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<東京怪談・PCゲームノベル>


螺旋にて 〜或る晴れた星空の宵に〜



 街の夜は長い。
 橙や青や白のネオンは、夜明けの光がその手を叩くまでさざめくように人々を誘う。都会の深夜を、「眠らない街」と称したのは誰だったろうか――喧騒は遅くまで止まず、目を閉じれば瞼の裏に滲み込んで来るように遠くの怒鳴り声が耳に届くのだ。
 東京にしては珍しく、星が明るい夜である。
 男――藍原和馬はネクタイを緩めながら空を見上げ、目を細めた。
 人は、生きるも死ぬもただ一人である。
 母の闇を抜け、脳裏の闇に辿り着くその瞬間まで、人はただ一人で孤独を暮らす。
 ただ、それに耐えられなくなる瞬間がある。
 深い海の底に沈み、いくら足掻くも己の力のみで息を継げなくなる瞬間がある。
 そんな時、人は遠い夜空に向け、ただ一心に両手を伸ばす。

 いつもより仕事が長引いた日には大抵、ネットゲームの為に風呂や食事をいつもより手早く済ませなければならない。プレイスタイルによってはゲーム中に食事を摂ることなど不可能に近い芸当であるし、ましてや風呂に入るなどとはもってのほかだ。白熱してくると、トイレに立つことすら躊躇うこともある。
 だからその日、日付が変わるころになってから帰路に着いた和馬が、ふと看板を頼りにその店の扉を開いたのはほぼ奇跡に近い出来事と言っても良かった。
 擦れ違った若い男女の二人組が、その店から出てきたのである。
 彼らの見た目や年齢にそぐわない、小さくてこじゃれた割烹料理屋であった。あんな若者でも気軽に出入りするような店とはいったいどんな店なのだろうか。
 帰宅へのそわつきよりも好奇心が、勝った。
「お邪魔……」
 和馬は引き戸を細く開け、その隙間から店内を覗き込む。薄暗い店内に他の客の姿はない。
 冷蔵庫が立てる微かな震動音だろうか、さほど広くない店内でその音は非道くくぐもって耳に届いた。
 ――もう閉店、か。
 そんなことを思い、ゆっくりと踵を返そうとしたとき。
「……風が強いよ」
 カウンターの奥から、つやめいた女の声が言った。
 和馬の爪先がひたりと止まり、視線が店内の奥深くへと注がれる。
 いつそこに立ったのか、あるいは最初からその場所にいたのか。
 うすぼんやりとした暖色の照明に、背の高い女のシルエットが浮かび上がっている。
「こんな時間になっちまったからね――もう店じまいにしちまおうかと思っていたところさ」
 女はそう言ったが、閉店の準備をしていた様子はなく、ただカウンターの奥で煙管を吹かしている。薄暗い照明はどうやらこの店の元来のものであるらしい。
 遠くに聞く子守歌のように、小さな有線が流れていた。
「悪いね、女将」
 和馬は改めて謝罪を申し上げ、ふたたび踵を返そうとしたが。
「入るならとっとと入って、その戸を締めとくれ」
 カコン、と。
 煙管の灰を灰皿に落としながら女は和馬に告げ、口の端だけで笑った。



