理由で料理の好き嫌いを決められてしまっては、豪毅な女将も形なしである。からからと大きな声でそれを笑いながら、那霧は紗弓のグラスになみなみと日本酒を注いだ。

「――だから、早かったの。来週また行く」
 あらかた小鉢の中身を空にしたあとで、那霧が紗弓に仕事の話しをせがんだ。
 細かな作業を嫌いそうなさばさばとした面を見せながらも、意外にこの女将は写真を撮ることが好きなのだと言う。紗弓に教えて貰いながら、たまにはふらりと一人旅のついでに風景を撮ってくるらしい。
「この時期だと、あっちの方はまだ潮が澄んでいるだろう。来週だとどうかね、少し温かくなりすぎちまうかもしれないよ」
 日帰りの撮影旅行は失敗だったと打ち明けた紗弓に、那霧は煙管の煙をゆらりと吐きだしながら告げた。神妙な面持ちで頷いた紗弓の表情は、すっかりカメラマンの面持ちである。叉李は瓶ビールの中身を手酌でつぎ足しながら、彼には些か難しい専門用語交じりの会話に耳を傾けていた。
「いきなりだったから、仕方がないの。また良いの撮れるから」
 だから、今日撮るはずだった写真とイメージが異なってしまっても良いという意味なのだろう。一段落した会話にふ、と息を吐き、紗弓は那霧に向って
「オレンジジュース」
 告げて、頬杖を突いた。
「酔っても大丈夫だって、おぶって送るから」
「良いの」
 ただ耳に聴くだけなら、抑揚に欠ける紗弓の言葉はどちらの意味にも取りかねるだろう。
 が、きっぱりはっきりと辞退されたのであると叉李は知っている。口唇を尖らせて不貞腐れた様子を見せるが、そんな素っ気無い返答には悲しいかな、慣れっこになってしまっているのだ。オレンジの瓶を目の前に差しだされると、紗弓はやはりそれを手酌でグラスに注いだ。
「でも紗弓サンてば、電車に乗るのが好きって言ってたじゃない。嫌いじゃないんでしょ、旅行」
 叉李がそう問い訊ねると、紗弓が大きく頷いて笑った。最後のキュウリを指先に抓みあげて、かりりと小さく齧りとる。
「いつか誘って、荷物持ちするから」
 ふたたび大きく頷いてから、紗弓は僅かに小首を傾いだ。
「やったね」
 叉李の左手がガッツポーズを作る。那霧はただ笑うばかりで、紗弓と叉李を互い違いに見下すばかりである。

「ごちそうさまでした。また来ます、紗弓サンと」
 あまり遅くなると翌日の仕事に支障があるからと、終電が走る時間のずっと前に二人は店を出た。
 紗弓の頬はうっすらと赤く、足取りももたもたとおぼつかない。酩酊しているのか、機嫌良さげな口元には懐っこそうな笑みが広がっていた。
 今なら、手を伸ばせば繋げるかもしれない。そんなことを脳裏に思ったが、
「送り狼はあたしが許さないよ」
 女将の一言に曖昧な笑みを返してしまう。
「今度は週末においで。そうすればもっとゆっくりできるんだろう」
 そう言って手を振る那霧に礼をしてから、二人はゆっくりと歩き出した。

(了)