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<東京怪談ノベル(シングル)>


【少女に咲く花は鮮やかな赤】

 海原みなもがそれを手にした時は、慣れないことをすることをするものだわと思った程度だった。白い封筒の表に記されているのは紛れもなく自分の名前。裏の左下に記されていたのは姉の名前だ。一体なんだろう。思いながらペーパーナイフを手に取り、封を切る段階になってふと思った。
 また何か企んでいるのではないのだろうか。だとしたらきっと父も一枚噛んでいるだろう。
 姉は滅多なことが無い限り慣れないことはしない人だ。今までの経験から考えると、姉の思惑が手に取るようにわかった。玩具にされたことは数知れない。しかしそれらはいずれも決してみなもの害になるものではなかった。またかもしれない、そう思うとペーパーナイフを持つ手が躊躇する。しかし届けられた封筒をそのままにしておくことはできなかった。もしそのなかにあるもの重要な何かだったとしたら。思うと手はそれまでの逡巡など存在しなかったかのように滑らかな仕草で封を切っていた。
 窓際に設えられた机と揃いの椅子に腰を下ろして、封筒を傾ける。
 掌に零れ落ちるのは小さな種が一つ。
 指先で抓める程度の大きさの何の変哲もない種だ。
 何の種だろう。思って掌の上を転がしていると、不意にそれが成長を始めるのがわかった。空気に触れたことが合図だったとでもいうように黒い粒は瞬く間に硬い殻を破り、細く白い糸を伸ばす。根だ、思った時には既にそれはゆるゆるとみなもの柔らかな掌の皮膚の奥へと滑り込み、細胞の一つ一つ、繊細な神経の一本一本を侵すかのようにして体内へと伸びていく。異物が体内に進入していく。明らかに不自然な現実であるというのに、不思議と痛みは感じない。痛みどころか甘やかな、まるで柔らかい真綿に包まれて微睡みのなかに堕ちていくようだった。
 窓から差し込む陽光がもたらす温もりが心地良い。
 自分を包みこむ総てに何もかもを投げ出してしまいたいと思った。
 ここが自室だという認識はある。自分の部屋。寝起きする当たり前の場所。それがもたらす安心感がますますみなもを体内に注ぎ込まれるような甘やかな心地にのめり込ませる。
 気持ちがいい。
 害があるものではないことをそう思う心で知る。
 なんて気持ちがいいのだろう。
 別の何かになっていくような心地。鮮やかに変化する肉体。自分が自分ではない別の何かになっていく恍惚。肉体ばかりではない。意識にさえもその甘やかさはゆるゆると忍び込んでくる。抗うことなどできない。それくらいに一粒の種がもたらすものは魅力的だ。
 掌から侵食した細く白い根はだんだんと太く茶褐色のそれに変化し、みなもの白い皮膚を突き破るようにして萌芽する。瑞々しい双葉が腕や頸、至るところから目を覚まし、圧縮されたかのように加速する時間のなかで瞬く間に成長していく。茎が伸びる。鮮やかな緑色。それから葉が開く。それもまた鮮やかな緑だ。白い肌に目覚めたばかりの鮮やかな緑はよく映えた。
 みなもは心地良いと思う。自分が自分ではなくなっていく。しかし恐怖は感じない。恐怖どころかそれに身を任せてしまいたいと思うほどに、それは心地良さだけを与えてくれる。やさしい温かな腕に抱かれているような心地。血管のなかを細い根が伸びていくのがわかる。毛細血管の果てまでもその侵食は続く。どこまでもどこまでも続く侵食。それを自覚すればするほどに、自分が自分ではない何かになっていくのがわかる。
 怖くない。
 心地良い。
 こんなにも心地良いことだというのなら、どこまでもそれに浸っていきたいとさえ思う。
 窓から差し込む陽光が、いつも以上に心地良いものに感じる。植物になったのだろうか。思う心が否と云う。
 植物。
 生物。
 そんな些末な枠を越えて、自分は何かに変化していくのだとみなもは思う。
 一粒の種。
 それは陽光の力を借りて鮮やかに成長する。それが進むにつれてみなもの肉体も、意識も何かになっていく。感覚でわかる。自分はもう自分ではなくなりつつある。もっと別のも、分類されることのない何かになっていく。痛みもない。夢見心地というのはきっとこういうことを云うのだろう。
 手放しに総てを投げ出してしまってもいいと思う。自暴自棄とは違う。溺れていくという感覚だ。甘やかな快楽のなかに身を浸しているような心地。それは一粒の植物の生長と共に、身を浸しているということを凌駕して甘やかな快楽そのものになってしまうようだった。
 言葉では分類できないもの。
 言葉にならない何かになっていく変化プロセス。
 それは心地良く、鮮やかなまでに魅力的だ。