 女将が熱燗を準備している間に、立て掛けてあったメニューをざっと斜め読みした。
 豚の角煮、鳥ざんぎ、ひき肉の大葉揚げにピーマンのひき肉詰め。
 肉を主にした料理を端から順に注文していく。
 肴で夕食を済ませてしまおうと考えていたら、
「どうせ昼間だって、まともなモン食ってりゃしないんだろ」
 サービスだと、エンドウマメの炊込みと牛肉の有馬煮を茶碗に大盛りで差しだされた。
「有難い。毎日ソースだのケチャップだのマヨネーズだのばっかりで、鼻がおかしくなりそうだ」
 礼を言ってから和馬は割り箸を捉え、パキリと小気味の良い音を立てる。小鉢の中身が漂わせるしょう油と肉の淡い匂いが胃を締め付け、黙っていても唾液が滲みだしてきた。
「おあずけでもくらっていた犬みたいだね。料理は逃げないよ、行儀良くお食べなさいな」
 女将の口の悪さに苦笑しながら、和馬は逞しい食欲を発揮して次々と鉢を空にしていった。もはや料理は肴ではない。おかずである。
「箸をきちんと長く持てるなんて、最近の若い子にしちゃ珍しいじゃないか。おまけに良い食べっぷりだ」
「はは……どうもどうも」
 女将が伸ばした右手に、空になった茶碗を載せた。
 若い子。
 そんな言葉を耳にすれば、苦笑は色濃いものになってしまう。
 ゆうに彼女の三十倍は生きている――明かしても信じぬであろうそんな事実を一人心の奥に留め置いて、和馬はふたたび飯の盛られた茶碗をその手にする。
 ようやく全ての料理をたいらげたその後で、女将がぬるまってしまった燗を温め直してくれた。あらためてと言った様子で晩酌を始める和馬を横目に女将はカウンターの向こうに腰を下ろし、ゆったりと煙管に火を付ける。
 女将はその名を、那霧、と言った。
「別に何も、話して聞かせて面白いことなんて無いさ――ホステスをやってた頃に少しお金を貯めてね。そのお金でここを買ったんだよ」
 いつからこの店をやっているのかと和馬が訊ねると、那霧は「少し前」とだけ言って笑った。
「じゃあ、ここは女将一人で切り盛りしてるの?」
「今はね――ちょっと前までは、住込みで働いてくれていた子もいたんだけれど」
「ふふん?」
 意地悪そうに首を傾げ、女将の表情を窺ってみる。
 が、そんな視線などどく吹く風と言った様子で、那霧はしれっと煙管の煙を吐き出した。
 えてして夜の蝶が自身の私生活の全てを語らぬように、一人夜の店を切り盛りする女将の言葉は全てを語ることはない。
 男だとも、女だとも、彼女は言わないのだ。
「それ、どんな奴?」
 聞きだしてみたいと、ふと思った。
「あんたみたいに、ご飯をいっぱい食べてくれる子だったよ」
 男だな。
 そんな思惑を込めて見上げた視線を、やはり那霧は笑って受け止める。
「誘導尋問、こわいこわい」
 彼女の笑みが悲しげに和らいだような気がして、愛想笑いの眼差しを逸らしながら和馬は腕時計を確認する振りをした。



 女将に酌をされながら、和馬はぼんやりと過去の己を思い起こしていた。
 人に言っても(そう、おそらくは他の人間よりも肝が据わっているであろうこの女将にですら)信じてもらえはしないだろうが、一時は他人を殺めることですらも平気でこなしていたような気がする。良く覚えていない。
 誰かの命の幕を引き、代わりに自分が生き永らえる。
 死の時限爆弾だ。自分の所に回ってきた死を他の誰かに押し付けて、その誰かの手の中で故意に爆発させる。百回プレイして、百回全て勝ち抜いた。
 優勝賞品に自分が何を得たのか、今の和馬にはそれすら思い出すことができない。そもそも何か得るものがあったのかどうかすら、あやしい。
 そんな自分が、今こなしている仕事と言えば。
「ともかく、早くその猫ちゃんが見つかると良いねェ……他人事だけど、心配だよ」
 那霧はすっかり、猫の飼い主に同情しきっている。
 取り組んでいる猫探しの話をしたのだ。涙もろい所があるのか、しきりに頷きながら目を潤ませていた。
「今ごろ、どこでお腹すかせて鳴いているかね……」
 しんみりと、そんな事を口にする。彼女の頭の中には、他の何かに食べ物を与えることしかないらしい。
 つくづく平和な世の中になったと思う。
「まあ、どっかで野垂れ死にしてなきゃすぐに見つかるって」
「そんな縁起でもないことお言いで無いよッ」
 那霧がぴしゃりとカウンターを叩いたとき、和馬のポケットの中から小さな電子音が響いた。
「――あ、メール」
 恨めしそうに睨め付ける那霧の視線をかいくぐり、和馬は呟く。最近夢中になってプレイしている大型MMOの相棒からのメールで、今夜の約束の確認のものだった。
 時間を確認すれば、終電が終わった頃である。
 歩いて帰ることのできる自宅へは、丁度良い頃合いであろうか。
「ごちそうさん。おあいそね」
 スーツの尻ポケットから財布を取りだして、和馬は那霧に告げた。

 平和な、世の中である。
 よほどのことがない限りは、道端に死体も転がらないし、食い逃げをして逃げる町人もいない。
「良いかい? 猫ちゃんが見つかったら必ず報告に来るんだよ」
 引き戸まで見送りに出てきた那霧は何度もそう繰り返す。
 他人の猫一匹で、ここまで怖いかおをする女もいる。
「はいはい、判りました。それまで店をたたまないで待っててくれよ」
「そんな簡単に店をつぶして溜まるかい」
 たすん、とスーツの肩口を叩かれた。つくづく客を客扱いしない店だ。
 角を折れ、その姿が見えなくなるまで那霧は戸口で和馬を見送る。僅かに速足になりながら、和馬は腕時計をふたたび確認した。間に合わない時間ではないだろう。
 星の明るい夜だ。
 和馬は足早に帰路を急ぎながら、ログインしてからのスケジュールを今一度確認しはじめている。

(了)