 恍惚とするみなもを置き去りにするように種は成長を続ける。皮膚、血管、内臓、肉体を形成する総てに根を張るようにみなもの躰を侵食し、血液を養分とするようにしながら皮膚をやさしく突き破って茎を伸ばし、多くの葉をつける。
 みなもの躰は既に植物のなかにあった。
 幼い少女の姿はもう見えない。
 少女が居た場所にあるのは鬱蒼と茂る緑だ。
 新鮮な緑に包まれながら、みなもは総てを捨ててしまえるだろうと思う。海原みなもという名前も肉体も精神も何もかもを、この緑のなかに捨ててしまえると思う。そして捨てるのではない。埋もれていくのだと思い直す。
 カサカサと葉と葉が触れ合う音がする。
 柔らかなに鼓膜を撫ぜる成長の音。
 それが完結する時、それはきっと至福の時だ。
 何かになる。
 何であるのかなどわからない。
 わかるのは発端が一粒の種であったということだけだ。
 しかし今となってはそれさえも些末なこと。
 重要なのは進行し続ける成長の結果だけである。
 差し込む陽光が成長速度を加速させる。分裂する細胞。繰り返されるアポトーシス。誕生と死滅。死滅と再生。みなもの躰を中心に刹那の間に展開されていく現実が、現実味を欠いていく。現実が非現実に飲み込まれる。みなもが植物に飲み込まれ、恍惚に浸るようにして現実が溶解していく気配を感じる。
 はっきりしているのはただ一つ。
 何かになっていく。
 それだけだ。
 もう躰はすっかり植物になってしまっているだろう。鬱蒼と茂る緑に包まれみなもは思う。植物と共に朽ちていくのも悪くない。こんなにも心地が良いのだからきっとこれ以上に幸福な朽ち方などないだろうとさえ思う。肉体も血管も内臓も、細胞の一つ一つさえも植物に侵食されて死滅する。一粒の種がもたらす恍惚に総てをあけ渡して、何かになっていくプロセス。
 肉体は既に植物になってしまっているだろう。
 成長が止む気配はない。
 緑が鮮やかに成長を続けていく。窓から差し込む陽光を浴びて茎の先端についた、幾つもの蕾は今にも花開きそうだ。どんな花が咲くのかはわからない。みなもにはもうそんなことはどうでもよかった。この心地良さが総てなら、花の良し悪しなどどうでもいいとさえ思う。
 何かになって生きていこう。
 総てをそれにあけ渡して、この恍惚に永遠のなかにいたい。
 願う心は本当。
 偽りなど生じようないほどにみなもの肉体を侵食するそれは心地良い。
 きっと躰はもう何かになってしまっている。
 意識が何かになるのももう少し。
 硬い蕾が緩やかに開き始める。
 淡い紅色がだんだんと鮮やかさを増していく。
 ―――あぁ……あたしは何かになれる。
 茎や葉の成長に比べて花が開く速度は遅かった。
 焦らすように、ゆるゆると開いていく。
 ―――何かになってしまいたい。そして永遠にそのままでいたい。
 淫らな笑みを浮かべるように一つの蕾が開花する。
 目が覚めるほど鮮やかな赤色の花だった。まるで鮮血が滴り落ちそうなほど鮮やかな一つの花の開花を合図に、幾つもの蕾が花開く。鮮やかな緑と鮮血のような赤のコントラスト。それは溜息がでるほど美しかった。
 ―――ほらもう総てが何かになってしまった。
 意識までもが何かになってしまったと感じた刹那、みなもはふっと我に返った。
 そこはもう現実だった。
 どうしてと思う自分がいる。
 永遠などないのだという現実だけが激しい波となって押し寄せてくる。
 一つ細い溜息を零して、みなもは足元に視線を落とした。
 開封された封筒。
 一粒の小さな種。
 繊細な縁取りが施された一筆箋。
 それを手に取ると姉の文字で一言だけ記されている。
『ごめんなさいね』
 手放してしまった恍惚を思うと、謝られても許せないかもしれないと思う。そしてそれが一枚だけではないことに気付き、もう一枚に視線を落とした。
『奇麗でしたよ』
 その一言に微笑む自分がいた。
 そしてまた玩具にされたのかと、不快感や腹立たしさといったようなものとは全く違う感情で思う自分がいたことも確かだ。
 返事を書こうと思った。
 姉がもたらしてくれたものがどんなに心地良いものだったか。どんなに素晴らしいことだったかを詳細に自分の文字で伝えようと思って、便箋を取り出す。ペンを手に取り、書き始める段階になって言葉にできないことに気付いた。全く言葉が思い浮かばないのだ。考え込むようにペンを下唇に当てて、窓の外に広がる青い空を見る。
 そしてその自然な青に自分が感じたものを書くことを諦めて、ペン先を紙面に落とした。そして短い一文を書き終えると、空白が大半を占める便箋を封筒に収めて封をした。
 ―――あたし、あのまま何かになってしまいたかったわ。
 みなもが便箋に記したのはそれだけである。